犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

茶室のなかの永遠

2022-10-26 20:30:04 | 日記

先日開催された秋季茶会で、わが社中は濃茶席を担当しました。
大濠公園の濃茶席でお茶をいただく機会は何度かありましたが、茶室の裏方を見るのは初めてでした、茶室の奥に水屋があり、その奥には三畳ほどの小さな茶室も控えています。水屋の隣は、にじり口のある六畳ほどの茶室で、網代天井や化粧屋根裏など、茶室ならではの意匠が施されているのには、しばらく目を奪われました。

今日のために新たに用意された柄杓や茶筅が、包みを解かれて、真っ白な生地をあらわにすると、こちらの気持ちも新たになるようです。
そうやって茶会の準備をしているうちに、これまで、この茶室で茶会を催した数知れぬ人々の息づかいと、これからまさに客を迎えようとする我々の期待や不安の入り混じった気持ちとが、茶室のなかで響きあっているような感覚にとらわれます。

この茶室のなかでとり行われていることは、茶室ができて以来何十年もの間、ほとんど似たような所作の繰り返しであったはずです。ところが、道具も席中の人たちも、点前のひとつひとつも、すべての取り合わせは偶然であり、一度として同じ取り合わせであったことはありません。亭主と客とのあいだの、そして人と道具とのあいだの交流も、全て新しいものが、この瞬間に生み出されては消えて行きます。
このように偶然の振り幅が制限されていればいるほど、私たちは新しさに対して敏感でいられるように思います。
「新しくある」ということと、スクラップ・アンド・ビルドとを、私たちはあまりにも安易に、同じものとしてきたのではないでしょうか。

茶室には、ひとつひとつの偶然が静かに沈殿して行くように、場の空気に折り畳まれてゆきます。そこでは、偶然の新しさの向こう側に、いつまでも残り続けるものを感じることができるのです。

今年の席では、茶会での点前をはじめて経験する社中二人と、茶会そのものが初めての高校生がいました。その緊張も正客との心の響きあいも、とりわけ新鮮なものだったはずです。そして、それらもこの茶室の古層のうえに降り積もっていき、未来へ開けています。未来へ開けたおおらかさがあるからこそ、いつまでも残り続けるものなのだと思います。


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調音のための作法

2022-10-19 21:11:13 | 日記

森田真生の『偶然の散歩』(ミシマ社)に、環境哲学者ティモシ―・モートンの「世界の終わり」という言葉が紹介されていて、暫く考えさせられました。
それは、終末論的な終わりのことではなく、自分の内と外とを切り分けて、自分だけが安全に引きこもれるような「世界」があるという発想そのものの終わり、を意味するのだそうです。前掲書から引用します。

人はみな、自分ではないものたちと交わり合い、響きあう生命の網の一部である。そこにはすべてを無傷なまま見晴らせるような、清潔な安全圏はどこを探してもない。
だからこそ、不都合な他者を「正しく」制御し、自分だけ清潔であろうとするより、純粋で清潔な「世界」という妄想を手放し、不可解な他者と共存していくための知恵をこそ、模索していく必要がある。
世界の終わりのあとを生きる僕たちの生は、人間でないものたちとの共存の道へと、もっと大胆に開かれていてよい。(168-169頁)

純粋で清潔であるべく制御される世界という妄想が、地球温暖化や異常気象を生んでいるのだとすると、それは緊急に改善されるべき認識なのでしょう。しかし、それではどこから手を付けたらよいのか、にわかに答えが出そうにはありません。
私は、差し当たりモートンの著書から森田が引用した「調音」という言葉から考えたいと思います。「制御」するのではなく「調音」するための作法というものは、われわれの知恵のなかに、もともとあったのではないかと思うのです。

たとえば、茶道には弓道の構えと似たところがいくつもあります。私は高校時代弓道をやっていて、そのとき体に叩き込まれたのですが、弓に矢をつがえて胸の前に「円相」ができるような体勢で、上体を固めて息を整えるように構えます。そうすると矢の飛ぶ方向がブレないのです。
茶道でも道具を扱う時には胸の前に大木を抱くような感覚で円を描き、この基本姿勢を崩さずに道具を迎えに行き、定位置に戻しに行きます。

どちらにも共通して言えることは、こうすることで道具との一体感が格段に増すということです。円のなかで弓と矢はもはや道具というよりも、呼吸のなかで自分と一体化します。茶道においても、正しい基本姿勢をとっていると、道具が自分の延長であり、自分が道具の一部であるような、不思議な一体感が生まれます。この一体感のなかで、道具の美しさが際立つようにさえ感じるのです。
これらを、わたしは「調音のための作法」とひそかに呼んでいます。

これらが、モノや他者との「調音」に役立つとしても、むろん、ささやかな端緒のひとつに過ぎないものでしょう。しかし、その知恵が息づいていること自体は、そういう世界との接し方があったことの証明でもあり、私たちに希望を与えてくれるように思うのです。


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ひとを懐かしむこと

2022-10-13 22:04:26 | 日記

大濠公園で開催される秋季茶会で、今年はわが社中が濃茶席を受け持つことになり、その準備に追われています。

数年前、はじめて大寄せの茶席で薄茶点前を任されたときには、相当に緊張しました。建水を持って立ち上がった瞬間、軽く足がつって肩の力が抜けたのが、かえって幸いしたのかもしれません。その時は、大きな失敗もなく点前を終えることができました。それから、正客の方が終始にこやかな笑顔で接してくれたことが、大きな支えになりました。
あの正客の笑顔をひとことで表現すると「懐かしさ」になると思います。その場に包まれるような感覚、場に身をゆだねても大丈夫という感覚を「懐かしい」と感じました。

数学の独立研究者である森田真生の最近著『偶然の散歩』(ミシマ社)のなかに「懐かしさの場所」という一文があり、読んでいてその当時のことを思い出しました。森田の言葉を引用します。

懐かしさとは、郷愁(ノスタルジア)と同じではない。過去や記憶と結びつかない懐かしさもある。初めて出会う人や場所に対しても、人は「懐かしい」と感じることがある。
生まれたばかりの赤子は、親の顔を懐かしそうに見上げる。「懐(なつ)く」という言葉もあるが、自分が何かに属していると実感すること、あるいは、自分が、自分を超えた何かの一部であると安心すること。そういうときに、人は「懐かしい」と感じるのではないか。(前掲書105-106頁)

森田は別のところ(『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』)でも、アメリカの環境哲学者ティモシ―・モートンのattunement(調音)という概念を引用して、自分を超えた何かと響きあうことを語っています。
弱さは存在の欠如ではなく、存在そのものが弱いものなのではないか。月を見あげて心動かされるのも、花を見て嬉しくなるのも、幼子の笑顔を見て微笑むのも、弱さに支えられたattunement(調音)の働きではないかと。

森田が「調和」ではなく、モートンの言葉を使って「調音」と表現しているのに注目したいと思います。調音には弱いものが、より大きなものと響きあうための静かな時間が必要です。人が人を「懐かしい」と感じるのにも、波長を合わせるための、静かな時間が必要であるように。
それは、柳宗悦が『茶道論集』で語った、意味の凹みに余韻や暗示を感じ取って、自らを開いてゆく姿と、似てはいないでしょうか。


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「後ろ姿」と「貧の心」

2022-10-06 23:03:20 | 日記

畳のうえに風炉を置いたお茶の点前は10月で最後になります。11月の炉開きに向けて、より侘びた道具が好まれるようになって行きます。
寒さを感じ始める客のために、これまで客から遠い位置に置かれていた「風炉」が、やや客よりに置かれる「中置」という点前が選ばれるのもこの時期の特徴です。
稽古では、「金継ぎ」の茶入れを使いました。欠けたり割れたりした道具を漆でつなぎ、そのつなぎ目を金粉などで装飾する手法を「金継ぎ」といい、侘びた風情を醸し出すのです。

私の好きな、松下幸之助の言葉のひとつに、「成功する人が備えていなければならない三つのもの」という話があります。成功する人には「愛嬌」「運が強そうなこと」そして「後ろ姿」が備わっているのだと。
このなかで、私が最も惹かれるのが「後ろ姿」です。後ろ姿とは、その人の言葉の裏にどのような想いが秘められているのか、思わず想像が膨らんでいくような、そんな雰囲気を醸し出していることを指しています。言い換えると、自分がどうにかしなければいけないと思わせて、ついついその人のために動いてしまう、そういうものが人を結果的に成功させるというのです。
見る人をああでもないこうでもないと能動的にさせてしまう力は、後ろ姿の「陰り」のようなものによって引き起こされるのでしょう。しかし、これは「陰り」に感化されてしまう相手の感性があって、はじめて成り立つ関係でもあります。
わたしは、肌寒さを感じるようになったこの時期に、わざわざ風炉を客に近づける「中置」をはじめとして、季節に応じた道具の配置というものに、マニュアル通りの「おもてなし」ではない、「陰り」への感受性が潜んでいるように感じています。相手のことを慮って、何かをしなければならないと考える、「陰り」への感受性です。

民芸運動の柳宗悦は、著書『茶道論集』(岩波文庫)のなかで、茶の本質を「渋さ」と呼び、その真髄を「貧の心」にあると述べています。茶器の「簡素な形、静な膚、くすめる色、飾りなき姿」に「貧の心」を見ました。鷲田清一は柳の言葉を、次のように敷衍させます。

この欠如、この不完全、この疵、この「貧」、つまりは意味の凹みのなかに、柳は充足以上の価値を見ようとする。そして、「足らざるに足るを感じるのが茶境なのである」という。「足るを知る」というより、「足らざるに足るを感じる」。この語り方はなかなか爽やかである。そこには、足りているときには見えないさまざまの余韻や暗示がたっぷりと含まれている。柳にいわせれば、「無限なるもの」の暗示である。
「足るを知る」というふうに じぶんをまとめる、囲うのではなく、「無限なるもの」に向かってじぶんを開くために「足らざる」場所にじぶんを置く。(鷲田清一著『大事なものは見えにくい』)

客の姿の「陰り」に、触発されてしまうように、茶器の「貧」のなかに余韻や暗示を感じとって、無限なるものに向かってじぶんを開いてゆく。
柳宗悦が「わび・さび」といった言葉を使わず、「渋さ」や「貧」と言ったのは、そこに対象を観賞しようというよそよそしさ、美の形式のために作為を加えようとする傲慢さを排除したかったからなのだと思います。

陰りへの感性が、無限へ向けてじぶんを開く運動につながるのだとすると、それは同時に自分を開く自由をみずからに課すことにもなります。陰りへと飛び込んでゆく勇気もまたそこには必要とされます。これまでお会いした、大人(たいじん)ともいうべき人に共通して感じられる、懐かしさの感覚へと、それらは通じるように思うのです。


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『草枕』のそれから

2022-10-01 08:43:12 | 日記

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」で始まる夏目漱石の『草枕』は漢語の多い、韜晦趣味とも言われて敬遠される作品ですが、じつは漱石のサービス精神に溢れた、立派なエンターテイメント作品だと思います。

たとえば湯治場の娘「那美」と主人公が出会ったとき、那美の容貌について、

「昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場がきまってる」の一文からはじまって、不仕合(ふしあわせ)な女に違ない」で終わるまで、文庫本で1頁以上が費やされています。

その長い長い容貌描写は、その後の物語に静かに繋がるような、細やかな布石を打つといったものではなく、ひたすら読者のウケを狙う不思議な情熱が注ぎ込まれています。80年代から清水義範の愛読者だった私は、氏のパスティーシュ小説や、あの時代の軽薄短小文化さえ思い出しました。

主人公が湯気のモウモウと立ち込める湯に浸かっていると、突然、那美が闖入しそのまま笑い声と共に去っていく情景などは、折り重なる漢語のモヤのなかに沈んでいます。しかしながら、それは見事な漢文調で、当時の人たちも拍手喝采を送ったと思うのです。意味がわかるかどうかは別として「何という名調子」と膝を叩いてしまいます。

さて、漱石がサービス精神のネタとした「那美」という女性には立派なモデルがいて、前田卓(つな)という人です。
父は槍術の達人で熊本藩主の護衛を務めた前田覚之介といい、維新後前田案山子と改名して自由民権運動に身を投じ、国会議員にまでなった人物でした。その次女卓(つな)は父に武芸を教えられ、女性民権家とも繋がりを持つようになります。一度結婚に失敗し、温泉付き別邸となっていた実家に戻っていた頃に、第五高等学校の教師だった漱石に会っています。そして この経験が『草枕』を生み出しました。

卓は父の死後、上京し妹の夫で革命運動家の宮崎滔天の紹介で、孫文ら中国の革命家たちが結成した中国同盟会の機関紙『民報』に関わるようになります。中国人革命家の密航を助けたこともあったというので、まさに八面六臂の活躍です。

漱石はこれに驚き、「草枕も書き直さねば」と言ったというほどでした。
漱石が『草枕』を書いていた時の、気持ちの赴くままに筆を走らせた浮き立つような感覚と、その後のモデルの現実とのギャップの大きさは、漱石をして絶句せしめました。漢文の名調子は掌で操ることはできても、那美じしんは掌を易々と通り抜けてしまうのです。しかし、そうしてみるとあの湯気の中で哄笑していた那美像は、彼女の将来を暗示しているようにも思えます。
(前田卓の経歴については葉室麟著『読書の森で寝転んで』に拠っています)


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