犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

自分の時間に責任を持つ

2022-09-23 08:35:00 | 日記

子どもの頃のようなキラキラした幸せを求めて、上手くいったとか、失敗したとかに一喜一憂しても、それはとても脆い土台の上でに楼閣を築くのに似ています。そういう「プラス・マイナスの世界」から離れて、ギリギリの手触りだけを頼りに、自分の時間に錨を下ろすように生きてゆくのが、したたかさへの道なのではないか。そんなことを、前回書きました。

歌を詠うことを「自分の時間に錘をつける」と表現したのは、歌人の永田和宏です。
錘をつけ続けることを、「自分の時間に責任を持つ」とも歌人は言い表しています。歌人として生きることでいちばん大切なものとは、歌を詠み続けていった果てに、自分の時間と真っ当に付き合ってきたと言い切れることではないか、と述べて次のように続けます。

歌を作って過ごしてきた人生は、作らないで過ごしてきた人生より良かったと、時間を振り返って思えること。そのためには、時々の時間に嘘をついたり、それを無視したりしては、もとよりそれは叶わないだろう。
「公共の利益にために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったく知らない」と言ったのはアダム・スミスだったが、歌壇や短歌史への責任という大それたことを言う前に、少なくとも自分が歌を作り続けてきたことのもっとも慎ましい、しかし誠実な言い訳として、私は自分の時間だけには責任を持って歌を作ってきたと、将来のどこかの時点で確信をもって言えるようにありたいと願う。(永田和宏著『あの午後の椅子』)

自分の時間に責任を持つことは、慎ましくあること、誠実であることと常に同居しています。そして歌人たるもののの覚悟として、自分の時間に責任を持ちながら、それを作品に反映させることの誠実さを永田は語っています。
歌人ではない我々には、作品こそ残すことはできないけれども、その時々のギリギリの手触りを頼りに、錘をつけるように仕事をすることはできるはずです。そのときこそ、自分の時間に責任を持っていると言えるのだと思うのです。

先日、事務所を辞めて独立する若い人への花向けの言葉として「名前のついた仕事をせよ」と言いました。
精一杯の仕事をしているならば、たとえば「相続一般」のルーティン作業ではなく、「誰それの相続」の仕事をしているはずだと。「誰それ」とは自分のことを指すのではなく、ここでは被相続人(死んだ人)のことを指します。被相続人より先に死んでしまった最愛の奥さんのこと、相続人である甥姪たちのことなど、死んだ人の目線で見てしまうことがありました。それら、いちいちのことに引きずられてはいけないとは思いながら、どうしようもなく故人の墓参りに行ったりもするのです。僕らは墓前にお線香を上げながら、自分たちの時間に錘をつけていたのではなかっただろうか。そういう思いを込めて「名前のついた仕事」という表現をしました。

バリバリと効率的にこなす仕事から、遠く離れてしまうかもしれないけれど、「名前のついた仕事」をしていると、自分の時間に責任を持てるようになることは、保証できるように思います。少なくとも、誰にでも取り替えのきくような、お手軽な仕事とは無縁なはずです。
そして、慎ましくあること、誠実であることは、したたかさへの確実な一歩なのだと思うのです。


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完全な幸福ではなく

2022-09-17 09:23:24 | 日記

湯布院から帰ってきた娘たちが、旅の話をしてくれました。
遅くにできた娘たちは、ようやく成人したばかりで、旅の感想がやや子どもじみているのが、逆に嬉しかったりもするのです。娘たちのように、純粋に楽しい思いをしたのは、どのくらい昔だろう、などと思います。

歌人の穂村弘のエッセイには、大人になるにつれ幸せから遠ざかるような、切ない感覚がよく登場します。

子供の頃は、簡単に幸せになれた。
夏休みに海に連れて行って貰ったり、欲しかったおもちゃを買って貰っただけで、「完全な幸福」を感じることができた。
ところが、年をとるにつれて徐々に状況が変わってきた。
健康・家族・お金・恋愛・仕事など、自分を取り巻く要素のどれかひとつにでもネガティブな問題があると、他が大体うまくいっていても、それだけで不安だったり、暗い気持ちになったりする。(穂村弘著『これから泳ぎにいきませんか』河出書房新社)

確かに子供の頃、満ち足りた気持ちになるのは、たやすかったように思います。いまから振り返って、大人たちはずいぶん理不尽なことをしていた、と思ったりもするのですが。世の中のプラス・マイナスの「プラスに対する感受性」が高いと言うか、不自由で、弱くて、受け身な分、幸せでないと、生きて行けないのが子供なのかもしれない、などと思います。
とすると、自由で、強くて、自分勝手に振る舞うことができるようになると、人は幸福から遠くなるのも理屈に合っているのか、とも思います。

不況とか格差社会とか云われながらも、誰もがそれなりに強く明るく暮らしているようで、なんだか騙された気持ちになる。それとも、表面上そうみえるだけなのか。みんなそれぞれの不安や焦りや苦痛を隠して日々を生きているのだろうか。
日常の風景は奇妙な滑らかさに覆われていて、いくら目を凝らしても、ひとりひとりの生の実相を読み取ることができない。かといって、テレビや雑誌を見ると、ますますよくわからなくなる。
みんなの人生の本当のところはどうなんだろう。(前掲書)

穂村弘が言うように、横を向くと皆屈託なさそうに見えるので、やはり自分だけ損をしているような気がしてきます。いつまでも、不自由で、弱くて、受け身なのに、プラスへの感受性だけが衰えてゆくのだと。

前掲書所収の書評の中で、穂村は難病の婚約者と別れた過去を持つ女性について触れています。自分は逃げたんだという思いにさいなまれると言う彼女は、ふとこんなことを口にするのです。

「なぜかシャンプーをしてる時に、いろんなことを思い出すんです」

穂村は、いいことも悪いことも分たずに思い出させる、この「シャンプー」に「分類不能な生の手触り」を感じると言います。難病の婚約者から逃げたとか、逃げなかったとかいう価値判断は一切保留にされて、シャンプーという細部が迫ってきます。想像では決して書けないことだからこそ、手触りを残すのです。そして穂村は次のように述べます。

みんなの人生の本当のところははどうなんだろう、と私は思った。でも、人生における本当などは、どこにもないのかもしれない。強いて云うなら「シャンプー」のようなギリギリの手触りだけが「本当のところ」なのだ。(前掲書)

不自由で、弱くて、受け身な大人でいることも受け入れるなら、プラス・マイナスだけの世界から降りるしかないのでしょう。だとすると、ギリギリの手触りだけを頼りに、そこに錨を下ろすように生きてゆくのが、唯一残された、したたかさへの道なのではないか、などと思います。歌を詠むとは、もともとそういうことなのではなかったでしょうか。
娘たちに「楽しいことばかりではないと思うけれど、したたかであるように」と言う日も、いつかは来るのでしょう。


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「渋さ」が開く美しさ

2022-09-11 12:24:47 | 日記

志村ふくみの袱紗を、大切なブロ友さんから頂戴しました。本当に有難うございます。

袱紗の一番濃い部分は藍色で、白よりやや色づいているのが黄色です。藍色と黄色とが織り合わさって、緑という生命の色が紡ぎ出される、そのドラマが一枚の袱紗に表現されています。
植物にもっとも多く見られる緑という色は、植物から直接引き出して、糸に染め出すことはできません。太陽の光をいっぱいに浴びて育った苅安から採られる黄色の糸に、甕で発酵させてできる藍を掛け合わせることによって、緑という生命の色が生まれます。
志村ふくみが語る色の不思議のなかで、もっとも神秘に満ちた世界です。

袱紗を飽かず眺めていると、もうひとつ不思議なことに気付きました。苅安で染められた黄色の糸は、陽の光のもとでは鮮やかな黄色を発色するのに、室内のLED光に当てると、白色に同化して黄色が消えてしまうのです。苅安によって再現された陽の光は、陽の光に照らされることよって、はじめておのれの姿を現すのでしょう。(前掲写真も太陽光で写したものに色補正を加えることで、ようやく黄色を引き出したものです)

色は単色では発色しないこともあるし、光の種類によって発色しないこともあります。とりわけ生命の色「緑」と陽の光の色「黄」は、丁寧に条件を整えてあげて、ようやくその姿を表すのです。

志村ふくみの袱紗と一緒に、金城次郎の絵皿も頂いてしまいました。

その魚紋は「笑う魚」とも呼ばれ、なんともユーモラスです。見ていてゆったりとした気持ちにさせられます。

志村ふくみも金城次郎も、柳宗悦の「民藝運動」の影響を強く受けた人たちです。日常使いの道具のなかにこそ美を見出した柳宗悦は『茶道論集』のなかで、茶の本質を「わび、さび」ではなく「渋さ」という民衆の言葉で語っています。「渋さ」とは、無限なるものに自らを開くために、「足らないこと」や「陰り」に自らを置いてみる心を指しています。自らを開くことは、思弁のなかに自らを閉じ込めることとは、逆のことを言います。

柳宗悦は庶民づかいの井戸茶碗をこよなく愛する一方、楽茶碗を「作為」の産物として認めませんでした。志村ふくみの袱紗や金城次郎の絵皿を見ていて、「作為」とは正反対の自然に対する謙虚さ、そして表現にあたっての大胆さを同時に感じるのです。


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一里四方で賄う

2022-09-06 20:08:31 | 日記

先日、淡交会博多支部の記念式典で、裏千家家元坐忘斎宗匠の講演会を拝聴しました。
そのなかで、三代にわたって千家の月はじめの茶懐石を受け持つ料亭「辻留」のご主人の話が印象に残りました。

家元がまだ成人する前のこと、「ぼんさん(坊ちゃん)なあ、ごっつお(ご馳走)いうのは,一里四方のもので賄ったらよろしいんでっせ」と諭すように教えてくれたといいます。その言葉どおり、月末に届けた献立表の食材が手に入らなかった場合、手を回して、あちこちから取り寄せるのではなく、今ある食材の中で精一杯のものを月初に届けるのだそうです。「一里四方」の哲学を今日に至るまで曲げないのだと。
それが家元の「ないものは使わない」茶の道に通じるのだと語っておられました。今あるものを精一杯に使う、無い道具を無闇に追い求めたりしない、あるいは分を超えて自らを大きく見せようとしない、という意味にも通じるのだそうです。

「三里四方の食によれば病知らず」などと昔は言われていて、半日かけて採って帰って来れるくらいの食材が、ちょうど鮮度も保てるし、安全性の管理もしやすい、という意味にとらえていました。家元の話によれば、それよりもずっと狭い「一里四方」に対象を絞っています。

人間の妄想は放っておくと際限なく拡がって、それを形にしようとすると、素材を遥か彼方に追い求めざるを得なくなります。それは素材そのものの良さを引き出すことよりも、おのれの妄想を大切にすることに繋がります。一里四方とは、そのことを強く戒めた言葉として受け取りました。

志村ふくみの『語りかける花』(人文書院)を読み返していて、ちょうどこれと響き合うような記述を見つけました。ある若い女性が自分の思う通りの色にならない、と言って織ったものを持ってきた時に、その女性に向けて語った言葉です。

色は植物からいただくのです。どんな色になるのか、その年の、よい時期に採れた植物から最も無理なくいい状態で色をいただくのです。(中略)今年は団栗から思いがけずいい茶色をもらいました。自分で色を出そうと思わずに、あなたのまわりの植物から色をもらってください。そうすればその色が大事になりますよ。その色にもう一色かけて殺してしまうようなことは決してできないでしょう。団栗は、輝く栗茶色や鉄色をもっていて、もうそれだけで秋の森の中に入っていた気分です。色からの発想がきっと湧いてきて、一色一色が息をするのがわかるでしょう。(前掲書 88頁)

一里四方にこだわるということは、対象にこだわるといった意味ばかりではないと思います。その対象が今この時期に、色やかたちや輝きを見せている、そうあらしめている一里四方にも思いを馳せるということではないでしょうか。それを仏教では「縁起」とも呼んだのだと思います。


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節目を迎える

2022-09-01 07:27:36 | 日記

9月に入ると、一年のとても大きな節目を迎えたように感じます。
この日を境に、終わりかけていた夏は終わりを宣言し、子供たちは長い夏休みが終わってしまう切なさを味わいます。陽は次第に衰えてゆき、自然は休眠に向けて静かな準備を始めます。われわれ人間も、こうやって季節の節目を迎えながら、人生を変えるほどの大きな節目の準備をしているのではないでしょうか。

「竹に上下の節あり」とは、儒教的な礼節を重んじる喩えとして使われますが、「節」を人生の節目と捉えれば別の味わいを持つ言葉です。節目があればこそ、竹はしなやかに伸びることができるし、枝を広げることもできるのです。
季節の節目、人生の節目の時に噛みしめるようにしているのが、玄侑宗久の次の言葉です。

自分にとっての大きな節目。たとえば親の死、自分の入院、大切な人との別れなど。そんな人生上の節目は、成長途上にどうしても必要な試練と思える。そういった節があるからこそ柔軟に曲がれるわけだし、しかもそこからしか枝は生えない。哀しく辛いとき節ができるほどに悩み苦しめばこそ、新しい枝がそこから生えるのではないだろうか。(...)風も、別れも、あるいは自らの病気も誰かとの死別も、全て「希望」と共に受け容れることで佳いご縁になるのではないか。因果律だけでは理解できない突然の出来事も、そうして受け入れる人こそ君子なのであり、そこにこそ涼しい風が吹き渡るのではないだろうか。(『禅語遊心』ちくま文庫 110-111頁)

とうてい受け入れ難いことを全て含めて「希望」と共に受け容れることができるのならば、人生の景色は変わって見えるはずです。不意にやってくるその節目の時のために、人はほんの少し季節を先取りして句や歌を詠み、花を生けて「節目」の訪れを祝福するのではないかと思うのです。

節目についてもうひとつ、私にとって忘れることのできないのが、志村ふくみの言葉です。自らの人生に重ね合わせた言葉には、鬼気迫るものがあります。長くなりますが引用します。

人生には何度かそこを通過せずには先に行けない関門がある。竹の節のようなものだ。苦しいからといってそこを避けては通れない。一節一節のぼることによって、もう下へ落下することはないのだ。自分ではなかなか気付かないが、ただ夢中でそこをかけ抜けるだけである。私もかつて、そんなところを通った経験がある。自らが招いた業火だったかもしれない。両側に火が燃え、後にも火、ただ先へ進むしかない窮地に追い込まれた。両方の翼に一人ずつ子供をかかえて一気にそこをかけ抜けた。遠い昔のことになったが、荒野にぼうぼうと火が燃え、呆然とした印象だけが鮮明に今ものこっている。私はそこで多くのものを捨てた。そこを突き抜けた時、仕事を得た。仕事は私を裏切らなかった。裏切るのは私の怠慢だけであった。(『語りかける花』人文書院 194頁)

子ども二人を抱えてひとり生きていかなければならなくなったとき、柳宗悦の民芸運動から破門同様の扱いを受けたとき、文字通り荒野に火の燃え盛る風景だったに違いありません。
しかしそんな風景さえ、志村は「竹の節のようなもの」と呼んでいます。志村ふくみという、端正で巨大な竹を知るものとして、これほど励みになる言葉はありません。


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