犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

灯を消して闇を見つめる

2022-07-30 01:29:30 | 日記

河合隼雄のエッセイ集『物語とたましい』(平凡社)のなかに、子ども時代、少年倶楽部あたりで読んだ話で、河合の心のなかにずっと残っているという話が紹介されています。おそらく多くの人にとっても、印象に残る話だと思うので、少し長くなりますが引用します。

何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ない。必死になって灯をかかげて方角を知ろうとするが見当がつかない。
そのうち、一同のなかの知恵のある人が、灯を消せと言う、不思議に思いつつ気迫に押されて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の町の明かりのために、そちらの方が、ぼうーと明るくみえてきた。そこで帰るべき方角がわかり無事に帰ってきた、というのである。(前掲書 50頁)

河合隼雄はこの話に続けて、不登校の子どものカウンセリングで、ある者は「過保護に育てたのが悪い」と言いい、ある者は「子どもには甘えが大切だ」と言って、ついには子どもはかえって良くない方向に進んでしまった事例を紹介しています。過保護はいけないという考えも、甘えさせることが大切という意見も、それぞれ間違いとは言えないけれど、それらは「目先を照らす灯」のようなものではないか、と河合は言います。一度、それらの灯を消して、闇のなかで落ち着いて目をこらすことが大事なのではないかと。
そうすると、闇だと思っていたものの中から「本当に子どもが望んでいるのは何なのか」「いったい子どもを愛するということはどういうことなのか」がだんだんとわかってくると言うのです。ちょうど、暗闇のなかから、ぼうーと光が見えてくるように。

話は少し外れますが、私自身、哀しくて眠られぬ夜にじっと天井の暗闇を眺めていて、やがて夜明けの薄明かりに救われた思いがしたことがあります。山中鹿之介が三日月に向かって「我に艱難辛苦を与えたまえ」と祈ったことなどが唐突に頭に浮かんできて、気持ちがフッと楽になりました。

尼子家再興の悲願を成就すべく奔走した山中鹿之介は、壮絶な敗北と再起の繰り返しの人生を全うしました。常に火を灯していては、おそらく再起するエネルギーが湧かないほどに、道は険しかったのだと思います。灯を消して闇を見つめるうちに三日月を見出して、再起の力と羅針盤とをようやく得ることができたのだろうと、我が身に照らして想像します。

河合隼雄の言う、闇の中から「ぼうーと見えてくる光」とは、そうしてみると必ずしも明るいばかりの希望の光ではないのだとも思うのです。それがなければ、立ち上がれない人にのみ見える、蜘蛛の糸のようなものではないかと。

(写真は杉本貴志展 水の茶室・鉄の茶室 https://superpotato.jp/ja/works/ を借用しました)


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みずうみ

2022-07-23 09:07:19 | 日記

茨木のり子の詩の中で、もっとも感銘を受けたもののひとつが「みずうみ」(『茨木のり子集言の葉3』ちくま文庫所収)です。
その一部を抜粋します。

人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ

田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは
話すとわかる 二言 三言で

それこそ しいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖

教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とは
たぶんその湖のあたりから
発する霧だ

自分にとっての湖とは、あるいは尊敬するひとの魅力のような湖の霧とはなんだろう、そう考えさせる美しい詩です。
しかし「田沢湖」という固有名詞や「魔の湖」という言葉がとても気になります。そこで、田沢湖について調べるうちに、次のような昔話に出会いました。

田沢湖のほとりにある大沢集落の祠に翁の面が納められていました。月が出て霧がこめる頃、二、三の魍魎があらわれるや、翁の面が魍魎にはりついて、宙に浮いて舞い始めます。唄が始まると舞は活発になり、月が落ちる頃に魍魎の姿は消えるのです。毎夜続く怪異現象を恐れて外に出る者もなくなったので、村の肝煎りが話し合った結果、大きい石に穴を開けて、面を中に入れ石ふたをしてしまいました。そうすると魍魎も出現しなくなった、ということです。(『翁岱の面箱石 秋田の昔話、伝説、世間話』参照)

詩の中で、湖の霧は「しいんと落ち着いた」人の魅力を表しています。しかしそれは、誰も降りて行けないような「魔の湖」から立ち上るものに他なりません。魔の湖は、魍魎を呼び寄せる磁力をも秘めているのです。
昔話のなかでは、面を封じることで魍魎は消え去りましたが、新たな「面」が現れれば、おそらく魍魎は面に引き寄せられて舞い始めることでしょう。

「魍魎」は人の哀しみ、「面」はその哀しみを誘う誰かの面影、ではないでしょうか。そう考えてくると、人間の魅力に喩えられる「湖の霧」とは、哀しみに引き寄せられると同時に、その哀しみを封印しようとするような、引き裂かれる思いではないかと思うのです。
茨木のり子が、この昔話を踏まえたのかどうかはわかりません。しかし「しいんと静かな湖」という言葉の響きは、この昔話を通して見ることで、深みを帯びるように思います。
(写真はhttps://shigenoyuta.com/lake_tazawa/を借用しました)


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「答え」について考えたこと

2022-07-16 22:25:24 | 日記

桑田佳祐が歌ったボブ・ディランの歌詞「答えは風に吹かれている」について、考えたことの続きです。
話はだいぶ昔に飛びますが、養老孟司が「人生は答えだ」と言ったのは、東日本大震災直後のことです。震災後、いろいろな人がコメントをしましたが,私にとってこれが最も印象に残っています。少し長くなりますが引用します。

私はいつも、人生は「答え」だと言うようにしています。
多くの人は逆に考えています。人生は「問い」ではないのに、若いうちは特に勘違いをしている。だから「人生とは何か」「生きるとは何か」と考えるのです。
この年になってわかるのは、今の自分がこうしてあること自体が、何かに対する答えだということです。それも「こうやったからこうなった」という単純な答えではない。自分がいままでやってきたこと、社会とかかわってきたことの結果として表にあらわれているのが、ただ今現在の自分である。いろんなことに反応してきた結果が今の自分です。
それを何かに対する答えだと、私は表現しています。あなたがいまこうしてここにいる。そのこと自体が人生という質問の答えなのです。(『復興の精神』新潮社 2011年 33頁)

大震災のような出来事は、私たちになすべきことが何かを問いかけ、私たちは何をおいても、まず答えを出さなければなりませんでした。待ったなしの決断を迫られたときに、その答えの積み重ねこそが、結局は自分であると改めて気付くのです。
ボブ・ディランの「答えは風に吹かれている」を考えていて、思い至ったのが養老孟司のこの言葉でした。

「ここに答えがある」といったセリフをディランは一切信用しないと言っていますが、それは「人生とは何か」とか「生きるとは何か」という「自問」に対して、都合の良い独り言のように「自答」しているだけだからだと思います。
問いは予期しないところから襲ってきて、問われた側は風に吹かれるように、あたふたと答えを紡ぎ出さなければならない。けれども結局はそれを自分として受け入れるしかないではないか、そうディランは歌っているのだと思います。

人生に対して問うのではなく、人生からの問いに答えなければならないと、同じように考えたのは、精神科医ヴィクトール・フランクルでした。アウシュビッツの強制収容所を生き延びた人です。多くが正気を失い自ら命を絶つなかで、収容所を生き延びた自らの考えを「コペルニクス的転回」と呼んでいます。

哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(『夜と霧』みすず書房)

大震災にせよアウシュビッツにせよ、桑田佳祐が「風に吹かれて」を歌うにきっかけとなったウクライナ戦争やコロナ禍にせよ、それらは人の生活を圧倒的な力で包囲して、我々を絶望に導きかねないものです。しかしそれらを前にすることで、人生は問いの前に置かれているのだと気付きます。そしてそのことによって、人生は「答え」だと改めて覚悟しうるのだと思います。


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答えは風に吹かれている

2022-07-12 18:31:07 | 日記

少し前のNHK「クローズアップ現代」に桑田佳祐が登場し、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を自作の訳詞で歌っていました。桑子アナのハモリも話題になった放送です。
そのなかで桑田は、「答えは風に吹かれている」という詩の意味が、若いころと今とでは違ってきていると語っていました。昔は「答えはおのおのの心のなかにある」という風に理解していたものが、「答えなんてどこにもない」と解するようになった、と。

どれだけ多くの死者が出れば
あまりにも多くの人が死んでしまったと
気が付くの?

この歌詞のあとに続く言葉が「答えは風に吹かれている」であって、これが60年代のプロテストソングならば、おのおのの心情に対する呼びかけであったのでしょう。しかし、現在の状況からは「答えなんてどこにもない」と感じるのが自然なのかもしれません。

ボブ・ディラン自身は1962年に歌詞が掲載された雑誌「シング・アウト!」に、次のようにコメントしています。

この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。(Wikipedia「風に吹かれて」)

21歳のディランにとって、答えは風にのっていて、いずれは地上に降りてくるけれども、そのときには誰にも理解されない、そういうものでした。つまり、風に吹かれて漂っているときにこそ、答えは命を宿し、地上に降りるやたちまち色褪せるようなものだったと思います。
そうだとすると、「答え」は「問い」と同じスタイルで返されるものではなく、風のような厳しい現実に揉まれている間だけ、答えでありうるとも理解することができるのではないでしょうか。

ボブ・ディランは先のコメントに続けて次のように言います。

世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。

「答え」はおのおのの心の中に、あらかじめ準備されているものでもなく、また探そうとして見つかるものでもない。「間違っているものを見て、目を背けない」という姿勢のなかで、その都度見えてくるものなのではないか。
桑田佳祐の「”同級生”と平和を歌う」というアクションも、その意味では立派な「答え」だと思います。


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文字禍の引越し

2022-07-07 19:36:54 | 日記

15年ぶりに引越しをしました。

最大の懸案事項は蔵書をどうするかです。書斎の壁面を覆う本棚はすべて埋まっており、机は「本置き」と化して、もう本来の機能を果たしていません。机の上に一列遠慮ぎみに置かれていた本が、第二列、第三列と勢力を拡大し、その第一列の上にさらに平積みが始まると歯止めは効かなくなりました。第二列、第三列の上にも積み重なって本の塊を形づくり、巨大な怪物のように部屋の真ん中を占拠していました。

そういう具合なので、新生活を始めるにあたって、かなり思い切った廃棄処分が必要なことは明白です。
今後、絶対に読み返さないものは必ず捨てる、という基本方針を立てて一切の例外を許さないと心に決めました。大学時代から大事に取っていた本も思い切って廃品回収に回しました。
この作業に一週間はかかったでしょうか。廃品回収に出した日のわが家の玄関先は、露店の古本屋の様相を呈しており、あまりの見事さに、思わず記念撮影をしてしまいました。

そうやって厳選したにも関わらず、新居に運び込んで積み重なったダンボールの山は、やはり巨大な怪物のようにあたりを睥睨しています。中島敦の「文字禍」という小説で、文字の不思議を解明しようとした学者が文字の害悪に気付き、これを国王に報告したところ、王の逆鱗に触れて謹慎蟄居の身となり、遂には文字の怒りを買って本に押しつぶされて圧死してしまうという話を思い出しました。

新居のためにわざわざ買った、本の重みにたわまない本棚を組み立てて、これにもおよそ二日を要したのですが、この本棚に本を詰め始めると、当然のことながらダンボールの山はだんだんと低くなってゆきます。
我がもの顔に部屋を占拠していた塊がおとなしく小さくなっていくと、なんだか鬼退治をしているような気分になりました。
まだ鬼は退治しきっていませんが、壁面に並んでいる本の群れが、いつ反乱を起こしても不思議ではありません。突っ張り棒を買うのを忘れていたからです。


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