犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

秋明菊の白

2021-10-30 19:05:40 | 日記

お茶の稽古に、庭に咲いていた秋明菊を持っていきました。
風炉の稽古も今日が最後、そして秋明菊の柔らかな白い色をめでることができるのも、あと僅かの期間です。この花の色を見ていると、秋という季節を「白」と表すのがよくわかるように思います。陽の暖かさを宿しながら、一方で寂寞をあわせ持つ色です。

斎藤史の生前最後の歌集『風翩翻』に、貴船菊という雅称で秋明菊が詠まれています。

貴船菊の色も終りしきのふ今日白より冷えし雨となりたり

ちょうど今の時期、秋の終わりから冬の始まりにかけての、冷たい雨が降り始める頃を詠んだ歌です。秋明菊のいくらか暖かさを含んだ白ではなく、小雪さえ混じりそうな氷雨の色が、いつのまにかあたりを染めている。冷たい雨は、季節の移ろう淋しさと、新しい季節を迎える気持ちの張りの両方を感じさせます。

晩唐の詩人、杜牧は、やはりこの時期の冷たい雨を詩に詠っています。

深秋簾幕千家雨 (しんしゅうれんばく せんかのあめ)
落日楼台一笛風 (らくじつろうだい いってきのかぜ)
(出典『題宣州開元寺水閣』)

大意は以下のとおりです。

どの家も深く簾をおろし、そこに秋の雨が降りかかる
落日を背にする楼閣から、笛の音が風に乗って響いてくる

簾を下ろした家々は、冬支度を始めたところなのでしょうが、どこかコロナ禍を避けようと身構える人々の様子を表しているように思えてきます。
笛の音は、遠くへ思いを馳せるよりも、むしろ内省へとひとを促すような響きがあり、内省の底から再生を導く音のようでもあります。笛の音は、深く沈むことによって、初めて高く浮き上がることを教えてくれる知恵の働きなのかもしれません。

来週の炉開きには、コロナ禍でしばらく来られなかった社中も、久しぶりに見えられると聞きました。季節の移り変わりは、再会をも用意してくれるようです。

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2年ぶりの秋季茶会

2021-10-24 20:59:00 | 日記

大濠公園の日本庭園で催された秋季茶会に参加しました。

私が大広間で薄茶の点前を担当してから、2年ぶりの茶会です。コロナ禍は実に2年近くも、私たちから行動の自由を奪ってきたことに改めて気付きます。

濃茶は感染対策で、本来の回し飲みではなく、客ごとに各々の茶碗でいただく「各服点て」の作法でした。私は師匠の次に座らせていただき、「次客」として勉強をする機会を得ました。来年の濃茶席は、わが社中の受け持ちなので、来年の段取りなどを師匠と話しながらの席でした。
来年の今頃は、回し飲みができるような環境が整っているのか、感染が収まっていたとしても、しばらく各服点ての作法が続くのか、誰にも予測ができません。そもそも、来年の秋に茶会が開催されるのかさえ、わからないのです。

ほんのひとときの晴れ間を目指して人が集まり、嵐が来る前に去っていく、そして次に会う日がいつかは分からない。核戦争後の世界を描いた映画のシーンはもうお馴染みのものですが、それが既視感のように甦ったようにさえ感じます。
著しい速度で変異を遂げながら、世界中に拡散する新型コロナウイルスの全貌は、時間的にも空間的にも人間のスケールをはみ出しています。その不気味さと付き合いながら、新たな存在の喜びを探し始めるしかないのが、現在なのかもしれません。

若い数学者、森田真生は大学などの研究機関に属さず、京都の郊外に「鹿谷庵」を開いて、学び、教育、研究、遊びを融合する活動をしています。森田の近著『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)のなかで、幼い子供と自然のなかで日々を過ごしながら、コロナ禍で生きることについて述べています。

本書のなかで森田は、アメリカの環境哲学者ティモシー・モートンの著書『ハイパーオブジェクト』を紹介しています。人間のスケールをはるかに超えたもの、例えば地球温暖化などにさらされた時、人間は異質な他者と付き合いながら少しずつ調子を合わせていくことを学びます。モートンはこれを「attunement 」(調音)と呼んで、波長を合わせること、適応していくことを生きる作法として提示しています。
我々が一見どんなに正しいと思っていることでも、意外な仕方で間違っている可能性があります。森田の素晴らしい表現によれば、「何をしても間違っている可能性があるくらい、この世は生態学的に豊か」なのです。

森田の語るところを、もう少し引用させていただきます。

自己の内部に閉じこもるだけでなく、他者と調子を合わせていく人間の能力。これを支えているのは、人間の「弱さ」だとモートンは語る。弱さとは、自力だけでは立てないことである。とすれば、エコロジカルな自覚とは、自分の弱さを自覚することでもある。
すべてのものは、自分でないものに支えられている。だから、自力だけで立てるものなどない。この意味で、人に限らず、ものはみな弱い。弱さは、存在の欠陥ではなく、存在とはそもそも弱いものなのだ。
僕は月を見上げて心動かされる。それは、僕が弱いからである。僕は、花を見て嬉しくなり、幼子の笑顔を見て思わず微笑んでしまう。僕は、僕だけでは立てないからこそ、僕でないものと響き合うことができる。弱さこそが、attunementを支えているのだ。(前掲書 38頁)

モートンや、それを引用する森田の著作には、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読むひとを暗い気持ちにさせることがありません。それは、不気味な現実に直面しながら、それでもどうすれば生き生きと生きることができるかを、追求しているからに他ならないと思います。

薄茶席も終えて、日本庭園を散歩していると、結婚式の写真の前撮りをしているカップルが何組もいました。ずっと披露宴を開けないまま、待ち遠しい日々を過ごした人たちなのでしょうか。披露宴を開かずに、写真だけの思い出にする若い人たちなのかもしれません。屈託のない笑顔の裏には、周りの環境に翻弄されながら、それでも折り合いを付けて幸せをつかみ取ろうとする姿があります。来年のことを思い悩むことなど愚かしく感じさせるような、思わず力づけられる光景でした。

来年の濃茶席は、周りの環境がどのように変化しようとも、それでも生き生きするような席にしたいと思います。

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永仁の壺

2021-10-23 10:00:26 | 日記

『永仁の壺』(村松友視著 新潮社)を読みました。絶版本を古書店で見つけたものです。(Amazon中古にまだ在庫はあります)

永仁の壺事件とは、昭和三十四年「永仁二年」の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸であるとして国の重要文化財に指定されたものの贋作であることが明らかになり、二年後に重要文化財の指定を解除されることとなった事件です。重文指定を推薦していた文部技官小山冨士夫が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。陶芸家の加藤唐九郎の作であったと本人も認めたものの、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているといわれています。

小説は、著者の村松友視が小山冨士夫のぐい呑みに、立て続けに三度も遭遇するうちに、小山が深く関わった永仁の壺事件に引き込まれていく,という筋書きです。

永仁の壺はもともと、大戦中、中国大陸での影響力を確保しようとした国粋主義宗教家が、「白山冥利権現」を旗頭にしようと計画したことから始まります。大権現の総本山とした愛知県東北部から、劇的に鎌倉時代の瓶子が発掘されたというストーリーを捏造しようとしたのです。軍の南進とともにこの思惑は外れ、永仁の壺は死蔵されていたのですが、戦後当事者たちが詐欺事件に巻き込まれた穴埋めのために、永仁の壺は市場に出ていきます。つまり永仁の壺は製作の段階と流通の段階で、別々の詐欺的意図に操られていたようなのです。

戦後、我が国の貴重な美術品が、次々に海外に流出されるのを看過できないと考えていた文部技官の小山冨士夫は、この永仁の壺が流出するのを食い止めようと、重要文化財の指定を急ぎます。もちろん贋物などということは知るよしもありません。加藤唐九郎から古瀬戸の窯跡に連れて行かれ、本物だと信じ切っていたのです。
壺が贋物であることは、加藤唐九郎の長男の告白から明らかになります。小山冨士夫は責任をとって文部技官を辞任し、爾後いっさいこの事件について口を開くことなく、作陶の世界にのめり込んでいきます。美濃、信楽、京都、備前、萩、唐津と各地の窯を渡り歩いて、憑かれたように作陶の可能性を試す生涯を送ります。

小説は、事件を核にして「本物」と「偽物」についての様々な物語を展開し、加藤唐九郎と小山冨士夫の芸術に向き合う姿勢の対比に及ぶのですが、どうしても小山冨士夫の記述に重きが置かれることになります。作者の村松友視も、もともと小山冨士夫を主人公にするつもりだったのではないか、と思います。
小山が一橋大学在学中、社会主義に共鳴して大学を中退し、一労働者として出発するためにカムチャッカ行きの蟹工船に乗り込むくだりや、三か月の賃金を懐に青函連絡船で本土に帰る途中、気の毒な老婆に出会い、東京までの汽車賃を残して有り金を全てその老婆にあげてしまったくだりなどは、陶芸家に転進してからのストイックさ、事件の一切に口を閉ざす潔さにそのまま繋がっています。小山に関わった全ての人が、最晩年の酒癖の悪さに辟易したことを除いて、悪く言うことはなかったことからも、小山の高潔さは本物だったのだと思います。

事件をめぐる評価には、文部行政への批判や、行政と美術商との癒着関係なども絡んで、贋作じたいを批判するトーンは薄められます。むしろ、いわゆる芸術家たちの唐九郎崇拝、小山軽視とも取れる扱いが基調のように描かれているのが、不思議でした。
永仁の壺事件には、本物と偽物というテーマよりも、「事件」に対する責任の取り方にスポットを当てた方が、ずっと奥深い作品になったように思います。むろん、作陶に専念して諸国行脚した、小山冨士夫の生涯が題材になりますが。

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池成月自来

2021-10-16 17:30:44 | 日記

お茶の稽古の前に、禅語の本をパラパラとめくって、予備知識を得ておくのですが、そのなかで次の言葉に目が止まりました。

池成月自来 (池成って月自ずから来る)

出典は、13世紀南宋の禅僧の語録『虚堂録』です。
「池ができれば、その水に月は映じ、月が宿る」という意味の言葉で、月に表象される「仏性」は万物に、できたばかりの池にさえも備わっていると、解釈されるようです。しかし、その認識は美しいかもしれませんが、少なくともわたしを励ましてくれるものではありません。
池ができても、水を湛えていなければ、そして水面が鏡のように静かでなければ、月は映ずることはありません。月を映す条件を絶えず整えなければ、「自ずから」月は姿を現してくれないのです。「池成る」という言葉で、ある環境を倦まずに整えるという実践をも指すのであれば、この言葉からその努力のための励ましを、受け取ることができます。

前回、茶道の基本姿勢ににおいて道具と同期すること、弓構えにおいて弓矢と一体になることを述べました。しかし、冒頭の語について考えているうちに、わたしはそこで一番大切なことを書き忘れていたように思います。

弓矢をつがえて構える「弓構え」に、体と道具とが一体になるような感覚を抱くとしても、その裏では数えきれない反復練習がその感覚を支えています。弓構えの円相の姿勢をとれば、たちどころに道具との一体感が成就する、という手品はないのです。
茶道における「道具との同期」の関係も同じです。言葉で言うほど簡単なものではありません。稽古を重ねて、試行錯誤を繰り返し、物との距離が果てしなく遠く感じるような経験を積まなければ、その感覚は訪れることはありません。

同期の感覚など、ある結果が起こるための条件として、継続的な努力や働きかけが必要な、そういう関係があります。そして、それはふだんわたしたちが慣れ親しんでいる世界とは別ものなのだと、わたしはとらえています。そこには、因果関係ではとらえきれない、飛躍のようなものが必要だからです。言い換えれば、意志と実践によって開かれているけれども、必ずそこにたどり着けるとは限らない、たどり着くことへの希求だけが支えているような関係です。

おそらくこの、たどり着くことへの希求の姿勢において、思うに任せぬ他者に接することができるのだと思います。
茶道の話に戻ると、道具に同期する関係は、人知れぬ努力に裏打ちされていることを、亭主と客がともに経験的に共有しています。そして亭主にとっては客が、客にとっては亭主がたどり着くべき希求の対象なのです。お互いに希求の対象とする亭主と客が、絶えざる努力によって道具にたどり着こうとする感覚を共有することで、その関係はより重層的なものになります。

図式化してしまうと何でもないことですが、そのような主客の関係を築くことも、道具との関係を共有することも、本当に数少ない、得難い経験なのです。

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茶道における「弓構え」

2021-10-11 20:59:50 | 日記

お茶の稽古が再開され、およそ2か月ぶりに師匠の稽古場に向かいました。
柄杓に残ったお湯を釜に戻すときの水音、濃茶を練るときの茶筅と茶碗の擦れ合う音、しだいに立ちのぼるお茶の香り、どれも懐かしく気持ちの引き締まる感覚です。

夏場の点前は、客から炉の熱さを遠ざけるため、客から遠い場所に「風炉」を置きます。これが10月までで、11月には客との間に切ってある「炉」の点前になります。風炉最後の今月の点前は「中置」と言って、畳の上の風炉の位置を客の方に少し寄せます。客の近くに暖を寄せて秋寒を凌いでもらうことと、やがて来る「炉開き」に思いを馳せてもらうという趣向です。
風炉の位置が右側にずれることで、道具全体の配置も変わるので、点前の人と道具との関係も再構築しなければなりません。しかし、道具の位置ばかり気にしていると、腕だけが宙をさまようことになってしまうため、点前の基本姿勢に立ち返ることを心掛けました。

基本姿勢というのは、正座してそのまま大木を抱くような心持ちで両手を前に掲げる姿勢です。
私は高校時代弓道をやっていたのですが、弓に矢をつがえてちょうどこの体勢で上体を固めて息を整えると、不思議と矢の飛ぶ方向がブレません。
茶道の点前でも、この姿勢を崩さないで上体を倒して道具に向かい、道具を取り上げるときには腕ではなく上体ごと起こします。そして、その姿勢を保ったまま再び上体を倒して道具を定位置に戻すと、手だけを動かす動作がなくなります。こうすると点前がきれいに見えるのですが、私はこの姿勢には見映えとは別の意味があるのだと思っています。

茶道の醍醐味は、主客のこころの交わりと同時に、道具と人との同期を経験することだと思います。その同期の感覚をも主客が共有することで、茶道具という物を介した、より深い交流が可能になるのです。
先ほどの基本姿勢は、道具を「操作」の対象ではなく、同期の対象とすることを目的としていると考えています。同期の感覚は自分があたかも道具の延長であり、道具が自分の延長でもあるような感覚です。
点前は湯の沸き具合、その日の湿気、茶入や茶杓に付く茶の粘り気、香りの立ち方などを通して道具に接するうちに、物に沿いながら物に振り回されない心持ちに達します。

弓道で弓矢をつがえて円相を描くように構える「弓構え」も、弓や矢という道具を持っているのではなく、円相のなかで体と道具とが一体になるような感覚を抱きます。その感覚は矢筋の正確さを生み、矢の的中を生み出します。
茶道において、点て終えた一杯の茶を献ずることは、弓道の「離れ」(矢の発射)に当たるのでしょう。茶が客の喉を通り、香りが鼻腔をくすぐって、やがて道具との同期が客と共有されたとき、それは「的中」になるのだと思います。

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