犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

コロナ禍での出版

2021-08-22 13:51:19 | 日記

わたしの経営する組織が、来年いろいろな意味で節目の年でもあるにもかかわらず、コロナ禍で周年行事もままならない環境に置かれています。そこで、これまでお世話になってきた方々へのご挨拶代わりに、わたしの思いの丈を出版することを思い立ちました。当ブログの記事を下地にした文章を中心にまとめたものです。

ブログを始めたのが、ちょうど組織合併などで人的軋轢も大きく、ストレスを溜め込んでいた時期でもあったので、自分自身を励まして、ひいてはそれが人を励ますことのできる文章だけを書くことを心がけました。そういう思いを込めたものでもあるので、今日まで何とか事業を継続できたお礼としても、場違いではないと考えたからです。


『ほかならぬあのひと』瀬戸英晴著 文芸社

当ブログや日記の中から文章を抜き出し、まず3分類することから始めました。総論(生きることについて考えたもの)、尊敬する人たちについてまとめたもの、そして四季の移ろいや茶道の稽古について記したものの3つです。
3つに分けたものの文意が散漫にならないように、加筆削除して各章がひとつの読み物としてまとまるように編集し直しました。とくに第一章とした総論部分には、わたしが仕事をするなかでの実感なども盛り込んで、大幅な加筆になっています。

尊敬する人たちについての記述は、第二章とし、仙厓和尚、宮沢賢治、中村哲、坂口安吾、中村天風について書いています。当ブログで何度も触れてきた人たちばかりで、それぞれを12、3頁ほどの文章にまとめています。編集をして改めて気が付いたことは、仙厓と天風は「藹然接人」の一語で繋がっており、宮沢賢治と中村哲医師とは「セロ弾きのゴーシュ」で響き合い、安吾と天風は「東京大空襲」下の出来事で結びついていて、まるで地下水脈のようなものでつながっていたことです。

季節の移ろいや茶道の稽古は、第三章としました。茶道というよりも茶掛の禅語について、あれこれと思いを巡らせたもので、茶道についての無知を露呈させてしまったようにも思います。刷り上がったばかりで発売前の本を恐る恐る師匠にお届けした時の、身の縮むような思いは、一か月ほど経った今も稽古場で引きずっています。

当ブログは前述したように、まず自分に向けて書いていたものでもあり、名入りで公表することを前提としたものではないため、人に対する気遣いで何か決定的な落ち度があるのかもしれません。ただし「コロナ禍での出版」ということは常に心がけました。
書籍タイトルの「ほかならぬあのひと」「ほかならぬこのわたし」を反転させるような意図をもって付けたものです。「かけがえのない、ほかならぬわたし」という呪縛からみずからを解き放つような、心の持ちようといったところです。わたしは「あとがき」に次のように記しました。

「死」からさかのぼって考えることとは、日常生活のルーティンに「今」を埋没させるのではなく、「かけがえのない今」として息づかせることを目指すことではないか、そうわたしは考えています。 
あなたが自分自身を「わたし」と言うのとは違う「ほかならぬわたし」があるように、わたしが過去に感じた「今」とも、将来感じるであろう「今」とも違う、「ほかならぬ今」と呼べる瞬間があります。「ほかならぬわたし」も「ほかならぬ今」も、誰かが決して肩がわりすることのできない「ほかならぬ」ものです。本書で述べたように、「ほかならぬこのわたし」にとらわれている限り、わたしは窓のないトーチカに閉じこもり、身動きが取れなくなっていました。それでは、「ほかならぬ今」を息づかせるとは、自分だけの何ものかに閉じこもることではないでしょうか。
もう一度、本書の理路に立ち返ってみます。 
「ほかならぬこのわたし」の呪縛から解き放ってくれたのは、「ほかならぬあのひと」の視座からこの世の中を見ることによってでした。そういう視座の移転によって、「ほかならぬあのひと」がそうしたように、世の中と新たに関係を取り結ぶことができます。そのとき、「今」は、わたしがルーティンの生活に埋没していたときとは違う彩りを帯びてきます。世界が賦活されるということは、今こうしていることが「ほかならぬ今」として立ち上がるときなのだと思います。

生硬な文章で恐縮なのですが、これはコロナ禍で一刻も早く過ぎ去ってほしいと、多くの人に思われているであろう「今」を、救い出してあげたいという願いを込めたものです。経営者のコロナ禍での苦しみを直にお聞きして、どんな言葉をかけてあげられるだろうかと、考えたすえの言葉でもあります。

自費出版なので出版部数も少ないのですが、全国の紀伊國屋書店などで一定期間置いていただけるようです。amazonでも取り扱っていますが、お近くの書店で手に取ってパラパラとめくっていただくと幸いです。


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濁流のゆく末

2021-08-14 13:23:52 | 日記

一昨晩から続く叩きつけるような雨の音に、眠りの浅い日々を過ごしています。たった今も、スマホからけたたましい特別警報の音が響いていました。
何十年に一度の災害に、ほとんど毎年見舞われるようになって、もう何年が経つでしょう。

濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ(斎藤史『魚歌』)

濁流となって河川の氾濫するニュースを見ると、語の響きからこの歌を連想してしまうのですが、これは自然災害を詠んだ歌ではなく、二・二六事件を歌ったものです。
斎藤史の父は陸軍少将で歌人でもあった齋藤瀏です。史は父のもとを訪れる青年将校たちと親交を保っており、その幾人かは事件に関与して刑死します。父も事件に連座して禁錮5年の刑を受けるので、史はこの濁流の真っ只中にいたということになります。

ところで、アイルランドのノーベル賞詩人イェイツは、アイルランドのイースター蜂起の首謀者たちを描いた「1916年復活祭」という詩を書いています。彼も親しい知人友人が蜂起の首謀者として捕らえられ処刑されていて、斎藤史とおなじような境遇に置かれました。(『そしてあなたたちはいなくなった|斎藤史とモード・ゴン』瀬戸夏子 柏書房のwebマガジン参照)

イェイツの作品のなかでもっとも政治的な戯曲は『キャスリーン・ニ・フーリハン』であり、のちに反イギリス武装闘争に若者たちを駆り立てることになるのですが、この戯曲を日本で最初に翻訳したのが片山廣子(松村みね子)です。芥川龍之介の恋人として知られた人でした。
その片山について、斎藤史はインタビューに答えて次のように語っています。

私が若い頃に見て、こういう年を取りたいと思ったのは、片山廣子。芥川の恋人と言われた人。素晴らしい人。派手に世間の表面へ出てこないけれど、すごい頭脳で、語学力もあった、アイルランド文学の松村みね子です。
芥川が初めて対等に話のできる女に出会ったーと言ったという。マスコミにおもちゃにされたこともない。落ち着いて、性根が座っていて。二・二六事件で父が引っ張られてどうなるかわからないときに、人がこわがって知らん顔をする時期に、一人で留守見舞いに来てくださった。(『ひたくれなゐの人生』斎藤史、樋口覚 三輪書店)

斎藤史は次の歌も詠んでいます。

暴力のかく美しき世に住みてひねもすうたふわが子守うた(『魚歌』)

「暴力が美しい」と詠うのではなく、そんな声が横溢するような世の中でも日常は過ぎてゆく、と史は詠います。イェイツのエレジーとは違う種類の哀歌であり、この歌を敢えて公にする姿は、片山廣子に通じる肝の据わり方だと思います。


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