犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

緑の秘儀

2021-05-16 08:32:11 | 日記

ものおもふひとひらの湖(うみ)をたたへたる蔵王は千年なにもせぬなり (川野里子『五月の王』)

蔵王連峰の主峰には「五色沼」とも呼ばれる火口湖があって、千年の静寂のなかでそこだけが季節に応じて色調を変え、息づいています。わたしはこの湖の色調の変化を、千年変わらぬ蔵王に対比させて「ものおもふ」様として詠まれたのだと解していました。しかし、ここに鮮やかなエメラルドグリーンの湖面を置いてみると、まったく違う世界が広がります。
湖のどこまでも深い緑色は、人の心を引きつけますが、そういう人の出入りを容易に許すものでもありません。一歩踏み入れると、二度と帰って来られないかもしれない、そういう危うさもはらんだ湖面の輝きです。蔵王が千年動じないのと同じように、緑の湖面は千年同じ色をたたえながら、しかもなお湖面をのぞき見るひとに呼びかけ続けるのです。

このように考えるのは、染色家の志村ふくみさんの書物を読んでいて、「生」と「死」の交わるところに生まれる、生命の尖端にこそ「緑」があるという記述に出会ったからです。志村さんは次のように、緑色を「献身する色」とも述べています。詩人、仏文学者の宇佐見英治さんへの手紙の中の言葉です。

「果物の役目はとうとく、花の役目はあまやかであるが、私自身はそのかげにいてつつましやかに献身する木の葉のそれでありますように」
とタゴールはうたっていますが、それを読んだ時、はっと胸をつかれたのです。宇佐見さんにはすでに何どか緑について聞いていただいていますが、最近私も緑という色をこの世にあって唯一つ、献身する色だと思っていたからです。かつて、藍甕から引き上げた瞬間に消えてゆく緑を生命の尖端といい、生と死の境界線に明滅する淵の色と思っていました。植物から直接緑色をとり出すことができないのは、花の色がすでに彼方の色をうつしているように、緑は此方側にあって何かに変容しているのではないかと思われるのです。植物の葉は自然界の生命を守り、己を献げています。それが変容であり、緑の秘儀ではないかと。(嵯峨だよりー宇佐見英治さんへの手紙 『ちよう、はたり』ちくま文庫 178頁)

志村さんによれば、花の色は彼方の色をうつすものであり、同じように彼方の色をうつすもののなかでも「唯一つ」献身するものが緑なのです。「とうとい」もの、「あまやか」なもの、そういう直接の効用だとか、利便だとかをもたらすのではないけれども、その存在を礎にして他を生かすようなものが緑である。そう考えればよいのでしょうか。

ところで、藍甕に熟成する藍の染料を「作る」とは言わず、藍を「建てる」といいます。職人たちは祈りの塔を建てるような心持ちで、甕の中で成長する藍と向き合ってきました。この藍甕に浸けた糸を引き上げた瞬間、糸は鮮やかなエメラルドグリーンの緑を発色しますが、それもほんの一瞬のことで、空気に触れたとたんにたちまち別の色に変わっていきます。眩しいほどのエメラルドグリーンは、藍甕からは直接染め出すことはできず、別の色が藍によって「変容」することでようやく醸し出されるます。
刈安などによって染め出された「黄色」の糸、光の色をまとった糸を、藍甕という「彼方の世界」に浸けることで、はじめて緑の色は生まれるのです。つまり、黄色の「光」と藍色の「闇」とが、交わることによって「献身する色・緑」が生まれます。それは「彼方」からの呼びかけに応えて、光を当てることに等しくはないでしょうか。暗闇に光を当てるからこそ、それに応えるように「献身」が成就されるのではないでしょうか。

そうしてみると、冒頭の歌の「ものおもふ」は、湖の千年のモノローグによって反芻されるものではなく、「死」という彼方からの呼びかけに応えるような、対話をも指しているのではないかと思うのです。


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