犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

ユーモアのちから

2018-05-19 23:57:21 | 日記

玄侑宗久さんがその著書のなかで、かつてお寺の手伝いをしていたアメリカ人修行僧について語っています。
お墓の花や花竹を燃やす巧さ、思い立つと日本まで来てしまう行動力、道場での忍耐力に驚き、そして何よりその場を明るく和ませるユーモアに惹きつけられたのだそうです。
火の作り方は、かつてボーイスカウトで訓練を受けたのだと聞いた玄侑さんは、その他の能力もそこで培われたのかどうか不明だが、と述べたうえでユーモアについて次のように語っています。

ユーモアとは、恐らく自分を客観視できなければ発信できない。またどんなに惨めな自分でも愛そうという覚悟の上に生まれるのではないだろうか? 言葉を換えれば、客観視した自分がどんな姿でも、その場から何かの喜びを得ようという覚悟かもしれない。
少し難しい言い方になってしまった。簡単に言うと、今何か努力するのは、そのことが役に立つ未来のためではなく、たった今その場で喜びを得るためなのである。難しい顔で「がんばる」人は結果を未来に見ようとして今という時間を無駄にし、その周りにいる人も和ませることはない。しかし、今の行いが今喜びを得てチャラになるなら、そんな人が発する空気はユーモラスになる。(『サンショウウオの明るい禅』文春文庫 138頁)

ここで玄侑さんが述べるのは、人生に対するエピキュリアン的な態度ではなく、事に臨んで常に発動される「覚悟」のようなものです。もう少し踏み込んで考えるために、フロイトのユーモアについて語るところをたどってみます。

フロイトは、ユーモアとは超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますものだと述べています。このとき超自我とは、親や社会から抑圧的にすり込まれた他律的な社会規範のようなものではありません。
たとえば攻撃性を抑制するように親が子を厳しく躾けることが、かえって暴力的な人間を育てることがあります。逆に寛大な親に育てられた子が、強い倫理観を持つこともあります。この違いは、自己抑制できないことは恥ずかしいことなのだと親が身をもって教えていたか、にかかっています。フロイトはこうやって培われる自律的な規範の側面を「超自我」と呼びました。
超自我は強靭さを増すことで、どんなに惨めな状況に陥ったときでも、今の苦境にとらわれずに視点を変える柔軟性を持つことができます。それが超自我のユーモアの働きです。

文明の抑圧に対して、自然に帰れ、生命に帰れと反発する風潮は、やがてワイマール体制を否定し、ナチズムの台頭を促しました。そのような時代背景の中で、フロイトは人間のこころの抑制的な側面に、否定し去ることのできない積極的な意味合いを見出したと言えます。
玄侑さんのいう難しい顔で「がんばる人」は、やみくもに厳しい躾と同じで、自然に帰れという反発にあっけなく押しつぶされます。ユーモアによって柔軟に視点を変えることのできる人は、未来の結果のみを頼りにするのではなく、自らの規範を曲げずに、今を楽しむことができます。

アウシュヴィッツで多くの精神的な破綻と死を目撃し、奇跡の生還を果たした精神科医のV.E.フランクルも、アウシュヴィッツで生き残るために、ユーモアを忘れないこと、そして現実を突き放して見ることを心掛けていたと語っています。

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山花開似錦

2018-05-01 23:45:06 | 日記

お茶の稽古には、山花開似錦 (山花開いて錦に似たり)の掛軸が掲げられていました。出典の碧眼録は、この後に「澗水湛如藍」(かんすい、たたえて藍のごとし)が続きます。

人間はもとより形あるものはすべては滅びゆく存在である。その移ろう世の中で永遠に変わらぬ絶対的真理は如何なものでしょうか、と修行僧は大龍和尚に尋ねました。これに対して和尚は「山花開似錦 澗水湛如藍」と答えます。
いつかは散る花、いつかは枯渇する川が、いま疑いもなく輝いている様を指し示すことで、禅師は永久不変なものを求める修行僧の、問いの立て方そのものが間違いであることを諭した。
そう解されるところです。
禅の公案とは、禅師と修行僧との間で交わされる教育的な問答なので、どうしても禅僧の心構えはかくあるべしという教えが凝縮されていると考えます。しかし、そこに教育者の自尊心が強調されて、かえって煩悩が見え隠れするようにも感じます。
弟子の誤りを指摘したのだというより、そんなことより目を転じてごらん、と促したのだととらえたほうが、我々にとって心の糧になるのではないか、そう思います。
いまある美しさに視点を促し、それに同一化しようと語りかける禅語は、ほかにも多く見られます。例えば、次のような言葉たち。

青山元不動 白雲自去来(『五灯会元』)
山は厳然として動きはしないが、動いてやまない雲によって変幻自在の不動の姿を見せている。

行到水窮処 坐看雲起時 (王維『終南別業』)
ぶらぶらと、流れの尽きるあたりまで歩いて行き、腰を下して雲の湧くのを無心に眺めてみよう。

泉聲中夜後 山色夕陽時 (虚堂智愚『虚堂録』)
泉の音は、深夜に最も冱え響き、山色は夕陽に映じた時が最も麗わしい。

種明かしをすると、上記の禅語はいずれも、かつてクレイジーキャッツの植木等さんが歌った「だまって俺について来い」の、次の歌詞に響き合うものを選びました。

「見ろよ青い空 白い雲」
「見ろよ波の果て 水平線」
「見ろよ萌えている あかね雲」

それぞれ、1番、2番、3番の歌詞のサビの部分で、「そのうち何とかなるだろう」と続いてオチになります。
実は、冒頭の禅語から想起したのが、あの植木等さんの朗々とした歌声でした。

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