犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

千江有水千江月

2017-10-08 23:55:07 | 日記

『千江有水千江月』
(千江 水有り 千江の月)

此菴禅師の『嘉泰普燈録』が出典とも、長霊禅師の『長霊守卓語録』が出典とも言われる禅語です。冒頭の句には、万里無雲万里天(万里雲無し万里の天)が続き、広大な景色を描き出しています。

千江有水千江月 万里無雲万里天
(千江 水有り 千江の月   万里 雲無し 万里の天)
あらゆる川は水をたたえて、それぞれが月影を宿し、どこまでも雲ひとつない天は無限に広がる。

日本の禅師の言葉でありながらダイナミックで、対句を成した詞調もリズミカルなので、中国人にもよく知られた言葉です。西田幾多郎が好んだ禅語でもあります。

この語の魅力はスケールの大きさだけではなく、そこに関わる視点の多数性にもあるのではないでしょうか。「千江有水千江月」には、美の世界に沈潜するひとりの視点ではなく、千の川それぞれの水面に映る月があって、それを賞でる複数の視点が前提とされています。

たとえば、先日の中秋の名月は、ときおり薄雲にかかり鮮やかな「月虹」を帯びていました。その様子をわれわれはスマホ画面でインターネットを通じて共有することができます。
『掬水月在手(水を掬すれば月手に在り)』の句に見られる風流はありませんが、われわれは液晶画面で文字どおり「月在手」を体験できるのです。水を掬った手にふと月が現れるのに驚くのではなく、何百キロ離れた遠方でも、月虹を帯びた中秋の名月に感嘆する人がいることに、掌中の月を通じて改めて思いを致すことができます。

「千江有水千江月」には無限に視点を広げてゆく運動があり、「万里無雲万里天」はその運動を可能にする、とらわれのない心を指している。そんな風にも考えました。

玄侑宗久さんは、その著書『禅語遊心』(ちくま文庫)のなかで、この禅語を別の観点から明快に解説しています。玄侑さんは、「千江有水千江月」をあまねく存在する仏性の発見であるとし、「万里無雲万里天」を、それぞれの仏性が開花して煩悩の雲が無くなってしまった満天の澄んだ空を表しているとしています。そのうえで、前半と後半には飛躍があると、次のように述べています。

自分には仏性がある、ということはなんとか信じられるとしても、前半から後半へは、そう簡単に移行できない。飛躍がある。つまり、嫌なあいつにも仏性があるのだと、心から思えなければ、こんな言葉をすらりとは吐けないだろう。しかしそれができれば、天地は斯のごとく広大無辺になるのである。
『法華経』には「常不経菩薩」という方が登場する。自分をどんなに侮辱し、バカにし、虐めるような人にでも、この方は「我、汝を軽んぜず」と言って礼拝するのである。それはつまり、その人に潜む仏になる可能性に対する礼拝だ。(前掲書 150頁)

月を賞でる複数の視点を単に思い描くのではなく、玄侑さんの解釈では「他者」への働きかけという大きなハードルが課されます。
外へ向かって限りなく開かれてゆく、その心がけの大きさが、この禅語の世界観を広大無辺にするのだと思います。


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秋季茶会の出会い

2017-10-02 00:54:53 | 日記

   『掬水月在手』

今日のお茶会の、薄茶席に掲げられていたことばです。
もともとの出典である唐の詩人、于良史(うりょうし)の「春山夜月」と題された五言律句は、次のように続きます。

掬水月在手 弄花香満衣
(水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ)

この二句を含む「春山夜月」の大意と、その尽きることのない魅力を、以前紹介しました。ここに改めて再録させていただきます。

春の山は素晴しいことが多く、それらを愛でていると日が暮れても家に帰ることを忘れてしまう。

川の水を手ですくえば月が手中に在り、花にふれれば香りが衣に満ちあふれる。

興が乗れば遠く近くにかかわらず、芳しい花の香を惜しんで何処までも行きたいと思う。

鐘の音が聞こえる南方を望めば、楼台は山の中腹に隠れている。

この世の中は豊かさで満ちている。私たちはその限りない豊かさに驚きとともに包まれているのだ。そう思ってこの詩の世界に遊んでいると、誰に対するともしれない感謝の気持ちが湧き上がってくるようです。

禅語では、水を掬った掌の中にも、花の香りが移った衣にも、春の美しさが宿るように、ひとしく仏性は宿るのだと説かれるのが通例です。だからその時々の「気付き」が大切なのだと。しかし、そのように解してしまっては、溢れるばかりの贅沢さが減じてしまうようにも思います。

掌中の月は水を掬った瞬間に驚きとともに現れ、花の香りは戸惑うほどに衣に漂い続けるのです。そこに象徴されるようなものは何もない、そうとらえた方が、月の影や花の香りに対する畏れや、愛おしさや、そしてこの瞬間のかけがえのなさも、抜け落ちることはないのだと思います。

ここまでが、過去のブログの再録です。

さて、本日のお茶会の話に戻ります。
薄茶席に先立つ濃茶席では、淡々斎宗匠の見事な墨跡で『吟風』の二文字が掲げられていました。

「吟風」の語には「弄月」が続いて、四字熟語「吟風弄月(ぎんぷう・ろうげつ)」をかたち作ります。
そして、この「吟風弄月(風に吟じ、月を弄ぶ)」は、先ほどご紹介した薄茶席の書、「掬水月在手 弄花香満衣」を直ちに想起させます。

濃茶席では「吟風」の二文字の後に隠されていた「弄月」の文字が、濃茶席に続く薄茶席の「掬水月在手」の書に現れたような心持ちです。それは谷川の水を掬った手に、思わず月の影が映し出されたような驚きをもたらしてくれました。
ご亭主の心憎い演出に感じ入る、お茶会でした。


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