犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

4頭立ての馬車

2017-02-26 09:32:41 | 日記

われわれは「心」を「自分」とイコールで考えようとします。ふだん気がつかないけれども、常に変わらぬ自分を支えてくれるようなもの、「心」をそういうものとしてイメージするかもしれません。ところが、どうしようもない過去について思い煩ったり、制御することのできない未来について恐れたり、という非常に厄介な「心」の働きがいかに自分を不自由にしているかということも、われわれは経験的に知っています。

精神科医の名越康文さんは、心は自分ではないと言います。そうではなく「4頭立ての馬車」に例えた方がよいと。つまり「心」とは対象としてとらえて、常に点検・整備しておくべきものだというのです。点検を忘れると、一瞬にして平和と安定を破壊する恐ろしい暴れ馬なのだと忠告します。
4頭のそれぞれに意識があり、右に進もうとするもの、左に曲がるもの、猛然と突き進むものもあれば、急に立ち止まるものもいる、それが心なのだと名越さんは言います。
このイメージで大切なのは、われわれはこの暴れ馬ではなく、これを操る「御者」なのだという覚めた認識を持つべきだという点です。そう考えている限り、今の自分は御者としては未熟かもしれないけれども、まだまだ成長してゆくことができると信じることができます。いたずらに絶望することも少ないでしょう。

名越さんの語りが説得的なのは、これらはそう考えた方が効果がある、という「割り切り」なのだと繰り返し述べているからです。われわれは人生を積み上げで見ることに慣れ切ってしまっているけれども、ゴールから逆算して今なにをすべきなのかという問いからスタートすると、「これまでとんでもない見当違いをしてきたのかもしれない」と気付くことができます。そうすれば、4頭立ての馬車の例えも抵抗なく受け入れられるし、暴れ馬を調教する御者としての振る舞いも変わってくるでしょう。

暴れ馬を御するということは、暴走を食い止めるというネガティヴな側面ばかりではありません。名人の御者ならば4頭立ての馬車を天馬のように操ることができるはずです。
名越さんはそのあたりの消息についても、次のように述べています。

ゴールをどこに見据えるか、頭ではわかっていても、それを拒否する段階があります。そんなところまで願いが叶うわけがないとか、そんなうぬぼれたことできるわけないじゃない、というふうに。
そういうときは、「オリンピックに出るアスリートになった気持ちで、真剣に祈ってみる」と思ってください。今まで祈ったことがない人でも、やろうと思ったらできるだけ最高のレベルになりきった気持ちでやったほうがいいんです。 自分が取り組んでいることや協力していることのゴールから逆算して、今なすべきことを決めていくわけです。どうもそのほうが物事が進みやすいなと納得できてくると「ゴールを想定できる」「逆算の道筋が見える」と、直感的に思える割合が増えてくるのではないでしょうか。
(『心がスーッと晴れ渡る感覚の心理学』角川SSC新書 )

オリンピックのアスリートになった気持ち、というたとえがわれわれのイメージを強く喚起します。
これはゴールを高く保つための心構えだけを強調しているのではありません。オリンピックの代表になって日の丸を背負い、プレッシャーに押し潰されそうな人間の気持ちは、誰にでも痛いほど想像できます。そのようなギリギリの環境に置かれれば、心身のあらゆるリソースを総動員するだろうことも想像できます。そして、そこまでイメージできるのならば、さあ今度はあなたの番だ、と名越さんは背中を押すのです。
名人の御者が馬車を操り、4頭の馬が息を揃えて、今まさに天を駆けようとする瞬間のこころもちではないでしょうか。

もうひとつ、名越さんが強調するのは、より偉大なものに対する「祈り」の大切さです。オリンピックのアスリートは何に対して祈るのだろうと考えてみると、以下の記述も腑に落ちるように理解できます。

例えば、樹齢2000年の屋久杉を見て、みんなが心から感動するというのは、やはりその大きさ、圧倒的な存在感に加えて、2000年という悠久の時間による長さも感じられ、たかだが数十年しか生きていない自分がちっぽけに感じられて、心に迫り来るものがある。わずかな歴史しかない自分の人生が、長い歴史を経て立つ大木の中に入って、溶けていく感覚を知ると、心だけでなく身体までが楽になるのだと思います。(中略)
私たちは普段、世俗の凡夫として生きているわけです。ただ、一度溶けて一体になるような感覚の経験をすると、言わば視点が一気に拡大します。自分の近視眼的な視点が生み出す苦しみや怒りなどを、対象化して捉えることができる大きな幅を持てるようになるはずです。(前掲書より)

つまり、偉大なものに対する祈りの姿勢をとることで、心という暴れ馬と距離をとって、これを御する自分の立場を意識することが、よりスムースにできるようになるのです。

「プラグマティックな考え方」という言い方を名越さんは好んでします。
しかしこの説明の仕方自体が、実はプラグマティックであって、プラグマティズムを抜け出るものだとわたしは思います。4頭立ての馬車の御者である自分をさらに高めて外部においてみる。そうすることによって馬車全体を客観視することができる。
これは仏教思想の「小我」から「大我」になることなのだ、という説明も本書の中に見ることができます。しかし、名越さんはそれをあくまでも本論の脇に据える程度の扱いにとどめています。そういう頭での理解を、精神科医である著者はそもそも求めてはいません。
「心という暴れ馬を操ることのできる御者」というイメージを抱いた瞬間に、「心」の呪縛から放たれるだけではなく、天馬の飛躍が事実上(つまりはプラグマティックに)約束されているのです。


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語りのちから

2017-02-18 21:19:31 | 日記

中村天風の講演の名調子は、今となってはCDなどで窺い知ることができるのみです。
しかし、活字でも天風の息遣いやその温かな眼差しまでも、再現してくれるものがあります。その中のひとつ、天風に師事した宇野千代さんの手による講演録を紹介します。
これは、肺結核も治癒せず、ヨーロッパから失意のうちに帰還する船の中で、世話になった女優のサラ・ベルナールから渡されたカントの自伝を読み、天風が大いに感激したときのことを語ったものです。

その前に、病弱だった子ども時代のカントの様子を説明しておかねばなりません。
カントは貧しい馬の蹄鉄打ちの息子に生まれました。背中に大きな団子のような瘤があり、脈が常に乱れ、喘息に苦しむ、今にも死にそうな子どもだったそうです。年に二、三回巡回してくる医者に、父親は治る見込みはなくとも、苦しみだけは軽くしてやろうとカントの手を引いて連れて行きました。
その時の医師の言葉が、カントの人生を変えることになります。
おそらく、自伝にはこの通りに記されていなかったのでしょうが、天風の面目躍如たる語りっぷりです。
以下、講演録からの引用です。医師は次のように語りかけました。

気の毒だな、あなたは。しかし、気の毒だな、というのは、体を見ただけのことだよ。
よく考えてごらん。体はなるほど気の毒だが、苦しかろう、つらかろう、それは医者が見てもわかる。けれども、あなたは、心はどうでもないだろう。心までも、見苦しくて、息がドキドキしているなら、これは別だけれども、あなたの心は、どうもないだろう。
そうして、どうだ、苦しい、つらい、苦しい、つらいと言っていたところで、この苦しい、つらいが治るものじゃないだろう。ここであなたが、苦しい、つらいと言えば、おっかさんだって、おとっつぁんだって、やはり苦しい、つらいわね。言ったって言わなくったって、何にもならない。ましてや、言えば言うほど、よけい苦しくなるだろ、みんながね。言ったって何にもならない。かえって迷惑するのはわかっていることだろ。
同じ、苦しい、つらいと言うその口で、心の丈夫なことを、喜びと感謝に考えればいいだろう。体はとにかく、丈夫な心のおかげで、お前は死なずに生きているじゃないか。死なずに生きているのは、丈夫な心のおかげなんだから、それを喜びと感謝に変えていったらどうだね。できるだろう。そうしてごらん。
そうすれば、急に死んじまうようなことはない。そして、また、苦しい、つらいもだいぶ軽くなるよ。私の言ったことはわかったろ。そうしてごらん。一日でも、二日でもな。わからなければ、お前の不幸だ。それだけが、お前を診察した、私のお前に与える診断の言葉だ。
わかったかい。薬はいりません。お帰り。
(『中村天風の生きる手本』宇野千代著 中村天風述 三笠書房 218頁)

カントは家に帰って、愚直に医師の言葉に従います。そして三日ばかり経つうちに、こう考えるようになりました。人間というものは、こういう気持ちでいるだけで、今までとは違ってくるようだ。本当に当分死なないような気もしてくる。心が丈夫でいることは、どうやら間違いのないことだから、心と体と、どちらがほんとうの自分なのか、これからじっくり考えてみよう、と。

天風は、これを読んで魂の震えるような感動を覚え、先ほど船上で出会ったばかりのインドの行者カリアッパ師の言葉、は、まさにカントにとっての医師の言葉そのものではないかと深く感じ入るのです。そしてカリアッパ師に師事することを心に誓うのでした。
そして、講演を次のように結びます。

宇宙の真理はああだ、こうだと理屈を言う必要はないのであります。論より証拠です。喜びと感謝の気持ちになって、生きてごらんなさい。理屈を言わないで。
自然とあなた方の心のなかに、大きな光明が輝き出すから。
(前傾書 227頁)

天風はよく言います。こう考えろと無理には言わないけれど、「考えなさい、そのほうが得だ」と。
これはプラグマティズムというのではなく、迷いの底に沈んでいる人に対してスッと手をさしのばす、自然なこころの働きなのだと思います。


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少年たちは走り続ける

2017-02-10 17:15:21 | 日記

アメリカの児童文学者ルイス・サッカーが書いた『』という小説があります。児童向けの図書ということもあり、易しい英語で書かれているので、原書『HOLES』は中学生のペーパーバック入門書として推薦されることもあります。
主人公のスタンリー少年は、無実の罪で荒野の真ん中にある少年更生施設に入れられ、そこで来る日も来る日も穴を掘る生活を強いられることになります。しかし、少年は祖先にかけられた「呪い」のせいで、自分の家系はずっと運に見放されているのだと、なかば自嘲的に自分の運命を受け入れています。
物語は、スタンリーの更生施設での生活の様子に、さまざまなエピソードが挿入されて展開します。5世代前の祖先がつらい目にあってラトヴィアからアメリカに渡ってきたこと、その時に不義理をしてしまったことが「呪い」のようにその子孫に災いをもたらしたこと、そのために祖父の代にはせっかく築いた財産を強盗に奪われてしまったことなどが、一見なんの脈絡もなく綴られていきます。
やがて、施設の友人を助けて一緒に更生施設を脱走する過程で、それまで語られてきたエピソードが、ジグソーパズルのピースが組み合うように、ひとつの物語を紡ぎだします。
読後はとてもさわやかな印象が残りますが、著者ルイス・サッカーの怒りが通奏低音のように響いているように感じます。
人種や貧富の差による差別や不寛容がどれほど社会を蝕むものなのか、著者の怒りはそこに向けられます。それでも多様な人々が力を合わせることで「呪い」を解くように、よりよい社会を目指せるのだという希望もまた込められています。
少年の祖先が目指したアメリカという国は、それができる国なのだということを大人は子供たちに向けて語ることができました。
1998年の作品ですので、たった19年前のことです。

アメリカの作家ジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は9.11同時多発テロを題材にした小説です。
9.11テロで父親を亡くしたオスカー少年は、ニューヨークの住人のなかから父親の遺品と関係のありそうな人をリストアップし、直接コンタクトをとろうとします。物語は、オスカーのニューヨーク探索を縦糸に展開し、オスカーの祖父がドレスデン空爆で恋人を失い、失意のうちにドイツからアメリカに渡ったエピソード、その祖父からオスカーの父に宛てた手紙、オスカーの祖母からオスカーに宛てた手紙が交互に披露されるという筋立てになっています。
それぞれが全く別のエピソードのようでありながら、互いに絡みあって、ひとつにまとまっていきます。読者はオスカーの心の傷の深さに改めて思いを致しながら、それでもオスカーを温かく迎えた多様な人種のニューヨーカーたちと一緒に、確かな望みを持つことができるのです。
オスカーの祖父が傷心の末にたどり着いたアメリカは、そのような望みを持つことができる国なのだという誇りを、人々は9.11からの再生の誓いとともに持つことができました。
2005年の作品ですので、たった12年前のことです。

いま、多くの大人になったスタンリーたち、オスカーたちは2016年に選挙に行かなかったことを後悔していると思います。
それでも私は、スタンリーが施設から脱走したように、オスカーがニューヨークじゅうを駆けずり回ったように、彼らが希望に向けて走り出すことを期待しています。

コメント (1)
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