犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

我、汝を軽んぜず

2016-06-12 13:38:25 | 日記

宮澤賢治の「雨ニモマケズ」に登場するデクノボウが、『法華経』の不軽菩薩を念頭に置いたものであることを以前に述べました。
賢治が熱心に信仰した『法華経』にはたとえ話が多く、ある年齢に達するまで、その真意が伝わりにくいことがあります。
不軽菩薩の話にしても、決して噛み砕くように具体的なたとえ話をしようという構えとは思えません。会う人ごとに「我、汝を軽んぜず」と言いながら礼拝し、気味悪がられて石を投げられるような不軽菩薩に、感情移入することは誰にとっても難しいことだと思います。
無条件で承認を与えてくれる不軽菩薩の態度は「亡くなって知る親の恩」のようなものだと気づいてみて、初めて自分の立ち位置がズラされるような感覚を覚える、そういう種類のたとえ話です。そこには、礼拝されてかえって逆上し迫害を加える人々の非情さを批判したり、不軽菩薩の寛容さを称揚したりといった立場を超えた、別の視座の提供があります。

法華経にはこんな話もあります。
あるお医者さんの子供が大変な難病になりました。父親はすぐに薬を調合して飲ませようとしましたが、子供はなかなか飲もうとしません。困り果てた父親は病気の深刻さを告げず、大切な用事だからと出かけてしまいます。そして父親が死亡したと知らせます。子供は出かけるまえに父親が真剣に話していた薬のことを憶いだして、ようやくそれを飲むというお話です。  
これは玄侑宗久さんが、書いておられることですが、そこまでしなければ分からない人間がいるものかと一瞬思うものの、はたと自分のことに照らし合わせて考えてみると、別の姿でものごとが見えてきます。

考えてみれば自分だって、今の考え方になるまでにどれだけ廻り道をして、どれだけ周りの人々に迷惑をかけてきたか、と思い至るんです。またいろいろ迷っていたときの自分も、親たちからすればその子と同じように見えてたんだろうな、と思う。(『まわりみち極楽論』朝日文庫)

誰が悪いとか、配慮が欠けているとか、我慢強いとか、思いやりに満ちているとか、そういう価値判断の入り込む以前の、まったく別の相、自分という小さな枠組みではない、もっと大きな命の流れのなかで生きていることに気付く。あえて言えば「ご縁」の相に、フッと降り立つことができるような気がしてきます。

同じ本の中で、玄侑さんは末期癌患者の心の動きについて述べています。
臨死体験を扱った『死の瞬間』の著者キューブラー=ロス博士によると、末期癌患者の心の変遷は5段階に分けられます。最初は「否認・孤立」、そのあと「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」と続きます。
玄侑さんはこの「怒り」をなんとかできないものか、と思うのだそうです。  
すでに起こってしまったことを否認したい気持ちのすえに、怒りは起こります。そのとき、否認しても否認しようがない、自分に起こることには全て積極的な意味があるはずだと信じることができれば、怒りをやわらげることができるのではないか。
玄侑さんは、不軽菩薩が石をぶつける人にそうしたように、病気に対しても「我、汝を軽んぜず」という態度がとれないだろうか、と考えます。

玄侑さんはアーノルド・ミンデルというアメリカの心理療法家の紹介もしています。「プロセス指向心理学」の提唱者であるミンデル氏は、病気を尊重し、耳を傾けるという方法を臨床の場で行なっているそうです。病気というものを抑圧された自己と捉え、患者さんには自分の一部である病気の立場になってもらって、自身の声にならない声を聞きだすという方法をとります。
自分の中の病気の言い分をよく聞くことで、不思議なことに実際に難病が治っていると言います。またこのプロセス指向心理学を学んでいる人は、著しく発癌率が低いというデータもあるそうです

どんなに辛いことでもそこに積極的な意味があるはずだと考えることは、玄侑さん自身「大きな信仰」であると語ります。しかし、それは一見受け身のようでありながら、自己という輪郭を絶えずつき崩す、勇気ある選択なのだと思います。


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