犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

自らを尊ぶ心

2016-05-07 17:41:37 | 日記

鷲田清一さんがNHKのテレビ番組「課外授業・ようこそ先輩」に出演したときのことです。明治期に開校した京都の小学校を40年ぶりに尋ねた鷲田さんは、校舎が卒業した当時のまま残されていたこと、そしてその造りが立派なことに改めて感じ入ったと言います。

玄関の床はどっしりした石畳。木製の階段は真ん中のところがひどく磨り減っていたが、手すりを見るとちょっとした彫りが入っていた。教室の腰板も濃いニスを塗った重厚なもので、たぶん当時のままだったとおもう。(『自由のすきま』角川学芸出版)

子どもの頃には、建物の細部をしげしげと見ていたわけではないので、当時のままだったと「おもう」としか言えないけれども、その記憶は澱のように溜まっているのだと鷲田さんは語っています。
そのうえで、子どもたちが「自分は大切にされている」と思うことの大事さを「自尊心」という言葉をキーワードとして説明しています。
「自尊心」という言葉は、他者との比較において用いられることが多いものです。他よりも勉強や運動競技で優れていると感じたときなどに使われます。けれども、他との比較は相対的なものでしかないために、いつかは崩れ去る日が来るものです。高いと思っていた鼻がいずれへし折られるように、はかないものに過ぎないのかもしれません。
しかし、鷲田さんは撮影のために数日を過ごすうち、この考え方が誤りであることに思いいたったと言います。

わたしはむかしと変わらぬ教室の佇まいを見つめながら、しみじみとおもった。むかしの大人は、子どものことだからどうせすぐに傷めるだろうと、手すりを、床板を、安造りにはしなかった。逆に、子どもが昼間のほとんどを過ごす場所だから、丁寧に、立派に造っておいてやろうと考えた。そういう気配のなかでわたしたちは幼い日々を送った。そのときはそんなことは感じてはいなかっただろうが、気配は皮膚の下までたっぷりとしみ込んでいったはずだ。
他人にそのように大事にされてはじめて、ひとはじぶんを粗末にしてはいけないとおもえるようになる。そう、「自尊心」は他者から贈られるものなのだ。(前掲書)

「自分を尊ぶ心」とは、じぶんを粗末にしない心のことであり、それは他人がじぶんを大事に思っていると思えたときに、ようやく保ちうるようなものなのです。鷲田さんは大阪大学学長時代、厳しい財政状態のなかから、学生たちがほとんど一日を過ごすキャンパス環境、とりわけ使い途の自由なフリースペースの整備に十分な予算を割くように気を配ったと言います。

鷲田さんは、まったく別の文脈のなかで、次のようなエピソードも紹介しています。
東日本大震災の1カ月ほど後、鷲田さんの友人が、テレビで避難所の様子を見て「あんまり気の毒や」とつぶやいたそうです。発泡スチロールの食器で食事をしている様子を見てのことです。陶芸を教えているその人は、学生たちと一緒に茶碗とどんぶりを焼いて、まずは九百個、被災地に送りました。
「あんまり気の毒や」と思わず口をついて出た言葉から、「あなたのことを粗末には扱えない」という行動が直ちに引き出される。そこには打算も理屈もありません。そしてそれを受け取ったひとは「他人に大事にされているじぶんを粗末にしてはいけない」と思うことができるのです。
思えば、ひとは産まれ落ちた瞬間から、そのような絶対的な贈与を受けて「人間」になっていったのではないでしょうか。

しかし、このエピソードには苦い顛末も付いていて、いろいろなことを考えさせられます。
この焼物を受け取った避難所の人々は、こんな立派なものはもったいないと別に取り置いて、食事のときには発泡スチロールの食器を使い続けたのだそうです。
急いで送られた焼物たちは、間違いなく被災者の手に届いたので、作り手の気持ちは伝わったのでしょう。そして受け取った人々にはその気持ちを無にする意図はなかったのだと思います。じぶんは誰かに大事にされていると感じることはできても、非常時の態勢を保ち続けることでようやく支えうる、気持ちの張りがあったのかもしれません。洗い物に必要な水の節約のことも考えられます。

既存の贈与・被贈与のサークルのなかで守られていることそれ自体は、そこからの逸脱を許さない狭量な「しがらみ関係」に身を置くことでもあります。そのような関係に安住するのではなく、「あんまり気の毒や」と思わず行動することとは、いわば位相を異にすることがらなのでしょう。だから、そこには予定調和のような被贈与(贈与の受け取り)を伴わないこともあるのだと思います。


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