犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

仙厓の円相

2015-07-05 13:20:55 | 日記

『仙厓 無法の禅』(玄侑宗久著 PHP研究所)を息つく間もなく一気に読み終えました。
初出は新聞連載であったものを、改めて世に出す必要を玄侑さん自身は次のように述べています。

久しぶりに読み返してみると、仙厓が天明の大飢饉のあとに行脚した東北地方は、まるで東日本大震災後の被災地に重なるのである。私自身もこれはなんとか今の時期に出したいと思った。若い人々が自分の生き方を求めて苦しむこの時代も、仙厓さんが求められているような気がしたのである。(前掲書 121頁)

仙厓が東北地方を行脚したのは、彼自身が不遇にあって、暗闇を模索するような時期でした。人一倍勉強家であり、強烈な自意識の持ち主であった修行僧の壮年期までの痛々しい生き方は、やがて大輪の花を咲かせる蓮が、泥池に身を潜ませる姿に似ています。
玄侑さんは維摩経の「我見も須弥山(ヒマラヤ)のように大きいものほど、よく無上の菩薩心を起こすことができる」を引いて、仙厓の悩みの大きさこそが後の悟りの深さに欠かすことのできない要素であると述べます。彼は自らの不遇を恨むことなく、ひたすらに飢饉の東北を旅するうちに、無限の菩薩心を抱いて人に接するようになるのです。

本書の構成は、仙厓が年齢を重ねるに従って、どのように変化していったかを追うものであるため、その画風の変化がいかにドラスティックであるかが視覚的によくわかります。
博多の聖福寺に招かれたのちは、重厚さや説教臭さを捨て去って、放浪の修行時代とも違う「軽み」「遊戯」を極めるようになります。

さて、この時期の仙厓の「◯△□」には作品を説明する賛文もなく、禅画のなかでも、最も難解なものとして、いろいろに解釈されてきました。
かつて鈴木大拙は、この円相を指して「一切は空(○)から生まれ、最初の基本的なカタチである△となり、その△がふたつ合わさると□となって、宇宙が生まれる」つまり、宇宙生成の過程を指すのだと読み解きました。
この禅画に添えられた「扶桑最初禅窟」(日本最古の禅寺)の堂々たる署名に照らし合わせると、大拙の解釈は、いかにも的を射ているように思われます。

しかし、玄侑さんはこの円相を禅の世界の解説としてではなく、次のように「定型からの脱却」として捉え直しています。

そもそも禅は、なにかを絶対化することは心の停滞と見る。(中略)どんな状況であってもこれだけは守るとか、これだけは奉るというのは、間違いなく心の不自由であり、死なのだ。(前掲書61頁)
一円相という型にこだわる心がすでに停滞ではないか。仙厓はたぶんそう考えたのではないか。絵画的な発想がこの場合強烈に既存の定型を破る力になっている。おそらく仙厓は、大まじめに「◯△□」を描いたあと、何もいわず「うっふっふ」と笑ったのではないか。しかし、真剣な主張であることは「扶桑最初禅窟」というフォーマルな署名によってよく判る。(前掲書8頁)

彼の修行の過程を追って行き、彼の前半生と後半生の落差を省みると、大拙の「荘厳さ」よりも玄侑さんの言う批判精神と軽みの方が、我々にとって腑に落ちるような納得をもたらしてくれます。
和尚が東北の地を行脚した末にたどり着いた、新しく生きて行くための息吹を、我々も共有できるような気持ちになります。

しかし、話はここで終わりません。
ああ納得したと油断する、その足元をスッと掬い去るのが仙厓の真骨頂です。玄侑さんは次のような逸話を引いて話を締めくくっています。

「げんゆう」という名の侍が、和尚に書を求め、これに応えて和尚は円を二つ描きました。先の円相の話に照らすと、深淵かつ闊達な批判精神を期待してしまいます。ところが、これに賛(絵の注釈書き)を添えるように頼まれた仙厓は、雄渾の筆を揮い、
「げんゆうが金玉」
と書いて澄ましていたというのです。

この「軽み」は別次元の何ものかでないのか。玄侑和尚は「げんゆうが金玉」が気になって気になって、本書を書き終えたような気がしないのだそうです。


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