犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

博士の魂

2014-02-23 00:17:13 | 日記
心理学者の河合隼雄さんが小説家の小川洋子さんとの対談で、小川さんの作品『博士の愛した数式』をめぐって次のように語っています。「魂」について語る河合さんは、小説の中のあの博士のように温かです。
 
河合 線分の話もいいですね。
小川 「真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない」と言って、博士が自分の胸に手を当てるところ。
河合 無限の直線は線分と一対一で対応するんですね。部分は全体と等しくなる、これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。
小川 ああ、2.00000・・・・・。
河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
(『生きるとは、自分の物語をつくること』小川洋子・河合隼雄著  新潮文庫 より)
 
うんと大きなものさしを使って、ものを考えるときに、逆に微細なものが浮き彫りにされることがあります。
測っているものの巨大さと、ものさしから漏れ出るものの果てしなさに思いを致すと、極大な分母を持つ分数のような微細な事物に注目せざるを得なくなります。
河合さんが言うように、心を1から2として、体を2から3としてみる、こういう大きなものさしを使って人間を測る場合、その測っている対象が「線分」であるという事実にどうしても突き当たります。線分は「胸のうちにしかない」無限のひろがりをもつものであって、それを当座の方便のようなものさしで測っているのだという事実に気づかされるのです。ものさしの目盛りの狭間にもまた、無限が広がっています。
ああ約束事にすぎないのだ、しかし大事な約束事だ、と思ってものごとを考えるとき、微細な魂の気遣いが湧きあがってきます。
 
対談を読んで、そんなことをぼんやりと考えました。
河合さんが語る臨床心理士としての日々の実践のエピソードに照らしながら、もう少し考えてみたいと思います。
 
例えば、自閉的な子供が河合さんのカウンセリングの最中に、「2+3=8」などと言い出すことがあるのだそうです。そのようなときに「うん、そうやね」と言ってしまうと、相手はすごく機嫌が悪くなると言います。ろくにこちらの話も聞かず、いいかげんな相槌を打っているだけだと考えるからです。
一方で、親の多くは「何言ってんの、あんた、5やないの」と覆いかぶさるように言い立てるのだそうです。これも子供を頑なにするだけの悪影響しか生みません。
河合さんは「5や」とパッと言うことが大切だと言います。こうすることで「僕は僕で、こいつはこいつ」という境界をつくることができるからです。2+3=5は約束事にしかすぎないけれども、しかし大事な約束事だという思いが生まれます。そこに魂が通い合う場が生まれるのです。
 
不登校の子供が「行けなかった」と言うとき、「行かなくってもいいじゃないか」と応えることが、慰めにならないことがあります。それは、行けなかった悲しみを受けとめてくれていない、ごまかしていると感じさせるからです。
「そうか」と言って一緒に苦しんでいるけれども、望みを失っていない、そういう関係を築くことで、ようやく子供も救われるのだそうです。しかし、それがどれほど難しいことか、河合さんの述懐するところです。
学校に行くという約束事を、そのまま引き受けて、それでも行けない子の悲しみを共有した時、はじめて「そんな大事な約束事でも、たまには破っていいんだよ」という言葉を紡ぎだすことができるのだと思います。
 
 河合さんの言う「魂」とは、境界を挟んで縦横に行き来する、しなやかな働きそのものをいうのではないかと思います。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする