犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

成功するひとが備えていなければならない3つのもの

2013-01-14 22:06:19 | 日記

哲学者の鷲田清一さんが著書『大事なものは見えにくい』(角川ソフィア文庫)のなかで、松下幸之助さんの言葉を紹介しています。
松下さんは自社の管理職員を前にして、成功するひとが備えていなければならないものが3つあると説いたそうです。それは「愛嬌」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」なのだと。そして、あなたがたはただ運が良かっただけだとオチを付けるのも松下幸之助さんらしいところです。

鷲田さんはこの3つの要素の勘所を手際よく説明していますので、少し長くなりますが引用させていただきます。

「愛嬌」のあるひとにはスキがある。無鉄砲に突っ走って転んだり、情にほだされていっしょに落ち込んでしまったりする。だからまわりをはらはらさせる。わたしがしっかり見守っていないと、という思いにさせる。
「運が強そうな」ひとのそばにいると、何でもうまくいきそうな気になる。そのはつらつとした晴れやかな空気に乗せられて、一丁こんなこともやってみるかと冒険的なことにも挑戦できる。
だれかの「後ろ姿」が眼に焼きつくときには、見ているほうの心に静かな波紋が起こっている。言葉の背後に秘められたある思いに想像力が膨らむ。何をやろうとしているのか、何にこだわっているのか、そのことをつい考える。
そう、見るひとを受け身ではなく、能動的にするのである。無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、そこへと他人の関心を引き寄せてしまうからだ。(前掲書48頁)

これだけでも、ビジネス論、経営者論として非常に示唆に富む内容なのですが、鷲田さんが思いを致すのは「無防備なところ、緩んだところ」についつい関心を引き寄せられる「周り」の人びとについてです。

鷲田さんの表現では、この「隙間、緩み、翳り」こそが、ひとの関心を引き出し、活力を生み出します。言い換えれば、人は人への依存関係ではなく、自分の役割は何なのか、寄与のあり方はどうあるべきかを模索する中で、生き生きと輝き始めるものなのです。
人からの承認があって初めて、人間は生きられるものに相違ないでしょう。しかし受け身の依存関係から得られる承認は、重たく不自由な「しがらみ」でしかありません。無防備なところについ手を出して支えざるを得ないような関係のなかで、自らを生かし人も生かすような、いわば生き生きとした承認が得られるのだと思います。
しかし、そのような承認は得ようと思って得られるものではなく、社会によって「結果的に」与えられるものでしかありません。

鷲田さんが松下幸之助さんの言葉に触れた、そもそものきっかけ次のようなものでした。大きな不祥事などに当たって誰も責任を取ろうとしない、当事者が事の重大ささえ分かっていないようにも見えるケースに人々は苛立つけれども、数多ある経営者論ではその処方箋は提示できないようだ。少なくとも、鷲田さんにとって「味があるなあ」と感心したのは、松下幸之助さんの先の言葉くらいしかない、と。

謝罪会見などに登場するいわゆる責任者の表情には、前述したような「翳りや、隙間」といったものは見られず、上に対してずっと受け身できた「優等生」の表情でしかない、というのが鷲田さんの見立てです。そのような隙間やほころびを許さない、奥行きのない組織に安住してきたことこそが、問題の発端なのではないか。
しかし、それは問題を追及する側にも等しくあてはまることでもあると鷲田さんは指摘します。

これはわたしたちの社会の問題でもある。(中略) 不祥事が起こればすぐに「犯人」を捜しだし、弾劾をはじめるひとびと。「報道」という名のイメージの送信に、思考を介さず直情的に反応してしまう視聴者たち。含みや奥行きや弾力が、この社会からもぐっと失せてきた。(前掲書49頁)

人に承認を与えるものは社会であり、その社会に含みや奥行きや弾力がなくなれば、われわれが生きているといえるための条件も、やせ衰えていきます。不祥事に対するわれわれの苛立ちのありようも、それ自体が病なのかもしれないと、思いを致すことが必要なのだと思います。


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掬水月在手

2013-01-05 18:09:50 | 日記
  掬水月在手  弄花香満衣
(水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ)
 
前段の句は秋の掛物に使われ、後段の句は春から初夏にかけて、床の間に掛けられるのをよく見ます。年の初めに当たり、この一対の句を一息に読んでみると、あらためて贅沢な気持ちに満たされるのに気付きます。
 
もともとの出典である唐の詩人于良史(うりょうし)の「春山夜月」と題された五言律句を訪ねてみると、一層その感は強くなります。

春山多勝事 賞翫夜忘帰 (春山勝事多し 賞翫して夜帰るを忘る)
掬水月在手 弄花香満衣 (水を掬すれば月手に在り 花を弄すれば香り衣に満つ)
興来無遠近 欲去惜芳菲 (興来らば遠近無く 芳菲を惜しんで去かんとす)
南望鳴鐘処 楼台深翠微 (南に鳴鐘の処を望めば 楼台は翠微に深し)
 
以下が、詩の大意です。
 
春の山は素晴らしいことが多いので、それらを愛でていると日が暮れても家に帰ることを忘れてしまう。
川の水を手ですくえば月が手中に在り、花にふれれば香りが衣に満ちあふれる。
興が乗れば遠く近くにかかわらず、芳しい花の香を惜しんで何処までも行きたいと思う。
鐘の音が聞こえる南方を望めば、楼台は山の中腹に隠れている。
 
この世の中は豊かさで満ちている。私たちはその限りない豊かさに驚きとともに包まれているのだ。そう思ってこの詩の世界に遊んでいると、誰に対するともしれない感謝の気持ちが湧き上がってくるようです。
 
禅語では、水を掬った掌の中にも、花の香りが移った衣にも、春の美しさが宿るように、ひとしく仏性は宿るのだと説かれるのが通例です。だからその時々の「気付き」が大切なのだと。
しかし、そのように解してしまっては、溢れるばかりの贅沢さが減じてしまうようにも思います。
 
掌中の月は水を掬った瞬間に驚きとともに現れ、花の香りは戸惑うほどに衣に漂い続けるのです。そこに象徴されるようなものは何もない、そうとらえた方が、月の影や花の香りに対する畏れや、愛おしさや、そしてこの瞬間のかけがえのなさも、抜け落ちることはないのだと思います。

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