犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

理解できないけれども納得はできる

2012-03-24 19:13:07 | 日記

「あなたの言うことは理解できるけれども納得できない」、あるいは逆に「納得できるけれどもいまだに理解できない」などというように、「理解」と「納得」は区別して使われます。

長年、調停委員を務めた方の話によると、離婚調停の場において、お互いが相手をなじり合い、自分の言い分を主張し合っているときには、理解も納得も生まれません。しかし、もうこれ以上話すことはない、歩み寄ることもないというところまで行き着くことで、ようやく両者の対話が始まるのだそうです。
            
「相変わらず、わたしにはあなたの言い分は理解できないし、受け入れられないけれど、ここまで嫌な話を逃げないで付き合ったと、お互いにそういう意味では納得する」(鷲田清一著 『語りきれないこと』 50頁)、この段階にいたってはじめて、自分がもし相手の立場だったらという想像力が働き出すのだと言います。
理解できないけれども「納得する」という位相へ踏み出す瞬間です。
納得がいかないと話が話として閉じられません。腑に落ちるように話を飲み込むことができないのです。

しかし、納得しようにも納得できない、そういう事態をわたしたちは、身近に見聞きしたばかりです。
ほんの1,2メートルの距離しか離れていなかったのに、大切な家族が津波にさらわれてしまった。つないでいた手を離さざるを得なかった。
東日本大震災の被災者には、このような耐え難い辛い思いをされた方が大勢います。
自らを支えてゆくための軸である「大切な人」「職場」「ふるさと」を無くした人は、新たに自らを支えるための物語を紡ぎ直さなければなりません。これを鷲田さんは「語りなおし」という言葉で表現します。

ところが、どうしても受け入れることのできない辛い出来事は、新しく紡ぎ出した物語そのものによって掬い取ることはできません。これだけ辛い思いをして新しい物語を築き上げたのだから、納得がいったという展開にはならないのです。そこで介護士のような、語りなおしを「聴く人」が必要とされるのだと言います。
辛抱づよく傍らにいて話を聞いてあげ、途中で力尽きて語りきれなかったときに初めて手を差し伸べてくれるような人。そのような人がそばにいて心を砕いてくれることに気づくとき、語りなおしの物語はようやく「閉じる」ことができます。
理不尽な出来事はとうてい理解できないけれども、納得することのできる瞬間がここに訪れます。

「聴くことの力」を臨床哲学というかたちで探求する鷲田さんは、「語ることの力」に再び焦点を当てながら、東日本・東北にほのかな希望を感じると言います。三陸海岸の地域は物語の伝統が非常にディープな地域だからです。

柳田國男が発掘収集した遠野物語や、宮沢賢治の童話と詩、石川啄木や斎藤茂吉の歌の数々まで、脈々と息づく語りの伝統が、被災した人たちのさまざまな語りなおしの中で生きてきたら有難い、そう鷲田さんは述べます。


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たった一つの部屋の窓明り

2012-03-01 23:51:20 | 日記

作家の高橋和巳は『わが解体』(河出文庫)で、立命館大学学園紛争の全期間中、全学封鎖の際にも午後11時まで煌々と電気をつけて、ひとり地道な研究を続ける、ある研究者について触れています。

 

団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校庭に陣取るとき、学生たちにはたった一つの部屋の窓明りが気になって仕方がない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。(17頁)

 

ここで述べられたS教授とは、中国古代文学の泰斗、白川静教授(故人)のことです。

白川教授が、どうして学内の騒然とした空気を意に介さぬかのごとく研究を続けることができたのか、また団交の席において学生達を圧倒する存在であり得たのか。

その理由は、教授が「たった一つの窓明り」のもとで何を研究されていたのかに思いを致すことで、おぼろげながら判明してくるように思います。

 

教授は中国古代文字を研究するなかで、そこに反映されている古代社会の構造を明らかにしていきます。金文・甲骨文字に込められていた宗教性や儀礼性をあぶり出すとともに、その儀礼が今、現に営まれているかのように鮮明に描き出すのです。

古代の儀礼、例えば、神庫に収納する農耕具に害虫が付着しないように祈る儀礼の記述においては、邪気を祓うために打ちならす古代人の鼓音が聞こえるようです。白川教授の頭の中で、古代人の生活がそのまま営まれていたからこそ可能な仕事です。

それはちょうど、武道の達人が、いにしえの名人の妙技を具体的にイメージしながら、日々の稽古を重ねる姿に似ています。

 

武道家の甲野善紀さんは、松林左馬助という名人の江戸城内で披露されたという超人的な演武を、遠い目標として掲げているそうです。水平線の向こうにうっすらと見える陸地の影のようにはるかに遠い目標でありながら、なおかつ具体的なイメージをもってとらえることができるといいます。

数百年、数千年前のできごとを、あたかも自分で見てきたかのように語ることのできる、きわめて遠大な時間感覚の持ち主こそが、遠くの目印をもつことができます。そして北極星のような遠くの目標は、船が針路を過たないために、最も重要なものです。

 

白川静は、みずからのなかに北極星を抱き続けた人でした。学生達にとって「たった一つの部屋の窓明り」が気になって仕方がなかったのは、このためだと思います。


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