犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

おじいさんではありません

2024-04-21 09:03:01 | 日記

天下晴れて「高齢者」の仲間入りをすると、介護保険関係の書類がたくさん届くようになりました。
まだしばらく働いて社会保険料を支払い続けるつもりなので、諸々の手続きは自動的に繰り下げられるのかと思っていましたが、案外と面倒なことに驚きます。
現役世代に支えられる年齢層に達したことは事実なので、それは虚心に受け入れるつもりなのですが、「高齢者」という事務的な括りでもって、私という人間の、その他の属性を否定されるような気持ちにもなります。

たとえば、自分が「夫」であり「父親」であり、いやそれ以前に、両親の「こども」だったことも、何もかも無かったことにして、「こちら側の人」と括られるようにも感じます。
私の両親はだいぶ前に亡くなったので、「こども」であったことは、ほとんど忘れていましたが、高齢者という括りのせいで、久しぶりに思い出しました。

石垣りんの「かなしみ」という詩があります。

私は六十五歳です。
このあいだ転んで
右の手首を骨折しました。
なおっても元のようにはならないと
病院で言われ
腕をさすって泣きました。
『お父さん お母さん ごめんなさい』
二人ともとっくに死んでいませんが
二人にもらった体です。
いまも私はこどもです。
おばあさんではありません。

この詩を読んで、「おじいさんではない」と、生涯言い続けようかとも思い、少しは気持ちが晴れました。

昨日のお茶の稽古で、師匠から「お茶名」の申請をするので、申請書に必要事項を記入して、提出するように言っていただきました。ひたすら申し訳ないような、恥ずかしいような気分ですが、これもひとつの区切りだと有り難くお受けしました。

私は「こども」であり、「夫」でも「父親」でもあり、「弟子」でもあって、今また新しい名前まで頂こうとしています。
おじいさんではありません。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 柔らかく震える花 | トップ | 立ち昇る水音 »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事