犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

西行の月

2019-09-16 12:00:12 | 日記

おとといの月が中秋の名月であることに気づいて、その夕刻、近くの菓子店に散歩がてら月見団子を求めに行ったところ、どの棚もきれいに売り切れていました。私と同じように、今気付いたとばかりに、あわてて団子の棚に行き着いて、立ちすくんでいるご近所の方と目が合い、互いに笑ってしまいました。
風流もなにもない、中秋の名月の夜の散歩でしたが、手ぶらで帰宅する私を照らす月は、鏡のように透きとおっていて、思いもかけず夜の散歩をすることになったてん末も、何もかもを写しているようでした。
そして月に照らされて歩きながら、首尾よく月見団子を手に入れて眺める月と、こうやってとぼとぼと歩く帰り道をひたすらに写す月は、果たして同じ月なのだろうか、とも思いました。

西行は『聞書残集』に、次のような歌を詠んでいます。

憂き世にはほかなかりけり 秋の月ながむるままに物ぞかなしき

意味の取りづらい歌ですが、大意は次のようなものです。
月は「憂き世の外」にあって、それを「憂き世」の側から眺めると、ひとときのあいだ心が慰められる、といったものではない。「憂き世の外」などはそもそも無く、秋の月は眺めるほどに我が身を悲しくする、そういうものなのだ。
この歌は、大江為基の別の歌を下敷きにしています。(『古典つまみ読み』武田博幸著 平凡社新書 に教えられました。タイトルによらず好著です。)
大江為基は、妻に先立たれて悲しみの中にあったときに、次の歌を詠みました。

ながむるに物思ふことのなぐさむは月は憂き世の外よりは行く

月が「憂き世の外」に行くからだろうか、月を眺めていると傷心も慰められる、という歌です。この為基の歌がまずあって、西行はこれに異をとなえる形で先の歌を詠んだのです。「憂き世の外」などは無いのだと。

また、西行は『新古今集』に、次のような歌も詠んでいます。

月の色に心を清く染めましや 都を出でぬわが身なりせば

北面の武士という勤めを捨て、若くして出家して都を去る西行は、月を見て「ああ美しい」と詠うのではなく、あの月の色に自分の心を染めようと誓うのです。
憂き世を超越したどこかに身を置いて澄ましているのではなく、憂き世の諸々の出来事のただ中にいて、それらをただ鏡のように観じていたい、そういう決意が西行の歌には込められています。

西行と心を通わせあった親友「西住」上人が、重い病で倒れた際、駆けつけた西行は降り積もる雪を見て、「積もる雪を見ていると、諸々の煩悩が清められたように感じる」と歌を詠みます(頼もしな 雪を見るにぞ知られぬる 積もる思ひの降りにけるとは)。
これに応えて、病床の西住は、次のように返します。

さぞな君 心の月を磨くにはかつがつ四方に雪ぞ敷きける

その通りだ。君が心の月を磨いてきたために、なにはさておき雪が一面に降り敷いたのだ。
西行の人生が、みずからがそう願ったと同じように、親友の目から見ても「心の月を磨く」ようなものであったことが、この歌からもよくわかります。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 半杓の水 | トップ | 喫茶去 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (一年生)
2019-09-18 09:27:59
こんにちは

この日何人の人が同じ月を見たことでしょう

見る人によって同じ月が違って見えたことでしょうね~

月は何かもの悲しい面がありますが

太陽のように自ら輝いてないからでしょうか。

でも自ら輝かなくとも雲が無ければ

闇夜を明るくするのですから凄いもんです。

今日は先ほどまで白い月が出ていましたよ。

日記」カテゴリの最新記事