犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

厳父の言葉

2024-05-12 09:38:45 | 日記

恐山の住職で知られる禅僧、南直哉さんの最新エッセイ集『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)を読みました。
最近、ブラタモリ恐山の回に出演されているのを拝見しましたが、著書を読むのは、小林秀雄賞を受賞した『超越と実存』以来、久しぶりのように思います。

南直哉さんは、生まれ年は一年早くはあるものの、私が早生まれで同学年ということもあり、南さんが描く子ども時代の風景は、そのまま自分の子ども時代につながります。そのうえ南さんが繰り返し書かれる、子ども時代の死に対するこだわりも、青年期の生きづらさの煩悶も、自分の経験と重なることが多く、ついつい感情移入して著作を読んでしまうのです。

今回の著作のなかでは、南さんの父親について触れていたのが、とても印象に残りました。大正・昭和初期生まれの、あまり家庭を顧みない、いわゆる厳父に育てられた最後の世代だろうと思います。
教員でありながら、家庭では一切勉強の手助けをしなかった南さんの父親が、ある日このように言ったのだそうです。やや前後関係を調整して引用します。

「オマエな、他人が『オレはうまくいった、得をした、褒められた』というような話を聞かされて、面白いか? そんなわけないだろ? いいか、他人が面白い話は、オマエが失敗した、損をした、怒られた、酷い目にあったという話だ。だから、そういう経験を大事にしろ。ただし…
ただの苦労話は自慢話と同じだ。聞いて面白いと思うヤツは誰もいない。頼まれない限り、するな。どうしてもしなければいけない時には、全部笑い話にしろ」(前掲書143-144頁)

失敗した経験は、必ずそこに教訓があり、人に話す価値がある。身に染みる失敗の切なさは、実感の最たるものだ。けれども、その切なさを笑い話に変えるには、相応の教養が必要なのだと、南さんは述べます。失敗をも笑えるようになるには、その失敗を全く違う観点からとらえ直さねばならず、それを支えるのが教養なのだと言うのです。

本書のなかで、もうひとつ心に残ったのは「正直さ」と「孤独」という言葉です。これについても長くなりますが引用します。

私にいわせれば、「コミュ力」など要らない。というより、そんなものは幻想である。必要なのは、「この人ならば話してみよう」「この人の話ならば聞いてみよう」と相手に思わせるような、ある種の正直さである、意思疎通の土台には信頼がある。そのまた土台が正直さなのだ。
正直さは能力ではない。人間の失敗と、その失敗の反省の深さから生まれる態度である。
つまり、それは孤独から生まれる。孤独を知らない者は、正直にはなれない。(前掲書73頁)

失敗の切なさを、人に伝えることで「信頼」は生まれますが、人に伝えるためには「教養」という下地が必要です。そして深い反省で失敗をとらえ直す「正直」さこそが「教養」の母であり、それを支えるのが「孤独」という父なのだと、南さんの言葉を理解しました。

厳父というものの存在が有難いと思えるのは、ある種の覚悟によって、今まで見えなかった世界の見方を獲得できることを、身をもって示してくれることではないかと思います。南さんの父親の言葉に触れてそう感じました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一盌からピースフルネスを

2024-05-05 21:46:13 | 日記

裏千家の前家元、千玄室大宗匠が先月、満百一歳の誕生日を迎えられました。
いくつかのテレビ番組で特集が組まれていましたが、インタビューのなかで繰り返し話をされていたのが、厳しい戦争体験についてでした。特攻隊の生き残りとしての体験です。
「NHKアカデミア」のホームページにインタビューを起こしたものが載っていたので、いくつかをご紹介します。

裏千家の跡取りとして教育を受け、自らもそのように心構えをしていた大宗匠のもとに、召集令状が届きます。出征するときの様子を次のように語っておられます。

利休が切腹した脇差し、粟田口吉光という脇差しが私の家にあります。私は初めて出征する前の晩に、父から、三方に乗せられた利休の切腹した脇差しを見せてもらいました。父は一言も言いませんでした。私はそれを恭しくいただいて「私は切腹できるかいな」と。二度と家に帰って来られない。もう出たら戦死ですよ。死を覚悟で出て行かないといけない。父、母、兄弟、友人たち、皆に別れを告げて出ました。

海軍の飛行科に抜擢されたのち、特攻隊に配属されます。沖縄攻撃のために厳しい訓練を続けるなかで、心休まる時間は、仲間たちと茶会を催した時だったと言います。

出て行くときに、携帯用の茶箱で、お茶会を何回もしました。最後に皆が出て行って「千ちゃん、お茶にして」と。配給の羊羹で。ヤカンのお湯を持ってきて、私はお茶を点てて、みんなに飲ませました。みんながお茶をいただく。「いただきます」と言ってね。
本当に仲の良かった旗生良景という京都大学法学部出身の男が京都でしたから、私の家の前を通っていたらしい。「千やん、わしな、頼みあんねん。わしな、生きて帰ったら、お前んとこの茶室で、茶、飲ましてくれよ」と。その瞬間、「生きて帰れないんだよ。爆弾を積んで、信管を抜いて出ていった以上、帰れない」。もう何とも言えん気がしましたね。

そうやって茶会でもてなした戦友たちは、皆帰らぬ人となり、大宗匠ともう一人だけが生き残りました。

私の仲間は一緒にいた私を含めて30名。私と、あとで俳優になった日大出身の西村晃という“水戸黄門”、彼が私とペアで、私と西村だけは出撃前に待機命令で命が助かった。28名の、一緒に訓練を受け、仲が良かった各大学出身の予備士官は、皆突っ込みました。

「一盌(わん)からピースフルネスを」は大宗匠が同門に向け繰り返し説き、外国の元首たちに会うたびに熱く語っておられる言葉です。百一歳のインタビューでは、悔いることがないよう、自らに言い聞かせるように、特攻隊の経験を詳細に語っておられたのが印象的でした。

前編の動画がまだネット配信されていますので、ご興味のある方は下記サイトからご覧ください。
https://www.nhk.jp/p/ts/XW1RWRY45R/movie/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立ち昇る水音

2024-04-28 12:50:05 | 日記

昨日は、炉の点前の最後の稽古でした。桜の咲き誇るなか利休忌茶会が催されたのが、ついこの間のことなので、時の流れの速さを改めて感じます。稽古で茶杓の銘を訊かれて、適切な季節の言葉が浮かんでこずに、口ごもってしまいました。

炉に掛けられた茶釜から、渦を巻いて湯気の立ち昇るダイナミックな姿も、風炉の季節に入るとしばらく見納めです。

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
(馬場あき子『桜花伝承』)

あと何年桜を賞でることができるだろうかなどと感慨にひたる間もなく、葉桜の若葉は爽やかな息吹をもたらします。
歌人の永田和宏さんの著書『現代秀歌』(岩波新書)の喩えを使えば、季節のめぐる円環時間には、行って帰らぬ直線的な時間の流れが交差しており、われわれ人間は直線と円とが織りなす螺旋時間を生きているのです。来年の桜は螺旋のひと回り分ずれた花の季節であり、桜木の若葉の息吹も年が変わるごとに、ひとまわり新たな景色として現れます。
そうやって、時間の流れを感じる体の奥底に「水流の音ひびく」のは、命の立ち昇る音とも言えます。

そうすると、ひとつ前のピッチ分の音も、そのひとまわり前の水音も、大きな円環の音の延長上にあって、命のエネルギーを受け継いでいることになります。我が身を振り返っても、若い頃の切実な悩みやこだわりは、歳をとってもすっかり解消したと思ったことはなく、その年代ごとのとりあえずの答えを得ることで、ようやく生きてきたようにも思います。

染織家の志村ふくみさんが、自身の作家としての成長を次のように書いているのを読んで、大いに力づけられたことがありました。

「もうそれ以上の着物は織れないかもしれない」と、はじめて着物らしい着物を織った時、母に言われた。ひとは一ばんはじめの作品ですべてわかる、とも言われた。
その時はさして気にもとめなかった。しかし、今、四十年近く経ってみてやはりそのことを思う。もう少し曲折のある複雑な意味で。それ以上とか、以下とかいう問題ではなく、もし人に、一生の間にする仕事の範疇とか、内容とか、分量とか、そのすべてを含んで、やるべき仕事というものがあるとすれば、その出発点において帰結点がどこかにさだめられているのではないだろうか。勿論本人は全く無意識でしていることではあるが、一つの円の上を螺旋形のように廻りながら、どんなに思いがけない発見や、飛躍があるとしても、また反対にどんな挫折や、障害があるとしても、そういうものをすべて包含しつつ、仕事をしてゆくべく出発したのだという気がする。
(『ちよう、はたり』ちくま文庫)

子どもを抱えてひとり生きていかなければならなくなったとき、柳宗悦の民芸運動から破門同様の扱いを受けたとき、ご自身が「山野に放り出されて、一匹狼になった気がした」と表現される、そのどん底を味わってなお感じるのが、この境地です。
「一つの円の上を螺旋形のように廻る」姿は、竜巻のように力強いエネルギーを孕んでいるように思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おじいさんではありません

2024-04-21 09:03:01 | 日記

天下晴れて「高齢者」の仲間入りをすると、介護保険関係の書類がたくさん届くようになりました。
まだしばらく働いて社会保険料を支払い続けるつもりなので、諸々の手続きは自動的に繰り下げられるのかと思っていましたが、案外と面倒なことに驚きます。
現役世代に支えられる年齢層に達したことは事実なので、それは虚心に受け入れるつもりなのですが、「高齢者」という事務的な括りでもって、私という人間の、その他の属性を否定されるような気持ちにもなります。

たとえば、自分が「夫」であり「父親」であり、いやそれ以前に、両親の「こども」だったことも、何もかも無かったことにして、「こちら側の人」と括られるようにも感じます。
私の両親はだいぶ前に亡くなったので、「こども」であったことは、ほとんど忘れていましたが、高齢者という括りのせいで、久しぶりに思い出しました。

石垣りんの「かなしみ」という詩があります。

私は六十五歳です。
このあいだ転んで
右の手首を骨折しました。
なおっても元のようにはならないと
病院で言われ
腕をさすって泣きました。
『お父さん お母さん ごめんなさい』
二人ともとっくに死んでいませんが
二人にもらった体です。
いまも私はこどもです。
おばあさんではありません。

この詩を読んで、「おじいさんではない」と、生涯言い続けようかとも思い、少しは気持ちが晴れました。

昨日のお茶の稽古で、師匠から「お茶名」の申請をするので、申請書に必要事項を記入して、提出するように言っていただきました。ひたすら申し訳ないような、恥ずかしいような気分ですが、これもひとつの区切りだと有り難くお受けしました。

私は「こども」であり、「夫」でも「父親」でもあり、「弟子」でもあって、今また新しい名前まで頂こうとしています。
おじいさんではありません。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柔らかく震える花

2024-04-14 17:53:08 | 日記

先週催された利休忌茶会で、薄茶席の点前を務めました。
前回「無事につとめた」と書きましたが、次客用の茶碗を点前座に取り込むときに、茶筅を倒してしまったりなど、失敗はたくさんしています。
これ見よがしのきれいな点前は目指すまいと心がけてはいたものの、技術的にはそれ以前の問題のようです。

さて、おもてなしの心を、ひとが喜ぶのをみて自らも喜ぶことに留まるのではなく、そういう自分を突き放して見る、もうひとつの視点を得ることではないかと、このブログのなかで述べたことがありました。見返りを求めぬホスピタリティの精神だけではない、もっと俯瞰して、もてなそうとする自分を省みることが必要なのではないかと。
それでは、どうやってその「一歩引いた視点」を取り入れることができるのでしょう。

たとえば、桜の花は毎年同じように咲いて私たちを楽しませてくれますが、けっして「同じかたちに」咲くことはしません。枝ぶりも蕾の位置も、花びらの重なり方も全く異なるにも関わらず、昨年と同じような感動をもたらしてくれます。昨年と「同じかたち」を目指すのならば造花と同じでしょう。「これ見よがしのきれいな点前」は造花のようなものだと思います。
去年もおととしも、その前の年も花を咲かせたことを桜の木が覚えていて、そのうえで、今年ならではの花を咲かせようとすること、それが「一歩引いた視点」につながるのではないかと考えました。

そう考えたのも、茨木のり子さんの詩のなかで最も好きな『汲む』というものを思い浮かべたからです。
何度も引用して恐縮ですが、抜粋したものを紹介します。

汲む―Y・Yに―(茨木のり子『鎮魂歌』より)

********
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
********
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり

今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

初々しさがなくなるとき、人を人とも思わなくなるとき、それは物事をルーティンで片付けようとするようになったとき、と言い換えることができると思います。どんなにホスピタリティに基づいた行動でも、ルーティンになり得ます。

「柔らかく/外にむかってひらかれるのこそ難しい」咲きたての薔薇は、いつも厳しい自戒のもとに開くのではないか。すべてのいい仕事の核であるという「震える弱いアンテナ」は、堕ちてゆくのを隠せなくなった人を何人も見たからこそ、自戒の末に得られるものではないだろうか。先に述べた「一歩引いた視点」は、この自戒に近いのではないか。
みずからの拙い点前を振り返って、そんなことを考えました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする