南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆高速なんとやら

2017-03-31 22:37:13 | インドネシア

 2994 ペレタイザーを作った。インドネシアの町工場で、仕様を伝えて、作ってもらった。出来は抜群、後はいつまで刃が持つかだ。30ジュタ、26万円くらいかな、安いでしょ。メイド イン インドネシアです。

          

Published 27 Mar 2017 at 9:30 pm

Kementerian Pekerjaan Umum dan Perumahan Rakyat (PUPR) kembali membuka Jembatan Cisomang Ruas Tol Purbaleunyi untuk dilewati semua kendaraan mulai 1 April 2017. Kendaraan yang boleh melintas sampai 5 gandar (golongan V) dengan beban maksimum 45 ton.

27日発表で、チソマン橋の修復が終え、チプララン高速道路、(チカンペックーパダジャラン間)4月1日から、従来通り、大型車も通行できるようになる。多分、他の高架橋も強化工事を継続するでしょう。

 

ところで、この高速道路の近くのどこかで、高速鉄道路線の建設工事が再開されたと1月に聞いていたが、その後、全く、これに関するニュースがないと思っていたら、つい先日、交通大臣、リニさん、から、ぼやきの発言があった。

 

Rini mengungkapkan, pihak China mensyaratkan supaya pinjamannya bisa segera cair, maka harus ada RTRW. Dengan demikian, penetapan lokasi (penlok) untuk pembangunan proyek ini tidak berubah.中国からの貸付け金がすぐに必要です、その後、Rencana Tata Ruang Wilayah (RTRW) の必要があります。したがって、プロジェクトの建設のための場所 の決定は変更されていません。

"Oo itu bisa dilakukan, tapi yang utama RTRW harus fix. Pembicaraan kita dengan CDB, RTRW harus fix sehingga penloknya tidak bisa berubah. Selama bisa demikian, CDB tidak masalah,"

 それは行うことができますが、主なもの RTRW を修正する必要があります。China Development Bank (CDB). と話して RTRW 必要があります penloknya を修正するので、それは変更できません。CDB が問題ではない場合は。

中国からの資金が提供されていないのです。

 

スラバヤまでの方はどうなっているのでしょうか。日本が5月には案を出すことになっているらしい。

Pembangunan kereta semi cepat Jakarta-Surabaya mulai masuk fase awal studi kelayakan atau feasibility study. Rencananya studi kelayakan digelar Mei 2017. ジャカルタ-スラバヤ初期段階調査またはビジネス検討開始から半高速列車の開発。計画の実現可能性研究発表 2017年 5月

鉄道 道路 工事計画

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(^_-)-☆お別れ

2017-03-30 22:40:30 | 

 2993 海へ行ったのに、腿がパンパンに張って痛む、座椅子からの立ち上がりが大変、両手を卓袱台につかまって、体を持ち上げなければならない。原因は、島に上陸してから、ちょっと高台に上がるのに、両手を前について上がるような、梯子のような急は階段を上る、それを、何回か、繰り返したからだ。また、島での移動はタクシーより、オジェックが主だった。オジェックって長時間乗ったことがなかったが、意外に、後ろに捕まっていると腹筋を使うし、股を大きく開くので、内腿の足の付け根の筋肉を突っ張らせている。また、両足に力が入る。かなり不自然な状態になっている。歳を取ると痛みは長い時間差でやってくる。

 

リッポチカランのシロアムへ行ってきた。なんというか、ついこの前まで、一緒のカートでゴルフをしていた方が、この世から消えてしまうとは、この世の習いとはいえ、言いようがない悲しみがこみ上げてくる。栗崎さんにお世話になった方が非常に多いので、私と同じような気持ちの人も多いと思う。場所は、建物の右端、ちょっと、地下へ降りた場所でした。息子さんや奥さんと、栗崎さんは、多分、私が同じカートに乗って、ゴルフをしたのが、最後だと思う、こんな話をしながら、つい涙が流れた。「人生是離別」

 

お別れは、30日の夜8時までです。

 

会社はこの連休中、私が遊んでいる最中、オーバータイムで継続生産をしていた。とにかく、電力不足で、フル稼働できないので、仕方がないらしい。内の会社は、三交代勤務の人達は、土曜日は通常出勤なので、今回の連休は、28日を27日に移動し、日、月、二日連休になっていたが、その二日とも出勤してもらった。日系、コリアン系各社、冷蔵庫の販売が好調の様子、それ関係のプロファイルやチューブの注文が増えているからだ。

 

http://otaenplaext.net/newpage125.html 旅行記 

http://otaenplaext.net/newpage126.html 写真集

Raja Ampatの記録です。早速、ウェブサイトに移しました。

ご霊前 合掌 ご冥福

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(^_-)-☆現実に戻った

2017-03-29 22:33:31 | 

 2992 午前中は、ソロンの海岸散歩などでのんびり休んだ。水浴びを楽しんでいる家族連れが多く出ていた。

 

ワイゴWaigoホテル、西海岸道路沿い、目の前が海だが、天候に恵まれなかった、サンセットは厚い雲の中だった。ワイファイは部屋内で完璧、ローディングが早かった。ただし、最初に入った部屋で繋げようとしたが、ネットの名前が現れない、フロントに電話し、どうも、繋がらないことを理解できないらしい、ルームサービスに部屋に来てもらった。彼、納得、受信、発信機のランプが消えている。これじゃだめだという、二階だったが、三回なら、繋がるからと言い、三階の部屋に移動した次第、ここの通路にある受信機はランプが点いていた。とにかく、持って行ったデモムは、圏外、どうにもならないから、ホテルのワイファイに頼るしかない。

 

11時にホテルに迎えに来てもらった。途中、トコ オレ オレToko oleh oleh(土産物の店)に寄ってもらうつもりだったが、休日でほとんどの店は閉まっていて、土産物屋もクローズ。町を素通りで空港に入った。残念、土産物を買えず、仕方がないから、マッカサールのトランジットの時に、従業員への土産をまとめて買った。コテカは、空港で売っていたが、滅茶苦茶高いし、もらっても嬉しくないだろうから、買うのは止めた。空港で写真を撮っただけだった。右端に見える4~5本が、それです。

 

もう、何もかも、慣れたものだから、帰宅までの行動は問題なし、ジャカルタへ到着し、テンパット パーキルイナップからの迎えを頼んだ。ブリトゥンの時には、チケットを持って出なかったので、困ったが、今回はHPの番号が書いてあるチケットを持って出たので、呼び出せた。但し、待つ場所を決めていないので、傍にいたセキュリティに変わってもらって、待っている場所を決めてもらった。

 

空港からは順調、渋滞も最少、それでも、2時間かかって住処に到着、20時だった。また、日本と時差、2時間の場所だ。

 

空港に着陸態勢に入った時に、大揺れし、上下にも相当動いた。雷雨の中に突入したからだ。17時前で、まだ、明るいはずが、外は真っ暗とはいわないが、相当、暗くなっていた。空港を出る時には、小雨になっていて、きれいな虹が現れた。ラジャ アンパットでも虹を見た。その一週間前、ブリトゥンは、虹の兵隊さん、ラスカル プランギの島だった。栗崎さんが亡くなった後に、立て続けに虹をみた。朝、ソロンの海岸を散歩して、夜はチカランの田舎の家にいる。明日は、最後のお分けに行く。

順調 帰宅 現実

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(^_-)-☆ピアネモ

2017-03-28 21:57:57 | 

 2991 一番近いと言ってもスピードボートで2時間近く掛かるという。インドネシアは、冬至を過ぎたばかり、一番日の出が遅い、日本と同じ時間のこの地の6時ではまだ真っ暗だ。これが、ジャカルタの6時なら、二時間後だから、明るくなっていて、ゴルフのスタートもとっくにしている。ということで、真っ暗の中、ホテルの車で出発する港へ向かった。

出発時は日の出前だが、天気が良かったので、相当明るくなっていて、朝焼けの雲が見事だった。とにかく、ひたすら、ベタナギの海を滑るようにはしる。目的地ピアノモまで1時間半と言っていた。途中、スコールに在った。その時間は、10分くらいだった。思いがけなく虹のゲートが出来あがっていて、その門をくぐるように通過すると、また、青空が広がった。

 

結局、二時間かかったが、目に入る景色は、ユニークで、ちょっと日本では見られない風景が現れた。良く、写真で紹介されている景色だ。その島?岩?の周りをぬって、展望台の下の船着き場に到着。この階段は、他のインドネシアの階段と同じように、急だし、一段ごとの高さが違うし、幅も違う。インドネシアの手作り階段の見本のようなもの、急ですよ。日本人が想像する以上に急登りですよ。流石に一挙には登れなくて、途中の踊り場で休憩をした。息を切らせてやっと展望台に到着、腿が痛いし、ふらついている。それでも眼下の景色にすぐに目お奪われた。その島々の間を縫ってきたのだが、その印象と違っていて、もっこりとした固まりが不規則に配置されている。石灰岩が土台になっているのだが、桂林の海上版、縮小版だ。

そこから降りて、また、それらの固まりをぬって、次のスポットに向かった。岩に近づくと。その尖った鋭利で、触っただけ怪我をしそうで、ちょっと怖い。そんなことをおもっていると、出来損ないの船着きがに到着した。ここで降りるのかと聞いたら、そうだという。その先に階段がない。言われるままに、登ったのだが、きつい上に、階段ではなく、その尖った岩を上るのだった。女性や高齢者では無理でしょう。一応、行き止まりのちょっとした平らなところから下を見ると、星の形をした入り江が目に入った。これを、見せたかったのだった。時間は9時を過ぎていた。

 

次はどこへ連れて行ってくれるの、訳が分からないが、まだ、時間がたっぷりあるから、他の島へ行くという。30分ほど飛ばすと、何やら、桟橋に多くのダイビング客が立って居た。ダイビングスポットが近くにある島のようだ。この島の名前は、トランスウィサタだという、本来の島の名前はないのかと聞いたら、名前はなかったという。

 

次に行ったのが、パシールプティ、要するに、満潮時には消えるが干潮の時には、現れるという、白い砂浜だ。ブリトゥンにもあったし、あちこちにある種類の砂浜だ。ダイビング途中の欧米人やジャカルタからの人達が立ち寄っていた。ここで、一泳ぎ、これもブリトゥン以来、ぷかぷかと浮いているのが気持ちいい。

 

14時発のエクスプレスカパルに乗って、ソロンへ、20分遅れ発、所要時間はやはり二時間、やっぱり、明日9時発では、12;25発のフライトには間に合わないことを確認した。遅れることが、足り前なのでしょう。遅れていることに全く、御免なさいのアナウンスはない。

 

ピアネモの展望台から。ワイサイからひたすら西に走る。

 

出発時と帰港時に天国への入り口が見えた。四次元の入り口のようだ。

 

夕食はホテルの隣にあったさえないワルンでソトアヤムしかないというので、食べた。どの土地のソトアヤムも同じような味だ。ブンブがマサコで同じだからだと思う。

 

やはり負けたか二回戦、早実も負けたし、一勝一敗ならいい方だ。静高、夏は、また、頑張って!!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170317-00000016-nkgendai-life ちょっとね。

 

http://otaenplaext.net/newpage26.html

http://otaenplaext.net/newpage28.html 同じパプアのジャヤプラとメラオケの写真です。

天国 入り口 石灰

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(^_-)-☆ワイサイ

2017-03-27 22:17:58 | 

 2990 9時に船が出るはずなのに、9時半にやっと出帆、そして、1時間半と言っていたが、2時間以上掛かって、11時半過ぎにワイサイの港に到着した。それで、27日(明日)の計画は全て、白紙に戻し、14時出発の船に乗ってソロンに戻るしかなくなった。28日9時出発では、ソロンに着くのが11時半を過ぎてしまう可能性が高く、12;25のフライトには間に合わないかもしれないからだ。

 

明日、一番近くの島々PIANEMOへ半日スケジュールで行くことにした。そのほかの島々は1日掛かりでないと無理だという。それに、一人でスピードボートをチャーターすると、一日にレンタル料が8ジュタになるという、半日なら4.5ジュタ、だから、明日は6時に出発、戻りは船の出発前13時頃に、戻るスケジュールで行くことにした。ぶっつけ本番、下調べ何もなし、では、仕方がない。旅の後で、こうすればよかったという文章を書くことにする。

 

ワイサイ(WAISAI)に向かう船の中、ラウラさん、アンジェリーナさん、お爺ちゃんはこんな遠くに来ているよ、一緒にいつか旅をしたいね。そんなことを考えながら、先日、亡くなった栗崎さんのことも頭をよぎっていた。曇り空だが、この海と空をなんとなく眺めていた。南の島々の天国だね。旅ができるっていいねっと。

 

港近くのホテルに入ったのが12時過ぎ、島々に行くことはできないから、この島を巡ってみることにした。オジャッククで、1時間半ほど、海浜公園が意外にきれいに整備されていて、夕方にも歩いていってみた。オジェックの運ちゃんが撮ってくれた。“バッパ ダリマナ“と聞かれる。そして、続けて、マナード? アンボン?比較的近くから来たインドネシア人だと思うらしい。こんな格好で、ビーチサンダルの老人を見て、日本人だと誰も思うわけがない。

感傷 無計画 曇天

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(^_-)-☆コタ ソロン

2017-03-26 20:35:49 | 旅行

 2989 マッカサール(ジャヤプラやムラオケに行くときは、必ず経由する。スラウェジ島の南部にあり、タナトラジャに行った時にはここで降りた)でトランジット、時差が1時間、バリなどと同じ時間だ。03:00到着、5;20に出発、私が乗ってきた飛行機はアンボン行きだったので、別の便に乗り換える、今度の便はソロン経由マヌクアリ行だ。

 

ソロンに到着して、さて、何をしようか考えた。観光インフォメーションを探したがない。いかつい顔をしたおじさんが、大勢、そこら辺りにたむろしていて、皆さんが、タクシー?とつぶやいてくる。適当に、その中でも、一番、体つき、顔つきが一番怖そうな人に、話しかけた。ラジャ アンパッへ行きたいことと、先ず、ホテルで寝たいと。すると、周りに数人の友達?同業者?が集まってきた。皆さんがOK.OKという。私に任せろと名乗りあげている。最初の人に、頼むことにした。先ず、港に近いらしいホテルに案内される。ワイファイを使えるというので、そこにした。70万Rpだった。パプアの物価はジャカルタと同じくらい高いことは、今までの経験から分かっていて、このくらいかなと納得した。ネットで調べても40万Rpが最低で、70万Rpは平均だった。

 

ところで、使えると言われたワイファイ、各部屋では使えなくて、ロビーでしか使えなかった。生憎、其のロビーで、結構、派手な結婚パーティーが模様されていて、その中のソファーに座って、作業しなければならないので、外出した帰りにちょっと寄って、確認しただけだった。また、持って行った、スマートフレンのモデム、圏外になっていて使いもにならない。マッカサールでは、使えた。

 

ここは、日本タイムと同じだ。先ほど頼んだタクシーの運転手に、一眠りした後13時頃から、ソロンを案内してもらった。特に、これといった観光地がなく、海岸をいくつか歩いた。その前に肝心な、ラジャ アンパットへどんな方法でいつ行くか、いつ帰ってくるのか、宿泊はどうするのか、だった。このいかつい顔を運ちゃん、かなり、親切に、港へ行ったり、旅に会社に寄ったりして、色々確認してくれた。28日の昼前に空港に戻らなければならないことと、島めぐりを、できれば、丸一日することが条件だった。

 

結局、ソロンの港から、定期便が9時と14時に出る。ワイサイからも同じ9時と14時にでる。所要時間は1時間半だと確認したので、明日、9時に出発して、28日の朝、向こうから出発することにした。それで、大丈夫ということし、実際1時間半以上かかるとしたら、27日の14時にワイサイから出ようと思う。泊まる場所はいくらでもあるという。島めぐりなどの手伝いをしてくれる人は、向こうに着いてから、行き当たりばったりで、頼むことにした。いつものやり方だ。

 

5時間ほど付き合ってもらって、60万Rp払った。明日、8時にホテルに迎えに来てもらって港まで送ってもらうことにした。明日からの天気次第だ。どうなることでしょうか。ここ二日は雨が降っていないという。もう、乾季に入ったようだと言っていた。

 

何ともない、普通の海の景色、ワイサイの方向だ。雲が何にみえますか。私にはフェニックスにみえた。

天気 どうかな 明日

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(^_-)-☆私もスルガへ出発

2017-03-25 16:46:24 | 旅行

 2988 平日なので、渋滞のことを考えて、18時には家から出て、空港へ向かった。ブリトゥン行きの時に、既に使ったことがあった、車の宿泊駐車場(パーキル イナップ)に駐車した。

 

今から、機内に入る。23;30発、ガルーダで、パプア “ラジャ アンパット”というスルガ(天国)に向かう。途中、マッカサール、トランジットで、現地時間8;45(日本時間と同じになる)ソロン着、待ち時間を含めて、11時間の旅になる。戻りは,28日の夜。栗崎さんに、メールで、今度の休日はゴルフ、キャンセルと、報告すると、また、例の処?という返事が返ってくる。例の処とは、パンガンダランである。しかし、今回は、じゃなくて、パプアだよと、報告してあった。

 

パプアは、ジャヤプラ(パプアの北東端)とムラオケ(パプアの南東端)は既に行ったことがある。それぞれ、日本にいては想像もできないほど、別の世界が広がっていたが、今回は、パプアの北西端のソロンという町を目指す。写真では見ているが、実際、どんな景色が目に入ってくるだろうか、期待が膨らむ。

 

リッポチカランのシロアム病院です。栗崎さん、三日間ここで皆様の見送りを待つ。手前のサヒッドリッポ ホテルとの間を曲がって、駐車場に入れますが、満車の場合が多い。隣のCIMB NIAGA銀行の駐車場は広い。運転手は路上駐車で待っているでしょう。

 

先ほど、甲子園選抜で静高が勝った。失礼だが、相手に恵まれた。“甲子園、出ると負けの静高”小学校のころから、そう思っていた。「何だ、また、静高か、静商(セイショウ)が行けばいい」と思っていた。ところが、二年の時に、夏、準優勝しちゃった。私の同級生たちだった。よかったねという印象だった。それから、何十年も過ぎて、何度も甲子園へ行っているが、一度だけ、準優勝したのかな。やはり、出ると負けか、二回戦負けが続いているという印象だ。今回はどうでしょうか。過去、選抜は15回出場、15敗ということは、優勝していないということ。そして、9勝しかしていないということは、一回戦負けが6回以上ということを示している。例えばの話、三回、二回戦で負けたとすれば、一回戦で9回負けたことになる。どうですか、期待しても無駄だよと言っているようなもの。今回は、どんな理由で特別枠をもらったのか知らないが、相手を一回戦だけは勝たせてやろうというようなチームと当たった籤運が良かったみたいでしたね。自分の出身校をけなしてはいけないが、統計的には、こんなものです。

 

甲子園に出場となれば、何回出たって、その都度、寄付金の集まりがすごいが、直ぐ帰ってきてしまうから、余ってしまうと聞いている。商店街や県庁や市役所で募金箱を持って回れば、またかよ、と言われながらも、直ぐに箱が一杯になるらしい。私の処には家に振り込み用紙が送られてくる。何回か振り込んだことがある。

静高 選抜 旅立ち

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(^_-)-☆贅沢な使いかた

2017-03-24 18:22:49 | インドネシア

 2987 私からもメール発信。 皆様 お疲れ様です
栗崎さんとのお別れは、28日 リッポチカラン シロアム病院のメモリアルホールで、
昼過ぎから、仏式で写真とお骨が置かれ、ご焼香ぐらいはできる状態にするそうです。特に儀式はない可能性が高いそうです。
29,30日も 8時から20時まで、借り切っているので、焼香は可能とのことです。

最新情報です。Berikut acara Ceremony duka :
1. Hari/Tanggal : Kamis, 23 Maret 2017, pukul 15.00 waktu Jepang, Jenazah telah dikremasi.
2. Hari/Tanggal : Selasa s/d Kamis, 28 s/d 30 Maret 2017, acara ceremony duka di San Diego Suites RS. Siloam Lippo Cikarang, mulai pukul 09.00 wib. Abu Jenazah akan disemayamkan di sana.
お別れ式は28日午前9時から午後8時まで 29日、30日は午前8時から午後8時まで3日間行われます。
お別れ式ですが日本のような葬儀ではないようです。各人がお線香をあげていただき、お別れをしていただく
ことのようです。23日に日本で火葬されましたので、遺骨をインドネシアに持ち帰り、お別れ式が行われます。

私は、28日、都合が悪いので、29日に、お別れをしに行くつもりです。

カラワンのプレス屋さんに行ってきた。私たちが作った製品に沢山の打ち抜きをする工場だ。以前、一度、打ち合わせに行ったことがあったが、今回は、実際に打ち抜きをしている現場の様子を確認するためだった。結論から言うと、気の毒なくらい、手間取っているし、戸惑っている。穴の数や種類が沢山あり、打ち欠きする場所もあり、2mの製品に15カ所以上、抜き欠かなければならない。二台のプレス機を使ってやっているが、なかなか、はかどらない。その上、まだ、金型の一部が出来ていないので、ナイフで切り欠いている。見ていると、一本完成させるのに、10分以上かかっている。それも、四人がかりだ。 
一日7時間やったとしても、40本くらいしかできない。今回、900本だから、一か月掛かることになる。私たちの生産は三日間で終わっている。
<a href="/_images/blog/_c30/tabi-indonesia/IMG_6936-5f60c.JPG" target="_blank"><img src="/_images/blog/_c30/tabi-indonesia/m_IMG_6936-5f60c.JPG" width="350" height="262" border="0" align="" alt="IMG_6936.JPG" /></a>
<a href="/_images/blog/_c30/tabi-indonesia/IMG_6938-dd6db.JPG" target="_blank"><img src="/_images/blog/_c30/tabi-indonesia/m_IMG_6938-dd6db.JPG" width="350" height="262" border="0" align="" alt="IMG_6938.JPG" /></a>
<a href="/_images/blog/_c30/tabi-indonesia/IMG_6940-67b48.JPG" target="_blank"><img src="/_images/blog/_c30/tabi-indonesia/m_IMG_6940-67b48.JPG" width="350" height="262" border="0" align="" alt="IMG_6940.JPG" /></a>
この会社、広大な土地に、広い工場をいくつも建ててある。それぞれが、使っているのは使っていないのか、人が殆どいないし、車もおいてない。このプレス工場も、だだっ広い場所のほんの片隅に機会が並んでいて、風通しのよさそうな状態で仕事をしている。事務所の一角もない。新品、未使用のプレス機が、難題も並んでいる。仕事の当てがあって入れたのだと思うが、聞くと、いつから、どんな仕事をするのか、聞いていないという。日本の岡山のプレス工場で研修生として3年仕事をしていたという日本語上手な青年が、そう言っていた。

10以上ある建屋に中は、全て、こんな様子、中に設置されている装置を全部、集めてきても、この工場、一杯にならないと思うくらい、無駄な使いかたをしている。どういう経営者なのだろうか。道楽としか思えない贅沢な工場だ。大赤字に違いない。

この会社、今日の仕事ぶりをみて、これでいいのか?と、思う。いいはずがない。
不思議 工場群 閑散

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(^_-)-☆尾を引いている

2017-03-23 22:32:08 | 

 2986 惜しい人を亡くしたtelah kehilangan orang terkasih

もったいないね Sayang sekali! 惜しいSayang 惜しかった itu adalah disesalkan

 

栗崎さんの何げない普段でした。

太田様  無沙汰しています。

先週 1週間 寒い日本におりました。新宿にある東京医科大病院とのお付き合いも5年になりましたが、まだドクターのOKがでず、しばらくは“月一で”日本通いです。

 

従来の治療法が、効果が出ないため、今月末から新薬による治療となります。航空券代、滞在費等結構出費も多く太田さんからお借りしているルピアの返済が出来なくて大変申し訳ありません。今しばらくお待ちください。

 

太田さんのブログは欠かさず読んでおります、昨日でしたか”ぎっくり腰“になったと書かれてましたがいかがですか?

チカランに住んでいながらジャバベカに行けないのは本当につらいですね。いつまでも会社に迷惑をかけるわけにいかないんで、

そろそろ”決断“しなくては、と思ってます。

足の痛みがとれないうちは運動ができないので、ひたすら我慢です。

 

新規工場でご苦労されているようですが、「ここはインドネシア」ですので70~80%くらいの期待値で頑張ってください。

栗崎からでした。

 

融通したRpは、お渡ししたものですから、返していただかなくてもいいのに、既に、返していただいた。

 

最近のジャカルタ、スラバヤ中高速鉄道の報道のほんの一部

Kereta Cepat Jakarta-Surabaya Masuk Proyek Strategis Nasional 2017国家戦略プロジェクト

PT Kereta Api Indonesia akan menghilangkan sejumlah perlintasan dalam kajian kereta cepat lintas Jakarta--Surabaya yang menjadi usulan kepada pemerintah Jepang.

PT Kereta Api インドネシアは、踏切を無くす。ジャカルタ-スラバヤ日本政府への提言した。

Direktur Utama PT KAI Edi Sukmoro mengatakan dalam hasil kajian proyek kereta cepat bersama tersebut rencananya menggunakan jalur yang sudah ada. Edi Sukmoroは述べている、既存のラインを使用して計画に沿って研究結果プロジェクト。Pihaknya hanya akan membeli kereta bermesin diesel baru dan menghilangkan perlintasan. それは、新しいディーゼル列車と交差を排除させる。

 

"‎Jadi akan dibuat lebih rinci berapa perlintasan yang harus dihilangkan. Adapun, jumlah perlintasan saat ini mencapai 980 unit, termasuk yang liar," 「だから、インターチェンジを除去する必要があります。現在の交差の数は980 台、違法も含む"

と、こんなことを言っている。当たり前でしょ。そんなことは、提言するほどのこともない、と、思う。

 

ジャカルターバンドゥンの工事はワリニ付近で始まっているという報道は一月にあったが、その後、関連ニュースがない。土地の買収が90%に達したというニュースがあったが、この頃は、85%という報道に替わっている。ハリムとプロワカルタ付近の買収が進んでいない。それでも、2019年に開業という目標は訂正していない。

 残念 惜しい プロジェクト

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(^_-)-☆18年お世話になった

2017-03-22 22:40:50 | 

 2985 私がインドネシアで知り合った人の中で、一番、お付き合いの長い方でした。赤旗を立てでもまたゴルフをしましょうよ、と、声を掛けていたがかなわぬことになってしまった。

 

私がゴルフを始めたのが1998年、暴動の直ぐ後でした。その半年後位にある初心者歓迎というゴルフの集まりを知り、その仲間に入れてもらうことした。アクラブ会でした。その会の世話役をしておられたのが栗崎さんでした。その時も今も、ヤマニの方でした。私も栗崎さんもその会を何年後かに止めて、ジャバベカで毎週ゴルフを小グループでやるようになっていた。それは、昨年の末、10月ころまで続いていた。

 

その1年前くらいから、肺がんが見つかり、日本やマレーシアなどで手術を受けたり、治療をしながらも、インドネシアにいる時には、一緒のカートでゴルフ場を回っていた。その内、激やせで、体力も無くなり、ゴルフどころでは無くなっていた。それでも、会社に出勤していたし、ゴルフの夢を見ると言っていた。

 

今年に入って、月に一回、日本に帰り、投薬をしていたようだった。今回、半年ほど会社から休暇をもらうよ、と、話しながら、一週間ほど前に帰国した時には、病院で投薬もない状態で、静かに亡くなったとか。

 

ドライバーの飛距離が殆ど同じだったので、同じカートに乗ることが多かった。二打目も同じくらいのところに行くので、カートに戻らないで、無駄口をたたきながら一緒に歩くことも多かった。仕事上の付き合いはなかったが、ジャバベカでのゴルフの付き合いは、10年以上はあった。私はインドネシアでお付き合いしている日本人は少ないが、栗崎さんは、インドネシアには35年以上関わっていて、県人会をはじめ、工業団地の付き合い、何やら、ボランテャアの仲間、現地警察にも知人ガ多かった、多くの世話役をやっておられて、栗崎さんを何かと頼りにした人も多かったと思う。事件に巻き込まれた時に、栗崎さんに相談した人も多かったと思う。時々、そんなことを、ゴルフコースを回りながら、話をしていた。私は、聞き役だった。

 

事件やデモ、ストライキの事前情報もこまめにメールで流してくれていた。

 

ゴルフ場でも超有名人で、しばらく、顔を出さない時には、私に、栗崎さんどうした?今日はいないね。と、多くの人が聞く。栗崎さんは、今、日本だよと、紙に書いて貼っておきたいくらい、会う人ごとに聞かれる。

 

インドネシアにいて、お世話になった方が亡くなったという知らせを聞くのは非常に辛い。今朝、その知らせを聞いて、しばらく、涙が止まらなかった。人生の先輩として、尊敬をしていたし、非常に身近な方だった。ご冥福を祈る。

 

そう、多くはないが、尊敬している方、目標にしている方、生き方の手本にさせていただいている方が、次第に会えない世界に行ってしまう。

 

元気だったころの姿。ともに愛でた花。Surgaで眺めていることでしょう。栗崎敏敬(くりざき としのり)

(^_-)-☆18年お世話になった 2985 私がインドネシアで知り合った人の中で、一番、お付き合いの長い方でした。

赤旗を立てでもまたゴルフをしましょうよ、と、声を掛けていたがかなわぬことになってしまった。


   私がゴル
フを始めたのが1998年、暴動の直ぐ後でした。その半年後位にある初心者歓迎というゴルフの集まりを知り、その仲間に入れてもらうことした。アクラブ会でした。その会の世話役をしておられたのが栗崎さんでした。その時も今も、ヤマニの方でした。私も栗崎さんもその会を何年後かに止めて、ジャバベカで毎週ゴルフを小グループでやるようになっていた。それは、昨年の末、10月ころまで続いていた。

 

 

その1年前くらいから、肺がんが見つかり、日本やマレーシアなどで手術を受けたり、治療をしながらも、インドネシアにいる時には、一緒のカートでゴルフ場を回っていた。その内、激やせで、体力も無くなり、ゴルフどころでは無くなっていた。それでも、会社に出勤していたし、ゴルフの夢を見ると言っていた。

 

今年に入って、月に一回、日本に帰り、投薬をしていたようだった。今回、半年ほど会社から休暇をもらうよ、と、話しながら、一週間ほど前に帰国した時には、病院で投薬もない状態で、静かに亡くなったとか。

 

ドライバーの飛距離が殆ど同じだったので、同じカートに乗ることが多かった。二打目も同じくらいのところに行くので、カートに戻らないで、無駄口をたたきながら一緒に歩くことも多かった。仕事上の付き合いはなかったが、ジャバベカでのゴルフの付き合いは、10年以上はあった。私はインドネシアでお付き合いしている日本人は少ないが、栗崎さんは、インドネシアには35年以上関わっていて、県人会をはじめ、工業団地の付き合い、何やら、ボランテャアの仲間、現地警察にも知人ガ多かった、多くの世話役をやっておられて、栗崎さんを何かと頼りにした人も多かったと思う。事件に巻き込まれた時に、栗崎さんに相談した人も多かったと思う。時々、そんなことを、ゴルフコースを回りながら、話をしていた。私は、聞き役だった。

 

事件やデモ、ストライキの事前情報もこまめにメールで流してくれていた。

 

ゴルフ場でも超有名人で、しばらく、顔を出さない時には、私に、栗崎さんどうした?今日はいないね。と、多くの人が聞く。栗崎さんは、今、日本だよと、紙に書いて貼っておきたいくらい、会う人ごとに聞かれる。

 

インドネシアにいて、お世話になった方が亡くなったという知らせを聞くのは非常に辛い。今朝、その知らせを聞いて、しばらく、涙が止まらなかった。人生の先輩として、尊敬をしていたし、非常に身近な方だった。ご冥福を祈る。

 

そう、多くはないが、尊敬している方、目標にしている方、生き方の手本にさせていただいている方が、次第に会えない世界に行ってしまう。

 

元気だったころの姿。ともに愛でた花。Surgaで眺めていることでしょう。栗崎敏敬(くりざき としのり)さん、ありがとうございました。

日本で荼毘に付し、インドネシアで告別式、埋葬するそうですが、詳しいことはまだ決まっていません。

残念 尊敬 ショック

日本で荼毘に付し、インドネシアで告別式、埋葬するそうですが、詳しいことはまだ決まっていません。

残念 尊敬 ショック

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(^_-)-☆孫中学生

2017-03-21 22:29:58 | 思うこと

 2984 契約電力は十分の量を確保しているが、どういう分けか、実際に使える容量が少ない。この地域の今までの電線をそのまま使っているので、必要ない容量が流せないのだという。それは、当初から分かっていて、移転をするために暫定的に、使っていて、直ぐに、太いケーブルに交換するという話だった。ところが、いつまでたってもその気配なし、何度も催促していて、そのたびに、いつまで遣るという返事、オオカミと少年の話、もう、この工場の準備をした人の言葉は信じない、信じないからと言って、矢張り、いつになることやらわからない。電圧低下はあるし、停電は頻繁にするし、容量は足りないし、準備しつつある押出ラインの準備を止めている。

 

停電の度に、余計なロスが増えるし、粉砕機を使う時には、1ラインを止めなければならないので、なかなか、ロスの再生ができない。不良品が積もり積もって、粉砕室に山になっている。キロ2000円や1000円の原料もある。再生ペレットにして使いたいが、できないでいる。もったいない話だ。

 

近所から、騒音にクレームが入っている。一番近い民家まで50Mほど離れている、二番目に近い家は100Mほど離れた場所に数軒ある。役場の人が、来るのだが、どの家からのクレーム化は、言わない。ただ、クレームが入っていると言ってきている。この工場がなかったときには、夜、静まり返っていたでしょうこの地域、工場が来てから、工場からの音が夜中中出ているんだから、今まで聞こえていなかった音が聞こえてきているのだから、大きい、小さいにかかわらず、気になる人には気になると思う。私の家でも、500M以上離れた鉄道線路から、列車が通過する音が聞こえてくるのだから。

幾らかの金額を出して、お帰り願っている。多分、時々、お金を渡すことになるだろう。そんな地域だ。

 

ドイツから日本に移り住んでいる孫の上の子が小学校を卒業した。校門での記念撮影の写真を送ってきた。自分の孫とは思えないほどしっかりした顔立ちをしている。暮れ正月に日本にいた時に、一緒に、“君の名は”を見にいったり、ボーリングをしたり、カラオケに一緒にいった子だ。実に感慨深い、年に何日しか会っていないが、当たり前だが、そのたびに、大きくなっていて、大人びてきていた。今度、中学生の彼女に会うのは、楽しみだ。

 

この子が、もう、中学生。歳を取るわけだ。

尊敬するインドネシアでの大先輩、栗崎さんが日本の病院で亡くなられたという知らせが入った。がっくりだ。

騒音 卒業 容量

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(^_-)-☆これからの予定

2017-03-20 22:46:51 | インドネシア

 2983 7月中に,インドネシアから日本に帰る。新しい仕事に対する対応をすればいいだけの環境になりつつある。経営的には私がいなくても大丈夫になりつつある。新しい仕事でも、金型の設計と修正が主なので、日本にいても、多くの場合は可能だ。 今年の後半は日本にいるつもりだ。

 

予定としては、5月末辺りからラマダンになり、6月末辺りでレバラン休暇が10日ほどある。それを過ぎてから、航空券が安くなる時期に帰国だ。そして、今月末のニュピ(バリを主体でヒンドゥー新年?)を使っての、四連休は、ラジャ アンパッRaja Ampatパプア北西部の小島群へ行く。つい先日、

https://www.youtube.com/watch?v=3wMDcKqIUoE

https://www.youtube.com/watch?v=Xph4Y732fQM

イギリスの客船が座礁して、多くのサンゴ礁を破壊した。再生には200年かかるという。そんな場所へ行ってくる。

また、4月には14~16日、22~24日、そして、29~5月1日、それぞれ三連休がある。忙しいぞ。行き先候補は、パンガンダラン、ブキッ ティンギ、コタキナバルでラフレシア探しをしようかなと思う。5月がまた、11~14日、25~28日の二回、その気になれば、それぞれ四連休にしていい。そして、断食月に入る。

忙しいですね。ゴルフをやる回数が極端に少なくなりそう。

 

インドネシアはやたらナショナル ホリデーが多い。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Em6yRjYFPmM

スシ海洋大臣はパンガンダランの人だ。パサールパンガンダランの真ん前に家がある。家にいる時には、その家の前に警察官がウロウロしているので、今いるなとわかる。この放送会話の中にパンガンダランが沢山出てくる。彼女は中国密漁魚船やそのほか麻薬などの密輸船を爆破してしまうことで知られている。スシエアーの経営者でもある。ハリムやバンドゥンからパンガンダランまでのセスナ機を運航している。

 

ビザの書き換えが4月中旬なので、連休の合間をぬって、ブカシバラットのイミグレへ行くことになる。

 

もう、ほとんど、乾季に雰囲気、じりじりの暑さが復活し始めた。雨傘が日傘になる。

祭日 連休 旅

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(^_-)-☆韓国で思うこと

2017-03-19 20:45:50 | 考え

 2982 先週もやっているが、ブリトゥン旅を挟んでいるので、何か、久しぶりのゴルフのような気がする。明け方、雨がぱらっと来ていたが、天候は崩れることなく、快適な気候の中でプレーが出来た。もうソロソロ、雨季が開けるころだ。

 

話はガラッと変わって、

私は、少女像(従軍慰安婦像?)に関して、提案を書いた。韓国人の一の部に人が、それらを、あちこちの置こうとしている。それらの人にとっての自己満足を満たすために、留まるところを知らない。それで、日本人の今後の気持ちや行動が変わるはずがないのに、である。まさか、そんな像を一杯設置して、今の日本人が変わると思っているのでしょうか。全く、日本人にとっては、意味のないことを向きになってやっているなと、思うだけだ。気の毒に思う人が多いと思う。だから、10億円を返してもらって、その人たちの為に、その人たちに、その10億円を使って、少女像を世界中に設置するようにしてあげたらいいと提案した。今日の再提案は、日本も予算を組んで、世界中に特に韓国の中に少女像を設置させてもらったらいいと思う。お手伝いです。ついでに、強制労働像も並べたらいい。韓国や中国の各都市に一体ずつどうでしょうか。日本は、あなた達が満足するための資金援助をするのです。公共設備や技術援助の資金では、だめのようですから。少女像のデザインももっと美的にして、大型にしてあげたらいいと思う。そして、それらには、日本の資金援助で設置しましたと書いてもらったらいいと思う。是非、国連にも世界の平和の為に、賛同してもらったらいいと思う。

 

日本の政治家も、慰安婦問題は韓国だけの大きな問題と理解し、気の毒な国へ、その問題を解決する手段として、韓国の人が満足するなら、大きな気持ちを持って、慰安婦像の設置資金を提供してやってください。像一体、設置場所の借地、運賃、設置費用、合計いくらくらいになるでしょうか。2~300万円でできるのでしょうか。千躰で2~30億円でしょうか。ごめんなさいと言って、そのくらいの予算を計上しましょう。設置委員の方が、銅像費用として集めたお金は、元慰安婦とされている方々にあげてくださいと。

 

 韓国に提案、韓国から中国に提案したらいい。北朝鮮が核爆弾やミサイルの開発を活発にいている。防衛手段として、THAADの配備をアメリカと共に決定したことを中国は、怒っている、何故でしょうか。北朝鮮に対する防御手段なのに、中国が、自分の国からの防御手段になっていると言って、怒るのでしょうか。中国は、お前の処は。こちらからの攻撃を防御してはならないというのでしょうか。どうも、変ですね。それなら、防御がダメなら、攻撃は良いのでしょうか。中国は北朝鮮の核開発を止められないでいる、むしろ、容認している節がある。それなら、韓国も、北朝鮮のようになりたい、北朝鮮と同じように、核やミサイルの開発を承認してもらったらいい。核兵器を持つのならいいのですかと、中国に打診することをお勧めします。嘘でもいいから、かまをかけるだけでもいいから、一度、提案したらいいと思う。なんという、返事が来るでしょうかね。楽しみにしたらいい。

 

 コンビニで買い物をしている間に、大雨、前で暫く雨宿り。バイクが雨宿りで飛び込んできた。

 

 行きのフライト。この状態、どう思いますか、こちらが私の足、隣の男、持ち物が大きいとは思えないが、大股開き、見かけ50歳代、結構、いかつい顔と体をしている。肘もこちらに大幅にはみ出してきていた。隣に座っている人のことなど、気に掛ける余裕がないらしい。離着陸の時、もっと、大股開きになり、両手で前の座席の背もたれの上を鷲掴みにして、体をこわばらせていた。結構気が弱いようだ。

 THAAD 少女像 提案

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(^_-)-☆今回の旅から

2017-03-18 23:02:57 | 旅行

 2981 ブリトゥンの旅は、景色やガイドなど現地の人々との接触は満足だったが、気に入らないこと、気を付けなければならないことに沢山であった。インドネシアだからと言って、ティダ アパ アパ、と、言いたくない。

 

ホテルのワイファイ、使えることを確認し、止まることにした。フロントでパスワードも教えて貰った。そして、部屋で接続してみた。繋がらない。フロントに電話で聞いたら、修理中だから、10分ほど待ってほしい、できるようになったら、電話するから、と言われた。一向に電話が掛かってこない、30分後に試してみた。ネットワークなし。また、電話した。故障をしているという、いつ治る予定か聞いた、いつになるか分からないという。私が持っているスマートフレンのモデムは、圏外としか出てこないから使えない。結局、ネットに繋ぐことが出来なかった。最後の最後、空港でもネットワークなしだった。

 

ジャカルタに戻って、先ず、車の宿泊場からの迎えの車について、何処で待つのか案内に聞いたら、決まった指定場所はないという、呼べばいいという。駐車チケットに駐車場に掛かりの電話番号が書いてあるから、そこに電話して呼び出すと言われた。そのチケット、車の中に置いてきたので、持っていない、と言ったら、それじゃ、だまだよ、持ってこないのが間違いと言われた。誰かを送ってきた通り掛かりの車を捕まえるしかないという。それも、到着フロアーで待てという。どうも変、送ってくるのは二階の出発フロアーじゃないのかというと、いや、下に来るから、過去で待てという。一向に、通らない、来ない、40分ほど待っていたが、待ちきれずに、彼らを無視して、二階で待つことにした。二階でも、掛かりに何を待っているのか聞かれ、先ほどと同じことを言われた、しかし、待つしかない。30分ほど待って、やっと来た。外に出て、1時間以上、イライラさせられた。電話して迎えに来てもらうシステムなど知らない、聞かされていない。普通は、シャトルバスの後場と同じように、駐車場からの迎えの車を待つ場所を作っておくと思う。そんな場所かない。

 

駐車チケットは持って出るのが当たり前だとも言われた。日本のように、買い物をすれば、無料になるなどのシステムなら、持って出るが、インドネシアには、そういうサービスはないから、持って出ることはない。車を盗難されて、チケットがあれば、外に簡単に持っていかれるでしょ、駐車券は車の盗難防止の為に持って出るのが当たり前と言われた。なるほどと思うが、車の盗難など、私の周りで20年以上、聞いたことがない。それより、決まった待機場所がないなら、迎えに車を呼び出すシステムなら、そのことを、チケットを渡すとき言うのが常識でしょ、と言ってやった。運用して、多分、半年以上過ぎると思うが、足りない部分が沢山ある。インドネシア人は、問題ないのでしょうか、不思議だ。

 

16時半に外に出て、18時前にやった、駐車場から脱出した。それから、ジャカルタ方面に向かい道が分かりにくい、新しい道だが、案内の看板がない。とにかく、山勘で、道を選んで進んだ、LRTの線路に突き当たり、線路沿いの道に出た。どうも、方角が反対、しかし、一方通行、戻れない、レールの反対側の道は、向こうからの一方通行になっている、あちらの道に行かなければならないと思っていた。すると、500mほど先で、その線路を跨いでUターンするように、陸橋の道が出来ていた。ぐるっと回って、先ほどと反対方向(ジャカルタ方向)になった。そして、先ほど線路沿いの曲がった、突き当りの場所も通り過ぎて、100mほどのとことで、やっと、右折、ジャカルタ方向という看板があった。不思議な事に、何故、先ほど線路の突き当たった場所に陸橋を作らないで、500Mも離れた場所に陸橋を作ってUターンさせ、合計1km以上も遠回りをさせなければならないのでしょうか。相当な無駄使いだと思うし、時間や燃料も無駄になるのに。

 

今度は、渋滞の心配があった。ウイークデー。渋滞は覚悟していた。タマン アングレックのずっと前に大渋滞にハマった。北回りをしようか、迷ったが、グロゴール側を選んだ。20時前にはジャバベカに着くかな、と思いながら、渋滞の中に入っていた。

スマンギまで1時間、そこで、友を下して、ブカシバラットまで2時間、もう20時を回っていた。家に着いたのが21時過ぎ、クラッチを踏む足は、良く、釣らなかったと思う。とにかく、全ての出口の手前では渋滞になる。出口を過ぎると、少し流れが速くなるが、しばらく走ると、また、出口に手前の渋滞になる。

 

ということで、一日中、PCを開くことはなかった。家に戻って、やっとブリトゥンの投稿が出来た。もう、22時(日本時間0時)ちょっと前だった。やっと、その日に、間に合った。

楽しんだ後の大試練だ。平日のジャカルタは、とんでもないことになるから、絶対に行きたくないが、今回は仕方がなかった。

 

パンタイ ブキット ティンギのほんの一部。

 

この海岸、素晴らしい景色、しかし、遠浅の海岸は汚染せれていて、色が黒っぽいし、臭い。歩いてみようとしたが、歩ける状態ではなかった。

 

ヒラタ美術館(記念館)どぎつい、配色のオンパレード、ヒラタ氏がこれを認めたのか、彼の考えなのか、以前の素朴な自宅のままの時の方が私は好きだったが、今のペンキ塗りの家や周囲の壁は、気分が悪い。彼の作品は,“二十四の瞳“を、模したと言われても仕方がないような内容だが、その世界と、今の展示場の雰囲気は別の次元というか、世界だ。彼の本心が今にあるとしたら、ラスカル プランギは、いったい何なのだろうかと思う。やはり、本当に彼の作品その物かどう疑いたくなる。それに、彼の作品で、これ以外の物を聞かない。

 

http://otaenplaext.net/newpage48.html  前回

http://otaenplaext.net/newpage49.html

 

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0075.html 前々回

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00092.html

汚染 不十分 俗っぽい 

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(^_-)-☆夢中の二日間

2017-03-17 22:30:40 | 喜び

 2980 ほとんど半日のジャランジャラン、まず、ラスカル プランギの撮影学校へ行ってみる。雰囲気が以前と全く変わっていた。俗っぽくなっている。以前は、撮影学校の他に何もなかったが、今回は、土産物屋やワルンが10軒ほどある一角が出来ていて、そこが駐車場になっていて、そこを通らないと、学校へ行けなくなっている。結局、以前は学校の下の方から出来損ないのような門(校門)をくぐって学校に近づいたが、今回は横から入っているので、その門までは、降りて行って改めて上る。それと、以前にはあった、校舎の左側の建物が無くなっていて、新たに休憩場所が作られえ、分校の雰囲気を壊している。

そういえば、泊まったホテルに面する海岸、遠目にはきれいに見えうるが、近づくと臭いし、油汚れやプラスチックのゴミが埋まっていて、とんでもないことになっている。多分、数年間ホテルからの排出水やボミで、かなり汚染されている。折角の自然が売り物のブリトゥン、行政は、何とかしなければならないと思う。汚染はそこに限ったことではない。アンドレ ヒラタの博物館?へ行った。会館前だったので、直ぐ近くにあるという、アホックさんの記念館へ行って見た。その向かいに彼の母親が住んでいる家があった。彼は、ブリトゥンの出身だったのです。それなら、なおの事、スハルトの息子のトミーが広大な土地を所有していて、ゴルフ場やホテルを造成中だというから、なおの事、彼らが。先頭に立って、島の汚染防止と浄化を進めてほしいものだ。

 

現在の雰囲気では、島の環境が悪化するばかりだ。近い将来、日本人に勧めたくなくなる。

 

今回の旅で、色々な不満はあったが、あっという間の二日、日常にない雰囲気の中、十分に満足。気分は若返りだった。pura-pura kembari ke mudah それでも。体中が痛むし、疲労困憊だ。

 

ブリトゥン、タンジュン パンダンの空港ターミナル。

 

順調に進んでいる?空港LRT。

 

タマン アングレック このときは夕暮れ前、手前1kmくらいから、大渋滞の始まりだった。

旅 堪能 若返り

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