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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆空の上の上の空

2010-05-31 20:44:16 | 体験

KUCHING KOTAKINABALU BRUNEIからのバスが来ていた。マレーシア領まで近いところは300Kmくらいです。一番近いマレーシアの町はクチンと言います。多くの欧米人観光客はコタキナバルとクチンをセットで訪れるそうです。私は時間が無くて国境を超えることはしなかった。
 最終日、ポンティアナックの町を縦横に流れているカプアス川から街の様子を観光しようと思っていたが、生憎の大雨、屋根付きの大型ボートを見つけることができずに断念した。フェリーボートの発着場所はそこかしこにあるし、大型の貨物船が横付けされる港も沢山ある。観光船の港は少ない、そこへ行くアクセス道がまた目立たない狭い。地元の人が遊覧船や納涼船を楽しむという習慣は内容で、場所も船も少ないから外部からの観光客もその機会を探すことが難しいようです。在りそうな岸辺に行ってそこら辺の人に聞いても、あるかないか、あってもどこなのか知らない人がほとんどである。
市内観光をすることにしたが、それも、美術館や博物館もなく、車を使って巡るところもないときき、することが無くなってしまった。ショッピンギセンターでも行ってみるかと思ったが、時間が早く、開店していない。
そこで、その辺りにある土産物の店を見て回ることにした。アロエ関係の飲み物やお菓子、薬、が氾濫していた。アロエの形が似ているのでしょう。リダー、ビヤワッといって、トカゲの舌、という意味です。その他はインドドネシアならどこにでもあるクルプック(上げ煎餅)、乾燥魚、乾燥果物などが並んでいる。煎じ薬の元になる植物や木を乾燥したものも売っている。蜂蜜もどこでも売っている。
私が求める土産物というか記念品はTシャツです。その土地の名前が入っていて、その町の有名な建造物の写真がプリントされている物を必ず手に入れることにしている。今回は、赤道を表すモニュメントとポンティアナックが印刷されている物を買った。三万から五万Rpが相場です。サイズや生地の厚さで値段が変わるようです。Tシャツは何枚たまったでしょうか、数えたことが無いので沢山だということだけです。

今回の旅は、気分転換と新しいひらめきを求めようとしていて、旅そのものは殆ど上の空だった。こんな旅は初めてであった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
それでも、ゴムの木から採取したゴムを板状にして天日干しにし、ある程度水分を抜いてからゴム工場に出荷するということを、道端に広げて、天日干しをしていた人から聞いた。得も言われぬ臭さで二度とかぎたくない臭さだった。
イカンサルジュといってまっ白い肉の淡水魚、価格はこれで1500円くらいする。かなり高い。15Cmくらいの厚さで胴体を輪切りにしてホットプレートのような状態で出てきた。タイを柔らかく似たような感じで皮の内側にこってりと脂が乗っていて、大変おいしかった。綺麗に平らげた。このポンティアナックのカプアス川にしかいないという魚。
20:00に家に戻っている。
熱帯大魚  土産物  Tシャツ
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(^_-)-☆ここはどこ?私は?

2010-05-30 23:14:39 | 旅行
ポンティアナック市内にとどまる。旅の疲れと睡眠不足で、体が自分の間のではないように、筋肉がぴくぴく勝手に動くし、脳の中のここかしこで、クラックラとなにかが動いている、眠りにつくのか、意識を失うのか自分では判断できない変な状態になって,はっとして正気になるのか、目が覚めてしまうのか、これも分からずに自分に戻る。こんな状態を一日中繰り返しながら、何ヵ所か、めぼしいところを訪問した。夢の中で一日が過ぎたような気がするが、今は、正気に戻って書いている。
 東へ向かって内陸に入るとイスラムの影は薄くなってクリスチャンの雰囲気になってくる。ルマーパンジャンといって長屋の伝統的な家屋が多くなってくる。完全にダヤック族の集団家屋で、私が訪問した家屋はそこの長のような人が出迎えて、説明してくれたが、200年前から6世代が住み続けているという、この長屋には250人住んでいて、結婚もこの中同志で結ばれると言う。全員が親戚関係になっているという。近親結婚で弊害は無いのでしょうか。その長屋の道を挟んで向かい側に一戸建てや二三軒がくっついた家があるが、これらの家の人たちも親戚関係らしい。本当に、山の中のというより、孤立した集団の長屋で、住む家が足りなくなれば継ぎ足していったという。緩やかな坂道に沿って立っているので、どこから立て始めたのか知らないが、高床式の床の高さが殆どないところから、3mくらいまでの高さまである。弥生時代の遺跡の高床式倉庫の丸木をくり抜いて作った梯子と同じ梯子で家の前の廊下のような処へ上るとそこは下が見える隙間が空いている板敷きの道のようになっていてどこの梯子を上ってもその家の前の廊下を通ってどの家にも行ける。長屋の入口がいくつもあって、どこでも入ると、また、3mくらいの廊下がある、其の廊下に各家の人が出てきていて、あちらこちらで話をしている。そこから、各家々の扉が等間隔であるのが見える。
 その端の部屋が図書館と民芸品の展示場所になっていてそこに案内された。子供たちがぞろぞろ付いてくる。こういう現象は、昔のままの家を訪問するとどこでも同じである。誰もが人懐こい。
同じダヤックでもマハカム川沿いの、観光省の援助を受けて近年作り返したロングハウスに比べると本当に何の観光援助もなく自分たちだけで作ったようで、 本当に200年過ぎているとはこんな貧弱な建物で、とても思えない、せいぜい5~60年だと思う、また、釘が使われていた。外の廊下は、朽ちかけていて、怖くて歩けなかった。これらの多くは数年も使い続けられないと思うが、最近修復したような新しい材料を使っている場所も見当たらなかったのが不思議である。
こういう場所を訪問すると、自分の生活や仕事や人との係わりあいは何の意味があるのかと考えさせられる。生き方を考えさせられる。10年くらい前からの訪問者の記帳を見せてもらったが、日本人は一人も来ていない。ここの責任者も日本人に初めて会ったと言っていた。観光ツアーなどあるはずがない場所です。
 Sehaという峠の茶屋の風景。
ロングハウスの外の廊下と家の中の廊下
近親  閉鎖  森の中
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(^_-)-☆南北の地球に跨る

2010-05-29 20:05:05 | 旅行

 今どこにいるかというと、西カリマンタンのポンティアナックにいる。朝、03:00起きでスカルノハッタに向かい、05:00着06:00出発のはずが、07:15発になってしまった。バタビアでした。インドネシアでは、どの会社でも同じこと、一時間や二時間の遅れは常識の範囲内です。いちいち、腹を立てていたら、インドネシアでは暮らせません。
 何の事前調査もしていなかった、だだ、まだ、行ったことがなかったので来てみた。何がどこにあるのか全く知らないで、行きあたりばったり立ったが、一応、空港の観光案内所でパンフレットを貰った。
09:30に到着、すぐに北に向かいシンカワンへ行った。何もないところで、西の海岸を見ただけで、ポンティアナックへ戻った。この地帯も、雨季になれば至る所が水浸しになるのでしょう、どの家も、30Cm以上床を地面から上げていて、所要道路までその高さの板敷きの橋が渡してある。
 Sn.Kapuasカプアスという100m以上の幅がある川が街を縦横無尽に流れている。典型的な扇状地というのでしょうか、いくつもの川に次から次へと出会い、それを渡って移動した。その川の名前が全て、カプアスと言うらしい。何々カプアスという言い方をしている。ホテルも、カプアスの名前が付いているものが多いが、やはり、カプアス何々という名前になっている。ドライバーにカプアスホテルといっただけではどこか分からないようだ。
 思いもよらず、不思議な場所に出会った。またこの町の北に赤道の記念塔というか、北半球と南半球をまたがるようにムニュメントが作られている。北と南にまたがって西に向かい、左足は南、右足が北半球という状態で写真を撮った。こんな経験ははじめてだった。赤道の通過は数え切れないほどしているが、飛行機で通り過ぎていることが殆どで、地上で超えたのは多分初めてだと思うし、もし、今まであったとしても、川を船で通過したか、車で、街の中ではなく、森や林や田舎の道を通過している時で、気がつくことは無いし、それを、意識したこともなかった。今回は大都市の郊外ということで、立派な記念碑があり、名所にもなっている。欧米人も何人か来ていた。地元のデートスポットになっているようだ。
 ジャワでは今でも毎日、スコールがある。異常気象で雨季が終わっていない感じがするが、ここは、完全に乾季になっているようで、入道雲が低い位置を覆っていて、流石に赤道直下、頭の真上からじりじりと太陽光が暑い。パラボラアンテナが完全に真上を向いている。
 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

 仕事のことが頭から抜けない、心からエンジョイ出来ない。それを、見ていたら、閃いた。月曜日に早速やってみることが二つ浮んだ。
 Singkawangへ行く途中の海岸で。
 暑い  赤道  川の町
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ぎりぎりの生活

2010-05-28 23:14:20 | 行動
 ぎりぎりの最終日、明日から三連休、どうしても、今日、完成させなければならない物があった。気持ちの上で、この二ヶ月間、ストレスが増える一方、睡眠不足も続いた。日本なら、こんなことにはならなかったはず、いまさら、不平を言っても仕方が無いが、日本にあって、インドネシアにはないものが多く、それを使えば簡単に出来ることでも、こちらでは、出来ないことが多く、悩みが増すばかりであった。
 その上、ISOだ5Sだと、安全衛生だと、会社設立段階の準備をしている最中でも有り、技術や試作とは関係が無い話で、時間を潰されたり、そちらの方をやらなければならなったり、いちいち、私のサインが必要であったり、私のお客さんではないのにミーティングに呼ばれたり、工場を案内したり、余計な任務が多すぎる。試作に専念できないし、中断させられる。全く!!。

 まだ満足するものは出来ていないが、一先ず、サンプルを持って行った。駄目だとおもう。明日から、金型屋が三連休になるので、修正したいところがまだ沢山あるが月曜日にしかできない。もう、じたばたしても仕方が無いので、三連休は息抜きと、先入観を捨てるために、旅に出る。ひらめきが出ることを期待する。

 どんな仕事かって?それは書けない。秘密だからではない、こんな簡単に見えるものができないのがみっともないと思うからである。

てな訳で、ぎりぎりまで追い込まれてしまった。体重もここ二カ月で5Kg落ちた。ダイエットと言えば聞こえはいいが、望んでいない状態でただ痩せた。70から65Kgになってしまった。
 
いずれも、運転しながら前を行く車を撮った写真、一つは、パトカーに先導されて高速道路の中央をはしている中途半端に重要人物の車の後ろを付いて行っている。渋滞に遭遇した時に一番、賢い方法である。もう一つは、インドネシアで一番飲まれている飲み物テーソスロの配達トラック。断食の時の飲み物はこれしかない、満喫するには他に変わるものは無い。と書いてある。

ぎりぎり  思いつき  ひらめき
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酒 知識興味無し

2010-05-27 22:05:42 | 喜び

 私は全く酒類、アルコール類とは無縁です。66年に来てビールを何リットル飲んだでしょうか、酒を何リットル飲んだでしょうか。おそらく、いずれも、100Lも飲んでいないと思う。それ以上のんでいると思うが、殆ど吐き出してしまっているので、胃から下に下がったものは100L以下だと思う。ということで、インドネシアでも酒は一滴も飲んでいない。ビールも全く飲んでいません。アルコール類はゼロです。ですから、最近15年は飲んでいない。
 インドネシアのアルコール事情は殆ど知らない。しかし、アルコールをこよなく愛する人たちからの話を聞くと、日本系スーパーマーケットが輸入許可の問題を巡って問題が発生し、輸入を出来る食品が以上に少なくなってしまったことに始まって、ここ、二年ほど前から、酒類の入手が大変困難になっているし、手に入れても非常に高いという話が多い。日系のスーパーマーケットには置いてないという。置いても、すぐ無くなってしまうほど少量しか手に入らないらしい。日系のレストランでも入手には苦労しているらしい。多分、許せる範囲であの手この手を使って手に入れていると思う。
 ウイスキーやワインは比較的、普通のルートで手に入っているようです。
先日、ある人から、酒飲みの方々に大変、喜ばれそうな情報を受けた。バリと言えば、最近密造酒を飲んだ人が集団で亡くなるという事件が立て続けに起きている。そのバリから安い、アルコール度の高い焼酎を簡単に入手できるということでした。
 バリワインは有名で、空港の免税店やバリの免税店に大量に置いてある。ワイン好きの人に土産として買ったことがある。
   その情報が確かかどうか、確認するために、仲介の人に三日ほど前に頼んでおいて、今日、その酒を入手した。ルートは極秘です。確認できた。私が飲むわけがないし、鑑賞する気もない、これを、酒に飢えている人にプレゼントしようという考えです。めちゃくちゃ、喜ばれるはずです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

 インドネシア人にとっては大変有名なお酒で、イスラムの人たちの間でも飲む人にとっては魅力あるお酒のようです。Arak Baliという焼酎でしょうか、よくわかりません。アルコール40%です。価格は680ML12本で一万五千円でした。一本千二百円ちょっと、高いか安いか私には分かりません。酒類を殆ど買ったことが無いし、買ったことがあっても、値段を覚えていないし、他人が、これはどこでいくらだったとかいう話をしていても、全く、聞く必要が無いからです。
電話で頼んで三日後に手に入りました。オレンジジュースで割って飲むとおいしいと書いてある。アラックとはお酒という意味でそうです。バリのお酒という意味です。

 勿論、私は写真を取っただけで、飲んでいません。どんな味だか知りたくもありません。ただ単に水にしか見えないほど、無色透明の液体です。
片側交互通行の道でもバイクはドンドン対向車線を走って行ってします。待つことを知らない。対向車の邪魔になっていることで結局、全体の流れを遅らせる原因になっているとは思わないのです。
喉から手  入手  紹介
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繁栄の末期症状

2010-05-26 20:12:59 | 情報
またまた、レクサスをリコールした、某車生産の超大企業のT社のT社長は知っているのでしょうか。日本や他の外国のことは知りませんが、インドネシアの業界のことは知っています。車やさんだけに限ったことではないと思うが、車屋さんやバイク屋さんの規模が多きい最終組み立て屋(大企業)さんの品質管理担当者が、欠陥を追及するのに、日系の一次、二次の下請けの表面的状況を厳しく監査するだけで、奥の秘密については目をつぶっているのか、本当に知らないのか、チェックをしていない状況です。
見積もりや品質については、日系企業からの資料をもとにしている。そして、監査があった時も、其の日系企業からの品物を基礎にして製品を作っているという資料しか見せない。下請け日系企業は隠れ蓑に使われているのです。
 感心させられた製品の購入の仕方があった。製品のサプライヤーに原材料を支給する(売る)その価格は、それは明らかにしないが、入手した価格の30%増しの価格で支給する。原料を売って利益を上げるのです。その原料価格を元に製品の見積もりを出させる。利益率は10%以内に抑える指し値を最終的にのませる。処だ、それが最終にならない。原料の価格が上がったと言って、原料価格を例えば20%上げる。そして、利益の金額をそそままにし原料価格だけ上げた見積もりを出させる。当然利益率は下がる。製品発注側は原料を売って利益を上げ、製品価格は実質値下げをさせたことになる。うまいやり方である。その会社は、最終組み立て会社に出す価格は、原料が上がったと言って、定期的値下げ依頼を断ることができる。自分が売った原料価格分、実際に仕入れ価格が上がっているからです。ちなみに、私が取引している会社はそんなことはしません。無償支給で、出来ただけの数量を加工賃で引き取ってもらています。
 中間はそういうことをしないと、最終組みたて会社からの値下げ要求を飲めないのです。苛められるのは中小零細の日系企業です。それでも、コンスタントに仕事があるということで、そういうカラクリを知りながら、引受けているのです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
もう一つの方法は、前にも、書きましたが、ローカル企業から、どんな原料でも構わないので、一応使える製品を調達し、その、比率を増やすのです。原材料の品質を確認しません。とにかく安ければいいのです。原料証明もISOも要求しません。監査にも入りません。それを要求するのは日系の下請けです。そこから出る資料を最終組み立て会社に出すために、その会社から、若干高くても、少しの比率だけ製品を購入するのです。日系企業はそういうところでも、うまく、利用されているのです。監査も、値下げ要求も定期的に来ます。
 最終組み立て会社(大企業)の担当者は当然知っていると思うが、それは、暗黙の了解ということになり、今回のようなかなり厳しいリコール問題が発生した時にも、同じです。ローカル企業までは調査や要求はしません。問題を起こした部品だけ交換して終わりです。大騒ぎをして見せるだけで実態は何も変わりません。ほとぼりが冷めるのを待つだけです。
 MM2100工業団地の入り口ゲートと押出工場のオフィスの私の場所から現場を見ることができる。
終末  有償支給  コストダウン
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商売上手?

2010-05-26 15:43:59 | 情報
またまた、レクサスをリコールした、某車生産の超大企業のT社のT社長は知っているのでしょうか。日本や他の外国のことは知りませんが、インドネシアの業界のことは知っています。車やさんだけに限ったことではないと思うが、車屋さんやバイク屋さんの規模が多きい最終組み立て屋(大企業)さんの品質管理担当者が、欠陥を追及するのに、日系の一次、二次の下請けの表面的状況を厳しく監査するだけで、奥の秘密については目をつぶっているのか、本当に知らないのか、チェックをしていない状況です。
見積もりや品質については、日系企業からの資料をもとにしている。そして、監査があった時も、其の日系企業からの品物を基礎にして製品を作っているという資料しか見せない。下請け日系企業は隠れ蓑に使われているのです。
 感心させられた製品の購入の仕方があった。製品のサプライヤーに原材料を支給する(売る)その価格は、それは明らかにしないが、入手した価格の30%増しの価格で支給する。原料を売って利益を上げるのです。その原料価格を元に製品の見積もりを出させる。利益率は10%以内に抑える指し値を最終的にのませる。処だ、それが最終にならない。原料の価格が上がったと言って、原料価格を例えば20%上げる。そして、利益の金額をそそままにし原料価格だけ上げた見積もりを出させる。当然利益率は下がる。製品発注側は原料を売って利益を上げ、製品価格は実質値下げをさせたことになる。うまいやり方である。その会社は、最終組み立て会社に出す価格は、原料が上がったと言って、定期的値下げ依頼を断ることができる。自分が売った原料価格分、実際に仕入れ価格が上がっているからです。ちなみに、私が取引している会社はそんなことはしません。無償支給で、出来ただけの数量を加工賃で引き取ってもらています。
 中間はそういうことをしないと、最終組みたて会社からの値下げ要求を飲めないのです。苛められるのは中小零細の日系企業です。それでも、コンスタントに仕事があるということで、そういうカラクリを知りながら、引受けているのです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
もう一つの方法は、前にも、書きましたが、ローカル企業から、どんな原料でも構わないので、一応使える製品を調達し、その、比率を増やすのです。原材料の品質を確認しません。とにかく安ければいいのです。原料証明もISOも要求しません。監査にも入りません。それを要求するのは日系の下請けです。そこから出る資料を最終組み立て会社に出すために、その会社から、若干高くても、少しの比率だけ製品を購入するのです。日系企業はそういうところでも、うまく、利用されているのです。監査も、値下げ要求も定期的に来ます。
 最終組み立て会社(大企業)の担当者は当然知っていると思うが、それは、暗黙の了解ということになり、今回のようなかなり厳しいリコール問題が発生した時にも、同じです。ローカル企業までは調査や要求はしません。問題を起こした部品だけ交換して終わりです。大騒ぎをして見せるだけで実態は何も変わりません。ほとぼりが冷めるのを待つだけです。
 MM2100工業団地の入り口ゲートと押出工場のオフィスの私の場所から現場を見ることができる。
終末  有償支給  コストダウン
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ガソリンスタンド

2010-05-25 20:09:22 | インドネシア

 インドネシアのガソリンスタンドはポンパ ベンシン(Pompa Bensin)と言います。ベンシンはガソリンです。プレミュウムというのが一般のレギュラーガソリンです。ソーラル(Solar)が軽油です。どちらも値段は4500Rp(45円)/Lです。原油の上げ下げで変動することはほとんどありません。国が補助金でその価格を保証しているのです。日本の三分の一くらいでしょうか。感覚としてはタダ同然に安いと感じる。ポンパベンシンは至る所にある。ジャワ島ならどんな山の中でも、車が通る道があれば、ポンパベンシンもある。多分、離れていても10Km以内にあると思う。だから、安心です。国営のプルタミナという会社が独占していると言っていい。シェルなど外資系のガスステーションもあるが、ジャカルタ近郊にしかないし、店の数もプルタミナに比べれば十分の一もない。
 ガソリンを入れるのに満タンという人はほとんどいません。何リーッターという人もいません。金額を言うのが普通です。大変合理的だと思う。細かい金額を言う人はいない。一万Rp単位でいう。私は、15万Rpということが多い。スタンドの人が、金額をセットし、金額がゼロになっていることを確認させてから、給油を始める。その金額になれば自動的にストップする。その間にお釣りやら領収書を受け取ることができる。日本のようなサービスは一切なし。給油口を開けるのも閉めるのも客である。車の給油は5万Rpが一般的です。満タンにする人は、日本人の運転手くらいなものです。
 バイクが多いので、数年前辺りから新しく作られたガソリンスタンドはバイク専用のポンプがあって、一般車両の列に並ばないで、そちらの方に並ぶようになっている。バイクの給油量の様子はやはり金額でいうが、1万Rpが殆どで2Lちょっとということになる。数年以上前のガソリンスタンドはその区別が無いので、バイクがどんどん割り込んでくる。危なくて仕方が無いし、車の給油が後回しにされることになってイライラさせられることがある。工業団地内のガソリンスタンドは区別が無い上に車だけでも数代以上並ぶことがある。30分くらい待たされることがあるので、私は、そこでは入れない。私が住んでいる住宅地のガソリンスタンドを使う。ほとんど、行列は無いので、待つことは無いし、バイクは別のポンプになっている。
 ガソリンの販売は自由である、許可を取って売っているとは思えない道端の売店が沢山ある。二リットル一瓶で一万~一万二千Rpで売っている。ガソリンスタンドでポリタンクに入れてもらって買ってくる、それをビン詰めにして売るのです。主要道路からわき道に入った、車は通れない、バイクは通れるという道端で売っているのです。プルタミナのミニですから、これを私はプルタミニと言っています。これはガソリンスタンドの10倍以上に店があると思う。便利なものです。日本では全く考えられない。
必ずトイレとイスラムのお祈り部屋がある。給油しなくてもお祈りやトイレに寄る人は多い。私は、昔はモスジッドに寄ってトイレを借りていたが、最近はその必要はなくガソリンスタンドに寄ることにしている。トイレで困ることは全くなくなった。それに、大概、掃除をする人がいて、綺麗になっている、チップは千Rpが普通である。女性は特に助かるようだ。ムディック(レバランの帰省)の時は特に重要だ。
日本人は、車を使っていない時に運転手がガソリンを満タン近くに入れておくので、ガソリンスタンドに寄ることは無い。どんな様子か知っている人はほとんどいない。
カンクンと豚肉を炒めたもの。ポンパベンシンの給油係員は女性が多い。
トイレ  お祈り  給油
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キャディーの収入

2010-05-24 19:19:28 | ゴルフ
表面的には明るく楽しく見えるが、実態を知ると寂しくなる。
ゴルフのキャディーの給料は、一般的に固定給は無しである。彼女達の収入は、誰かの手伝いをすればキャディーフィーとして一人当たり4万Rpを貰える、毎月月末に纏めてもらえる。ユニフォームやボーシは支給されたものを使う、これはタバコや電話会社などのスポンサーが支給するもので、ゴルフ場の負担にはなていない。その他靴など身につけるものは自分で負担する、物によってはゴルフ場から指定されたものを指定された業者から買わなければならない。これらは、月末支給されるキャディーフィーから天引きされる。交通費や保険など一切、ゴルフ場はキャディーの手伝いはしない。
そして、1週間に1日休むことができるが、勤務時間は指定される。その時間は、キャディーの仕事が無くても、控えていなければならない。1か月に五日休んだり変更をしようとすれば、もう来なくていいということになる。
ですから、どこのゴルフ場のキャディーも収入の大半は客から貰うチップである。ゴルフ場から貰うキャディーフィーが10人手伝って40万Rpでも一人当たり平均10万Rpチップを貰えば100万Rpになる。これで、大体、インドネシアのジャカルタm付近の最低賃金になる。
税金はチップからは引かれないという、だから、申告はしない。メンバーで決まって指名してくれるお客さんを掴めば、そして、必ず、指名されたときに手伝えば一回15万とか20万Rpを受け取ることができる。そういう人を早く見つけることができれば
安定した収入を得ることができるし、緊張しないで楽しく手伝いができるので、皆さん、そういう人を獲得しようとしている。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

カラオケの女性と似た処がある。カラオケの場合は一般的に20時間のアワーチャージを店に払えば女性を連れ出すことができる、女性はその60%を貰える。キャディーの場合も、特にインドネシア人の公務員やある程度名の知れた会社の地位の高い人たちは、キャディーを指名し、プレーの後食事に誘ったり、その後の相手もさせたりする。ゴルフ場のキャディーマスターにある程度のお金を渡し、キャディーマスターから本人に、其の人の手伝いをするように、と、言い渡してもらい、本人には断ればキャディーを続けられなくなると脅かしを掛ける。そういう、犠牲になっているキャディーも多いとい。高卒でキャディーになったばかりの子が犠牲になるようだ。インドネシア人のスケベオヤジどもが虎視眈々とそういうことを考えながら、ゴルフ場に来ていると思うと、情けなくなる。それで、キャディーを辞めてしまう子もいれば、割り切って、其の通りにしてある程度の収入を得る子も多いという。
私が気に入って指名してやろうと思っても、拒否されることがある。インドネシア人の手伝いをする必要が無い日は私の手伝いをするが、今日はキャディーマスターから他の人の手伝いを頼まれているから断れないので、手伝いを出来ないと言われる。可哀そうになるが、どうしようもない。
ゴルフ場の外から垣根越しに商売をしている売店。ジャバベカゴルフは品質が良い中古のゴルフボールを安く手に入れることができると言う評判で、ボールを大量に仕入れるプレーヤーも多い。ゴルフ場経営の売店より30%は安いが、外のスーパーで買うより30%高い。
日本なら沈下橋と言ってちょっとした名所になるところですが、インドネシアなら全国至る所にあるから珍しくもなんともない、というより、安く簡単にできる橋です。一般的な橋です。そばにトイレ兼水浴場があるがこれも至る所にあるし、そのそばで野菜や食器を洗うし、洗濯もする。
収入  副収入  指名
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すごい食文化

2010-05-23 21:11:39 | インドネシア

昼食の時にスイカやメロンをナイフで薄く切ったデザートがありますが、流石の私も時々、食べないことがあります。汚い板の上で、男の子の汚れた手で掴んで、飲んではいけないと言われている水道水で洗った切れないナイフで切ってくれるのです。其の一切れ、一切れをその汚い手で摘まんで、皿に盛ってくれるのです。
クルプックといって煎餅に一種が大きなプラスチックの箱に用意してある、それと、同じようにサンバルも同じような箱に一杯用意されている。その二種類は取りたいだけ取ればいいのです。サンバルはこれでもかというくらいに皆さん大サジで取ります。私は見向きもしません。
おかずは野菜のてんぷらや鶏肉のから揚げやテンペゴレン、野菜スープなどですが、いずれも、皆さんは沢山のサンバル(辛子)を掛けたり、塗ったりして食べる。本当の味は皆さんにわ分からないと思う。何でもかんでも激辛で食べるのです。味など分かるはずが無い、臭いも彼らには分からないと思う。タダタダ、ひたすらに辛くして、おいしいと言って食べているのです。
これには二つの効果あると思います。一つは消毒、滅菌効果だと思う。少々腐っているとか、少々の雑菌はこの辛子で消滅してしまうのでしょう。もう一つは味や臭いを感じさせない効果です。臭いとか、洗剤の臭いがするとか、焦げ臭いとか、腐ったにおいとか、ドブ臭いにおいとか、苦いような味など全部を消すと思う。彼らはそして何の不満もなく大量に食べているのです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
私は辛いものはからっきしダメですから、辛くして何もかも消して食べるということはできません。ですから、そのものの味や臭いを感じます。油の臭いも色々です。それを皆さんに言っても分かりません。私は、味や臭いを純粋に感じながら食べています。決しておいしいとは思わないし、また、石鹸の臭いも時々感じます。灯油のような臭いも感じるが、そんなにまずいとも思わない。こんなものだろうなと思って食べている。皆さんに取っては、日本人が一人一緒に食べているということが、一つの安心感につながっているようですし、仲間意識も感じてくれているようだ。無理をしているのではない、私は、自然に皆さんと一緒の食事をしたいと思っているだけです。こんな不潔で危険が一杯のような食事でも私自身はこれを食べたからお腹を壊したということは一度もないので、一緒に食べて大丈夫だと思っている。ただし、これも、他の日本人にはお勧めしません。ただ、現実を見てほしいと思うだけです。

タイヤ二つと三角に支える足が付いて人が引っ張ってきて適当な道端で色々な食べ物を売る移動ミニ食堂です。カキリマ(kaki lima)五つの足、と言います。

会社の装置のクローズアップ。着々と準備は進んでいるが、いつ本格的に稼働を始めるかまだ定かではない。
消臭  気にしない  無関心
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ジャワ島随一の大河

2010-05-22 21:56:27 | 日記
ブンバワンソロBengawan Soloの作詞作曲をしたグサンさんが亡くなった。私が小学校の頃“ブンガワ~ンソロ、清き流れ”と音楽の教科書の載っていてよく歌ったものでした。インドネシアへ来て仕事をするようになり、従業員の皆さんと食事会やレクレーションの会で、私が歌うと皆さんから拍手喝さいでした。“可愛いあの子は誰のもの”という“ノーナマニスヤンプーニャン”という歌も、小学校の時に習った歌でした。
 インドネシアについての知識はラルレシアとこの歌でした。いずれも、現地を訪れて確認をしました、その後、何回もいってきました。
 ブンガワン・ソロという歌は、その流域に伝わる伝説を詩にした歌ですが、この、クロンチョンという音楽のメロディーが何とも言えない哀感と共にリズム感がある独時な貴重な印象を与えてくれる。インドネシアには色々な民族の色々な地方独特のメロディーがありますが、私はクロンチョンが大好きです。
以下、ジャカルタ新聞からの抜粋です。グサンさんは一九一七年十月一日、ソロ(現地名スラカルタ、中部ジャワのジョクジャカルタの東北に位置し、車で一時間ほどの距離、)生まれ。演劇や歌を披露する楽団に参加し、第二次大戦中は日本軍の慰問団としてジャワ、スマトラ島各地で歌った。日本軍政下、故郷から東ジャワへと流れるソロ川(ブンガワン・ソロ)を歌った「ブンガワン・ソロ」が日本兵の心をとらえた。戦後、松田トシ(敏江)が日本語訳で吹き込んだレコードが大ヒット。南国歌謡ブームを巻き起こし、日本で最もよく知られる東南アジアの流行歌となった。これまでに演歌、ジャズ、ロック、ポップス歌手らが取り上げ、日本をはじめ海外で最も有名なインドネシアの歌として親しまれている。
 ブンガワン・ソロはジャワ島最長の川。雨期は氾らんし、乾期には枯渇する川の雄大さと、そこに生きる人々の様子を歌にした。ポルトガル起源の伝統的なクロンチョンではなく、欧米のポップスの影響を受けた新しいスタイルのクロンチョン。
 ほかにも、スラバヤ市内の橋で去って行った恋人を待つ心境を歌う「ジュンバタン・メラ(赤い橋)」、思い出の人を回想する「サプタンガン(ハンカチ)」など、戦争当時の男女の離別を歌った作品が多い。
Lagu Bengawan Solo, ciptaan Gesang :
Bengawan Solo, riwayatmu ini sedari dulu jadi perhatian insani musim kemarau, tak seberapa airmu di musim hujan air meluap sampai jauh … mata airmu dari Solo terkurung gunung seribu air mengalir sampai jauh akhirnya ke laut … itu perahu, riwayatmu dulu kaum pedagang s’lalu naik itu perahu
はっきりってブンガワンソロ自体は観光として行くような場所ではない、汚れた茶色い水が滔々と流れているだけで、音楽の時間で習って知っているので、訪れる日本人も多いようですが、皆さん、来なければよかった、という印象が強いようです。私もそういう印象でした。写真を取る対象も殆どなかったので、あまり、写真を取っていません。

有名  作詩  作曲
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食文化のすごい一部

2010-05-21 21:58:09 | グルメ

斜めからインドネシアを眺めよう 613
 内容はガラッと変わります。グルメです。
典型的な道端の食堂、不法出店です。ここのメニューにも垂れ幕に書いてあるようにソプブントゥットゥSop bentutがあります。70円位でしょう。女性が下ごしらえをしています。普通のレストランでソプブントゥットゥとなると600円以上になる。高級ホテルのレストランではオックステール スープ2000円以上になります。私はピンキリまで食べたことがありますが、味は同じです。量は日本のラーメンどんぶりに一杯くらいです。骨付きの肉の厚さは2cm位で、三つ入っています。骨のまわりの肉付き量も牛の尻尾ですからそんなに変わらない。
 
 場所代、人件費、材料費、容器費などの違いで値段が変わると思うが、もともとの牛の種類や病気などの管理をしているか、していないかでも尻尾の仕入れ値が違うのかもしれないし、高給レストランの長期保存で処分したい肉を引き取って使うのかもしれない。インドネシアですから、そういう、腐りかけている肉を扱うシンジケートがあっても自然だと思う。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
Bakso(バソ)という、日本でいう、肉団子がある。色はグレーである。見た目は魚のミンチを丸くしたように見える。どう見ても、挽肉を丸めたものより、もっと、練りこんであって中も両面のデコボコ感は全くない。これの値段がやはりピンキリで、ミーバソも50円から7~800円の違いがある。人に聞くと、ヒドイ物は鼠の肉を大量に混ぜているとか、犬を大量に使っているとか、もっとひどい話で、肉ならならなんでもいいとばかり、ゴキブリや毛虫やムカデなども混ぜてしまっているという話もある。鳥フルで焼却処分されたはずの鶏肉が使われているとか。インドネシアですから、本当の話のような気もする。見た目では何の肉が使われているか誰にも分からない。DNAの分析をすれば分かるでしょうが、流通の百万分の一もチェックはできない。

我が社の社員食堂の昼食用のご飯です。中に杓文字が見えますが、各自、この杓文字を使って、自分の皿に好きな量だけ盛ります。全員がこの容器の中に上から手を入れて掬うのです。手や袖に着いている埃は全部この容器の中に落ちます。其の杓文字はご飯の上に置いてあります。それを掴むとき手がご飯に触ります。杓文字に着いた汚れがご飯に触っています。何十人と同じ事を繰り返すのです。これは一例で、その他にも指摘する処は沢山あり過ぎて不潔さは目を覆いたくなりますが、私は皆さんと同じようにこれを食べています。他の日本人は、この食堂に近づきません。もし、私以外の日本人がここの食事を一緒にしたら、たちまち、下痢や腹痛に見舞われるでしょう。そして、この様子を批判するでしょう。しかし、この様子を全く知りません。
 “未だに示されていない就業規則“の案に会社は従業員の安全と衛生に関して常に考慮するということが明記してありますが、この状況で、十分、考慮しているというのでしょね、きっと。
インドネシア  ピンキリ  不潔
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メガネとの付き合い

2010-05-20 21:41:40 | 生活
 高校二年から三年の春休みに修学旅行があった。屋島の旅館で友達と一緒に撮ってもらった写真に初めて私がメガネを掛けた姿が映っている。
メガネをかけ始めて、やはり、50年。メガネとの付き合いは長い。コンタクトレンズは考えたこともなかった。当時はメガネを掛けている子は余りいなかった。メガネの価格が今よりも高かったことと、メガネを掛けること自体が、ガリ勉の印象があったからだ。女性でメガネを掛けている子はほとんどいなかった。だから、私も、本当はメガネを掛けたくなかったが、書いたように、卓球の球が二つも三つも見えていては試合をしにくくてしょうがなかったことが最大で、不都合が多くなりすぎて、やむ負えず、親に頼んで買ってもらった。掛けて世間が急にはっきり見えるようになり、今まで全ての女性がピンボケ美人だったのが、急に、美人ではない人が多くなった事を意識した覚えがある。呉服町一丁目の老舗のHメガネ店だった。静岡に当時はそのメガネ店しかなかったように思う。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
必要に迫られて使い始めたが、現在は完全に老眼になってしまっている。近いところ、50cm以内はまったくピンボケ状態である。焦点を自動的に合わせる能力が無くなってしまっている。メガネを使わなくても、新聞が読めるという老人を私のような状態になった人には信じられないでしょう。老眼メガネは必携になっている。近くや手元を見る場合は必ず使わなければ見えない、読めないから仕方がない。近いところが見えるように老眼メガネを使わなければならない。相手がいる場合は特に必要で、読めない、見えないでは話にならず、相手に失礼になってしまう。
また、現場にいる時も欠かせない。製品についても装置についても、ピンボケでは何も言えない。傷や異物や寸法の違いはインドネシア人の若者より早く正確に見つけて、指摘しなければならないからです。インドネシア人にこれはどうですかと聞かれて、見えないから、問題ないと返事をしてしまっては、インドネシア人から、その後聞かれなくなってしまう恐れがある。老眼鏡を掛けないで、見えるふりをする必要は無いし、見栄を張る必要もない。この歳になれば当然のことで、周りの人も、歳だからな、と思うだけである。
住んでいる住宅地から高速道路にはいる道、07:00頃ですが、朝靄がまだ漂っている。従業員の集団健康診断に使われたレントゲン車、私がよくお世話になっているルマーサキッ ハラパンクルアルガの所有。
写真容量の少ない無料ブログの写真は古いものから消去せざるをえません。もし、よろしければ、保存をお勧めします。
衰え  カラ元気  ピンボケ
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あれから50年後

2010-05-19 21:52:08 | 生活
何の、心配もなかった。不満、不平を思うことは何もなかった。悩みは無かった。望むことはあったが、回りを見回して、その望みがかなわなくても、気を落とすことは無かった。本人はどちらも中途半端で、どちらの力にも不満だったが、周りの目は運動と勉強を両立させている模範と移っていたようで、まだまだだよ,と言える雰囲気ではなかった。将来、もし、落ちぶれた人生になっていたら、「あの人がね、今は、どうなってしまったのでしょうか」、と、言われてしまうだろうなと、変な、プレッシャーを感じていた。本人、努力も頑張りもしていないのだから、この程度でいいと思った。
 自分で望んだ道だが、まさか、インドネシアで強烈なパワハラの対象にされる人生が待っているとは思わなかったし、私の技術を自己中の乱暴な人に与えてしまうことになるとは想像していなかった。
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 高校二年の頃、なんとなく、目が悪くなってきたことを意識し始めた。英和という女学校の体育館の脇を通って高校に通っていたが、すれ違う女学生が全員、ピンボケで綺麗に見えた。中に、知り合いの女性がいて、遠くから私を見つけて、会釈したり、手を振ったりしてくれているが、私の方からはその距離では誰なのか確認できず、なんとなく手を振り返して置いて、近くになって、なんだ、と思うことを繰り返した。
 黒板の文字が見にくくなって、前の席に移動した。卓球のボールが相手側にある時に、二つに見えた。そんなことで、高校三年から近眼用のメガネをかけることになってしまった。それから、ずっと、メガネのお世話になっている。時は流れて、青春から何十年後の近い過去。ところが、50歳を過ぎるころ、明らかに目の事情が違ってきた。近いところがメガネのままでは見えなくなってきた。メガネを外せば近くが見えた。老眼鏡は必要なかった。60を過ぎると、今度は、近いところは老眼メガネが欠かせなくなった。製品のチェックをするのに必ず老眼鏡がいるようになった。逆に近眼のメガネは必要なくなった。ゴルフボールの行き先を裸眼で追うことができる。近眼になった当時の事を思い出すと、隔世の感がある。今は、ゴルフをするときにメガネをはずしている。グリーンの読みも、はずしていた方が分かりやすい。何かを読むとき、コンピューターに向かう時、必ず老眼鏡をかけることになっている。パスポートや運転免許証の写真はメガネをかけていない。
 それプラス、目が乾くようになってきた。潤いを増すための目薬を離せなくなった。
こちらの目薬は、目に刺激が無い。ただの水ではないかと思うくらい、スットするわけでもないし、臭いも全くない。インドネシア製のロート目薬も売っているが、刺激やすっきり系は売っていない。
運転中、特に何時間も長時間運転する場合は、目が痛くなるくらい乾くようになって、目ヤニが溜まってしまう。こういうことを感じてくると、やはり、年だなと思う。
目の衰えを最近特に感じる。
バンドン近くスバンの茶畑、茶摘み風景です。生まれも育ちも静岡の私としとしては、たいへん懐かしく感じる風景です。インドネシアでも、プンチャックやレンバンの茶畑の中を何度も歩いたことがあります。と、突然、本場スイスのエーデルワイズです、この花は本当に奥ゆかしく質素でなごやかな感じがします。
 流れ  安心  順調
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青春謳歌の一幕

2010-05-18 22:19:54 | 環境
 今は、知らないが、当時、卓球の試合の団体戦は、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルという順の5ゲームで三勝を挙げた方が勝ちという形式だった。四人で団体戦組み、その中の実力一二の二人がダブルスを組む。順番は、作戦で、相手のNo,1とこちらのNo,4が当たるように考えるとか、No,1同士をぶっつけようかと考える。一般的には、No1、No3 ダブルス、No2、No5にするチームが多いので、こちらの誰をそれにぶっつけるかを考える。相手の一人一人の大多数は中学校の当時からの知り合いが多いので、大体の実力は分かっていた。他の学校は、顧問のコーチが決めていたようだが、私にチームにはコーチはいないので、キャプテンが主に決めていたが、メンバー全員で、相手の誰と当たりたいとか、当たりたくないとか言い合って決めていた。それは、それでいいのだが、高校二年の時、静岡県中部大会団体戦の準決勝で、私はその時、自チームのNo3として、ダブルスの後、4ゲーム目にエントリーしてあった。本当の作戦は、三試合で、二勝一敗で来て、私は捨て石で負けてもいいように相手のNo1にぶつけ、二勝二敗でチームのNo1が最期の相手のNo4に勝って、三勝二敗で勝利する作戦だった。処が、作戦に反し、負けてはいけないダブルスで負け、そこまで、一勝二敗になってしまい、私が負ければ終わりだった。私は中学の時にその相手と二回試合をしているが、簡単に負けてしまっていた。自分のチームの全員が、もう、だめだと、あきらめてしまい、ヒドイことに、試合場所の周りで応援するはずの自分の学校のメンバーが誰もいなくなってしまった。私の次に出場するはずのNo1でキャプテンもいなくなっていた。何だこりゃと思った。相手の学校の応援団は強制的だろう、大勢来て大声をあげていた。
 試合が始まった。私が簡単に負けるはずだったが、最初から、どうも様子が変だった。私のサービスを相手はことごとくリターン出来なかったし、相手のサービスは簡単にいきなりスマッシュを決める事ができてしまった。相手は、そんなはずではなかったという焦りが、もっと、緊張を膨らませ、がちがちになっているのが分かった、試合をしていて相手が気の毒になってしまった。相手のコーチがいろいろ指導したが、空回りだったのでしょう、最期まで、ペースをつかむことができなかったし、打つ手を変えようともしなった、ずるずると、私が勝ってしまった。自分でビックリだった。
 回りを見ると、他校の女学校の中学校当時から知り合いの友達が大勢、私を応援してくれていた。中に、私が片思いで、それに気がついてくれず、本人は友達と思っている女性も応援してくれていた。勇気百倍だった。自分のチームのメンバーの応援など必要なかった。もう、夢見心地で、アイドルになったような気分だった。
 勝って、5ゲーム目に出るはずのキャプテンはどこにいたかというと、着替えてしまって帰り仕度をして、自転車でグラウンドをぐるぐる回りながら私が着替えて出てくるのを待っていてくれた。帰ってしまわなかったのが救いだった。急いで着替え直し、会場に戻って、試合に臨み、簡単に勝って決勝戦まで進んだ。決勝では私が5番目になったが、私までまわって来ないで負けてしまった。こんな、チームでしたが、先輩も後輩もなく、和気あいあいだし、キャプテンとは小学校からの一年上の兄さんのような付き合いだったし、練習が終わって、自転車の後ろに乗せてもらい、二人乗りで、帰宅する機会も多かった。高校まで同じで、大学は違ったが、国公立選手権の会場や私が郷里に帰った時に静大の卓球部で先輩にお世話になったこともあった。
 静岡県庁の事務長を長期で勤め、長い間、県知事の補佐をしていた。卓球部のOB会で数年前に会って其の当時の話をしたら、覚えていた。
スマトラ島のトバ湖の西の端にあるシピソピソの滝、高さは、一見しても、那智の滝の倍はありそうだ。
 中部ジャワのブンガワンソロ(インドネシア一の大河)の渡し船。清き流れは嘘、茶色く濁っていて、流れ来るゴミの量は半端じゃない。
 先輩  番狂わせ  実力通り
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