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JFK 証拠隠滅

2024-05-16 10:44:12 | 歴史四方山話


 

JFK 証拠隠滅

 


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ケイトー。。。 ケネディ大統領暗殺の証拠が隠滅されようとしているのォ~?


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すでに多くの証拠がCIAによって隠滅されているのですよ。。。

マジで。。。? どうしてCIAが証拠を隠滅している、と見てきたようなことを言うのォ~?

実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次のドキュメンタリーを観たら出てきたのですよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



上の映画は次の本の内容に沿って制作されたのです。。。

 



Mortal Error

(致命的なエラー)


 


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致命的なエラー:(JFKを殺した銃弾)は、ボナー・メニンガーによる1992年のノンフィクションの本で、狙撃兵、ガンスミス、弾道学の専門家であるハワード・ドナヒューによる、シークレットサービスのエージェントがジョンF.ケネディ大統領を実際に殺した銃弾を誤って発射したという理論を概説している。
この本は、St Martin's Pressからハードカバー、ペーパーバック、オーディオブックで出版された。

ドナヒューは、11人の招待された射手と狙撃兵の1人として射撃の再現に参加した後、ジョンF.ケネディの暗殺に興味を持った。
ドナヒューは自身の調査によると、ケネディの頭を撃った弾丸は、実際には米国シークレットサービスの特別捜査官ジョージ・ウォーレン・ヒッキー・ジュニア(1923年3月24日ー2005年2月25日)によってAR-15から発射されたものだった。

大統領の車両の直後の車にAR-15ライフル持っていたジョージ・ヒッキーが乗っていた
射撃事件は次の手順で起こった。

最初のショットが発射された後、ヒッキーは完全に向きを変え、教科書保管棟の6階でオズワルドを目撃した。
彼の向きを変えた頭部は、ジェームズ・アルトヘンスによるAP写真に記録されている。

 


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ヒッキーは座席の下のAR-15に手を伸ばし、安全装置を外して銃を持ち上げた。
セカンドショットはオズワルドが発砲し、大統領とテキサス州知事のジョン・コナリーを襲った。
大統領の車とヒッキーを乗せたフォローアップ車が急にスピードアップした。

これは、シークレットサービスのエージェントであるクリント・ヒルによって証言されている。
車の床ではなく座席のシートの上に立っているために不安定なヒッキーは、車の加速により後退し始め、AR-15の引き金を引く。
その瞬間、銃はケネディに向けられ、弾丸は彼の頭の後ろに当たった。

ドナヒューの説は、ボルティモア・サンのレポーターであるラルフ・レパートによる調査で支持された。
1977年、レパートはドナヒューの理論を2つの記事で発表した。
この記事は、5月1日 日曜日と次の日曜日に掲載された。
2番目の記事には社説が付いていた。

 

反響

この本への反応はまちまちです。
AP通信のジェームズ・バルダッキは、ドナヒューの「巧妙さ」が彼のJFK暗殺の理論をもっともらしいものにしたと述べた。

ジェームズ・バルダッキはこの本を賞賛し、「メニンガーは物語を、細部の急増の中で決して解き放たない鋭さと流動性で解釈する」と述べた。

デビッド・ピエトルサは、暗殺をマフィア、CIA、またはFBIに結び付けていないため、ドナヒューの理論を異常だと結論した

ハミルトン・スペクテイターは、本書は「問題の核心を付いていない」と批判した。

出版前の注文は100,000を超えましたが、この本は当時ほとんど影響を与えませんでした。
メニンガーは2013年に、ドナヒューの理論が「陰謀論者とウォーレン委員会の支持者の両方に等しく嫌われていた」ためかもしれないとコメントした。

ドナヒューは1999年に亡くなった。
『JFK スモーキングがん』のドキュメンタリーで、彼の娘のコリーン・ドナヒュー・ローレンゼンは、彼の作品がほとんど興味を起こさなかったことに父親が驚いたことを覚えている。

彼の死の時、ドナヒューは同じトピックに関する別の本に取り組んでいた。

2013年、オーストラリアのジャーナリストで元警察の刑事であるコリン・マクラーレンは、ドナヒューの理論を検証し、支持する。
「JFK:The Smoking Gun」というタイトルの本を出版し、ドキュメンタリーを制作した。

 

訴訟

1992年に本が出版される前に、出版社と著者の両方がヒッキーに連絡を取り、彼の意見を聞く機会を提供した。

1995年、ヒッキーは、モータルエラーでなされた主張をめぐってセントマーチンズプレスを訴えた。
訴訟は、ヒッキーが本の最初の出版後、出版社に対して提訴するのに時間がかかりすぎたという理由で、1997年に最終的に却下された。

ペーパーバック版が出版されたときにヒッキーは訴訟を再提出し、その後、1998年に非公開の条件でセントマーチンズプレスと和解した.

 (デンマン訳)




出典: 「Mortal Error」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



ケイトーは、このドキュメンタリーを観て、ケネディ大統領の致命傷は米国シークレットサービスの特別捜査官ジョージ・ウォーレン・ヒッキー・ジュニア(1923年3月24日ー2005年2月25日)によってAR-15から発射された弾丸によるものだと確信したのォ~?



そうです。。。上のドキュメンタリーを見たらそれ以外に考えられないのです。。。本でも、ドキュメンタリーでも間違って弾丸がケネディ大統領の後頭部に命中したと言うことになっているけれど、間違うはずがないのですよ。。。そういう偶然があろうはずがない!。。。しかも、ジョージ・ヒッキーはもともと車の運転手として6ヶ月前に大統領のパレードに参加することに決まった。。。他のエージェントが前日、夜遅くまでバーで酒を飲んでいたのに、彼は仲間に加わってないのです。。。

つまり、もともと大統領暗殺の使命を帯(お)びていた、とケイトーは思うのォ~?

そうです。。。デビッド・ピエトルサは、暗殺をマフィア、CIA、またはFBIに結び付けていないため、ドナヒューの理論を異常だと結論した、と書いてあるけれど、ドキュメンタリーでは、CIA,FBI,ペンタゴンの要人が、大統領の検死に立ち会って、特にシークレット・エージェントが証拠を隠滅しようと躍起(やっき)になっているのです。。。このことからも、暗殺は前もって計画されており、特にCIAが暗殺直後から証拠隠滅に躍起(やっき)になっていたのですよ。。。

つまり、映画ではCIAとFBIも暗殺に絡(から)んでいたのねぇ~。。。カバーアップしようとしたのねぇ~?

そういうことです。。。

例えば。。。、具体的にどういうことをしたのよ?

大統領の後頭部の大きな傷跡の写真を撮った写真家のフィルムをエージェントはすべて押収した。。。その後、そのフィルムは証拠隠滅の対象になった。。。行方不明で、未だに見つかってない!。。。更に、オズワルドの銃が打った銃弾が大統領の致命傷だという新たな証拠を作るために、オズワルドが使ったとされる銃の弾丸の破片をレントゲン技師に渡して、それを頭部に付着してレントゲンを取るようにシークレット・エージェントが命令しているのですよ。。。

つまり、CIF, FBI, ペンタゴンの要人も大統領暗殺に絡んでいたのねぇ~。。。?

そうです。。。検死はテキサスの法律では、現地、ダラスで行われなければならないのだけれど、CIAのエージェントが拳銃をちらつかせて、ワシントンで行うと宣言して、強引に大統領の遺体をエアポートに運び出したのです。。。ワシントンで行われた検死も異常な状況で行われた。。。

 



ケネディ大統領の検死

 


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ケネディ大統領の検死は、1963年11月にアメリカ合衆国メリーランド州ベセスダのベセスダ海軍病院で行われた。
検死は東部標準時1963年11月22日金曜日(暗殺の日)午後8時ころに始まり、東部標準時1963年11月23日土曜日午前12時30分ころに終わった。

ワシントンD.C.地域の検死病院の選択は、未亡人ジャクリーン・ケネディによって行われた。ケネディ大統領が海軍士官であったために、彼女はベセスダ海軍病院を選んだ。

ケネディ大統領の暗殺につづいて、シークレット・サービスは、より大きな計画の可能性を懸念し、リンドン・B・ジョンソン大統領に、ホワイト・ハウスに戻ることができるようにパークランド記念病院を離れてラブ・フィールドに行くよう促した。

しかしながら、ジョンソンはケネディの死亡の証拠なしにそうすることを拒否した。
ジョンソンは午後1時30分ころにエア・フォース・ワンに戻ったし、その後まもなく、マクジョージ・バンディとウォルター・ジェンキンスから電話があり、すぐにワシントンD.C.に戻るよう助言された。

彼は、自分はジャクリーン・ケネディなしではダラスを立ち去らないであろう、彼女はケネディの遺体なしで立ち去らないであろう、と答えた。
『Esquire』によると、ジョンソンは「美しい未亡人らの放棄者として記憶されたくなかった」。

ダラス郡の検死官アール・ローズは、ケネディ大統領が死んだと宣告されたという言葉を受け取ったとき、外傷室1の向かいの廊下を挟んでパークランド病院の自分のオフィスにいた。

彼は廊下を横切って、ジャクリーン・ケネディと司祭が占めていた外傷室に行った。
彼は大統領への最後の典礼を管理するために呼ばれていた。

そこで、ローズはシークレット・サービスのエージェント ロイ・ケラーマンとケネディの主治医ジョージ・バークレー海軍少将に会った。
バークレーは検死を行なう時間はないと彼に言った。
なぜならジャクリーン・ケネディは夫の遺体なしではダラスを離れないから、遺体はすぐに空港に届けられることになっていた、と言った。

ケネディ大統領暗殺のとき、アメリカ合衆国大統領の謀殺は、どの連邦組織の管轄下にもなかった。
ローズは反対し、テキサス州法は、遺体を取り除く前に死後検査を行なうことを自分に要求していると主張した。

ローズがケネディの補佐官らと議論したとき、熱い応酬が続いた。
ケネディの遺体は棺の中に置かれ、ジャクリーン・ケネディを伴って車つきのガーニーで廊下を運ばれた。
ローズは、棺をだれであれ動かせないようにするために地元警察官1人と共にに病院出入り口に立っていると報告された。

ロバート・カロの『The Years of Lyndon Johnson: The Passage of Power』によると、大統領補佐官らは「文字通りローズを押し込み、その警察官は建物から出るために脇にどかされた」。

『Journal of the American Medical Association』とのインタビューで、ローズは、自分は緊張を悪化させるのは賢明でないと感じて身を引いた、と述べた。

 

死亡証明書

ケネディの主治医ジョージ・グレゴリー・バークレー海軍少将は、11月23日に死亡診断書に署名し、死因は頭蓋骨への銃創であると述べた。
彼は、頭部の致命傷を「衝撃時に頭蓋骨の断片化と頭蓋骨の3つの粒子の剥離を引き起こし、脳の右半球の浸軟を引き起こすタイプの粉砕」と記述した。

彼はまた、「2つ目の傷は、3つ目の胸椎のレベルあたりで後背部に発生した」と述べた。
ダラス郡の治安判事Theron Wardが12月6日に署名した2つ目の死亡診断書は、ケネディは、「(1)身体の中心近くで右肩のすぐ上と、(2)後頭部の右中央に1インチ、の2つの銃創の結果として」死亡したと述べている。

 

検死中にいた人員

検死中のさまざまな時間に存在する要員のリスト、公式職務付き、Sibert-O'Neillレポートリスト、HSCAリストから取得された。
弁護士ヴィンセント・ブグリオシ、『Reclaiming History: The Assassination of President John F. Kennedy』の著者からも取得された。

医療人員と助手

公式の検死署名者
Commander(海軍中佐)J. Thornton Boswell, M.D., MC, USN: Chief of pathology at Naval Medical Center, Bethesda
Commander(海軍中佐)James J. Humes, M.D., MC, USN: Director of laboratories of the National Medical School, Naval Medical Center, Bethesda. Chief autopsy pathologist for the JFK autopsy. Officially conducted autopsy.
Lieutenant Colonel(陸軍中佐)Pierre A. Finck, M.D. MC, USA: Chief of the military environmental pathology division and chief of the wound ballistics pathology branch at Walter Reed Medical Center.

その他の医療人員

John Thomas Stringer, Jr: Medical photographer
Floyd Albert Riebe: Medical photographer
PO(海軍下士官)Raymond Oswald, USN: Medical photographer on call
Paul Kelly O'Connor: Laboratory technologist
James Curtis Jenkins: Laboratory technologist
Edward F. Reed: X-ray technician
Jerrol F. Custer: X-ray technician
Jan Gail Rudnicki: Dr. Boswell's lab tech assistant on the night of the autopsy
PO(海軍下士官)James E. Metzler, USN: Hospital Corpsman 3rd Class
John H. Ebersole: Assistant Chief of Radiology
Lieutenant Commander(海軍少佐)Gregory H. Cross, M.D., MC, USN: Resident in surgery
Lieutenant Commander(海軍少佐)Donald L. Kelley, M.D., MC, USN: Resident in surgery
CPO(海軍一等兵曹)Chester H. Boyers, USN: Chief petty officer in charge of the pathology division, visited the autopsy room during the final stages to type receipts given by FBI and Secret Service for items obtained.
Vice Admiral(海軍中将)Edward C. Kenney, M.D.,MC, USN: Surgeon general of the U.S. Navy
Dr. George Bakeman, USN
Rear Admiral(海軍少将)George Burkley, M.D., MC, USN: The president's personal physician
Captain(海軍大佐)James M. Young, M.D., MC, USN: The attending physician to the White House
Robert Frederick Karnei, M.D.: Bethesda pathologist
Captain(海軍大佐)David P. Osborne, M.D., MC, USN: Chief of surgery at Bethesda
Captain(海軍大佐)Robert O. Canada, M.D., USN: Commanding officer of Bethesda Naval Hospital

法執行機関/セキュリティからの非医療人員

John J. O'Leary: Secret Service agent
William Greer: Secret Service agent
Roy Kellerman: Secret Service agent
Francis X. O'Neill: FBI special agent
James "Jim" Sibert: FBI special agent, assisting Francis O'Neill

追加的軍事人員

Brigadier General(空軍准将)Godfrey McHugh, USAF: US military aide to the President on the Dallas trip
Rear Admiral(海軍少将)Calvin B. Galloway, USN: Commanding officer of the U.S. Naval Medical Center, Bethesda
Captain(海軍大佐)John H. Stover, Jr., USN: Commanding officer of the U.S. Naval Medical School, Bethesda
Major General(陸軍少将) Philip C. Wehle, USA: Commanding officer of the U.S. Military District of Washington, D.C., entered to make arrangements for the funeral and lying in state.
2nd Lieutenant(陸軍少尉)Richard A. Lipsey, USA: Jr. aide to General Wehle[30]
1st Lieutenant(陸軍中尉) Samuel A. Bird, USA: Head of the Old Guard.
Sr CPO(海軍上級一等兵曹) Alexander Wadas: Chief on duty




出典: 「ケネディ大統領の検死」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



検死の立会人を見ても、あんな狭い部屋に30人以上の関係者が立ち会っているのですよ。。。普通、検死というのは、せいぜい2人か3人でやるものです。。。しかも、FBIとCIAがのエージェントが5人も立ち会っている!。。。ケネディ大統領は、すでに死んでいるのだから護衛する必要はない!。。。護衛するとしても、検死室の内部にいたらじゃまになる!。。。護衛するならドアの外で監視するべきですよ!。。。異常です!



証拠隠滅のため?

ドキュメンタリーでは、CIAのエージェントが検死に立ち会って証拠隠滅のために動いているのです。。。

でも、上のドキュメンタリーは、公開された当時あまり評判にならなかったようねぇ~?

そうです。。。なぜなら、暗殺をマフィア、CIA、またはFBIに結び付けていないため、ドナヒューの理論は、あまり説得力がなかったのですよ。。。だから、オリバー・ストーン監督作品の『JFK』ほど評判を呼ばなかった。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



暗殺後、大統領になったジョンソンとFBI長官のフーバーとの間で次のような会話が取り交わされていたに違いない。。。

 



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長官、ひどいことになりましたなァ~。。。 この事件をいったいどのように処理するつもりですか?


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あんたも、“タナボタ”でアメリカの大統領になれたわけだ。。。 これまでにもアメリカの大統領が暗殺されたと言うことはあったけれど、まさか第2次世界大戦のあとになってから、アメリカで大統領暗殺がおこなわれるとは、わしも思ってもみなかったよ。 とにかく、アメリカの権威が失墜するかどうかの瀬戸際だから、あんたも、心してかかる必要があるよ。

それで、真犯人は突き止めたのですか?

いや。。。 真犯人のことは、あんたも知らない方がいいだろう。。。

でも、大統領として、私も知る必要が。。。

いや。。。大統領だからこそ、あんたは知らない方がいい。。。 知っている人が増えれば増えるほど、アメリカの権威は失墜するのだから。。。

しかし、“オズワルド単独犯行説”で世間は収まりますか?

収まるか収まらないかは、今後の成り行きしだいさァ。。。 でも、オスワルドがソ連に居たということは、冷戦を絡(から)ませるいい口実になると思うよ。 ソ連の KGB の犯行を匂わせることができるからね。

しかし、長官、暗殺が起きた11月22日から27日までの6日間で行われたギャロップ(Gallup)の世論調査では52%がオズワルドの単独犯行ではなく、グループによる犯行だと。。。つまり、何らかの陰謀があったと主張する者も多いのですよ。

だから、今後、そういう考え方を改めさせるために、我々が努力しなければならないわけさァ。 “オズワルド単独犯行説”で押し通すのだよ。

どのようにして。。。?

実は、FBIの詳細な公式報告をアメリカ国民に公表することで事件の調査を終了するつもりだったのだよ。 ところが、11月25日に テキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表した。 翌日には、合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表。 そして翌27日には 合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。

それだけ、大統領暗殺の衝撃が大きかったということですよ。

まあ、そういうことなのだが。。。 実にやりにくいよ。

しかし、長官、犯人とされたオスワルドが警察署内で殺されるという異常な展開。。。、そして動機も背後関係も一切謎のままですからね。。。、うやむやに済ませるわけにはゆかないでしょう。 だから、一応、長官の意見を入れて、私も11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することに決めたのですよ。

そうすべきだよ。。。 そうすることによって上下両院の独自調査を延期させることができるからね。。。、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出させるべきだよ。。。

分かりました。。。で、委員長は誰に。。。

連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンがいいだろう。。。 彼ならば、何かと操(あやつ)り易いからねぇ~。。。




『ケネディ暗殺の謎』より
(2017年5月15日)


 



つまり、FBI長官のフーバーさんは真犯人グループを知っていたのねぇ~。。。



もちろんですよ。。。FBIのエージェントを検死剣に立ち会わせているのだから。。。ケネディ暗殺には2つの陰謀が絡んでいたのです。。。 ケネディ大統領を暗殺する陰謀。。。それに、ジョンソン大統領直属のウォーレン委員会で真実を隠す陰謀ですよ。

でも、その証拠があるのォ~?

もちろん、僕には、証拠となるものには手が届かない。。。 でもねぇ~、状況証拠なら、たくさんありますよ。 まず、ウォーレン委員会で扱われたすべての資料は、1964年に ワシントンDCにある国立公文書館に保管されてしまった。 しかも、それまでに公開されてない資料は75年間、つまり、2039年まで封印されることになった。

どうして。。。?

だから、アメリカの権威を保つためですよ。 もしも、ソ連のKBGが陰謀をめぐらせてケネディ大統領を暗殺したとしたら、75年間も資料を封印する必要など全くないのですよ。。。政府の一部が絡んでいるからこそ関連資料を完全極秘にして保管する必要があるのです!

今でも、ウォーレン委員会で扱われたすべての資料は封印されたままなのォ~?

いや。。。 “75年間封印される”という理不尽さを 1991年にオリバー・ストーン監督が"JFK"という映画を作って、訴えた。 

 


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この映画で、“ケネディ大統領暗殺の陰謀”が、再びマスコミで騒がれるようになったのですよ。。。この映画ではペンタゴンでタカ派の高官が集まって、ケネディ大統領をなんとか「除外」しようと謀議している場面が出てくるのです。。。それを目撃した「ミスターX」が映画の主人公であるニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソンに話すのです。。。



。。。で、連邦政府の高官や国会議員たちは どうしたのよゥ?

映画が公開された翌年(1992年)に、“陰謀説”を掲げてマスコミで騒ぐ民衆をなだめるために「JFK記録に関する法律(the JFK Records Act)」というのを作って、できるだけ多くの資料を公開するようにしたのです。

それで、ほとんどすべての資料を公開したのォ~?

いや。。。 伏せておくべき資料はやっぱり公開されなかった。 2017年までに、一部の極秘資料は公開された。。。 でもねぇ~、“ケネディ大統領暗殺研究家”が喉から手を出したいほど欲しい資料 1,171点は CIA によって、今でも封印されている。。。

じゃあ、やっぱり、真の犯行グループがいるのねぇ~。

いずれはっきりするでしょう。。。

。。。で、ケイトーは、その犯行グループのメンバーは誰だと思っているのォ~?

もちろん、すべてのメンバーについて僕が解るはずがありません。。。 でもねぇ~、その黒幕が誰かは容易に想像できます。

その黒幕ってぇ、いったい誰なのよォ~?

ちょっと次の記事を読んでください。

 


ケネディ政権


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ケネディ政権には、国家の安全保障を委ねられるにふさわしい「最も聡明にして賢明な者たち」が結集しているとされた。
国家安全保障担当大統領補佐官には、ハーバード大学の学長を努めたマクジョージ・バンディが、また国防長官にはフォード社長からロバート・マクナマラが起用された。
「若いながらも、当代切っての」と謳われた逸材が綺羅星のように居並んでいた。

だが、大統領が核戦争の淵に立たされたとき、縋(すが)るようにして頼ったのは、ワシントン政界の奥深く棲むフクロウといわれた老政客(ロバート・ロベット翁)だった。

 (中略)

すでに空軍を中心に軍部は不穏な動きを見せていた。
ペンタゴンでは、キューバへの空爆の準備を着々と進めていたのだった。
大統領の最終的な命令が下れば、直ちに爆撃機を発進できるように空爆目標の選定もほぼ終わっていた。

……主戦論の中核にいたのが、空軍参謀長、カーティス・ルメイだった。
この主戦派は、かつてドイツと日本への戦略爆撃を指揮し、空の英雄と呼ばれていた。
戦後もアメリカ空軍に君臨して、膨大な軍事予算を握り、多数の国防族議員まで要して巨大な政治集団を形成していた。


そのため、ジョン・F・ケネディは、カーティス・ルメイを頂点とする空の制服組を抑えるため、ロベット翁の隠然たる政治的権威を必要としたのだった。

 (中略)

ジョン・F・ケネディは、軍部の空爆論を抑えて、海上封鎖に傾いていった。
キューバへの海上航路を遮断し、ソ連がこれ以上のミサイルを持ち込むことを断じて許さないという決意を示そうとしていた。
だが、空からの奇襲を強く主張する空軍を率いるカーティス・ルメイは、武力行使に同調しない大統領に詰め寄った。

「私は大統領とは違い、キューバを爆撃しても、ソ連がベルリンを攻撃することはないと考えております。
 空爆を断念することは、ミュンヘンの宥和主義とおなじくらい悪しき選択です」

ミュンヘン宥和主義。 ケネディ一族に対して毒を含んだ物言いだった。
1938年のミュンヘン会談で、イギリスはチェコスロバキアのズデーテン地方をヒトラーに分け与えることで一時の平和を保とうとし、それが第二次世界大戦に道を開いてしまったといわれた。
当時駐英大使だったケネディの父ジョセフは、このミュンヘンの宥和主義を支持したと批判されていたからだ。
だが、カーティス・ルメイの挑発をしりぞけて、大統領は海上封鎖に心を決めていた。

「諸君の見解は尊重する。 なぜ、海上封鎖を選択するのか。 それは全面核戦争へのエスカレーションを避けなければならないからだ

ジョン・F・ケネディがこういい残して退席したあと、将軍たちが若き大統領をあしざまに罵る様子が「ケネディ・テープ」に録音されている

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




107 - 111ページ
『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』
著者: 手嶋龍一
2008年6月4日 第3刷発行
発行所: 株式会社 講談社

『シルヴィーとケネディ夫人』に掲載
(2011年6月15日)


 



主戦論の中核にいたのが、空軍参謀長、カーティス・ルメイだった」と書いてあるけれど、この人物が黒幕ですよ。 「戦後もアメリカ空軍に君臨して、膨大な軍事予算を握り、多数の国防族議員まで要して巨大な政治集団を形成していた」ということですからね。。。



この将軍は自国の大統領まで暗殺するような精神を持った人なのォ~?

自分の考えに固執して、例え大統領だろうが、国のためにならないと思えば暗殺も辞さないというタイプですよ。 ウィキペディアにも次のように書いてある。。。

 


カーチス・ルメイ

 

キューバ危機勃発時には、キューバ空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。
ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。
実際にはキューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイルが数十基配備済みであったことは、第三次世界大戦を招きかねない完全な見当違いであった。

ベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した。
なお、北爆が開始された1965年に除隊した。

 

退役後

1965年2月に退役。1968年には、ベトナム戦争の推進を支持し、人種差別的な綱領を掲げた前アラバマ州知事、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Party)の副大統領候補として出馬するが落選。
1990年10月1日没。

 

評価

ルメイの行為は、多くの罪の無い民間人を殺戮したことに加え、貴重な文化財(寺院・仏閣・城郭など)を灰燼に帰す結果をもたらしたために、特に対日作戦について、前任者であるハンセル准将と違い、一部政治家、文化財研究家からは強く非難されている。

特に日本では、ルメイは残虐な無差別戦略爆撃の父として評価が定まっている

右派においてもアメリカに批判的な者の場合、小林よしのりのように、著作で批判的に取り上げる例がある。
また、ルメイに近い戦勝国で計画を進める側の立場にあったマクナマラも『フォッグ・オブ・ウオー』で「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」とも述べている。

しかしルメイの立場から見れば、その戦略はあくまでも戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率を追求したものであるという。


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ルメイ自身は「アメリカが敗戦するなら自分は戦争犯罪人として処せられる」と述べている。

また、ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対して次のようにも述べている。



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君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。
そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。
正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたのなら、そんなものは忘れることだ。




ドイツ空襲の意見を聞かれて
『戦略・東京大空襲』
E・バートレット・カー著・大谷勲訳


(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)

出典: 「カーチス・ルメイ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



どうですか?。。。シルヴィーもルメイ将軍がケネディ暗殺に裏で動いたと思いませんかァ~? 



でも、黒幕がルメイ将軍だったというのは、あくまでもケイトーの推測よねぇ~。。。

これまでの状況証拠を見ても、黒幕はルメイ将軍以外には考えられない。

CIAに封印されている資料が 2023年までに公開されるようねぇ~。。。そうなったら、いづれ解明されるわねぇ~。。。

いや。。。 最も重要な極秘資料は公開されないはずです。。。

どうして。。。?

黒幕がルメイ将軍であるという証拠は、すでに隠滅されてるから。。。




初出: 2022年5月13日



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、ケネディ大統領暗殺にはCIAとFBIとペンタゴンの要人が絡(から)んでいると思いますか?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、もっと楽しいことを話せ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

では、シルヴィーさんが出てくる面白い記事のことでも。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


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『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


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『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』


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とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(rengfire.jpg)


(byebye.gif)
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ウィーンの空の下で

2024-05-16 10:36:30 | 歴史四方山話

 

ウィーンの空の下で

 


(vienn12.jpg)

 


お見舞いありがとう


(sayuri5.gif)

投稿日時: 2008/05/17 01:11 (ロンドン時間)
日本時間: 5月17日午前9時11分
バンクーバー時間: 5月16日午後5時11分



メールでのお見舞い ありがとう ございました。
昨日よりも とても 元気ですよ。 あと5日間
薬を飲んで 遠出 はさけます。

昨日はコーヒーもまずく、 でも今日は3杯飲みました。
胃も回復、 ずーっと うどんと おかゆ 
でした。 今日は 何か 食べたい気分ですが
油 甘いもの 野菜はさけます。
たまごサンド ぐらい かな?
デンマンさんは どんな サンドイッチ が好きですか?

次男坊も くつ下 ワイシャツ 体操着 た~くさん
の洗濯物とおみやげ を持ち帰って 来ました。
静養 メルヘンの恋 も読みましたからね。
では ブログに はげんで ください。
返信 あわてなくて OK です。


(sayuri15.gif)




Fuji & Kato Private Forum 『風邪っ子』スレッド
“Beaverland e-XOOPS”


 



(foolw.gif)

こんにちは。デンマンですよう。



(nurse3.jpg)

メールでのお見舞い ありがとう ございました。
昨日よりも とても 元気ですよ。 あと5日間
薬を飲んで 遠出 はさけます。


そうです。そうです。。。
無理をしないようにして、充分に休養を取ってくださいね。



(coffee3.gif)

昨日はコーヒーもまずく、 でも今日は3杯飲みました。


うん、うん、うん。。。
小百合さんは、本当にコーヒーが好きなんですね。

僕も必ず毎日コーヒーを飲みますよう。
好きだと言うよりも習慣になってしまいましたね。
でも、日本のお茶よりは好きですね。
うしししし。。。

ロマンチックな気分に浸りたいときには
ヴィエンナ・コーヒーを入れますよう。


(vienna2.jpg)


(vienna9.jpg)

。。。んで、ジューンさんとウィーンのサイドウォーク・カフェで一緒に飲んだ時の事などを懐かしく思い出すのですが。。。

小百合さんの「軽井沢の夢とロマン」を書いていると。。。


(karuman52.jpg)

万平ホテルのカフェテラスで小百合さんとヴィエンナ・コーヒーを一緒に飲む日がおとづれることを祈りながら飲むのですよう!
うしししし。。。


(laughx.gif)

でもねぇ~、万平ホテルのカフェのメニューを見るとヴィエンナコーヒーは書いてないのですよね。
生クリームがあれば、簡単に作れると思うので、リクエストすれば作ってくれるかもね。。。


胃も回復、 ずーっと うどんと おかゆ 
でした。 今日は 何か 食べたい気分ですが
油 甘いもの 野菜はさけます。
たまごサンド ぐらい かな?
デンマンさんは どんな サンドイッチ が好きですか?


うん、うん、うん。。。
そのことで5月18日の記事を書いたのですよう。
あす、ライブドアで読んでね。
すでに予約投稿してありますよう。

■ 『ベーグルとロマン (2008年5月18日)』


(maria15.gif)

このちじれっ毛のマリアさんが作ってくれたのですよう。

なんとォ~

サモン・トマト・スイスチーズの

ベーグルサンドウィッチ


じゃじゃ~♪~ん


(bagelsand.jpg)

明日の記事にも出てきますよう!

ベーグル好きの小百合さんもメチャ楽しめるように一生懸命に書きました。

明日の記事を読めば、笑って、楽しくなって、食欲が湧いて来て
小百合さんが元気になること間違いありませんよう!
ぜひ読んでみてね。


次男坊も くつ下 ワイシャツ 体操着 た~くさん
の洗濯物とおみやげ を持ち帰って 来ました。


はい、はい、はい。。。
小百合さんは良い子宝にも恵まれていますよう!


静養 メルヘンの恋 も読みましたからね。
では ブログに はげんで ください。
返信 あわてなくて OK です。


はい、はい、はい。。。
僕にとって返信を書くのは決して負担ではありませんよう。
それどころか、こうして返信を書くことは僕の励みになっているのですよう。
小百合さんからたくさんのインスピレーションをもらう事ができますからねぇ~

明日の記事も、小百合さんからもらったインスピレーションで書いたのですよう。

ベーグルが、僕のオツムの中で眠っていたブルックリンの懐かしい思い出を掘り起こしてくれました。

そう言う訳で、

小百合さんありがとう!

小百合さん!ばんざ~♪~い!!



(bravo.gif)

早く元気になって、インスピレーションを感じさせるカキコをたくさん書いてね。


(byebye.gif)




投稿日時: 2008/05/17 04:14 (ロンドン時間)
日本時間: 5月17日午後0時14分 (お昼)
バンクーバー時間: 5月16日午後8時14分


 


元気ですよう


(sayuri2.gif)

投稿日時: 2008/05/18 02:41 (ロンドン時間)
日本時間: 5月18日午前10時41分
バンクーバー時間: 5月17日午後6時41分



はい デンマンさん
元気ですよ。
ベーグルのブログ楽しみだな~
後で見ますね。

日曜の朝は ゆっくり です。
ジェーンさんが座っている OPEN Cafe は
ギャスタウン かと 思いました。 
古い町並みの 石だたみ の道路わきで レストラン
のような カフェのような ところが ありましたね。

今は朝だから 甘いもの Aunt Jemima のおばあちゃんの顔のついてる
ボトルのパンケーキ シロップを
べとべと かけて ホットケーキか スコーンを 
がぶりつきたいです。
この シロップも 底をついて きました。
では 洗濯 干し 干し ★☆


(sayuri15.gif)

小百合より



 



(kato3.gif)

こんにちは。デンマンですよう。


はい デンマンさん
元気ですよ。
ベーグルのブログ楽しみだな~
後で見ますね。


はい、はい。。。ぜひ見てくださいね。
5月18日の記事(『ベーグルとロマン』)の続きを書き終わりました。
5月20日の記事の題名は『ベーグルの恋は水色』ですよう。

■ 『ベーグルの恋は水色 (2008年5月20日)』

ベーグルのロマンが広がって、マリアさんとアンナさんが仲良くでてきますよう。


(maria20.gif)

胸元のハートがかわゆいでちゅねぇ。うしししし。。。
本物のマリアさんは、この画像よりもかわゆい感じですよう。

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

アンナさんは、ジューンさんに似ていますが、良く見ると髪の色が違います。
でも、かわゆいところは同じです。
もちろん、僕がコラージュして作った画像ですよう。
本物のアンナさんは、かなりの近視で眼鏡をかけていました。
でも、眼鏡をとるとビックリするような美人でした。
ちょうど上のような感じですよう。

5月20日にはエピソードが書ききれずに、
面白いエピソードは5月22日にまた延びました。
題して『ニューヨークの混浴露天風呂』です。

■ 『ニューヨークの混浴露天風呂 (2008年5月22日)』

“山の家”に露天風呂を持っている小百合さんが読んだら、めちゃ楽しめるお話ですよう。
22日の『小百合物語』も、ぜひ時間を作って読んでみてね。


日曜の朝は ゆっくり です。


そうですよう。
ゆっくりと休養してくださいね。
早く風邪を治してね。



(vienna9.jpg)

ジェーンさんが座っている OPEN Cafe は
ギャスタウン かと 思いました。 
古い町並みの 石だたみ の道路わきで レストラン
のような カフェのような ところが ありましたね。



(vienna7.jpg)

小百合さんに言われて僕も、う~~ん、と唸(うな)ってしまいましたア。
その通りですよう。
ちょうどこのようなカフェが Gastown にあるのですよう!

でも、この写真はオーストリアのウィーンの OPEN Cafeです。
ジューンさんが座っている店の看板には Cafe と書いてありますが、
その隣の店の看板を大きくすると次のようになります。


(vienna6.jpg)

STEMPEL - SCHILDER

オーストリアではドイツ語が話されています。
そうなんですよね。
上の単語はドイツ語です。
このお店は 標札、門標、名札を書いて売っているお店です。


ジェーンさんが座っている OPEN Cafe は
ギャスタウン かと 思いました。 
古い町並みの 石だたみ の道路わきで レストラン
のような カフェのような ところが ありましたね。


そうですよ。そうですよ。
確かにそのような所がバンクーバーの Gastown にはあります。


(dwntwn2.jpg)

例えば次のようなカフェです。


(gast002.jpg)

これは Water Street Cafe です。


(gast003.jpg)

上の Steam-powered clock (蒸気機関車のように蒸気で動く時計)から、
そう離れていない場所にありますよう。

小百合さんもこの写真を見れば懐かしいでしょう?


今は朝だから 甘いもの Aunt Jemima の
おばあちゃんの顔のついてる ボトルのパンケーキ シロップを
べとべと かけて ホットケーキか スコーンを 
がぶりつきたいです。
この シロップも 底をついて きました。


はい、はい、はい。。。
小百合さんのグルメ振りには、いつもいつも感心させられたり
びっくりさせられたりしていますよう。


(gyaha.gif)

そろそろ、小百合さんのシロップが底をつく頃だと思ったので買ってきましたよう。
どうぞ!


(syrup12.jpg)

ジェミマおばちゃんのパンケーキミックスで美味しいパンケーキをたくさん作ってね。


(bbq.gif)


(syrup15.jpg)

それで、シロップをたくさんかけて食べてねぇ~。
僕には甘すぎるので遠慮しておきますよう。
僕の分までたくさん食べてね。
うしししし。。。


(smilerol.gif)


では 洗濯 干し 干し ★☆


はい、はい。。。

たくさん食べて、ゆっくり休んでから洗濯物を取り込んでね。

では、また。。。


(byebye.gif)

投稿日時: 2008/05/18 09:59 (ロンドン時間)
日本時間: 5月18日午後5時59分
バンクーバー時間: 5月18日午前1時59分




『グルメの閑話 (2008年6月3日)』より





(himiko22b.gif)

おとといは“イタリアの空の下”で、今日は“ウィーンの空の下”でござ~♪~ますかぁ~?

■ 『イタリアの空の下で (2009年1月25日)』


(kato3.gif)

いけませんか?

どうして、そのようにコロコロと場所を移してしまうのでござ~♪~ますか?

あのねぇ、トリエステという町は、昔はオーストリア領だったのですよう。

あらっ。。。そうだったのでござ~♪~ますか?でも、トリエステの隣の国はスロベニア(Slovenia/Slovenija)と書いてござ~♪~ますわ。

その国もかつては、オーストリア領だったのですよう。

オーストリアって昔は大きな国だったのでござ~♪~ますか?


(austria2.gif)

1800年代の初頭にはイタリア北部も領土の一部だった。当時はオーストリア・ハンガリー帝国(Austro-Hungarian Empire)と呼ばれた強大な国だったのですよう。

それで、トリエステは今でもウィーンの影響を受けているのでござ~♪~ますか?

受けているのですよう。須賀敦子さんの本にも次のように書いてありますう。

 


ウィーンとトリエステ


(italia3.gif)

ユーゴスラヴィアの内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置するトリエステは、先史時代から中部ヨーロッパと地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。
というのも、紀元前二千年すでに、バルチック海沿岸の琥珀をギリシアやエトルスクの諸都市に運ぶ、「琥珀の道」と呼ばれた商業路のひとつが、トリエステを通過していたといわれる。
さらに中世以来、オーストリア領となり、地中海に面した帝国の軍港として栄え、十八世紀から十九・二十世紀にかけては商港として繁栄の頂点をきわめた。
とはいっても、言語的にいうと、トリエステ人の多くは、ローマ時代このかた(この地方がヴェネツィア・ジュリアと呼ばれるのは、ジュリアス・シーザーの覇権がおよんだ土地を指すからだ)、イタリア語の方言を話し、ドイツ語を話しても、自分たちをイタリア民俗と考えてきた。
そのため、とくに支配層に属さない大多数のトリエステ人にとって、イタリア統一運動がさかんになった十九世紀末には、一日もはやくオーストリアの隷属から開放され、イタリアに帰属することが精神の支えになった。
じっさいにイタリア領になったのは第一次世界大戦のあと、1919年のことで、解放運動では多くの犠牲者を出している。
だが、皮肉なことに、トリエステのイタリア復帰論者が念願をはたしたのを境として、この都市は経済的に行きづまり、ながい下降線をたどることになる。
地中海にいくつものすぐれた港をもつイタリアの領土になってからは、港湾都市としてのトリエステの存在意義は根底から揺さぶられ、イタリア東端の都市という空虚な政治的意味だけしか持つことができないのだ。


(trieste6.jpg)

文化の面からいっても、トリエステは特異な都市といえる。
ドイツ語文化圏との精神的なつながりを全面的に断ち切るにはいたらず、トリエステ人は尊敬と憧れと憎しみの入り組んだ感情で、これもすでに過去のものとなったウィーンの文化や人々を眺めている。
北の国々とのつながりをもつことが、この町にとっては精神的にも死活の問題であるのに、言語的=人種的には、たえずイタリアにあこがれるという二重性がトリエステ人のアイデンティティー感覚をたぐいなく複雑にしている。

(pp.15-17)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子(すが あつこ) みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行

 


【デンマン注】

読み易いように改行をたくさん加えました。
また、注意を促すために赤字・青字で強調した箇所があります。
しかし、文章自体には手を加えていません。
上の写真は本の中にはありません。僕が加えたものです。



。。。んで、デンマンさんはジューンさんとウィーンへ行ったついでに足を伸ばしてトリエステにも行ったのでござ~♪~ますか?

そうです。

ジューンさんも、ご一緒だったのでござ~♪~ますか?

実は、ジューンさんと一緒にトリエステを訪ねてみたかったのですよう。

つまり、デンマンさんがあまりにも田舎者丸出しだったのでジューンさんは呆れてしまい、デンマンさんとは別行動をしたのでござ~♪~ますわね?

どうして。。。、どうして卑弥子さんは、そのような偏見の目で僕とジューンさんを見ようとするのですか?

だってぇ~、ウィーンまで一緒に行ったのに、トリエステには一緒に行かなかったというのはジューンさんがよほどデンマンさんを嫌ったという事でござ~♪~ますわ。

あのねぇ~。。。仕事の都合ですよう。ジューンさんは旅程を早く切り上げてバンクーバーに帰らねばならない仕事が舞い込んできたのですよう。

つまり。。。、そのような口実を設けてまで、ジューンさんはデンマンさんと別行動をとったのでござ~♪~ますわね?

やだなあああぁ~、んも~~。。。僕の言葉を素直に受け取ってくださいよう。

分かりましたわ。。。んで、トリエステにもウィーンのような格調高い場所があるのでござ~♪~ますか?

あるのですよう。『トリエステの坂道』を読んで僕はうなってしまったのですよう。

どうしてでござ~♪~ますか?

須賀さんが入ったカフェに僕も入ったのですよう。もちろん、須賀さんの方が僕よりも前にトリエステを訪ねたと思うのだけれど。。。

どうして、そう思うのでござ~♪~ますか?

須賀敦子さんは次のように書いているのですよう。

 


なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼と一緒に読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。

p.14 『トリエステの坂道』


須賀さんの夫のペッピーノさんが41歳で亡くなったのが1967年です。つまり、須賀さんがトリエステを訪れたのは、その時から20年後だから1987年ですよう。僕がトリエステへ行ったのは1997年です。須賀さんが亡くなる1年前です。

須賀さんが訪ねてから10年後ですわねぇ~。

そうですよう。だから、それ程変わっていなかったのだと思いますよう。

。。。んで、そのカフェが本の中に出てくるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。その箇所を引用します。読んでみてください。

 


カッフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムット

(ヴェルムットのトリノふうカフェ)


とてつもなく愛国的で、とてつもなく長ったらしい屋号のコーヒー店の看板に、一日中歩きとおした自分をねぎらう気持ちと、イタリア統一運動の中心地だったトリノへの夢と郷愁をこめたその名に惹かれ、入り口のドアを押して入って、私は目を瞠(みは)った。
未知の都市とはいっても、たかがコーヒー店であれほどのとまどいを覚えたことはなかった。


(cafeimp2.jpg)

間口の狭さに比して、中はひろびろとしていた。
奥の一段高くなったところには、壁面のすべてが鏡で囲まれた広間があり、そこにいたる通路の部分には、帝政時代様式というのか、絹を張った座席の固い長椅子をかこむようにして、マホガニー色の光沢のある椅子と、白地にイチゴをあしらった模様のクロスを掛けた小さな丸テーブルがならんでいる。
ヴェネツィアのガラスではなくバッカラ系のクリスタルのシャンデリアの下を、いずれも髪の銀色がめだつ、白い手袋をはめた給仕たちが、テーブルのあいだを優雅な身のこなしで縫って歩く。
だが、なによりも私をうならせたのは店にあふれる顧客たちの容姿だった。
そのすべてが、裕福、と定義してよい階層の人たちで、そのうえ、おおむねが老人だった。
七十代と思えるカップル、あるいは何人かの老婦人が、ひとり、あるいはふたりの老紳士をかこんで、声をひそめて話し合っている。
男たちの着ている背広の仕立てにも、女たちが身につけている毛皮も宝石も、彼らがみずからの手をよごして得たのではない、ひそやかな美しさが光を放っていた。

若者たちがこぞって参加したイタリア統一にちなむ少々大仰な屋号には似合わない黄金とピンクの光景をまえにして、私は、自分が幾時代かまえのウィーンにいるのではないかと錯覚しそうになりながら、父がこれを見たら、どんなによろこぶだろうと思った。
老人たちの多くは、じじつ、父が生きていたらそんな年頃だろうと思われる人たちだった。
トリエステに行ってみたいと、父が晩年よく口にしたのは、彼が若いころ、ウィーンからヴェネツィアに向けてオリエント急行で通過したこの港町で、かたちが美しいから、と愛していたロイド・トリエスティーノの大西洋航路の大型船を、自分の目で見たいからだった。
ここにいる老人たちの財産も、彼らの親、あるいは祖父の時代に、オーストリア宮廷と、その国の政府に支えられた金融資本と海運業によって築かれたものだろう。
過ぎ去った時代の、いまはわるさをしないくなった亡霊たちにかこまれて飲んだ、あたたかいミルク・ティーのカップには、ハプスブルク家の紋章であるピンクの薔薇が、小さな宝石のようにかがやいていた。


(cuprose2.jpg)




pp.27-29 『トリエステの坂道』


 

デンマンさんは、どんな気持ちでその老人たちの中でコーヒーを飲んだのでござ~♪~ますか?

僕は全く場違いな所にやって来てしまったと、初め、ひどく後悔して、すぐにでも立ち去ろうと思ったほどですよう。

でも、立ち去らなかったのでござ~♪~ますか?

せっかく物珍しい場所にやってきたのですよう。こういう機会は二度とないと思ったから、もう僕はピエロに徹して、誰が僕に注目しようが、うす馬鹿笑いを浮かべようと心に決めましたよう。うしししし。。。

。。。んで実際に、うすばか笑いを浮かべたのでござ~♪~ますか?

やっぱりねぇ~、上流社会の人って、ちゃんとお行儀がいいのですよう。僕は明らかに観光客で、その場の雰囲気にそぐわない。誰が見たって僕は“異物”なんですよう。でもねぇ、おそらく、これまでにも僕のような場違いな男が間違って迷い込んできた事があって、その人たちは慣れていたのかもしれません。

デンマンさんをジロジロと眺めなかったのでござ~♪~ますか?

じろじろとは見なかった。でも、“どこからかハエが飛んできたようだなぁ~。。。”という感じで、一度だけ僕の方に視線を走らせると、もうそれ以上は無視していましたよう。ウへへへへ。。。

。。。んで、デンマンさんは、どうなさったのでござ~♪~ますか?

うす馬鹿笑いを浮かべる必要はなかったのですよう。とにかく、オーストリア・ハンガリー帝国時代がそこにあったのですよう。全く驚きましたよう。博物館の中でコーヒーを飲んでいる感じですよう。でも、僕の周りの人たちは、皆、生きているのですからねぇ。まるで3次元の立体映画を見ているような不思議な気分でしたよう。

ところで、デンマンさんは、どうしてウィーンへ行って、それからトリエステへ行く気になったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ、僕は小学生の頃、外国にかぶれていたのですよう。主にアメリカだった。だから、テレビっ子の僕はアメリカのテレビドラマを飽きずに毎日毎日見ていたものですよう。

どういう番組でござ~♪~ますか?

「名犬ラッシー」、「名犬リンチンチン」、「ララミー牧場」、「ローハイド」、「ガンスモーク」。。。ほとんどがアメリカを舞台にしたシリーズ・モノでした。

アメリカの番組だけでござ~♪~ますか?

ところが、小学校5年生の頃だと思うのだけれど、『第三の男』をテレビで見たのですよう。

あのオーソン・ウェルズが出た映画でござ~♪~ますか?

そうですよう。卑弥子さんは良く知っていますねぇ~。

あたくしの父も、その映画にハマッタと言っておりましたわ。

ほおォ~。。。偶然ですねぇ~。

デンマンさんもハマッテしまったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。でもねぇ~、どういうわけか僕には話の筋が分からなかった。高校生になるまでに4,5回見ていますよう。

話の筋が分からないのに、面白かったのでござ~♪~ますか?

あのテーマ音楽にハマッテてしまったのですよう。そのテーマを聴きながら見るスクリーンには、アメリカとは違った外国の雰囲気が漂っている。僕は、初めてウィーンの町をあの映画の中で見たのですよう。

それで、いつかウィーンに行ってみようと思ったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。小百合さんが中学生の時に『エマニエル夫人』を観て、社会人になってからバンコクに行ったようなものですよう。

それで、デンマンさんは未だに『第三の男』のあらすじが分からないのでござ~♪~ますか?

社会人になってから、映画雑誌で“あらすじ”を読んで初めて話の筋が分かったのですよう。

。。。んで、『第三の男』のテーマって、それ程素晴しいものでござ~♪~ますか?

実にいいですよう。これまで聴いたことがない人は次のリンクをクリックして、ぜひ聴いてみてください。

■ 『第三の男』のテーマ YouTube

デンマンさんがウィーンに関心を持ったのは分かりましたわ。『第三の男』を見たからですわね。。。んで、トリエステはどう言う訳で関心をもったのでござ~♪~ますか?

世界的に有名な二人の作家がトリエステで、ある時期暮らしていたのですよう。

その作家って誰でござ~♪~ますか?

『ユリシーズ(Ulysses)』を書いたジェームズ・ジョイス(James Joyce)と、『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』を英訳したリチャード・バートン(Richard Burton)ですよう。

そうだったのでござ~♪~ますか?知りませんでしたわ。

それで、僕は、いつかトリエステにも行ってみたいと思っていたのですよう。




初出: 2009年1月27日



【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
『第三の男』のテーマを、あたくしも聞いたことがござ~♪~ますわ。
でも、それ程感銘を受けませんでした。
しかし、あの曲は世界的に有名になったのでござ~♪~ますわ。
それで、作曲家でもあり演奏家でもあるアントン・カラスさんは
1949年9月には英国王室の招待を受け、バッキンガム宮殿で演奏したほどです。
また、1951年にはローマ教皇の招待を受けてバチカン宮殿でも演奏しました。

カラスさんは1906年7月7日に生まれました。
亡くなったのが1985年1月10日です。
 
カラスさんはオーストリアで活動したのですが、
生粋のオーストリア人ではありませんでした。
ハンガリー人の家系である工員の息子としてウィーンに生まれ育ちました。
12歳でチターの演奏を始め、15歳の時には、すでにウィーンのホイリゲ(居酒屋)で演奏家として活躍していました。
でも、第二次世界大戦の前後を通じて、週に15ドルという安い賃金で奥さんと3人の子供を養っていたそうでござ~♪~ますゥ。

そんなカラスさんに転機が訪れたのは1948年のことでした。
ウィーンのホイリゲで演奏中に、映画監督のキャロル・リードに見出され、『第三の男』の音楽担当者に抜擢されたのです。

とにかく、興味深い話題が続きますゥ。
どうか、あなたもまたあさって、読みに戻って来てくださいね。
じゃあ、またねぇ。。。


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


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(bare04e.gif)

こんにちは。ジューンです。

わたしも『第三の男』を観ましたわ。

最後のシーンがなんと言っても

印象的ですよね。

並木道をまっすぐにアンナが歩いてきます。

ホリー・マーチンスが道端で待っているのです。

しだいに近づくアンナと舞い散る枯れ葉。

でも、アンナはマーチンスのそばまでやって来るのに、

全く彼を無視するのです。

一瞥もくれずに、そのまま歩きつづけます。

そこでチターがチャリリン…と鳴って

テーマ音楽が流れるのですよね。

この最後のシーンは映画史に残る

名場面と言われています。

実は、これは当初の予定にはなかったそうです。

通俗的なハッピーエンドとなるはずだったのだそうです。

それがハッピーエンドに終わらなかったので

逆に、深い余韻を残すようになったのでした。

あなたも観ました?

まだだったら、デンマンさんが書いた

映画案内でも見てくださいね。

■ 『第三の男 映画案内』

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。



(dogs17.gif)


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