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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

邪馬臺国

2023-10-30 02:15:50 | 日本史
 

邪馬臺国

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで邪馬臺国を取り上げるのでござ~ますかァ?


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あのねぇ~、僕は現実主義者と自称する現実君のことを2017年から追跡しているのですよ。。。

なぜですか?

2017年に僕のブログに下らないコメントを書いたのです。。。

つまり、現実君が、その時に邪馬臺国のことで誤ったコメントを書いたのでござ~ますかァ~?

いや。。。邪馬臺国とは全く関係ないコメントでした。。。

それなのに、どうして邪馬臺国を取り上げるのでござ~ますかァ?

この現実君が恩師として慕っているのが伊藤浩士先生なのですよ。。。それで現実君がしばしば伊藤先生のブログにコメントを書くのです。。。ところが、最近、現実君は反省したのか? あるいは落ち込んで引きこもってしまったのか? 伊藤浩士先生のブログに、全くコメントを書いてない。。。

あの多重人格症を患っている愚か者の神武君は、毎日のように伊藤先生のブログにコメントを書いてますわァ~。。。うふふふふふ。。。

現実君も、かつては愚か者の神武君のように、ほぼ毎日 伊藤先生のブログにコメントを書いていたのですよ。。。そういうわけで 僕は現実君のコメントを見るために、いつしか伊藤先生のブログを覗いてみるようになったのです。。。

つまり、最近、伊藤先生が 邪馬臺国 を取り上げたのでござ~ますかァ~?

そうなのですよ。。。短いので、ここに全文を書きだします。。。。卑弥子さんも読んでみてください。。。

 



邪馬臺国

 



 
 
日本の歴史研究の中で邪馬臺国ほど、素人の手でぐちゃぐちゃになってしまったものはないと思っています。
まともな研究は顧みられず、素人の珍説ばかりが出版されて売れて行く、そんな感じになっています。

邪馬臺国島原説は、書いた人が盲人だったという、内容とは別のところで話題になって持て囃され、臺は中国では神聖文字であったから蛮国の名に使用されるはずがないから邪馬壹国であったとか、四国の山上にあったとか、魏志倭人伝に書いてある旅程通りに行けば九州から南に行くからルソン島であったとか、その時代の日本列島は時計回りに90度南にずれていたから、倭人伝の旅程通りで大和に着く、その後の地殻変動で90度北に振れて今の位置にきたのだとか、無茶苦茶を言った者が勝ちになってきています。

倭人伝の旅程が、南に向かって長期間旅行することになっているので、そのまま行けば太平洋上に出てしまいますから、大和説は方角を修正していて、九州説は距離と日数を修正しています。
定説も無理をしているので、素人が珍説を展開して定説をひっくり返したような気分になることが可能なのです。

地理では結論が出ません、言語学で真実に迫るという考え方もあります。
魏の使者が住民に国の名を聞いたのですが、倭人に国という概念がないので、住んでいる場所を聞かれたと思い、耕地に接した小山の上に住んでいたので「山たい」と答えて、それが邪馬臺国と記録された

鹿児島であれば「山でごわす」と答えたはずで、京都であれば「山どすえ」と答えたはずで、大阪であれば「山でんがな」と答えたはずで、名古屋であれば「山だがや」と答えたはずなので、「山たい」と答えるのは北九州の人ということになります。

言語学的には邪馬臺国は北九州です。




デンマン注:
読みやすいように改行を加えています。
イラストはデンマンライブラリーより。
赤字はデンマンが強調のため。

『10月23日 … 邪馬臺国』より
2023-10-22 08:00:00
(伊藤浩士先生のブログ)


 



あらっ。。。目の付け所がユニークですわねぇ~。。。言語学的に邪馬臺国は北九州にあったと言うのですわねぇ~。。。



そうです。。。 僕も邪馬臺国は北九州にあったと思うのですよ。。。

それなのに、どういうわけで伊藤先生の「邪馬臺国」を取り上げたのでござ~ますかァ~?

魏の使者が住民に国の名を聞いたのですが、倭人に国という概念がないので、住んでいる場所を聞かれたと思い、耕地に接した小山の上に住んでいたので「山たい」と答えて、それが邪馬臺国と記録されたという説は非常に面白い、と思いながら読んだのですよ。。。でも、伊藤先生は10月27日にも邪馬臺国のことで記事を書いている。。。その中で「前回の邪馬臺国はネタでしたが、今回は真面目に考えてみます」と言っている。

つまり、伊藤先生は、半分 冗談のつもりで書いたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。読んでみて、僕はすぐに可笑しな事に気づいた。。。

どこが可笑しいのですか?

あのねぇ~、魏の使者は 240年の春に朝鮮半島にあった帯方郡を出発して北九州に向かったのですよ。。。今から 1780年も昔のことですよ。。。その当時、北九州に住んでいた倭人が現在の北九州の方言を使ったとは思えない。。。そう考えるのは、僕一人じゃない。。。Yahoo!知恵袋でも、この事で質問しているネット市民がいた。。。

 



倭国の女王卑弥呼の時代の

倭人の日常の話し言葉は?


 


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話言葉は考古学でも歴史学でも発音が残るものではないのでどんな言葉を使っていたのかわからないと思いますがそれだけに興味があります。
そもそも倭人といっても、北方より北海道東北を通って入ってきた人たち、朝鮮半島を通って入ってきた人たち、南方より沖縄九州を通って入ってきた人たちがそれそれれ「くに」をつくっていたと思います。
当然それらの人々は言語が異なり文法も異なっていたと思います。

倭国争乱があり卑弥呼が女王として共立されたと魏志倭人伝にあります。
また邪馬台国は各地域と交易していたとあります。
それは考古学にても物資が流通していたことがみられると思います。
この場合皆がそれぞれ違った言葉を使っていたのでしょうか。

卑弥呼は各地域の言葉を統一したのでしょうか。
あるいはそれ以前から統一しつつあったのでしょうか。
その場合どの地域の言葉が主となったのでしょうか。
またそれはどんな言葉だったのでしょうか。

統一した場合主導権争いはなかったのでしょうか。
この統一した言葉は現代の日本語につながっているものでしょうか

また卑弥呼が魏に使いを贈り見返りに金印鏡などをもらったとありますが、このときはどんな言葉を使ったのでしょうか。
中国語(魏の言葉)でしょうが、ではどんな人が文章を作ったのでしょうか。




ベストアンサー

2012/1/22 0:18

確かに、古代、特に日本の国が出来始めた黎明期の言葉(特に発音)は興味深いところです。
私も以前に興味を持ったことがあり、自分なりに解釈したことを簡単に記載します。

まず、卑弥呼や大和王権初期の頃の言葉ですが、単語は今と比べて圧倒的に少なかったはず。
単語の数は、物質や情報の量など、いわゆる文明の程度に比例すると言われており、当時は身の回りの物を指す程度の単語しかなかったと考えられています。

例えば、「かね」と言う単語が今でも残っていますが、古代は全ての金属を指す意味でした(今もそう)。

現在は、各金属種類を指す単語(鉄、銅、金など)があり、この例だけでも単語の数の違いが想像できるかと思います。
又、古代からある単語は、多くが1~2文字でできているという特徴があります。山、川など。

これらの「単語の数が少なく」かつ「単語を構成する文字数が少ない」という点から、交易や移動により、簡単に言葉が揃いやすい環境にあったんだろうと思います。

ただ、どこかの言葉が中心になったことは間違いなく、その中心となった氏族は大和王権の祖先で、朝鮮半島から渡ってきた氏族だったろうと思われます。
文法が、日本語、朝鮮語とモンゴル語が(中国語と比較してほぼ)同じですから、朝鮮半島経由で日本に来た氏族がもっとも影響を与えたんでしょう
やはり、武力を持ち、求心力のあったこの氏族の言葉に、周りも合わしていった可能性が高いです。

あと、魏に行った際の言葉ですが、まず間違いなく中国語で話したはずです
卑弥呼の邪馬台国にしろ、大和王権にしろ、当時の先進地域である中国大陸からの帰化人を高級官僚として抱えていたと考えれますので、中国語には対応出来たでしょう。




ama********さん

2012/1/24 21:55

古代の場合は、言葉の地域差はもっと大きかったと考えられます。
しかし、交流が活発であれば、自然と言葉は共通化してくるので、方言の分布を見れば、古代の交流の様子もわかるかもしれません。

例えば、九州であれば、鹿児島県の言葉は非常に特異で、純粋な方言は他の九州の人でも全く分かりません。
一方で、福岡から佐賀・長崎・熊本は同じ系統の言葉です。

近畿地方でも京都や兵庫の北部はいわゆる関西弁ではありません。
山陰地方と同じ系統の言葉になります。このように言葉の分布を見ると、
古代からの関係がわかると言えるかもしれません。

古代は各地の交流が盛んだったことがわかっていて、それなりに意思の疎通は出来ていたようです。
身振り手振りで通じたのかもしれません。

また、中国との交流も古くからありましたが、これについては漢書や魏志倭人伝あるいは晋書などには、通訳がいたと書かれています
中国語を話せる人が日本にはいたことになります。
通訳がいるほど交流が盛んだったと言えるかもしれません

魏志倭人伝は、当時、中国から日本にやってきた梯儁と張政の報告書のようなものが元になっていると考えられます。
それを陳寿がまとめて魏志倭人伝になったようです。




弥生時代以前の日本では

どのような言葉が

話されていたのか?


 

文字による記録がないので分かりませんが、
後述する日本語の特徴を鑑みれば、
縄文時代には日本語の祖語になり得るような共通言語が存在していた事は否定できません。

共通言語としての古代日本語の

成立過程及び成立時期は?


 

大和朝廷の列島統一と同時期(4~6世紀)だと考えます。
また、ヤマト言葉(大和朝廷の使用言語)が元になったと考えるのが妥当だと思われます。
(質問者さんは邪馬台国がそのままヤマト王権になった事を前提にしているようですが、その事については敢えて触れません)

古代日本語の特徴と

そのルーツは?


 

1.古代日本語の特徴

①語順がSOV
②膠着語
③母音終止
④RとLの発音の区別がない(Rの発音がない)
⑤ラ行が語頭に立たない
⑥濁音が語頭に立たない
⑦重子音がない
⑧重母音がない
⑨単語が2音節
⑩形容詞は名詞の前に来る

2.日本語のルーツ

結論から言えば、日本語のルーツは日本列島です。
つまり、日本列島に渡って来た人達(南北アジアから)の言語が列島で混じりあって出来上がった言語です。

理由は上記の日本語の特徴に南北アジアの言語の要素が混じり合っているからです。
例えば、①②⑤⑧⑩はアルタイ諸語(北アジア)の特徴ですが、
③④⑦はポリネシアなどの南アジアの言語の特徴を持っています。

また基礎語彙に関しては中国南部・ビルマ系言語の影響を受けていると言われています。

邪馬台国(卑弥呼)と魏とでは

どのような言語が

使われていたのか?

また誰が文章を作ったのか?


 

現在でも同様ですが、異民族間での使用言語は強文化を持っている国の言語が共通言語となります。
従って、弥生時代の共通言語は漢語だったと思われます。

また、旧石器時代から日本列島と朝鮮半島及び中国大陸には交易関係が認められますから、当然、通訳(バイリンガル)は存在していたと思われます。

<参考文献>
安本美典「日本語の成立」
宮崎嘉夫「日本語と日本人のルーツを掘り起こす」




デンマン注:
読みやすいように改行を加えています。
イラストはデンマンライブラリーより。
赤字はデンマンが強調のため。

『Yahoo!知恵袋』より
(2012年1月12日)


 



あらっ。。。古代でも意外に国際化は進んでいたのですわねぇ~。。。



そうです。。。日本では、国際化は江戸時代の鎖国が終わって、明治維新で文明開化が始まって やっと日本が国際化したと思っている人が多いようだけれど、世界を見渡せば、そもそも国際化というのは文明が発生した頃から始まっていたのですよ。。。

つまり、縄文時代から弥生時代にかけて、特に日本は海外との交流が激しい時代だったのですわねぇ~。。。

そうですよ。。。その当時の国際化によって、いろいろな地域との交流や交易がおこなわれて、稲作が始まったり、文字が大陸から伝わって、当時の日本は一気に先史時代から有史時代に突入したのですよ。。。

卑弥呼女史は、どのような言葉を話していたのでござ~ますかァ~?

もちろん、現在の北九州方言はまだその時には存在しなかったはずです。。。

その証拠でもあるのですかァ~?

あのねぇ~、アイヌの言葉が地名として今でも九州に残ているというのですよ。。。

 




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『九州の先住民はアイヌ』の著者・根中治氏は、アイヌ語は関西から四国、九州にかけて広範に残されているが、中でも九州が最も多く、その中でも北九州の福岡・佐賀・熊本にかけてが特に多いと述べている
その一例を見てみることにする。

福岡では、筑後川の上流およびその周辺地区、那珂川、多々良川上流、遠賀川上流地区にアイヌ語地名が残されており、いずれも先土器遺跡や貝塚を含む縄文遺跡のあるところ、もしくはその周辺に散在しているようである。具体的に例を挙げると、

① 米冠(シリカンベまたはシリカンゲ) アイヌ語で「海際の山」、または「水面に浮かぶ丘」の意である。語源となる 「シリ」は元々、土地、地の意味であるが、高地、山、崖(水際の)、島といった意味がある。カンベとは水面とか水際という意味である。

北海道にも「尻別川(シリベツガワ)、「シリナイ」、「尻場(シリパ)」などの地名が残されている。

② 下代久事(ケタイクジ)  アイヌ語の意味は、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」。現在でも那珂川上流の右岸の山手には、鬱蒼とした原始林があり、その一部は杉林になっている。アイヌ人の住まいは、那珂川の左岸にあったものと思われる。

③ 釣垂(ツタル)  「川岸の切り立った2つの尾根」という意味。「ツ」は二つという意味と、尾根または峰という意味がある。タル(タオル)は川岸の高所の意味。
現在、釣垂(ツタル)には市の水道用水の南畑ダムがあるが、そこには、二つの切り立った岸壁があって、その間を渓流が流れている。

④ 背振山(セブリヤマ)  「高く、広い山」の意。 福岡県と佐賀県の県境を延々と連なる標高1055Mの背振山の名前の由来については飛竜が背を振ったとか、弁財天の竜が背を振ったとか色々の説があり、中には、周辺に「白木」のつく地名が多いことから、朝鮮の「新羅」を類想し「ソウル」が転訛したものだという説まである。
しかし、アイヌ語のセブリ(高い、広い)が一番納得感がある。




佐賀県でアイヌ語の地名が最も多いのは、有明海に面した嘉瀬川(かせがわ)、六角川、塩田川の流域、火口地帯である。個々の地名は抜きにして、ここでは最も興味深い地名「ヅーベット山」を取り上げてみる。

① 「ヅーベット山」  県内の東背振村の田手川上流にある標高730メートルの山がヅーベット山である。
この山の名前は地理院の5万分の1の地図にカタカナで表示されているが、カタカナ記載の山というのは珍しい。
おそらく、先住民の言葉として伝えられてきた名前が、漢字表示が出来ずにそのままカタカナで表示されてきたものと思われる。

アイヌ語で「ヅー」は、「峰」という意味と「たくさん」という意味がある。
ベットに該当するアイヌ語が見当たらないが、このあたりの谷間は小さい川がたくさん集まっているので、恐らく「たくさんの川の集まったところ(峰)」という意味ではないかと思われる。




『九州から琉球諸島に残っているアイヌ語の地名』より


 



つまり、文字が大陸から伝わってきた頃には、縄文人がまだ少数ながら九州に住んでいたのですよ。。。



ということは、卑弥呼女史は、縄文言葉も使っていたということですかァ~?

現在使われている北九州方言よりも、縄文言葉を話していた可能性の方が高いですよ。。。時期的にも縄文時代に近い。。。でもねぇ~、魏の使者が九州にやって来たときには、使者が現地の倭人と言葉を交わしたとは思えない。。。なぜなら、言葉が通じるはずがないのですよ。。。

じゃあ、魏の使者はどなたと会話したのですか?

もちろん、通訳ですよ。。。通訳が、当時の縄文言葉交じりの九州方言を話すことができたので、現地人の言ったことを翻訳して魏の使者に伝えたのです。。。

つまり、伊藤先生が半分冗談で言ったような、魏氏の使者が現地の倭人に話しかけたら「山たい」と答えた、というような事実はなかったのでござ~ますか?

そうです。。。そういうことはなかったのです。。。考えてみてください。。。現在でも、アメリカ人が日本で暮らしている日本人に質問して、いったい幾人の日本人が英語で答えることができますか? "No English"と答えるのが関の山ですよ。。。

そうでしょうか?

あのねぇ~、オーストラリアに面白いエピソードがある。。。白人が現地人に「あのピョンピョン跳ねて走ってゆく動物は何というのォ~?」と尋ねたら現地人が「カンガルー」と答えた。。。それは、現地語では「分からない」という意味だった。。。つまり、「貴方の言う事が分からない」という意味だった。。。

マジで。。。?

だから、もし、魏の使者が現地の倭人に尋ねて「ヤマタイ(山たい)」と答えたとしたら、それは、当時の現地語で「(貴方の言ってることは)分からない」という意味だったに違いないのですよ。。。


 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも デンマンさんの説明に納得しましたかァ~?

とにかく、初めて外国人に話しかけられたら、何を言ってるのか分からないものですわァ~!

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 





 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

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別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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松平春嶽が黒幕?

2023-07-25 03:00:52 | 日本史

 

松平春嶽が黒幕?

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで“松平春嶽が黒幕?”というようなタイトルをつけて あたくしをお呼びになったのでござ~♪~ますか?


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あのねぇ~、僕が行田市に帰省している間 たまたま11月19日に NHK スペシャル「ドラマ 龍馬 最後の30日」という番組を見たのですよ。

 


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今年没後150年を迎える、幕末のヒーロー・坂本龍馬。
龍馬といえば、薩長同盟と大政奉還の立役者。
しかし、その人生のクライマックスは、大政奉還を成しとげた後、暗殺されるまでの最後の30日にあったことが、近年次々と発見されている資料から明らかになってきました。

龍馬が目指したのは、内戦を避け、平和裏に新たな時代を作ろうという、「新国家計画」にむけた具体的な計画。
さらに大胆に推測すれば、この計画こそが、龍馬暗殺の引き金となったかもしれないという「新たな暗殺論」まで浮かび上がってきているのです。

明治維新後の日本政治の大事な分岐点であったかもしれない大政奉還後の1か月。
常に身の危険を感じながらも、命を懸けて闘った知られざる“龍馬最後の30日”を、今年新たに発見された龍馬暗殺5日前の手紙を手がかりに大胆な仮説に基づき、スリリングなドラマとして描きます!


 



あらっ。。。 このような番組があったのでござ~ますかァ?



卑弥子さんは観なかったのですか?

あたくしは源氏物語学会で 発表するための原稿書きに忙しくて 観る暇がござ~ませんでしたわァ。。。 で、坂本龍馬を暗殺した黒幕が松平春嶽様だと番組でバラしたのですかァ?

そうなのですよ。。。 僕にしてみれば 悪い冗談以外のナニモノでもありません。

でも、今年新たに発見された龍馬暗殺5日前の手紙を手がかりに “松平春嶽が黒幕”だというスリリングなドラマなのでしょう?

そうなのですよ。。。 でもねぇ~、それはありえないことなのですよ。

どうしてでござ~ますかァ?

松平春嶽さんが坂本龍馬を殺すはずがないのです。

でも。。。、でも。。。、今年新たに発見された龍馬暗殺5日前の手紙を手がかりにと書いてあるではござ~ませんかァ!

あのねぇ~、そういう手紙が出てくると、何とかして世間の注目を集めるような ミーちゃん、ハーちゃんをアッと言わせるような仮説を立てたいと思う愚か者が出てくるのですよ!

つまり、そういう愚か者が“松平春嶽が黒幕!?”というようなドラマを作ったとデンマンさんは主張するのでござ~ますかァ?

そうです。。。

デンマンさんがそのように言うからには暗殺の黒幕が 他に居るという証拠があるのでしょうねぇ~?

かつて、この事で僕と卑弥子さんで語り合ったのですよ。。。 もう忘れてしまったのですか?

もちろん、覚えておりますわァ。。。 大久保利通が暗殺の黒幕だったというのでしたわねぇ。。。

その通りですよ。。。 松平春嶽と坂本龍馬の間には人間的な信頼関係があった。。。 つまり、坂本龍馬を殺す動機が松平春嶽にはないのです!

そうかしら? 春嶽さんだってぇ、坂本さんの人物を100パーセント優れた人間だと思っていたわけではないと思いますわァ~。。。

確かに、卑弥子さんが そのように言うのはもっともです。。。 でもねぇ~、松平春嶽さんが坂本龍馬を亡き者にするよりも 大久保利通の方が 坂本の死後もっと得をするのですよ。。。 その事は歴史が証明しているのです。

マジで。。。?

まず、卑弥子さんも次の龍馬の略歴を読んでみてください。

 


坂本龍馬


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天保6年11月15日(新暦・1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(新暦・1867年12月10日)

坂本龍馬(さかもと りょうま)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。

土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。

勝海舟との出会い


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龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。
だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。

いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。
また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。

5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

船中八策と大政奉還


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いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に“船中八策”を提示した。

1.大政奉還 2.議会開設 3.官制改革 4.条約改正 5.憲法制定 6.海軍の創設 7.陸軍の創設 8.通貨政策

長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。

次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。
その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。

事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。

一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。
翌14日に明治天皇に上奏。
15日に勅許が下された。

この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。

展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。
だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本龍馬』が出典の創作の可能性がある。

しかしながら、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったとされ、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあり尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。
尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。

暗殺


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後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。

従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。
龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。
享年33(満31歳没)。

当初は新選組の関与が強く疑われた。
また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。

慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。
また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、後に撤回している。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。

その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。




出典: 「坂本龍馬」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



この略歴を見ても明らかなように、坂本龍馬は薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをしたのですよ。



でも、板垣退助が龍馬神話を広めたと言う人も居るのでござ~ますわァ。

知ってます。。。 坂本龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だとか、単なる“武器商人”だと信じている愚か者も居るのですよ! でも、龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だと言うなら、暗殺される理由がない! あのねぇ~、坂本龍馬が神武天皇のように2600年以上も昔に生きていたなら、“龍馬神話”ということも考えられるけれど、龍馬が暗殺されてから、まだ150年と経過してないのですよ。。。 だから、史実に基づいて“神話”でないことは立証することができるのです。

つまり、坂本龍馬は明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像ではなく、実際に偉大な人物だった、とデンマンさんは証拠に基づいて これからあたくしを説得なさろうとするのでござ~ますか?

その通りですよ。。。 まず、ウィキペディアの上の記述を読んで 卑弥子さんは執筆者が“龍馬神話”を書いたと思いますか?

いいえ。。。 たくさんの史実に基づいて書いたと思いますわ。

そうでしょう!。。。 ちゃんと歴史的事実に基づいて書いているのですよ。。。 決して明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化して書いているようには見えない! あのねぇ~、もしですよ。。。、坂本龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だとか、単なる“武器商人”だとしたら、暗殺されるほどの人物じゃないということですよ!

つまり、坂本龍馬が そのように取るに足りない男だとしたら、誰もが無視するか、つまはじきにするだけで、誰も本気になって相手にしない、とデンマンさんは主張するのですか?

だってぇ、そうでしょう! 日本には昔から“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ!

でも。。。、でも。。。、その格言は、龍馬の暗殺は関係ないと思いますわァ~。。。

もちろん、関係ありますよ!。。。 暗殺すれば、いずれ警察のご厄介になって、悪くすれば死刑ですよ。。。 そのような身の危険まで冒して“流れ者”だとか“暴れん坊”を相手する者こそ 大ばか者ですよ!

要するに、坂本龍馬が暗殺されたのは伊藤博文が暗殺されたように、その人物は一国をもコントロールするような重要な人物だった、とデンマンさんは言うのですか?

当然でしょう!。。。 暗殺されるからには、その理由がある。。。 暗殺する場合、その暗殺に関わる者、あるいはその黒幕には重要な動機がある!。。。 命の危険まで冒すだけの重要な動機があるのですよ。

その動機とは、いったいどのようなモノだったのでござ~ますかァ~?

つまり、坂本龍馬がいなくなって誰が一番得をするのか? それを突き止めるのが先決ですよ!

当時、坂本龍馬がいなくなると誰が一番得をするのでござ~ますか?

だから、それをこれから説明するわけですよ。。。 その前に、江藤新平の略歴も読んでください。

 


江藤新平


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天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)

江藤 新平は日本の武士(佐賀藩士)、政治家。
幼名は恒太郎・又蔵。
朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。
「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。
その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。
特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派からは激しく非難された。
また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。
江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

佐賀の乱

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。
また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の画像。

逸話

明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。

江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。

その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。

江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する者がいたという。




出典: 「江藤新平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



なんで江藤新平を持ち出してきたのでござ~ますか?



江藤新平が消されたのは大久保利通によるものですよ。 大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。

つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕は大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?

そうですよ。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。

そうなのでござ~ますか?

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。

あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?

見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。

 


(gokumon.gif)

『大久保利通が撮影させた

 江藤新平の獄門首』
 (別窓)


 



板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。



でも。。。、でも。。。、その証拠は。。。?

状況証拠ならばありますよ!

 


紀尾井坂の変


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紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。
「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。

実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る。
その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。

島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。

長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。
長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。
長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。

長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。
さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。
この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。

唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。

彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった。

島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。そこでは、有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。


(ookubo20.jpg)

  大久保利通

1. 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
2. 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
3. 不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
4. 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
5. 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。

斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたのだと思われる。
大久保が彼らを排斥したという指摘から、薩摩・鹿児島県人からは「西郷どんの敵」とみなされ、現在でも一部の保守層からも嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だったことで、右派でも左派でもない、ほぼ中道をいく政治家だったという(出典不明)。




出典: 「紀尾井坂の変」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状には国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こしたと書いてある! この斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたと書いてあるけれど、当然、坂本龍馬も含まれているのですよ。。。 島田一郎たちは、その事も知っていたのです。



マジで。。。?

あのねぇ~、昔の人は言いましたよ。。。 “術を弄する者は術に溺れる”と。。。 かつて、大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破した。。。 大久保は“術を弄する者”だったのです。。。

それで、島田一郎らの報復を受けたのでござ~ますか?

そういうことです。。。 悪い事はいつかはバレるのですよ。。。 “策士策に溺れる”のですよ!




初出: 2017年12月12日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたはデンマンさんの坂本龍馬暗殺の大久保利通・黒幕説に賛同いたしますか?

あたくしは、半分ほど説得されましたわ。

でも、死人に口無しですわよねぇ~。。。

大久保利通さんは、とっくに白骨化してしまいましたわ。

今となっては真相は歴史のかなたに埋もれてしまいました。

でも、歴史を振り返ってみれば、真実はどこかに出てくるものでござ~ますわァ。

ところで、お話は全く変わりますけれど、

あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が人気があるのですわよう!

うふふふふふ。。。

あなたはあたくしの“女の魅力”を見たことがないのでござ~ますかァ?

じゃあ、ここでお見せしますわねぇ~。。。


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どうでござ~ますかァ?

この魅力によって あたくしの人気が出てきたのだと思うのですわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

松原智恵子さんにまつわるお話も、大変興味深いですけれど、
他にも いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。

たまには、日本古代の面白いお話にも関心を示してくださいまし。

あなたのために古代史の記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいねぇ。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


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『HIRO 中野 せどり スパマー』

 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(annasalleh.jpg)

『まんじゅう@富岡』

『ん?トゥーランドット』

『女の子の夢』

『イヴォワールのレストラン』

『151歳の誕生日』

『お皿をぺろぺろ』

『ポップス@蕎麦屋』

『検便と回虫』

『スコーンとプディング』

『スコーン姉妹』

『ピラミス 美術館』

『明治屋 圧力ジャム』




軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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(byebye.gif)
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宝暦の恨みを明治維新で

2023-03-29 02:29:24 | 日本史

 

宝暦の恨みを明治維新で

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで“宝暦の恨みを明治維新で”というタイトルにしたのでござ~♪~ますのォ~。。。?


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あのねぇ~、たまたま夕べ バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 


宝暦治水

 


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中部地方には、「木曽三川」といわれる河川(揖斐川・長良川・木曽川)がある。

これらの河川は、岐阜県海津市あたりできわめて近接して流れており、昔はそれぞれの河川で洪水があるたびに、流路をまたがって流れたため、一流域で大雨が降ると、それが全下流域に及ぶといった被害がたびたび発生した。

そこで、江戸幕府は、この三川の近接部をきちんと分流することとし、木曽川は木曽川の流路、長良川は長良川の流路、揖斐川は揖斐川の流路になるよう、三川を分離する治水工事を実施することにした。

島津藩に御手伝い普請を命じて行わせたこれは「宝暦治水」(1754年~1755年)と呼ばれている。

この工事はきわめて何工事であったため、多数の島津藩士が病死したり自害したりした。

また、予想外の費用がかかったことから、工事責任者であった島津藩家老の平田靱負は、工事完了時に切腹して責任を取った。



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しかし、江戸時代の技術力ではこの三川を分離することは不可能だった。

木曽三川が完全に分流され今日の姿になったのは、明治以降の治水努力の成果なのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


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74-76ページ 『国土が日本人の謎を解く』
著者: 大石久和
2015(平成27)年9月16日 第5刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋


 



この部分を読んで、僕が中学生の時の歴史の時間に先生が言った事を思い出したのですよ。。。



つまり、歴史の先生が“宝暦の恨みを明治維新で”と言ったのでござ~ますかァ~?

そうなのです。。。 この部分を読まなかったら、その歴史の先生のことなど思い出すことはなかったでしょうねぇ~。。。

。。。で、その先生のお名前は。。。?

それが、全く記憶にない。。。 思い出そうとしても思い出せない。。。 ところが、上の「宝暦治水」を読んだら、その先生の言った事だけは鮮やかに思い出されたのですよ。。。 その先生の姿や行田中学2年の時の教室までも はっきりと思い出すことができた。。。 不思議と言えば不思議ですよ。。。

デンマンさんは、中学生の頃から歴史に興味があったのでござ~ますかァ~?

好きでしたねぇ~。。。 好奇心を刺激されました。。。 それに、その先生も歴史にハマッていたのですよ。。。 かなり熱のこもった授業でした。。。

。。。で、この「宝暦治水」というのは、江戸幕府が島津藩の恨みを買うほどのひどい工事だったのですか?

それは、それは、ひどい工事だったのですよ。。。

 


宝暦治水事件

 


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宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。
幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。

宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。
濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。
また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。

1735年(享保20年)、美濃郡の代官であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難の幕府の許可が下りなかったとされる。
このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。
ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。

幕府は延享4年(1747年)に二本松藩主丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で御手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。

時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。
1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。
また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。

1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に当てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関して経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。
また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった。
さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあったことにより当初予想されたよりも大量の費用が必要となった。

宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われるお手伝い普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。
高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。

事件概要

当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。
財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。

同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。
工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。
工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

最初の犠牲者

1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。
両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。

以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。
さらに、人柱として1名が殺害された。


幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。
ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。

赤痢

1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。
その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。


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辞世の句は以下のとおり:


住み馴れし
 

里も今更
 

名残にて、
 

立ちぞわずらう
 

美濃の大牧

 


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薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。

大坂の商人からは22万298両を借入。
返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。
現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

その後

この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。
ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。
これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。

薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。
その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。

1900年(明治33年)の分流工事完成時に、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。
1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。

岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、これが縁で1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しており、両県は、県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。
2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。
鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。




出典: 「宝暦治水事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



そもそも、なんで とんでもなく遠い鹿児島にある島津藩が岐阜の治水工事を命ぜられたのござ~ますかァ?



あのねぇ~、18世紀の中頃、島津藩は琉球との貿易によって財力を得ていたのですよ。。。 だから、徳川幕府のお偉方は、島津藩を恐れていた。

つまり、島津藩が財力に物を言わせて 幕府に抵抗して謀反を起こすと考えたのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 いつの時代にもスパイが活躍しているのです。。。 そのスパイが幕府のお偉方に“島津藩に注意せよ!”と告げ口するわけです。。。

でも。。。、でも。。。、上の説明によると、工事を命令された当時、島津藩はすでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していたというではござ~ませんかァ!

でもねぇ~、幕府としては、スパイの言うことを信じるわけですよ。。。 事実、島津藩は琉球と密貿易をしていたのだから。。。

要するに、幕府のお偉方は島津藩の密貿易の証拠を握っていたわけですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 だから、幕府の命令を 島津藩は断固として断るわけにはゆかなかったのですよ。。。

でも、島津藩からすれば、“嫌がらせ”以外の何物でもないわけですよねぇ~。。。

そうです。。。 幕府のお偉方だって、うすうす島津藩の台所事情が良くない事ぐらい知っていたはずです。。。 でもねぇ~、この際、島津藩の財力を ごっそりとそぎとってやろうという意地悪な気持ちが頭をもたげたのですよ。。。 島津藩が貧乏になれば、幕府のお偉方は枕を高くしてグッスリと眠れるわけだから。。。

つまり、わざと難工事を島津藩に押し付けたわけでござ~ますかァ?

島津藩の財力を弱らせるには、一番それが手っ取り早い方法だからですよ。。。 だから、工事費用は島津藩が全額負担とした。。。 それに加えて幕府は、大工などの専門職人を一切雇ってはならないと命令した。

どうして、そういう命令を出したのでござ~ますかァ?

専門職人がいなければ、所々でミスをやらかすわけですよ。。。 そうなれば、幕府はやり直しを命ずることができる。。。そうなれば、ますます島津藩はお金を使うことになる。。。

そうやって、イジメながら島津藩を貧乏にするためなのですかァ~?

そういうことです。。。 幕府のやり方は マジで汚いのですよゥ。

工事に携(たずさ)わった島津藩士はアタマにきたでしょうねぇ~?

当然でしょう!。。。 僕が島津藩家老の平田靱負ならば、絶対に我慢できませんよ。

デンマンさんならば、どうなさるのですかァ~?

琉球は幕府には内緒で清国とも密貿易をしていた。。。 もちろん、その事は公然の秘密だった。。。 だから、僕が島津藩家老の平田靱負ならば「そのような無理を幕府が我が藩に課するならば、我が藩は清国と琉球と共同戦線を組んで幕府と一戦を構える覚悟です」と幕府の重役たちに言いきかせますよ。。。

つまり、脅(おど)しをかけるのでござ~ますか?

当たり前でしょう!

18世紀の中ほどにデンマンさんが島津藩に生きていなくて良かったと思いますわァ。。。 もし、それが現実になったら、日本の歴史は変わっていたでござ~ましょうねぇ~。。。

だいたい、幕府のやり方が汚すぎるのですよ。。。 幕府のやり方は露骨な弾圧ですよ!。。。 島津藩が恨みに思うのも もっともです。。。 とにかく、平田靱負は、平和を愛する人だったに違いないのです。。。 我慢に我慢を重ねた。。。 40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請した。

許可がおりたのでござ~ますかァ?

もちろん、幕府は度重なる願い事もすべて退けたのですよ。。。 むちゃくちゃですよ。。。 しかも、工事のやり直しを命じることがしばしばだった。。。 だから、工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。

ちょっとひどいですわよねぇ~。。。

だから、幕府の監視役の中からも、島津藩に同情する良心的な人物までが出てきた。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う幕府の監視役の武士が二名いたのですよ。。。

あらっ。。。 感動させるエピソードですわァ~。

ところが、平田靱負は、あくまでも平和を愛する人物のようです。。。 切腹した島津藩士が 51人も出たというのに、幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理していたのですよ。。。

それで、最終的に工事が終わった時点で、平田靱負は50歳で切腹して果てたのでござ~ますか?

そうなのです。。。 分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したのだけれど、平田靱負は藩への多大な負担の責任を取って自害した。。。 さらに、島津藩主の島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没しているのです。

マジで。。。?

ところが、この話の元になっている史料は、昭和29年に発行された「宝暦治水と薩摩義士」という書物なのですよ。。。 でもねぇ~、それ以前の史料には平田靱負が自害した記録が無いとされている。

あらっ。。。 それってぇ、どういうわけでござ~ますか?

それどころか「島津氏世録正統系図」には、「平田は昨年から病気でいまだ回復せず、さらに胃を病んで5月24日数度吐血し、25日死す」と書かれている。

あらっ。。。 じゃあ、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」というのは、創作された美談なのでござ~ますか?

ただし「同時代の公式記録に自刃という出来事を載せない」という慣習が島津藩にはあったという歴史家もいるのですよ。。。

真相はどうなのでござ~ますか?

あのねぇ~、島津藩主の島津重年が心労で、27歳の若さで亡くなってしまったのですよ。。。 そのことを考えれば、50歳の平田靱負も、工事が終了したときには、病気で棺桶に片足が入っていたとしてもおかしくない。

つまり、平田靱負の死を無駄にしないために、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」という美談に仕立て上げたのでござ~ますか?

僕は、そうだと思います。。。 そうすることにより、島津藩が長州藩と一緒に弾圧政府の江戸幕府を倒して明治維新を断行したという正当な理由にしたと思うのですよ。




初出:2016年10月8日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

確かに、江戸幕府のやり方はひどすぎたのでござ~ますわァ。
遅かれ早かれ、幕府は倒されて近代日本が生まれるのは宿命だったのかもしれませんわねぇ~。。。

ところで、個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。 

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。

 


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


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『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』




軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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150年の空白

2022-10-16 01:39:50 | 日本史


 

150年の空白

 


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デンマンさん。。。 空白の150年 という記事を書いたばかりではござ〜ませんかァ〜!


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そうです。。。10月8日に投稿しました。

どういうわけで、また似たような記事を書くのでござ〜ますかァ〜?

ちょっと次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『空白の140年』

『驚異の大洪水』

『月さえも』

『混浴女子大生に誘われて』


 



あらっ。。。デンマんさんが10月8日に投稿した『空白の140年』が人気記事ランクインで 51位に躍り出たのでござ〜ますわねぇ〜。。。



そういうことですよ。。。

でも、51位ということがそれほどすごいことなんでござ〜ますかァ〜?

すごいことなんですよ。。。アメブロで1日に平均何本の記事が投稿されると卑弥子さんは思いますかァ?

そうですわねぇ〜。。。50,000本ぐらいの記事が投稿されるのですかァ〜?

いや。。。もっと多いのですよ。。。次のリストを見てください。。。

 


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これはアメブロの僕のブログ『バークレーの書きたい放題!』の最新の記事 リストですよ。。。僕は、1日に2本の記事を毎日投稿しているのですよ。。。上のリストには10月8日から12日までの5日間の10本の記事が掲載されています。。。アメブロではURL を決めるのに、投稿するたびに1つづつ URL の番号が増えてゆくのですよ。。。つまり、この5日間に次のように 685,799本の記事が投稿されたのですよ。。。

12769114002 - 12768428203 = 685,799本の記事

つまり、1日平均 137,160本の記事が投稿されるのですよ。。。

要するに、10月8日にデンマんさんが投稿した『空白の140年』が 137,160本中、人気で 51位に躍り出たということでござ〜ますかァ〜?

そういうことですよ。。。

あらっ。。。それはすごいことではござ〜ませんかァ〜! いったい、どういうところにネット市民の皆様は感心して記事を読んだのでござ〜ますかァ〜?

知りたい?

もちろんでござ〜ますわァ〜。。。

じゃあ、もう一度記事を読んでみてください。。。

 





あのねぇ〜、調べることがあって、たまたまYouTubeのクリップを観ていたら、次のクリップに出くわしたのですよ。。。

 


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中国の歴史書には書いてなくとも日本の最古の歴史書「古事記」に、その空白の150年のことが書いてあるのではござ〜ませんかァ?



いや。。。「古事記」にも、この150年の空白の間の出来事は全く書かれてない。。。古事記の編纂者も中国の史書を読んでいたに違いないのだけれど、全く触れてない。。。『魏志倭人伝』に卑弥呼の事が出てくるのだけれど、古事記の編纂者は、全く無視している。。。似たようなことが古事記に書かれているけれど、卑弥呼じゃなくて「神功皇后」が大陸に遠征したというようなことが書かれている。

 


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つまり、「古事記」の編纂者は、中国の史書を読んでいたにもかかわらず、そこに書かれている倭(当時の日本)のことを無視していたのでござ〜ますかァ?



そうです。。。無視していたとしか考えられない! おそらく、当時の権力者にとって、卑弥呼のことも含めて 日本の「空白の150年」の事件は書きたくなかったに違いない。。。

いったい、「古事記」とは、そもそもどういう歴史書なのでござ〜ますか?

 



古事記

 


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古事記は、現存する日本最古の書物で歴史書であるとされる。
その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。
上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇までの記事である。

8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある

和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている。

『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。
成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めと推定される。

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの出来事が、神話や伝説などを含めて、紀伝体で記載される。
また、数多くの歌謡を含む。
「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。

『古事記』は『日本書紀』とともに後世では「記紀」と総称される。
内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、


訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。


と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。
しかし史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。

『続日本紀』には『日本書紀』の記事があるのに対し、『古事記』にはそのような記述を欠いている。
稗田阿礼の実在性の低さ、序文の不自然さから、偽書説も唱えられている

『古事記』は歴史書であると共に文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に日本の宗教文化や精神文化に多大な影響を与えている。

『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている。
一方文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。

 
編纂の経緯

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。
この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。

『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。
その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。

壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた
その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた。

その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させた。

 
成立

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。

かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。

 
帝紀と旧辞

『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。
これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

武田祐吉や岡田精司、関根淳などは、『古事記』の本文が推古朝で完結していることから、『古事記』の元となった『帝紀』が推古朝で終わっていた=推古朝から遠くない時期に記されたと指摘している。
ただし、舒明天皇を「岡本宮に坐して天下を治らしめしし天皇」と記していることから、舒明朝段階の加筆はあったとされる。

なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している

 
構成

上つ巻(序・神話)
中つ巻(初代から十五代天皇まで)
下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。

 
特徴

『古事記』の系譜記事で特徴的なのは、収録している氏族系譜が多く統一性が高く、母系の系譜を重視している点が挙げられる。
『日本書紀』で記される登場する系譜は110氏族だが、『古事記』は201氏を数える。
加えて、一祖多氏型の系譜も多いとされる。

また、『日本書紀』で用明天皇の皇后について述べた部分は「穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。
是に生ませる四の男、其一は厩戸皇子と曰ふ」と記し、その後に厩戸皇子やその親族について記した後に、「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪とす。
是に田目皇子を生ませり」と記されているのに対し、

『古事記』では「稲目宿禰大臣の女意富芸多志比売を娶りて生ませる御子、多米王。また庶妹間人穴太部王を娶りて生ませる御子、上宮之厩戸豊聡耳命」となっており、蘇我氏が優先され、上宮王家についての記述が後になっている。

そして、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているとされる

7世紀後半から8世紀初頭にかけての『日本書紀』の編集作業では、聖徳太子を礼賛する思潮が見えるのに対し、同じ時期に成立した『古事記』ではそのような思潮が見られないどころか、その事績を無視している上に、蘇我馬子が主導した崇峻天皇の暗殺に関する記述も『古事記』には存在しない

『古事記』の皇女の記載方法には統一性がなく、「比売命」や「郎女」などが混在しており、「皇女」で統一されている『日本書紀』とは大きく異なっている。
しかし、『古事記』の欽明記・敏達記では皇子も皇女も「王」で統一されている。
これは、欽明王統と蘇我氏が結びついた政治形態が成立していたからであると考えられる。

加えて、『古事記』の通常の用字法では「葛木」と表記されるべきであるが、仁徳記・履中記では「葛城」と好字に改められている箇所があり、これは蘇我馬子が「葛城臣」を称したためであると考えられている。

また、『古事記』では孝元天皇-武内宿禰-蘇我石河-蘇我氏という系譜を記しているのに対して、『日本書紀』ではそれを記していない。
また、欠史八代の皇居と御陵は蘇我氏の勢力基盤である葛城・高市地域に集中している。
これは「欠史八代や武内宿禰の系譜が推古朝において蘇我氏の手によって形成されたからである」と考えられるが、推古朝の段階で蘇我氏の全ての系譜が確定していたのではなく、「蘇我石河宿禰」は蘇我倉山田石川麻呂によって創作されたものであると考えられる。




出典: 『古事記』
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



古事記は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたのですわねぇ〜。。。それに対して、日本書紀は8年後の養老4年(720年)に編纂され、両書ともに、神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されているのでござますわねぇ〜。。。



そういうことです。。。

でも、今から考えれば、ほぼ同じ時期に編纂されたのに、ずいぶんと違うでは ござ〜ませんかァ! 例えば、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているのですわァ〜。。。

そうなのですよ。。。そういうわけで、聖徳太子は実在しなかったのではないか? 今でも、そういう歴史家がいるほどです。。。

あたくしが不思議に思うのは、『古事記』があるのに、なぜ『日本書紀』をわざわざ書いたのか?…ということでござ〜ますわァ〜。。。

あのねぇ〜、『古事記』は天武天皇が書くように命じたのですよ。。。それに対して『日本書紀』は持統天皇と藤原不比等が自分たちの政権の正当性を書くために書かせた。。。

でも。。。、でも。。。、ウィキペディアで調べても『日本書紀』には序文・上表文がないので、編纂の経緯はわからないと書いてあるのでござ〜ますわァ〜。。。

でもねぇ〜、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないのに、『日本書紀』には聖徳太子を礼賛する話が出てくる。。。これはなぜなのか?。。。ということを考えると、持統天皇が浮かび上がってくる。。。

どういうわけで持統天皇が浮かび上がってくるのでござ〜ますか?

つい最近、僕は次の記事を書いたのですよ。。。

 



(wisgolf6.jpg+seisho05.gif)



 女帝誕生

 

讚良(さらら)

皇女が


皇位を継ぐ。


 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

(mhead2.gif)


 





あらっ。。。 このような新聞が当時あるわけあらへん。。。 あんさんがデッチあげたのですやろう?



わてが劇的に書いてみたのやがなァ~、わてが当時生きており、しかも日本新聞の編集長やったら、このような新聞を出していたかもしれへん。 これは歴史家が誰も言うてないことやけど、わては讚良皇女、つまり 後の持統天皇が境界性人格障害者やったと信じてるねん。

でも。。。、当時、そのような病名はなかったのとちゃうん?

もちろん、なかったのや。 でもなァ~、わての話を聞けば、めれちゃんも納得すると思うのやァ~。。。

どないな話やのォ~?

あのなァ~、讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんが亡くなってしもうたのやがなァ~。。。 しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺してしもうたァ。

マジで。。。?

このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに讚良皇女は経験したのやでぇ~。。。 この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたのやァ。

ホンマかいなァ~。。。?

ホンマやでぇ~。。。 成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも讚良皇女は知るようになるねん。 この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史やったァ。 その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがおるねん。

● 蘇我蝦夷

● 蘇我入鹿

● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)

● 有間皇子

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)

  。。。

あらっ。。。 この人たちは中大兄皇子(後の天智天皇)によって命を奪われたのォ~?

そうやがなァ~。。。 ところで、讚良皇女は満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に(天智天皇の弟だと言われている)大海人皇子に嫁いだのやでぇ~。。。 もちろん、政略結婚やァ。 中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子やった。 何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。 言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものやァ。 それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとしたのやがなァ。

。。。で、大海人皇子は懐柔されはったん?

いや。。。、その甲斐もなく、やがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されてしまうねん。 目には目を歯には歯を! この当時の必然やったァ。

そのような話は歴史の時間に聞いたことがあらへん。

ここでは詳しく話をする時間があらへん。。。、めれちゃんも ぜひ次の記事を読んでみて欲しいのやァ。

 


(kamata02.jpg)

『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

 



頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っていた。 この皇女は父親を憎み恨みながらも、自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っておった。 後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺してるねん。



あらっ。。。 讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのォ~?

そうなのやァ。。。 とにかく、讚良皇女、後の持統天皇は独占欲の強い人やった! それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れているねん。

 


(keizu03.gif)

 



上の系図を見て欲しい。 青枠で囲んであるのが持統天皇の血がつながった子孫やがなァ~。。。 この人たちに皇位が渡されてゆくねん。。。 それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのやがなァ~。。。



つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになりはったん?

その通りやァ。。。 幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたのやがなァ。

 


讚良皇女の幼少の頃の事件を

もう一度振り返ると。。。


乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。

危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。

『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。

しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。


 

聡明で非情である持統天皇が

なぜ怨霊を恐れるのか?


 



ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみて欲しい。

 



(kaguyama2.jpg)

春すぎて 夏来たるらし

白妙(しろたえ)の

衣(ころも)ほしたり

天(あめ)の香具山


 



この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないねんでぇ~。。。



それやったら、何を感じて詠みはったん?

これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えたのやがなァ~。。。 愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、わては次のようにしか解釈できへん。

 


春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


(iware01.jpg)

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。


 



上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだやがなァ~。。。

 


(fujiwara3.gif)

 



この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるねん。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのやがなァ~。。。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見てるねん。



ホンマかいなァ~。。。?

わては次のように考えておるねん。


つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。

では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?

天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。

なぜか?

草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。

それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。

『性と愛の影に隠れて -- 万葉集の中の政治批判』

つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。

ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。

つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。

この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。

しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。

このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。

その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。

 

なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?



(futakami2.jpg)

現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

 


この世に生き残った私は、

明日からは、

弟が葬られている

二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。



 

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。

死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

 


大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、

大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が

皇子の霊を祈祷によって鎮めた。


 

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。

しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。

 


怨霊信仰


(dokuro3.gif)

 

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」




SOURCE: 国史大辞典


 

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。

つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。





『愛の擬人法再訪』より
(2022年10月4日)


 



中大兄皇子(後の天智天皇)は天皇になるために、当時の“皇太子”と思われていた 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) を殺したのですよ。。。そういうことを天智天皇の娘の持統天皇は十分に知っていた。。。「親の因果が子に報い」と信じられていたように、持統天皇は娘時代から、不幸な目にあってきた。。。



古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) は、皇太子だったのでござ〜ますかァ〜?

当時、次期天皇になる最も有力な候補者だと見られていた。。。しかも、人望ある聖徳太子の長男だった。。。中大兄皇子(後の天智天皇)が天皇になるには、目の上のたんこぶだった、ぜひとも、排除する必要がある人物だった。。。

それで、中大兄皇子(後の天智天皇)は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) を殺してしまったのでござ〜ますかァ〜?

そうです。。。だから、持統天皇は、また怨霊に悩まされることになった。。。

つまり、聖徳太子の長男である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の怨霊を慰めるために、『日本書紀』の中で聖徳太子を礼賛したのでござ〜ますかァ〜?

そうですよ。。。『古事記』には聖徳太子のことは一切出て来ない。。。つまり、持統天皇以外に、聖徳太子のことをあえて『日本書紀』に書く理由がないのですよ。。。

。。。で、空白の150年のことをなぜ書かなかったのでござ〜ますかァ〜?

邪馬台国のことを書くと、大和朝廷の正当性がなくなることを心配したのです。。。だから、『古事記』に書かれていたように、卑弥呼を天照大神として書き、大和朝廷の持統天皇まで、脈々として天皇の血筋が続いていることにしたのですよ。。。

つまり、あえて中国の史書を無視し、邪馬台国を倒して大和朝廷ができるまでの歴史を書き込まずに、持統天皇は、わざと空白の150年をそのまま『日本書紀』に持ち込んだのでござ〜ますかァ〜?

そういうことです。。。




『空白の150年』より
(2022年10月8日)


 



なるほどォ〜。。。持統天皇が、あえて中国の史書を無視し、邪馬台国を倒して大和朝廷ができるまでの歴史を書き込まずに、わざと空白の150年をそのまま『日本書紀』に持ち込んだのでござ〜ますわねぇ〜。。。



そういうことです。。。その事が分かったので、本当にすごいことだと思って、日本史の授業でクラスメートは「ねえ、ねえ、ねえ…なんだかすごいことが書いてあるわよゥ〜。。。あなたも、ちょっと読んでみてよう」と隣りに座っている友達に勧めたのですよ。。。

それで、人気が 51位に躍り出たのでござますかァ〜?

それ以外に考えられないでしょう!


 


(laugh16.gif)

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ペルシャ人が飛鳥にやってきた

2022-10-10 01:44:40 | 日本史

ペルシャ人が飛鳥にやってきた

 


(himiko11.jpg)


卑弥子でーす。こんにちは。

今回は「卑弥呼」にあやかって

巫女さんの格好で出てまいりましたわ。

似合っているでござ~♪~ましょうか?

うふふふふ。。。

どうして巫女さんになって出てきたのかって。。。?

あたくしの背景になっている

神社のことをちょっとお話しようと思ったからです。

あたくしの両側にあるもの、これ何だかお分かりでしょうか?

そうです。「狛犬(こまいぬ)」だとか

「唐獅子(からじし)」だとか言われていますね。

日本の狛犬のルーツは平安時代、

天皇、皇后の御帖台の前に置かれた

獅子、狛犬ではないかと言われています。

獅子は口を開いていて、たてがみは巻き毛です。

狛犬は口を閉じていて、たてがみは直毛で角があります。

それが神社などの社殿の中や縁に厄除けとして

木製の獅子、狛犬が置かれるようになりました。

社殿中や縁から参道に出されて置かれるようになるのは

1600年代からと言われています。

このときに石造りになったようです。

この神社のように参道をはさんで対になって

配置されているものが多いのですが、

地域、時代によってその姿や形には、

かなりの変化があります。

でも、この「狛犬(こまいぬ)」と「唐獅子(からじし)」、

一体どこから来たのでしょう?

では、デンマンさんにバトンタッチいたします。



(foolw.gif)


うしししし。。。
こんにちは。デンマンです。
そう言う訳で今日は「狛犬(こまいぬ)」と「唐獅子(からじし)」のルーツをたどってゆきたいと思います。

狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)は

ペルシャからやって来た



(winglass.gif)

実はカットグラスが飛鳥時代に日本に伝えられています。
長い時間をかけて、シルクロードを伝わって日本にたどり着いたのですよ。
この事については次のページで詳しく説明していますので興味のある人はクリックして読んでみてくださいね。

■ 『飛鳥とシルクロード』

ペルシャから伝わったのは、何もカットグラスだけではありません。
実は狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)もペルシャから伝わったようです。
もちろん、これもシルクロードを西から東へと伝わってきたのです。


(silkrd7.jpg)

ペルシャから日本へ伝わるまでに、どのような変化を見せたのか、
次に示す写真で見てください。


(lion02b.jpg)

ペルセポリスの獅子

Lion stone carving at Persepolis


これがペルセポリスの宮殿に飾られていた獅子です。
獅子と言うよりもライオンですよね。
写実的です。
幼稚園児に見せてもライオンを見たことがあるならば、ライオンと答えるでしょう。

このペルセポリスと言う都市は、古代ペルシャの首都です。


(persepo2.jpg)

ペルセポリス遺跡

Persepolis Ruins


紀元前3000年頃よりイランの地にはエラム人が文明を築いていました。
2000年紀に入るとロシア南部で遊牧生活を送っていたアーリア人が南下を開始します。
彼らはエラム人を追放し、さらにはメソポタミアを統治支配していた最強のアッシリアを滅亡させて、メディア王国を築きます。
狭義のペルシア人たちは、そのメディア王国に従属しながらザグロス山脈の南にあるパールサの地に住んでいました。

紀元前550年ごろ、メディア王の臣下でペルシアを統治していたキュロス2世はメディア王家の内紛に乗じてこれに叛旗をひるがえします。
その結果、メディアとペルシアを併合してアケメネス朝ペルシアを建国しました。

キュロス2世(在位BC559~530)はパサルガダエを首都にしました。
しかし、第3代のダレイオス一世が紀元前522年ごろ即位すると、
パサルガダエから西南四十キロの荒涼とした丘陵地に新都建設を命じました。
建設事業はクセルクセス一世(在位BC486~465)、アルタクセルクセス二世(在位BC465~424)へと引き継がれ、完成までに結局60年かかったのです。
これがペルセポリスです。
このペルセポリスの宮殿に飾られていたのが上のライオン像でした。


(lion05.jpg)

トルファン(吐魯蕃)の獅子

これは清朝時代に作られたといわれています。
清の時代ですからだいぶ時代が下ります。
しかもトルファンで作られています。

上の地図で見て分かるとおり、
トルファンはペルシャと日本のちょうど中間地点に位置しています。
ライオンを見たことのある幼稚園児でも、これをすぐ見てライオンだと答える子は10人に3人ぐらいでしょうか?
多分、犬と答えるでしょうね。
怖い顔をした犬のように見えませんか?
明らかに作者はライオンを見たことが無いですよね。


(lion06.jpg)

北京・紫禁城の獅子

これはライオンと言うよりも“獅子”ですよね。
つまり、様式化されて現実のライオンではなくなってしまっています。
完全に中国様式に基づいて作成された“獅子”になっています。


(lion07.jpg)

慶州(キョンジュ)掛陵(クエヌン)の狛犬

掛陵は8世紀末の元聖王の御陵で、
新羅統一時代の陵墓制度が、
完備した時代の代表的な陵とされています。

中国の獅子を真似て作られているのが良く分かります。
しかも、ライオンよりも犬のようになっています。
名前も“狛犬(こまいぬ)”です。
作者はライオンを彫っているとは思っていなかったでしょう。


(lion08.jpg)

八坂神社の獅子

これが日本で製作された獅子です。
上の写真を見てすぐ分かることは、ペルセポリスのライオンがもっとも写実的で、製作者は明らかに、本物のライオンを見たことがあるということが分かります。
しかし、トルファンも含めて、それよりも以東のライオンは、全く想像上の生き物としか思われません。
作者は、明らかに、本物のライオンを見たことがないのです。

獅子が古代韓国に伝わる頃には、獅子は獰猛(どうもう)な犬というイメージで受け入れられたようです。
おそらく、ペルシャ人がライオンをまだ一度も見たことのない中国人や韓国人に説明する時、獰猛な犬のようだ、と言ったのでしょう。
それが日本へ伝わると狛犬(こまいぬ)、つまり「高麗(こま)犬」になったのです。
高麗とは日本書紀では高句麗のことです。

半島では663年に百済が滅び、668年に高句麗が滅んで新羅が朝鮮半島を統一します。
その新羅も918年に滅んで、高麗(こうらい)に取って代わられます。
この王朝が1392年まで続きます。

高麗の武将である李成桂が王位を譲り受けた形で、翌年に新しい王朝を立てます。
これが李氏朝鮮です。
1896年に大韓帝国になり、1910年、日本に併合され、1945年に独立します。

日本人の間では、ライオンは「唐獅子」と共に「狛犬」という言葉になって、語り継がれたわけです。
ペルシャから飛鳥へやって来た石工が獅子像をたくさん作ったはずです。
しかし、写実的なライオン像は日本人の目には、むしろ想像上の生き物に見えたことでしょう。
時代が下るに従って、写実的なライオン像よりも「伝統的な」唐獅子や狛犬の方が主流になってゆき、それが、現在私たちが目にする唐獅子や狛犬となって残っています。

写実的なライオン像は、人気がなくて、作り変えられたか、壊されたのでしょう。
亀石のように大きなものを作っていれば、壊されずに残っていたでしょうが、残念ながら巨大なものは作らなかったようです。

ペルシャの石工がやって来た

証拠でもあるの?


蘇我氏が飛鳥寺を建立するために、百済から招いた寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、画工らはペルシア系の人々であったと言われています。
また、仏師の司馬達等(しばのたつと)親子はペルシャ人であったらしいのです。 
ちなみに、司馬達等は鞍作止利(くらつくりのとり)のおじいさんです。


(himiko12.jpg)

天平八年(736年)、遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)もペルシャ人でした。
天平勝宝六年(754年)、鑑真和上に随行して来日した安如宝もペルシア人であったと伝えられています。
このように古代日本には、ペルシア人は案外多く来訪して、その文化を伝えていたようです。

「日本書紀」には、トカラ人饗応の記述がみられます。
トカラについては、ペルシア、またタイ、ビルマ、メコン川流域など、いろいろな説があります。
まだ定説というものがありません。

斉明紀六年七月条に「覩貨羅人乾豆波斯達阿(とくわらのひとげんづはしだちあ)」とあって、「乾豆波斯達阿」という名前らしい表記があります。
「日本古典文学大系本」の頭注にしたがうと、固有名詞かどうかは疑問として、乾豆は賢豆などと同じくインド、波斯はペルシャをさし、達阿はインドの人名の語尾らしいとあります。
この表記からおおよそ推定するならば、日本よりはるか西方の南アジアの一地域かと思われます。
しかし、断定できる資料がありません。

もっともオーソドックスな解釈では西域の吐火羅(とから 覩貨邏)、つまり中央アジアのトハラ(現在のブハラ、Bukhara)であるとされています。


(worldmp3.gif)

トハラ族(Tokhara、覩貨邏)は、古代中央アジアの遊牧民で「トカラ」族とも言われます。 
サカ(インド=スキタイ)系と言われ、バクトリアへ移動後、大月氏に征服され、クシャーナ朝の中核となりました。
なお、現在のアフガニスタンの北部にある彼らが住んでいた土地は現在「トハラ」または「トゥハーリスターン」と呼ばれています。
その中心は古代にはバクトラ(現バルフ)、中世はクンドゥズに置かれ、東西交通の要地としてバクトリア王国、大月氏国、クシャーナ朝などの政治・文化の中心でした。

シルクロードの彼方から文物のみか、ペルシア人も渡来したという事については根強い支持があります。

しかし、日本書紀に従うと、ペルシア人だけが船に乗って漂着したり、男だけが本国に一時帰るというのは、ちょっと不自然です。

さらに書紀には『百済』と『都貨羅(トカラ)』の皇子を人質にしたとあります。
この場合、都貨羅を中央アジアのトハラと考えるには無理があります。

結論を先に言えば、僕は「トカラ」が二つの地名をさしていると思います。
一つは中央アジアのトハラ、もう一つは耽羅(トムラ又はタムラ)、つまり継体紀に一度名前の出てくる済州島です。
地理的位置と、百済との服従関係を考慮すると、初期の記述も十分に理解することができます。
従って、飛鳥にはペルシャからも済州島からも石工がやって来ていたと思います。

ただし、個々の石造物を見てゆくと、ペルシャの作風が見て取れるものがあり、ペルシャ人の石工の存在を無視することができません。
では、さらにいくつかの石造物を見てゆきたい思います。
まずは、猿石をジックリと見てください。

■ 『猿石の謎』

実は、ここまでの事は僕が2003年8月2日に『新しい古代日本史』サイトで書いたことです。
オリジナルは次のリンクをクリックすると読めます。

■ 『ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た』

なぜ、また同じ記事をブログに書く気になったのか?
すぐ上のページのフォームメールを使って今年(2007年)の4月3日にコメントを書いてくれた人が居たのですよ。

これまで『新しい古代日本史』サイトの記事にコメントを書いてくれる人はほとんど居なかったのです。
なぜなら、そのフォームメールが英語版なのですよ。
だから、コメントを書いてはみたものの、
確認ボタンをクリックすると英語のページが表れるので、何かの間違いではないかと思って送信するのを止めてしまうのでは。。。?
僕は、コメントが少ないことを、そのような理由だと思っていたわけです。

どうして最近、『新しい古代日本史』サイトの記事を読んでコメントを書く人が多くなったのかと言えば、
本吉さんが書いてくれたコメントを僕が紹介したからだと思っています。

この本吉さんについては次の記事を読むと詳しく書いてあります。

■ 『日本人はどこからやってきたの? 2007-03-19』

■ 『ネットの愚民 2007-03-27』

次のコメントを書いてくれた北田さんも僕のブログの記事を読んで『ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た』のページにたどりついたのではと、僕は推測しています。
では、北田さんのコメントを紹介します。



Subj: Bravenet Form Processor
Date: 02/04/2007 10:45:50 PM Pacific Daylight Time
From: servicemail@bravenet.com
To: barclay1720@aol.com


MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted: Apr 02 2007 / 22:45:24

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-persiad-superb
Your_Name = 北田 ○○
Your_Email_Address = webmaster@○○○○.com
Comments:

もう知っているともいますが、徐福を調べたらおもしろいと思います。

徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm

徐福が海人族(あまぞく)になり、
泰氏になったのではと。
そしてユダヤ人(ペルシャ人?)だったのではと思います。

北田 ○○ Good luck! Q(⌒o⌒)Qchan


(byebye.gif)


僕はさっそく次のような返信を書きました。



Subj: 北田さんコメントありがとうございました。歴史馬鹿のデンマン(加藤)です。
Date: 03/04/2007 2:21:23 PM Pacific Daylight Time
From: barclay1720@aol.com
To: webmaster@○○○○.com



(kato3.gif)

北田さん
コメントありがとうございました。

『ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/persiad.html

上の僕の記事を読むまでもなく、
かつて松本清張さんもペルシャ人と飛鳥文化の関わりを書いていました。
調べれば調べるほど飛鳥文化には渡来人の跡がたくさん残っていますよ。
古代史のロマンを感じさせてくれます。

うん、うん、うん。。。
徐福のことは、ご指摘のとおり古代日本史とは切り離せない人だと10年ほど前から関心を持っていました。
『徐福伝説に隠された意味 (仮題)』と言う記事を書こうと思って10年以上ほったらかしのままです。

『新しい日本古代史目次』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/list.html

すでにリンクまで作って上の目次の中に入れてありますよ。
この事にも関連して4月6日に記事に書きたいと思います。
また気が向いたら僕の記事を読みに来て下さい。
まずはお礼まで。。。

(*^_^*)キャハハハ。。。

歴史馬鹿のデンマン(加藤)でした。
じゃあね。


日本の古代史に関心のある人は、おそらく徐福の名前を知らない人は居ないと思います。
この徐福伝説は日本の各地に伝えられています。
なかでも、和歌山県の新宮には、大昔、徐福がその仲間とやって来て住み始めたという伝説が多くの人に知られています。
しかも、徐福にゆかりの“名所”、“名物”が新宮市にはたくさんあるんですよ。

まず、新宮駅の近くには徐福公園があります。
中国風の楼門がひときわ鮮やかな公園です。
園内には、徐福の墓や顕彰碑があり、
徐福の重臣たち7人を祭った七塚の碑などがあります。


(sail350.jpg)

徐福とは、中国の歴史書『史記』によれば、今から約2200年前、秦の始皇帝に方土(仙術者)として仕えた人です。
皇帝の命令で不老不死の霊薬を探しに、東方に浮かぶ蓬莱の島に向かって出航したのです。
熊野で不老長寿の木といわれる天台烏薬を見つけたのですが、気候温暖で風光明媚な土地柄を気に入り、熊野を永住の地としたと伝えられています。

土地を開拓し、農耕、漁法、紙すきなどの技術を伝えたといわれています。
毎年8月12日と13日には徐福を供養する万燈祭が行われ、花火や盆踊りで賑わいます。

実は僕が泊まったのも、駅の近くの“徐福ホテル”でした。
また、駅前にはサンマずしで有名な“新宮名物 徐福寿司”まである。
これだけじゃない!
「徐福茶」「徐福ロマン」など徐福に関連した商品が街にあふれている感じです。
とにかく、呆れるほどでした。

しかし、新宮だけじゃないんですよね。
九州の佐賀平野、筑紫平野にゆけば、やはり多くの徐福ゆかりの地があります。

調べると、徐福ゆかりの地は、九州、四国、中国、近畿、中部地方というように
西日本を網羅するように広がっています。
これだけ伝説が各地に散らばっていると、
やはり、徐福について書かねばならないなあああ~
また書きたいなあああ~
そう思いながら10年が過ぎてしまいました。
そのうち書こうと思っています。


では。。。




初出: 2007年4月6日





(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる記事



■ 『デンマンのブログを削除した管理人に対する公開抗議文とその面白い顛末』

『あなたが思う存分楽しめるデンマンのポータルサイト ビーバーランド XOOPS 3世』


(nurse3.jpg)

このオニイちゃんは、どうして喜んでいるのでしょうか?
もちろん、きれいな看護婦さんが来てくれたからですよね。

この絵を見て、いろいろと面白いことを書いた人たちが居ます。
あなたはどんな事を言いたいですか?

他の人が書いたコメントを読みたいと思いませんか?
次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『こういうのって、どう?面白いでしょう?何か一言いってよ』

■ 『日本は軍国主義への道を歩んでいるのでしょうか?』

■ 『2ちゃんねるは世界のネットのために貢献できるか?』

■ 『日本のネットではありませんよ! 世界のネットです!』

■ 『日本の皇室はどうあるべきでしょうか?』

■ 『一体、日本は良くなるの?』

■ 『どうして、こうも犯罪が増えている?警察はホントに駄目になったの?』

■ 『日本のネットで迷惑を振りまいているウツケ者たち』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』



(himiko92.jpg)

おほほほほほ。。。。

また、出てまいりましたわぁ。

ネットには、面白い人がたくさん

居ますわよねぇ~。

パンツにコカイン君は相変わらず

愚かなコメントを書いていますわ。

えっけん君や太田将宏老人は

ムカついたまま返信を書いてしまいます。

みっともないコメントになるだけでござ~♪~ますわア。

本人は、なかなか自分の愚かな事に気づかないんですよね。

でもね、少しは可愛げがありますわ。

でも、可愛げが全くないのが

DEMPA55という人物です。


(cockroach3.gif)

ネットのゴキブリのような人物です。

誰からも嫌われ相手にされていません。

あなたも、DEMPA55に

気をつけてくださいましね。

2ちゃんねるを覗くと、

確かに、DEMPA55のような

ゴキブリがウヨウヨしていますわよね。

ほ~♪~んとにヤラしいところで

ござ~♪~ますわぁ~。

んも~~

どうか、あのようなヤラしいところには

近づかないでくださいましね。

2ちゃんねるに行くのだったら、

あたくしがモデレーターをやっている

『ビーバーランド XOOPS 3世』を見てくださいね。

オツムの体操になるフォーラムが

たくさんありますわよ。

おほほほほほ。。。

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。



(lion03.jpg)


(drinker2.gif)

コメント
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台湾@日本統治

2021-11-21 02:46:46 | 日本史


 

台湾@日本統治

 


(bale10.jpg)


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ケイトー。。。 今日は日本が台湾を統治していた当時のことを話すのォ〜?


(kato3.gif)

そうです。。。いけませんか?

太平洋戦争の前のことよねぇ〜…。

そうです。。。

でも、どういうわけで急に日本統治時代の台湾を取り上げるのォ〜?

実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次の映画を観たのですよ。。。この映画が取り上げている時代が日清戦争の後で、敗れた清が下関条約で台湾を日本に割譲した。。。その直後から日本帝国陸軍の兵隊や警察官が台湾に入って統治し始める頃から物語が始まるのですよ。。。

 


(lib21-11-01.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』




セデック・バレ


(bale12.jpg)

 

『セデック・バレ』 (原題:賽德克·巴萊 /Seediq Bale)
セデック語で「真の人」の意。
2011年の台湾映画。監督はウェイ・ダーション。

1930年、日本統治時代の台湾で起こった先住民セデック族による抗日蜂起事件である霧社事件を描く。
ただし、史実をもとにしているものの、史実と異なる部分や創作も含まれている

台湾映画史上最高額となる7億台湾元をかけて制作された。
全2部作で、第1部は143分、第2部は131分。
第1部が2011年9月9日、第2部が9月30日より公開され、2011年11月26日、第48回金馬奨で「最優秀作品賞」「最優秀助演男優賞」「最優秀オリジナル音楽」「最優秀音響効果」「観客賞」の最多5部門を受賞した。

日本では2012年3月の第7回大阪アジアン映画祭で初公開。
台湾以外の国際映画祭に出品されたインターナショナル版(短縮版:155分)ではなく、2部作合計4時間半におよぶフルバージョン(タイトルは第1部『セデック・バレ 太陽旗』、第2部『セデック・バレ 虹の橋』)で、3月13日と14日にそれぞれ上映され、コンペティション部門の「観客賞」を受賞。

日本での一般公開は2013年4月20日で、『セデック・バレ 第一部 太陽旗』『セデック・バレ 第二部 虹の橋』が同時公開された。

 

あらすじ(ネタバレ注意

台湾のセデック族は、誰からも支配されることなく自然の中で狩猟をし、先祖から伝わるガヤ(掟)に従い、暮らしていた。
その中で、部族同士の抗争、殺し合いもありつつ、自分たちの世界を築いて生きていた。
出草(首狩り)の風習も生きていて、それは彼ら自身の宗教と価値観に基づいていた。

しかし日清戦争後、進駐してきた日本軍と戦って敗北し捕えられる。
その後、警官の監視のもとで日本の風習や言語を身につけ、日本人の考えるところの文明を受け入れることを強制され、さらに少ない賃金による労働の供出を強いられていた。

日本人からの侮蔑、差別、女性の性的搾取が日常的に行われていた。
日々鬱屈した不満が高まっており、警官へのリンチ事件をきっかけに、他の村と共に武装蜂起を決意した。

それは最初から勝利の見込みのない、部族としての誇りを取り戻すためだけの戦いであった。

派出所の警官を襲撃した後、運動会に集まっていた日本人たちを手当たり次第に惨殺し、山中でのゲリラ戦を仕掛けるが、対する日本軍は毒ガス、敵対部族の動員などによって追い詰め、壊滅へと追い込んでゆくのだった。




出典:「セデック・バレ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



あらっ。。。1930年に台湾の原住民が反乱を起こしたのねぇ〜



僕も歴史の授業で原住民の高砂族が反乱を起こしたということは聞いたことがあるけれど、詳しいことは上の映画を観て初めてわかったのです…。

史実をもとにしているものの、史実と異なる部分や創作も含まれている、と書いてあるけれど、霧社事件 という反乱は歴史的にはどういうことだったの?

ウィキペディアには次のように書いてありました。

 



霧社事件

 


(bale15.jpg)

 

霧社事件(むしゃじけん)とは、1930年(昭和5年)10月27日に日本統治時代の台湾・台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった、日本軍とセデック族の軍事衝突である。

日本統治初期においては清朝統治時代の隘勇制度が踏襲され、原住民族の隔絶・封じ込めが図られたが、1906年に佐久間左馬太が台湾総督に就任すると、山林資源などを求めて理蕃事業が本格的に開始された。

台湾総督府は長期に亘る武力制圧の末に1915年には全域の原住民を支配するに至る。
原住民に対しては大量の警官を通じた高圧的な統治を行う一方で、教育による同化が進められ、伝統的な文化・習俗は禁じられた。

原住民蜂起の直接の引き金となったとされるのが、霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダーであったモーナ・ルダオの長男、タダオ・モーナが1930年(昭和5年)10月7日に起こした日本人巡査殴打事件である。

その日、巡査が同僚を伴って村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかったところ、宴に招き入れようとしたタダオが巡査の手を取ったが、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。

侮辱を受けたと感じたタダオは、この巡査を殴打したのである。
原住民側はこの巡査殴打事件への報復に怯え、特にタダオの父モーナ・ルダオが警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、蜂起を画策したといわれている。

原住民が無謀な蜂起を起こすに至った背景として、日頃からの差別待遇や強制的な労働供出の強要、山地統治を行う警察に対する反感、そして1900年代に抵抗する民族に対して行った台湾総督府による弾圧の記憶等が挙げられる。

 

経緯

1930年(昭和5年)10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。

 


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当時の公学校には一般市民の日本人と漢人(大陸からの移住者)の家族子弟が集まっており、部族民は和装の日本人を標的として襲撃、結果日本人132人と和装の台湾人2人余りが惨殺された。
犠牲者は無残にも首を切り落とされる有様であった。

なお、現地の警察には花岡一郎(セデック語:Dakis Nomin,1908年-1930年)と花岡二郎(セデック語:Dakis Nawi,?年-1930年)という、霧社セデック族の警察官も2名居たが、彼らは事件発生後に日本への義理立てを示す遺書を残してそれぞれ自殺した

この遺書は偽造されたものであるとの見解や、実は彼らが暴動を首謀、扇動または手引きした(させられた)との見方もあるが、両名が蜂起を事前に知っていたか、またそれに関与していたかは今日に至るまで不明である。

蜂起の連絡を受けた駐留日本軍や警察は武力による鎮圧を開始した。
日本側は2日後の10月29日には早くも霧社を奪回した。
霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。

11月1日の戦闘では蜂起軍側は日本側に抵抗したが、指揮を取っていたモーナの次男バッサオが死亡。
11月初めにはモーナ・ルダオが失踪、日本側は親日派セデック族や周辺の諸蕃部族(「味方蕃」と呼ばれた)を動員し、11月4日までに蜂起側部族の村落を制圧した。

モーナの失踪後は長男のタダオ・モーナが蜂起勢の戦闘を指揮したが、12月8日にタダオも自殺した。
12月中に鎮圧軍は現地の治安を完全に回復し、戦闘は終結した。

日本側は大砲や機関銃、航空機などの兵器を投入し、ようやく蜂起軍を制圧した。
毒ガス弾が使用されたとする文献もあるが、諸説があり定まっていない

味方蕃の戦闘員たちに対しては蜂起軍の首級と引き換えに日本側から懸賞金が支給された。
この措置は日本統治下で禁止されていた首狩り(出草)を許可するものであり、懸賞金の対象は敵蕃の壮丁のみならず、一般市民まで含まれていた。
この措置は原住民部族間のみならず同族セデック間での凄惨な殺し合いをも助長し、第二霧社事件の発端にもなったとされる。

戦闘の中で、700人ほどの蜂起軍が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。

特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった。
一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった。

掃討戦で戦死した日本軍人・味方蕃兵士は靖国神社に祀られている。

翌1931年(昭和6年)1月、台湾総督石塚英蔵、総務長官人見次郎、警務局長石井保、台中州知事水越幸一が事件の責任を取り辞任した。

 

評価

当時の日本社会においては台湾原住民の存在自体が熟知されておらず、雑誌等に興味本位にその風俗などが描かれる程度であった。
霧社事件は台湾総督府に対しては強い衝撃を与え、原住民統治の抜本的な改革を迫るものであった。

第二次世界大戦後、日本にかわって中国国民党が台湾を統治するようになると抗日教育が行われるようになった。
そのため、台湾では霧社事件は日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動として高く評価されるようになり、蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と称されるようになる。

 


(bale14.jpg)

 

霧社にあった日本人の殉難記念碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。
霧社では毎年、霧社事件の遺族らが参加して、蜂起側部族の犠牲者を追悼する「追思祭典」が開催されている。

1990年代以降、民主化の過程の中で台湾史への再認識がブームとなり原住民文化への再評価が行われるようになると、今度は霧社事件は「原住民族のアイデンティティーを賭けた戦い」として位置づけられるようになった。




出典: 「霧社事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



史実と異なる部分や創作も含まれている、と書いてあるけれど、ケイトーは上の映画を観て史実と異なる部分や創作があることに気づいた?



上のウィキペディアには「現地の警察には花岡一郎と花岡二郎という、霧社セデック族の警察官も2名居たが、彼らは事件発生後に日本への義理立てを示す遺書を残してそれぞれ自殺した」と書いてあるけれど、映画の中ではセデック族出身の花岡巡査一人だけが取り上げられているのです。。。日本の師範学校を出て警察官になったのです。。。日本人の女性と結婚しており、男の赤ちゃんがひとりいる。。。おそらく日本人と結婚しているというのは創作だと思うのですよ。。。

どうして、そう思うのォ〜?

駆け落ちでもしない限り、当時は、結婚するには親の承諾が必要なのです。。。日本人の両親が娘の相手の男が台湾の原住民だと聞いたら、まず許すはずがないのですよ。。。

毒ガス弾が使用されたとする文献もあるが、諸説があり定まっていない、と書いてあるけれど映画ではどうなってたのォ〜?

映画では飛行機から毒ガス弾を地上に投げるシーンが出てくるのですよ。。。僕もビックリしました。。。毒ガスは満州で、あの有名な石井中将の731部隊で開発されたものだと読んだことがある。。。

 



731部隊


(731gas.jpg)

 

1932年(昭和7年)8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。
それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。
そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された
この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[7]。

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。

関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂の出身者が多数いたことに由来する。
この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。

1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。
部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。




出典:「731部隊」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



731部隊では確かに毒ガス実験が行われていたのです。。。でも、1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始されたのです。。。だから、1930年には毒ガス弾はまだ日本でも満州でも開発されてないはずです。。。



1910年代の第1次世界対戦では毒ガスが使われたので、この反乱鎮圧にも毒ガス弾が使われたと映画監督が考えて毒ガス場面を入れたのかもねぇ〜。。。

そうかも知れません。。。

他にケイトーが気になったことでもあったのォ〜?

戦闘の中で、700人ほどの蜂起軍が死亡もしくは自殺した、と書いてあるけれど、残された家族、女と子どもたちが集団自殺している場面が出てくるのですよ。。。花岡巡査も赤ちゃんと妻を殺して自殺するのです。。。この場面は凄惨(せいさん)で目を背(そむ)けたくなりますよ。。。史実では、どうだったのか?。。。この事はウィキペディアの説明には詳しく書いてない。。。ただ、「マヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった」、と書いてあるだけです。。。

。。。で、その集団自殺の凄惨な場面を観て何か感じたことでもあるのォ〜?

あのねぇ〜、「歴史は繰り返す!」 としばしば言われるけれど、霧社事件では、日本軍が反乱を鎮圧したことで集団自殺が起きたのだけれど、それから10数年後、今度はアメリカ軍の掃討作戦でサイパン島の日本人の妻や子供が集団自殺しているのですよ。。。

 



バンザイクリフ


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太平洋戦争(大東亜戦争)中、日本軍司令部がサイパン島北部にあり、アメリカ軍の激しい戦闘(サイパンの戦い、1944年6月15日 - 7月9日)において、追い詰められた日本兵や民間人が、スーサイドクリフと同様にアメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、80m下の海に身を投じて自決した悲劇の断崖(岬)である。

多くの自決者が「天皇陛下、万歳」や「大日本帝国、万歳」と叫び、両腕を上げながら身を投じたことから、戦後この名で呼ばれるようになった。
自決者の数は1万人にのぼるとも言われていて、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した

のち、サイパン島南太平洋地域の平和記念公園として整備され、慰霊碑や寺院が建立されており、崖周辺にある多数の供養塔とともに、観光地の1つとなっている。
慰霊碑へ向かう道の途中には戦車が遺棄されていて、見学することができる。

第二次世界大戦後60周年の2005年(平成17年)6月28日、皇室としては初めて、明仁天皇・美智子皇后がバンザイクリフを慰霊のため訪問した。

かつては、英語化された音でマッピ岬(Marpi)と呼ばれた。
日本統治時代の地名もマッピ(松尾)で、古い文献にもそのように記されている。
プンタンサバネタ(Puntan Sabaneta)という呼称は、現地の言葉であるチャモロ語での呼称である。
北マリアナ政府は、この岬を正式にプンタンサバネタに変更したが、世界ではバンザイクリフが使われている。

 

サイパン戦の犠牲者

日本兵・在留日本人:55000人以上
アメリカ兵:3500人以上
チャモロ人:900人以上




出典:「バンザイクリフ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



この時には、自決者の数は1万人にのぼるとも言われていて、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した、というのです。。。霧社事件の時よりも酷(ひど)いのですよ。。。



上のクリップに出てくるおばさんがバンザイクリフから飛び降りるのだけれど、まるで1メール下の道路にでも飛び降りるようにして簡単に死んでしまうのねぇ〜。。。ちょっと常識では考えられないわァ〜。。。

あのねぇ〜、シルヴィーは知らないと思うけれど、戦争中はアメリカ軍やイギリス軍は鬼畜米英と言われて、日本帝国政府はデマを流して教育したのですよ。。。つまり、兵士たちに降参させないように、捕虜にでもなったら、アメリカ軍やイギリス軍の兵士は鬼のようなものだから、日本兵が捕虜になったら食事も満足に与えられないで強制労働させられてすぐに死んでしまう。。。だから、捕虜にならずに最後まで徹底的に戦うようにと教育されたのですよ。。。女性は、アメリカ軍やイギリス軍に捕まったら、レイプされて、なぶり殺しにされると脅されたのです。。。

それで、アメリカ軍の呼びかけにも応じないでバンザイクリフから飛び降りて自殺したわけぇ〜?

そうですよ。。。もう集団心理です。。。レミングじゃないけれど、前に続けと言わんばかりに集団自殺したのですよ。。。

 



 



つまり、レミングは死にたくて集団自殺するわけじゃないのねぇ〜?



そうです。。。レミングの数が増えたら、集団で移動する。。。崖にさしかかったら、止まろうとしても、後ろから、後ろから押し寄せて来るから、飛び込まないわけにはゆかない。。。人間の目から見たら集団自殺するように見えるだけです。。。

でも、霧社事件の時も、バンザイクリフの時も、集団自殺がマジで起きたのでしょう?

そうです。。。霧社事件の時には、名誉を守るために集団自殺したと言われているのですよ。。。バンザイクリフでは日本帝国政府のデマによる教育のために、死ななくても良い人までが集団自殺したのです。。。つまり、名誉を守るためにしろ、デマによる教育にしろ、生きるか死ぬかの場面にさしかかると、死を選ぶようにしつけられていたのです。。。

ケイトーは、そういうことはいけないと思うわけぇ〜?

もちろんです。。。対照的に、アメリカ軍もイギリス軍も、捕虜になったら脱出するためにしぶとく生き抜けと教育されていたのですよ。。。だから、捕虜になって帰ってきたら英雄です。。。日本では、生き恥をさらしたと言われて戦時中に帰ってきた者は収容所に入れられた。。。ジョン・マケインはベトナム戦争で捕虜になったけれど、しぶとく生き抜いて英雄として母国に帰ってきた。。。その人気を後ろ盾に上院議員になり、アメリカ大統領に立候補してオバマ氏に敗れたものの敗北宣言は今でも有名です。。。

 



 



日本でも、アメリカやイギリスのような、徹底的に生き抜けという教育をしていたら、ジョン・マケインのような優秀な人材が死なずに日本に帰ってきて、日本のために働いたのですよ。。。



死に急ぎはいけないということねぇ〜。。。

そうです。。。どんな事があろうとも、しぶとく生き抜く教育をしないといけないのですよ。。。「人の生命は地球より重い」と、どこかの総理大臣が言ったほどなのだから。。。

 


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『命の値段』




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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、命は地球よりも重い、と思いますかァ〜?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、もっと楽しいことを話せよ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

では、シルヴィーさんが出てくる面白い記事のことでも。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


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『アダムとイブは何を食べたの』

『舞踏会 明子』

『波乱の人生』

『国際化だよね』

『イングナさんを探して』

『美しい日本語 チェーホフ』

『横の道@ニコライ堂』

『また塩野七生批判』

『日航スチュワーデス』


(cleopara2.jpg)

『クレオパトラ@塩野批判』

『テルモピュライの戦い』

『思い出の蓮』

『角さんと天罰』

『ラーメン@リガ』

『角さんと天罰がなぜ?』

『南京事件と反知性主義』

『あけびさんの卒論』

『愛は降る星の彼方に』


(sunwind2.gif)

『サイバー戦争』

『エロくて、ごめんね』

『モバイル社会とガラケー』

『元老のアメリカ』

『ケネディ家の呪い』

『欧米を敵に回す』

『ソフィアからこんにちわ』

『ドイツが原爆をロンドンに』

『いまだに謎』

『さらば大前研一』


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『空飛ぶスパイ』

『愛情はふる星@ベトナム』

『ヒラリーと塩野七生』

『ケネディ夫人@インドネシア』

『究極の大前研一批判本』

『フェルメールの謎』

『女に文句を言う女』

『あなたの祖国』

『宮沢りえ@韓国』

『正しい戦争』

『ゴールデンシャワー』

『死刑廃止』


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『かまびすしい』

『今、新たな戦前』

『クレオパトラ@アラビア』

『政府は嘘をつく』

『犬と人間と戦争』

『未来予測』

『知られざる悲劇』

『量子活動家』

『アンネの運命』

『10次元の世界』

『ポーランドの犬』


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『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


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『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』

『2000年前の光通信』

『習近平皇帝』

『プーチンの復讐』

『ペンタゴン・ペーパー』

『南米の富士山』

『ダンケルク』

『無実の罪』

『殺人光線』

『ロッキード事件すごい』

『注目の悲劇』

『核戦争』

『1910年の飛行レース』

『エンペラー習近平』

『暗殺@GOO』

『テロとの戦い』

『マリアのミイラ』

『パナマ文書』

『南京事件』

『古代文明人』

『海の文明人』

『CIAの暗躍』

『魔殿ペンタゴン』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

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『センスあるランジェリー』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』



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元老のアメリカ

2021-11-02 01:17:31 | 日本史

 

元老のアメリカ

 


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ケイトー。。。、どういうわけで、元老のアメリカというタイトルにしたわけぇ~?


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実は、次の記事の続きのつもりです。。。


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『モバイル社会とガラケー』

 



ガラパゴスケータイの本来の意味としては「多機能かつ国内特定事業者向け専用モデルの携帯電話」を指していると書いてある通り、ガラケーはグローバルモデルではないのですよ。。。



確かに、ガラケーはグローバルモデルではないわァ。

スマホの急速な普及は、世界の携帯電話市場を一変させつつあるわけ。。。 Apple社は、iPhone、iPadの世界規模での販売拡大で一気に株式時価総額1位になり、Android OSを採用する端末を生産・販売する中国・韓国・台湾系企業が躍進する一方で、シェアを大きく落とす日本企業が出てきた。。。

要するに、日本がバンドワゴンに乗り遅れたのねぇ~。。。?

そういうことです。。。 失われた20年が象徴しているように、この期間に、日本人の思考が政治も含めてガラパゴス化したということなんですよゥ。。。

でも、それってぇ、ちょっと飛躍していると思わない?

思いません。。。 日本が経済的にも文化的にも、なかなか住み良くならないのも、日本の政治がガラパゴス化しているからですよ。。。

 


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つまり、その証拠が元老のアメリカだと言うわけぇ~?



そういうことです。。。

でも。。。、でも。。。、元老のアメリカってぇ、どういうことよ?

まず次の説明を読んでみてねぇ~。。。

 


元老


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元老(げんろう)は、大日本帝国において、天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。
大日本帝国憲法は元老についての規定を明記しておらず、また定義した法律も存在しないため、憲法外機関とされる。

元老の権能

主権者たる天皇の諮問に答えて内閣総辞職の際の後継内閣総理大臣の奏薦、その他の重要国事に関与した。

元老の主要な権能としては後継首相の奏薦であるが、この会議には元老がすべて参加するとは限らず、元老たちの要請により、前首相や内大臣などが参加することもあった。
天皇は元老が奏上した候補者については拒否した例はなく、大命降下は事実上元老の意見に基づくものとなっていた。

また内政について協議し、意見を述べることもあり、日英同盟締結の際には元老会議によって意見がまとめられている。
また日露戦争開戦時の御前会議にも参加している。
また個々の元老は宮中や貴族院、政党や軍などに働きかける政治活動を行った。
これらの行動は元老集団の合意に基づくものではなく、個人としての活動であった。

元老は内閣にとって正負両面の影響力を持っていた。
原則的には成立した内閣の存続をはかり、交代に際しては円満であることを望んでいたが、第1次西園寺内閣倒閣の際には、倒閣に動いたことも指摘されている。

元老の一覧

1) 伊藤博文 (長州) 1841年 - 1909年

2) 黒田清隆 (薩摩) 1840年 - 1900年

3) 山縣有朋 (長州) 1838年 - 1922年

4) 松方正義 (薩摩) 1835年 - 1924年

5) 井上馨 (長州) 1836年 - 1915年

6) 西郷従道 (薩摩) 1843年 - 1902年

7) 大山巌 (薩摩) 1842年 - 1916年

8) 西園寺公望 (公家) 1849年 - 1940年


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出典: 「元老」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、元老という人たちは、大日本帝国憲法には規定されてないにもかかわらず、主権者たる天皇の諮問に答えて内閣総辞職の際の後継内閣総理大臣の奏薦、その他の重要国事に関与したわけなのねぇ~。。。?



そういうことです。。。

誰も文句を言わなかったのォ~?

文句を言える人が居なかった。。。

どうして。。。?

明治維新を起こして江戸幕府を倒した大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、三条実美といった人が明治の元勲と呼ばれたのですよ。。。 要するに明治初期の最有力者たちです。。。 その人たちが亡くなると、元老と呼ばれた人たちが乗り出してくる。。。 当初は初期の最有力者を指していたのだけれど、伊藤博文などの後の世代も元勲という呼び名で呼ばれるようになった。。。、つまり、「俺たちと先輩たちで明治政府を立ち上げたのだから、他の青二才たちに文句を言われる筋合いはない!」というわけで、天皇を担(かつ)いで、自分たちの思うような政治をやったわけです。。。

要するに、国会が開設されても元老たちが口出しして、政治を動かしてきたわけねぇ~。。。

そういうことです。。。

でも、太平洋戦争に敗れた後は、新しい憲法の下で元老は無くなったのでしょう!?

そうですよ。。。 でも、進駐軍がやってきてマッカーサーが言わば“元老”になったわけです。

つまり、日本の政治家がなんと言おうが、“元老”のマッカーサーが、「こうしろ!」と言えば、そうせざるを得なくなったのねぇ~。。。!?

そういうことです。。。 マッカーサーの目に日本人は12歳の少年のように頼りない人間に見えたのですよ。。。

 


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でも。。。、でも。。。、1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して、占領が終わり、日本の主権が回復すると、マッカーサーの影響はなくなったのでしょう!?



ところが、そう簡単には、アメリカが引き下がらなかった。

マジで。。。?

例えば、次のように。。。

 


札幌の CIC (Counter Intelligence Corp: 対敵防諜部隊)の下部組織の責任者をしていたという宮下英二郎はかつて、国鉄労組を分裂させるための工作を札幌CICの日系二世から持ちかけられたことがある、とジャーナリストの斎藤茂男に打ち明けている。
結局、未遂に終わるのだが、その工作とは次のようなものだったという。

国鉄函館本線札幌-小樽間にある朝里トンネルの小樽築港側の入り口を爆破し、同時に「革命は近い」といった趣旨の共産党の署名入りビラを札幌や小樽でバラまいて共産党の仕業と見せかける。
その前に「トンネルを爆破せよ」という共産党のニセ指令書を CIC が入手したとして警察に流し、操作の方向をつけさせる。

この工作を持ちかけたのが、当時、宮下の直属の上司にあたる二世の土山義男中尉だったという。
1948年10月ごろのことだった。
さらに斎藤が調べたところ、宮下のいう土山義男とは字が違うものの、土山善男という軍曹が札幌CIC に実在していた。


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「下山事件」


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「三鷹事件」


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「松川事件」


さらに、当時の土山の同僚、藤浪正興によると、下山、三鷹、松川という鉄道を舞台にした怪事件が起きる1年前の1948年夏ごろから、北海道にいた米軍情報部員は続々と上京したという。
そして、この年の暮れに東京へ転出した土山軍曹を追うかのように、宮下も翌春、東京へ出てきている。
宮下は自分の状況時期について、こう話している。

「そのころ、CIC のなかでひそかに CIA(米中央情報局)要員が編成され、自分もその末端で働くことになったためだ。
しかし新たな組織の動きは CICの同僚にも秘匿して行われた」(『夢追い人よ』by斎藤茂男)

赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




203ページ
『葬られた夏 追跡 下山事件』
著者: 諸永裕司
2002年12月30日 第1刷発行
発行所: 朝日新聞社


 



こうして、アメリカは着々と裏から日本の政治に影響力を持とうと暗躍したのですよ。。。



でも、日本には、国会もあり、政府もあり、警察もあるでしょうに。。。

確かに、あります。。。 でもねぇ~、それでもアメリカは日本に対して影響力を持とうとするわけですよ。。。

 



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クーデターの指令本部は、南青山と西麻布の CIA東京本部と電通と共同通信の建物の中にある。
なんと早くも、(2010年6月)6日には、いつものインチキ世論調査の発表があって、「菅直人政権への支持率が、61%に急上昇」という奇怪な報道が即座に行われた。
このあと、10日に、新聞各社の横並びで数字がそろっている新政権への支持率、61%から68%(日経新聞が68%)という、日本国民を煽動する巨大な虚構の、世論調査の結果を報じた。

デイヴィッド・ロックフェラー系統が日本テレビ・新聞をすべて上から押さえていることで私たちは制空権を握られていることに等しい。
私たちは原住民としてヒソヒソ話で、真実を伝えあわなければならない。
昨年(2009年)の12月から開始された、鳩山・小沢打倒のクーデター計画は、前述したアメリカ人の下に、テレビ・新聞11社の政治部長会議、プラス検察・警察の最高幹部たち、とオール官僚トップのアメリカの手先連合である。
 。。。
自民党の執行部(谷垣禎一と大島理森)と、みんなの党(渡辺喜美が代表)も何も知らされていなかっただろう。
クーデター直後には、豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
アメリカは自民党を見捨てているから、今回は相手にしていない。

マイケル・グリーンと、マイケル・シーファーとジェラルドカーティスと、カート・キャンベルが率いる100人ぐらいの CIAの日本管理・謀略実行部隊は、それぞれが、2,3人の日本人工作員を抱えている。
この者たちが前原誠司、長島昭久を筆頭とする反小沢の民主党議員たちを、背後からあやつってクーデターを決行させた。

菅と仙石(官房長官になった)は、これまでずっと貧乏で、資金がないから、アメリカから数百億円の資金をもらって転んだのだろう。
売国奴の完成である。

赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




258-260ページ
『新たなる金融危機に向かう世界』
著者: 副島隆彦
2010年7月31日 第1刷発行
発行所: 株式会社 徳間書店 


 



でも。。。、でも。。。、いくらCIAが頑張ったってぇ~、限度と言うものがあるでしょう!? 日本のマスコミが騒ぐだろうし、日本の一般市民だって、黙っては居ないでしょう?



でも、アメリカの工作員が日本のマスコミに影響力を行使したらどうなる。。。?

まさかァ~、そんなことはしないでしょう!? それに、日本は経済大国になったのだから。。。

だから、アメリカは、さらに動き出したのですよ。。。

 


冷戦が終わって状況が一変した。
CIA、 NSA(国家安全保障局)を中心とするアメリカの巨大情報網が、主ターゲットを対共産圏から経済戦略に切り替えたのである。
当時の世界経済は日本の一人勝ちであった。

1989年には CIA長官ウェブスターが「今後、日本を含む経済ライバル国家が、情報活動の対象となろう」と言明した。
1990年に国務長官のジェーム・ズベーカーが「冷戦での戦勝国は日本だった。 冷戦後も戦勝国にさせてはならない」と語った。


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相前後して CIA が「ジャパン2000」という名のプロジェクトを著名な学者たちに委託した。
2000年までに日本を引きずり下ろす、の意であろう。
1992年には CIA長官ロバート・ゲイツが「CIA情報活動の4割を経済産業分野に振り分ける」、1995年にはCIA長官ドイッチが自らを「経済情報収集の熱烈な信奉者」と言い、同じころ、クリントン大統領は日米貿易交渉を貿易戦争と露骨に表現した。

アメリカが変貌したのである。
外交軍事では盟友であるアメリカが、経済では敵国に回ったのである。
 。。。
1990年代から今日にかけて、ビッグバン、市場原理、グローバルスタンダード、小さな政府、規制緩和、構造改革、リストラ、ペイオフ、新会計基準、不良債権処理などを矢継ぎ早に登場し日本を席巻した。
それもアメリカが強く要請したものである。
これが戦略的なものであることは間違いないだろう。
この10年間の不況は、一言でいうと、経済においてアメリカが庇護者から敵に変わったことに気づかなかった、お人好し日本の悲劇であった。

赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。)




50-51ページ 『この国のけじめ』
著者: 藤原正彦
2006年5月10日 第4刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋 


 



つまり、“日本の失われた20年”も裏でアメリカかが関わっていた、とケイトーは言うのォ~?



いや。。。 別に、僕がそう言っているわけではないですよ。。。 藤原さんが言っているわけですよ。。。

でも。。。、でも。。。、ケイトーだってそう思っているから 藤原さんの本から引用しているわけでしょう!?

でもねぇ~、日本の現実をじっくりと眺めると、アメリカの意向が日本の政治家に大きな影響力を与えているのですよ。。。

 


鳩山首相 県外移設を断念


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首相が望んでいても、実現できないことはたくさんある。
しかし、アメリカの政府高官や国務省の、あるいはペンタゴンの日本についての強い意向であれば、たいてい実現する。
大多数の日本人の意思や願望に反していても、それは、実現するだろう。

その端的な証拠は、2009年の鳩山民主党政権のときの、普天間基地移設問題である。
圧倒的に高い支持率で首相の座に就いた鳩山由紀夫は、普天間基地の「最低でも県外移設」を公約としていた。
この公約は、沖縄ではもちろんのこと、日本全国で広く賛同を得ていたはずだ。

しかし、鳩山首相は、米軍基地を視察したたった一日で、県外移設を断念してしまったのだ。
首相は、もちろん、その稚拙な外交について国民から厳しく非難され、これが彼の早期の退陣につながったわけだが、驚くべきことは、一国の首相に対する、アメリカのこれほど露骨な内政干渉に対して、日本人はたいした違和感を抱かず、この点を問題にした者はほとんどいなかった、ということである。
自国の首相よりも、アメリカに対してもっと怒ってもよい状況だったのに、そうはならなかった。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




191-192ページ 『日本史のなぞ』
著者: 大澤真幸
2016年10月30日 第1刷発行
発行所: 朝日新聞出版


 



つまり、ケイトーは日本がどうすればいいと思っているわけぇ~?



結局ねぇ~、日本の政治家も経済界の大物も、それにマスコミの大物も、表面はともかく、アメリカの言うなりになっているのですよ。。。 要するにアメリカにべったり。。。 国際的には通用しないのですよ。。。

それが、政治のガラケー化だ、とケイトーは言うわけぇ~?

その通りです。。。 ここまでいろいろな状況証拠を見れば、シルヴィーもそう思うでしょう!?



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは、どう思いますか?

日本の政治家も経済界の大物も、それにマスコミの大物も、表面はともかく、アメリカの言うなりになっていると思いますかァ~?

あなたも、たまには、今後の日本はどうすればいいのかァ?

たまには、考えてみたらいかがですか?

ところで、シルヴィーさんが出てくる面白い記事は他にも たくさんあります。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。


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『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


(sunwind2.gif)

『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』


(mh370a.jpg)

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

『古代ローマのセックス』

『CIAとノーパン』

『エロいローマ再び』

『エロいけれどためになる話』

『えろあくにめ温泉』


(jump009.jpg)

『エロいけれどためになる』

『地球上のネット普及率』

『原発はダメだったのに』

『スカートをはいた兵隊』

『行田シンドローム』

『幻の暴走機関車』

『CIA@NOパンツ』

『やっぱり、セックス』

『セックス風呂具村』

『CIAの黒い手再び』


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ノーパンdeCIA

2021-03-28 01:44:59 | 日本史


 

ノーパンdeCIA

 


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(nopan05.png)


(nopan03.jpg)


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ケイトー。。。 どういうわけで急に“CIAとノーパン”という話題を取り上げるのよゥ~?


(kato3.gif)

いけませんかァ~?

だってぇ~、CIAと“ノーパン”が関係あるなんて誰も思わないわよ。。。ネット市民の皆様の注目を集めるために、わざとノーパンを持ち出したのじゃないのォ〜?

僕は、そういう下心があってノーパンを取り上げたわけじゃないのですよ…。

でも、疑い深いネット市民は、ケイトーが“ノーパン フェチ”じゃないかと思うわよゥ。。。うふふふふふふ。。。

。。。ん? “ノーパン フェチ?”。。。 シルヴィー、それはちょっと可笑しいんじゃないかなァ~。。。 

なぜ、おかしいのよ?

“フェチ”というのは、例えば“生パンツ フェチ”と言うように、あるモノに対して異常に執着する性癖でしょう!。。。 “ノーパン フェチ”というと、“ノーパン”。。。要するに、パンツをはいてないのだから、執着するものがない!

だから、パンツを穿いてないことに執着するわけよ。。。 パンツを穿いてない女性を見ると性的に刺激されるわけよねぇ~。。。 うふふふふふ。。。

あのねぇ~、確かに、そういう解釈もできるけれど、シルヴィーが思うほど、僕はパンツを穿いてない女性を見て 性的に刺激されることはないのですよ。

マジで。。。? とにかく、どういうわけで“CIAとノーパン”という話題を取り上げるのよゥ~?

あのねぇ~、シルヴィーは「CIAと“ノーパン”が関係あるなんて誰も思わないわよ」と言うけれど、ネット市民の中には、CIAとノーパンが密接に関係あると信じている人達が居るのですよ…。

信じられないわァ〜…。

じゃあ、その証拠を見せますよ…。。。次のリストを見てください。。。

 


(liv21-03-04.jpg)


『拡大する』



『CIAとノーパン』


 



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で3月4日の午前10時19分から翌日5日の午前2時11分までのアクセス者の記録なんですよ。。。 青色の枠で囲んだ記事に注目してください。。。



あらっ。。。 CIAとノーパン を読んだネット市民が金魚のウンチのようにつながって出ているじゃない!

。。。でしょう?。。。つまり、CIAとノーパンが関係あると信じているネット市民が居るのですよ…。。。次の検索結果も見てください。。。

 


(gog21-03-05.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



CIAとノーパンが関係あると信じているネット市民が、こうしてCIA ノーパン と入れて検索するわけです…。すると 308,000件もヒットして、検索結果の2番目に出ているCIAとノーパン を読んだわけです。。。



。。。で、上の画像を見ると「ノーパンとしゃぶしゃぶ」と書いてあるけれど、どういうわけで「ノーパン」と「しゃぶしゃぶ」が対(つい)になってるわけなのォ〜?

 


(nopan34.jpg)

 



かつて次のような事件があったのですよ…。

 


大蔵省接待汚職事件


(nopan01.png)

大蔵省接待汚職事件とは、1998年に発覚した汚職事件である。
ノーパンしゃぶしゃぶ事件とも言われている。

官僚7人(大蔵4人、大蔵出身の証取委1人、日銀1人、大蔵OBの公団理事)の逮捕・起訴に発展。
起訴された官僚7人は、執行猶予付きの有罪判決が確定した。
この責任を取り三塚博大蔵大臣と松下康雄日銀総裁が引責辞任した。

第一勧業銀行利益供与事件における、大蔵省の検査の甘さが総会屋への焦げ付き融資拡大になった問題が浮上したことがきっかけで、東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部)は捜査を開始(総会屋利益供与事件)。

特捜部は過去の強制捜査や任意提出で都市銀行、長期信用銀行、大手証券会社などから業務日誌や接待伝票を把握した。

1998年1月18日、東京地方検察庁特別捜査部は日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に際し、野村證券から贈賄があったとして、公団経理担当理事(大蔵省OB)と、野村證券の元副社長らを贈収賄容疑で逮捕。

1月26日、東京地検特捜部はあさひ銀行・第一勧業銀行・三和銀行・北海道拓殖銀行から収賄を受け検査日程を漏らしていたとして、大蔵省検査官2名を逮捕。

3月5日、東京地検特捜部は、大蔵官僚2名を野村証券への便宜供与と収賄にて逮捕。

3月11日、東京地検特捜部は日本興業銀行・三和銀行から収賄を受け機密情報を流出させたとして、日銀証券課長を逮捕。

4月27日、大蔵省は民間金融機関に関する内部調査の結果を公表し、銀行局審議官の杉井孝を停職、証券局長の長野庬士らを減給とする等、計112人(停職1人・減給17人・戒告14人、訓告22人、文書厳重注意33人、口頭厳重注意25人)に対する処分を行った。




出典: 「大蔵省接待汚職事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



こういう事件が起きて日本中が大騒ぎしたのです。。。だから、この記憶が生々しいネット市民は次のように検索するのです…。

 


(gog21-03-04.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



ノーパン しゃぶしゃぶ CIA と入れて画僧検索したのねぇ〜。。。



そうです。。。こうして検索したネット市民は赤枠で囲んだ写真をクリックしてCIAとノーパン を読んだわけです。。。例えば、上の検索結果の左上の「ノーパン しゃぶしゃぶ」の写真をクリックすると次のページが表示されます…。

 


(gog21-03-04b.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



このページの拡大された右上の写真の下に出てくるCIAとノーパン:徒然ブログ をクリックしてCIAとノーパン を読んだわけです。。。



ところで、“ノーパンしゃぶしゃぶ”ってぇ、どういうことなのォ~?

つぎのようなモノなのですよ。

 


ノーパンしゃぶしゃぶ


(nopan05.png)

ノーパンしゃぶしゃぶとは、エンターテインメント・レストランの一種。
実態はノーパンの女性店員が接客するしゃぶしゃぶ料理店、もしくは風俗店である。

東京・新宿の高級ノーパンしゃぶしゃぶ店が、大蔵省接待汚職事件で大蔵官僚(当時)接待の舞台のひとつとなっていたことが報じられたことから、1998年(平成10年)頃に話題となった。

多くの店では床を鏡張りにして、覗きやすいようにしていたともいい、高い所にアルコール飲料を置き、女性従業員がそれらを取ろうとして立ち上がることで、スカートの中を覗きやすくしていたともいう。
ただし、ストリップのように女性器を積極的に披露することはしない。
また、女性従業員の上半身もスケスケの衣装や、下着をまとわないいわゆる裸にエプロンにしているケースが多いという。


(apron7.jpg)

起源は京都発祥のノーパン喫茶にあるとみられ、他にもノーパン焼肉などがある。

1998年(平成10年)に発覚した「大蔵省接待汚職事件」では、銀行のMOF担とよばれる行員が旧大蔵官僚を接待する際に、東京都新宿区歌舞伎町の高級ノーパンしゃぶしゃぶ店 「ローラン(楼蘭)」を使っていた事が、マスメディアに暴露され話題となった(事件発覚後、その官僚の1人が不可解な自殺をしている)。

なぜ通常の風俗店でなく、こういう店を利用したのかは、飲食費として領収書が落とせる、というのが理由として挙げられている。

現国会議員の岸本周平(元・大蔵省官僚)は、初当選前の2008年に、国家公務員時代に自費ならまだしも、接待で複数回利用して、その後大問題となり、同僚を失い「大きな過ちであった」と反省している旨、自身のブログで記述している。

元顧客のブログ情報によれば、外国からの賓客が「スペシャル・しゃぶしゃぶ」が食べたいと言ってきた場合、それはノーパンしゃぶしゃぶの意味だったといい、日本のエグゼクティブ向け接待文化の一部にさえなっていた。

ローラン(楼蘭)のシステム


(nopan06.jpg)

「大蔵省接待汚職事件」の余波で閉店した「ローラン(楼蘭)」の場合、会員制を敷いていた。
ただし、閉店後に流出した顧客名簿から抽出した当時の主要公職者のリストからみて、本人確認さえできればゴルフ場などと同じくビジターとして利用できたとみられる。

また、当該リストの中に自らの利用経験を明かしていた岸本周平の名前がないこと、大蔵省が処分を行った職員が計112人(管理不行届等を含む)にのぼることから、本省課長級以下のキャリア官僚も多く顧客となっていたと考えられる。

「大蔵省接待汚職事件」の報道から、中央省庁の中で利用したのは大蔵省や日銀の幹部と思われがちだが、主要公職者の顧客リストでは旧厚生省、旧通産省、農水省が多く、次いで旧建設省、旧運輸省、旧郵政省などとなっている。
顧客リストの中には後に宮内庁長官となった官僚の名もみられる。

また、利用当時の所属官庁こそ異なるものの、日本最大の公益財団法人の現会長と現理事長がともに顧客リストに入っている。

接待での利用や著名人の利用が多かった地下3階の個室では、ノーパンで接待する女性の股間をクローズ・アップできるCCDカメラと液晶モニターが完備され、懐中電灯(ペンライト)で照らすオプション・サービスもあった。

ホステスは18~20歳の女性を中心に、元顧客のブログ情報によれば名門大学の女子大生など良家の子女のアルバイトも珍しくなかったといい、これが高額にもかかわらず人気を持続した理由のひとつとなっていたが、応対に来たホステスが自分の娘だったという悲喜劇等も起きたとされる。




出典: 「ノーパンしゃぶしゃぶ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。 日本では けっこう破廉恥なことをやってたのねぇ~。。。!?



面白いでしょう!?

面白くないわよ! なんだかエログロ・ナンセンスじゃない! みっともないと思うわァ~。。。 つまり、ノーパンしゃぶしゃぶ事件というのは、エロい汚職事件なのねぇ~。。。?

そういうことですよ。。。

。。。で、CIAがどこに絡(から)んでいるのォ~?

その説明をする前に、ちょっと次の小文を読んでみてください。

 


官僚と汚職

By 池田勇人


(ikeda001.jpg)

大蔵省の組合の幹部は、みな私の古くからの友人である。
一つ釜の飯を食った連中だから、行政整理なども比較的円満にゆく。
大蔵省に関する限り不平はあまり聴いていない。

しかも熱心に働いてくれることは大したもので、日曜でも予算編成の関係で出勤しろと言えば、文句も言わず、会議に出てくれる。
ありがたいと思っている。

ただ私が遺憾に思うのは、税務管理の汚職問題である。
昔からよくあることだが、税金が高い時代になると汚職が行われる。

自分の生活が苦しいところへ、いろいろな誘惑が来る。
その防止策として内部に監督機関を設けたりしているが、税務管理が急激に増えたために、年の若い官吏が多くなった。

一方ますます誘惑が多くなる。
そこで時々汚職事件が起こるので困っている。

これについては一般の国民が税務官吏に汚職をさせないように自分一人が賄賂を使って税金を安くしてもらおうなどという気持ちを、絶対に起こしてもらいたくないと思う。
もちろん税務官吏を充分に戒め、教養を施すなど、あの手この手で汚職の防止に努める覚悟である。

【昭和27(1952)年2月号】

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




114-115ページ
『「文藝春秋」で読む戦後70年』
【第1巻】終戦から高度成長期まで
編集人: 石橋俊澄
平成27(2015)年7月21日 発行
発行所: 株式会社 文藝春秋


 



この文章を書いたのは当時の大蔵大臣の池田勇人氏なのですよ。。。 この8年後に日本の総理大臣になる人物です。。。 この人が言うように昔からよくあることだが、税金が高い時代になると汚職が行われるのですよ。。。 だから、大蔵官僚の汚職事件は珍しいことではなかった。



でも、いけないことでしょう!?

もちろんですよ。。。 だから、池田大蔵大臣もあの手この手で汚職の防止に努める覚悟であると、言ってるわけです。

。。。で、CIAは、どのように関係してるのォ~?

ちょっと次の記事も読んでみてねぇ~。。。

 


特捜部は米国と深い関係


(tokuso02.jpg)

歴史的に特捜部は米国と深い関係をもっています。
まず1947年、東京地検特捜部が占領下で、GHQのために働く捜査機関として発足します。

敗戦直後は、それまで旧日本軍が貯蔵していた莫大な資材が、さまざまな形で横流しされ、行方不明になっていました。
1945年10月にはGHQ自身が、東京の三井信託の地下倉庫からダイヤモンドをなんと16万カラットも接収しています。


(diamon9.jpg)

そうした不当に隠された物資を探し出して、GHQの管理下に置くことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が、東京地検特捜部の前身です。
「GHQの管理下に置くことを目的にする」という点に注意してください。
つまり、GHQのために「お宝」を見つけ出す特別の捜査機関。
それが東京地検特捜部の前身だったのです。

 (中略)

過去の東京地検特捜部長のなかで、もっとも興味をひくのは布施健(ふせたけし)でしょう。
彼は戦前、ゾルゲ事件の担当検事として有名でした。
私はこの事件が1941年9月に発覚し、対米戦争の回避を模索していた近衛内閣が崩壊する一因となった裏には、米国の工作があったと考えています。
ゾルゲと親交のあった尾崎秀実は上海でアグネス・スメドレーと親交を結びますが、このスメドレーは1941年に米国国内で、対日戦争の呼びかけを行っていました。

いずれにせよ、G2のウィロビーはゾルゲ事件の報告書をまとめて陸軍省に送っていますから、ウィロビーと布施には密接な関係があります。
さらに布施は、一部の歴史家が米軍の関与を示唆する下山事件(国鉄総裁轢死事件)の主任検事でもあります。

そして田中角栄前首相が逮捕されたロッキード事件のときの検事総長でした。

ゾルゲ事件といい、ロッキード事件といい、いずれも闇の世界での米国の関与がささやかれている事件です。
そのすべてに布施健は関わっています。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




83-85ページ 『戦後史の正体』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 創元社

『田中角栄と軽井沢』にも掲載
(2016年4月21日)


 



つまり、東京地検特捜部が関わっている事件は 米国と。。。、ひいてはCIAと深い関係がある、とケイトーは思うのォ~?



いや。。。 僕が言い出したわけじゃなくて、そのように考えている人も多いのですよ。。。

でも、それは、単なる個人的な意見でしょう?

あのねぇ~、1992年12月8日、アメリカの政策研究機関であるケイトー研究所は、スタンレー・コバーの「経済スパイとしてのCIA」という論文を発表したのですよ。。。それには次のように書いてある。

 



(gates009.jpg)

CIA長官ロバート・ゲイツは1992年4月13日、デトロイト経済クラブで“ナショナル・セキュウリティ・レビュー (ブッシュ大統領の下で国家安全保障を検討した組織)”は、情報部門の問題として国際経済問題の重要性に焦点を当てた。

新たな要請の約40%が経済問題である。

1992年夏、上院情報委員会は米国企業トップと情報専門家と会合した。

この会合では経済スパイや工作の必要性について熱心に議論された。

ターナー元CIA長官がのべた「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。 われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」という論は多くの参加者に支持された。




出典: 「経済スパイとしてのCIA」


 



つまり、アメリカは日本を対象にして経済スパイを送り込んだと言うのォ~?



そういうことですよ。

でも、上の論文から、そう断定するのは、ちょっと早合点じゃないのォ~?

状況証拠ならば、まだあるのですよ。。。 次の記事も読んでみてね。

 


元駐日大使アマスコトは90年代半ばに次のようにのべています。


(amascot.jpg)

「政治環境から見て、これまでより規制緩和がしやすくなったのに、現実の前進はまことに微々たるものである。

その理由を求めるのはむずかしくない。

最も巧妙かつ執拗な抵抗は、他ならぬ官僚機構によるものである

 (中略)

このアマスコトの発言は実に興味深いものです。

「政治環境から見て、これまでより規制緩和がしやすくなった」

つまり90年代半ばには政治家レベルでの抵抗は少なくなったということです。

だからあとは抵抗を続けている官僚機構をつぶせば、米国の思うようになると言うのが、アマスコトの考えです。

こうしてアマスコトの考えに応じるかのように、日本国内では官僚たたきが激しくまりました。

1998年に起こった「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」 (略) はその典型でした。

この事件が大きく報道された結果、官僚イコール悪というイメージが国民の間に定着し、省庁再編で大蔵省は分割されてしまったのです。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




326-327ページ 『戦後史の正体』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 創元社


 



池田勇人・元大蔵大臣も言ってたように 官僚の汚職事件など別に珍しいことではなかったのですよ。



つまり、アメリカはCIA経済スパイを使って 日本の官僚機構を弱体化するために、1998年の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」を利用した、とケイトーは言うのォ~?

いや。。。 僕が言ってるわけじゃなくて、上の記事を読めば、そうとしか考えられないでしょう!?。。。 要するに、戦後の日本では、政治家には、あまりたいした人物は出てこなかった。。。 政治家は選挙区へのサービスに忙しかった。。。 かろうじて通産省や大蔵省などの官僚機構が「シンクタンク」の機能を果たして日本の舵取りをしていたのですよ。。。 それで、日本は経済大国になることができた。

つまり、そのシンクタンクとしての日本の官僚機構を弱体化すれば、日本の国家戦略はダメになると思い、それでアメリカはCIAの経済スパイを使って、東京地検特捜部に働きかけ、大蔵省を分割するように仕組んだと言うわけぇ~?

そういうわけですよ。。。 それには1998年の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」は理想的な事件だったわけです。

つまり、アメリカのCIAエージェントが日本の政治経済がアメリカにとって脅威にならないように影でいろいろと暗躍しているというわけねぇ〜。。。

そういうことですよ。。。そういうことが実際にあるのかどうか?。。。そういう事を疑りながらネットで調べているネット市民がいるというわけです…。

その証拠でもあるのォ〜?

「徒然ブログ」の次の人気記事リストを見てください…。

 




(livn21-03-04.gif)

 



 


(livn21-03-20.gif)


 



上のリストが3月4日にソフトカメラで撮ったときのもの、下のリストは3月20日に撮ったものです…。



つまり、3月4日から20日までの間に、59人が 『CIAとノーパン』 を読んだのねぇ〜。。。

そういうことです。。。「徒然ブログ」の記事では一番人気で読まれている。。。明らかに、CIAが日本で暗躍していることを調べているネット市民がいるのですよ…。



(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

あなたもアメリカのCIAエージェントが日本の政治経済がアメリカにとって脅威にならないように影でいろいろと暗躍していると思いますか?

ええっ。。。 「そういうことより、他にもっと楽しいことを話せ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわ。

シルヴィーさんが出てくる面白い記事は たくさんあります。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


(sylvie500.jpg)



『アダムとイブは何を食べたの』

『舞踏会 明子』

『波乱の人生』

『国際化だよね』

『イングナさんを探して』

『美しい日本語 チェーホフ』

『横の道@ニコライ堂』

『また塩野七生批判』

『日航スチュワーデス』


(cleopara2.jpg)

『クレオパトラ@塩野批判』

『テルモピュライの戦い』

『思い出の蓮』

『角さんと天罰』

『ラーメン@リガ』

『角さんと天罰がなぜ?』

『南京事件と反知性主義』

『あけびさんの卒論』

『愛は降る星の彼方に』


(sunwind2.gif)

『サイバー戦争』

『エロくて、ごめんね』

『モバイル社会とガラケー』

『元老のアメリカ』

『ケネディ家の呪い』

『欧米を敵に回す』

『ソフィアからこんにちわ』

『ドイツが原爆をロンドンに』

『いまだに謎』

『さらば大前研一』


(superm3.jpg)

『空飛ぶスパイ』

『愛情はふる星@ベトナム』

『ヒラリーと塩野七生』

『ケネディ夫人@インドネシア』

『究極の大前研一批判本』

『フェルメールの謎』

『女に文句を言う女』

『あなたの祖国』

『宮沢りえ@韓国』

『正しい戦争』

『ゴールデンシャワー』

『死刑廃止』


(mh370a.jpg)

『かまびすしい』

『今、新たな戦前』

『クレオパトラ@アラビア』

『政府は嘘をつく』

『犬と人間と戦争』

『未来予測』

『知られざる悲劇』

『量子活動家』

『アンネの運命』

『10次元の世界』

『ポーランドの犬』


(jump009.jpg)

『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


(banana82e.jpg)

『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』

『2000年前の光通信』

『習近平皇帝』

『プーチンの復讐』

『ペンタゴン・ペーパー』

『南米の富士山』

『ダンケルク』

『無実の罪』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(rengfire.jpg)


(byebye.gif)


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大久保独裁政権

2021-03-28 01:27:06 | 日本史

 

大久保独裁政権

 


(ookubo2.jpg)


(ookubo3.jpg)


(himiko92.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 どういうわけで急に 大久保独裁政権 を持ち出してきたのでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 



(hamuro2.jpg)

 

幕末、イギリスの外交官アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新(下)』の中で、今日の情勢を聞くために薩摩屋敷の西郷を訪ねた時のことを次のように書いている。

西郷は、現在の大君の政府の代わりに国民会議を設立すべきであると言って、大いに論じた。

私は友人の松根青年から、反大君派の間ではこうした議論がきわめて一般的になっていると聞いていたが、これは私には狂気じみた考えのように思われた。

サトウは西郷の開明的な意見にひどく驚いているが、島津斉彬がしようとしていたことが、幕府だけでなく諸藩の合議で国を動かしていこうということだったとすれば、西郷が国民議会を口にすることは異とするに足りない。

だからこそ、西郷は廃藩置県に断を下し、封建制度を一掃することもできたのだ。

 (44-45ページ)




今回の旅でよく聞いたのは、小倉処平(おぐらしょへい)という名だ。
いまでも飫肥(おび)では、
「小倉さんは偉かった」と言い伝えられている。

小村寿太郎も藩校時代に小倉に見出され、東京へ出る道を開いてもらった。
いわば恩人である。

その小倉が政府に使えて出世しなかったのは、明治10年(1877)の西南戦争の際、一隊を組織し薩軍に身を投じ、戦死したからだ。

 


(ogurashohei.jpg)

【小倉処平 (1846~1877)】

小村寿太郎とは親戚関係にあり、終生、師と慕われた。
江戸で儒学者の安井息軒に学び、藩校振徳堂の師範となる。
明治になると、小村らを長崎に留学させる。(略)

英仏に留学したが、征韓論争を知って帰国。
副島や西郷隆盛らが下野すると、飫肥に戻る。

1874年の佐賀の乱では、敗れた江藤新平らが頼ってきたのを土佐へ逃がし、罪に問われた。

後に大蔵省に勤めたが、1877年に西南戦争が起こると、帰郷して薩摩軍側に加わった。


 (85-87ページ)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『曙光を旅する』
著者: 葉室麟
2018年11月30日 第1刷発行
発行所: 朝日新聞出版


 



つまり、上の記事を読んで明治維新政府は大久保独裁政権だと思ったのでござ~ますかァ?



もちろん、そればかりじゃないのだけれど、上の文章を読んで、ますます大久保が独裁政権を築こうとしていたという思いを強くしたのですよ。。。

それはどうしてですか?

かつて、僕は次の記事を書いたのですよ。。。

 


(ass350.gif)

『放屁女に罰金』

 



でも、このオナラをして罰金を取られた女性と大久保独裁政権が関係あるのですか?



大いに関係があるのです。。。 卑弥子さんも、もう一度読んでみてください。。。

 


放屁した女を邏卒が連行し、

罰金75銭を支払わせた




(onara13.jpg)

 


(police2.jpg)

 

罰金だ!


 

現代では公共の場において放屁することはあまり良くないとされる。
日本では「屁=汚い・臭い」など良いイメージを持たない者が大多数であるからである。

車の中やバス、満員電車など人が密集する可能性の場所で屁をすることは、面白半分でも、多くの人に不快感を与える恐れが強い。
誰もいない場所やトイレでするのが一般のマナーとされている。

1873年(明治6年)2月8日、東京・押上の土手において放屁した女を邏卒が連行し、罰金75銭を支払わせた。

これに憤慨した女は罰金額が法外であるとして警視庁に抗議。

1872年(明治5年)の東京違式詿違条例では立小便や落書きといった現在の軽犯罪にあたる行為などを規制していたが、放屁に関する規定はなく罰金刑は不当なものであった。

このことは当時の新聞で議論を呼び、放屁の規制も条例に加えるべきとする意見と生理現象であり規制すべきでないとする意見とに分かれた。

のちに司法卿の江藤新平は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された。

また、当時開業したばかりの鉄道では客車内での放屁に罰金を科す旨の掲示があった。

俗説では、欧米諸国等では放屁は比較的失礼とされず、ゲップのほうが失礼とされるが、文化圏、階層、個人などにもよる。

マラウイ共和国では、「公序良俗を遵守する」という目的で、2011年2月、公共の場所での放屁を禁止する法案が提出された。




出典: 「屁」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 




あらっ。。。 今から150年近くも昔のことではござ~♪~ませんかァ!



とにかく、オナラをぶっぱなして罰金をもらった女性が居たということですよ。。。

でも。。。、でも。。。、その女性は音を立てずに すかしたのかもしれませんわァ~。。。

すかしたのじゃなくて、ぶっぱなしなのですよう!

どうしてデンマンさんは見てきたようなことをおっしゃるのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、もし、すかしたのだとすれば、この女性は「いいえ、あたくしは、そのようなハシタナい真似はいたしませんわァ。。。 ほらっ。。。 御覧なさい。。。 あたくしの前を行くあの男がすかしたのですわァ」と、言い逃れをするのですよ。。。

なるほどォ~。。。 でも。。。、でも。。。、その時、罰金のチケットを書いたお巡りさんは、どうして見逃さなかったのですか?

あのねぇ~、この当時の警察官(巡邏、邏卒、あるいは巡査)になる人は薩摩藩の下級武士が多かった。。。 当然、男尊女卑の考え方が当たり前だった。。。 当時の東京では、特に江戸っ子と言われた人たちは、巡査になった薩摩の田舎侍を馬鹿にしていた。

どうして。。。?

江戸が東京になり、薩摩の田舎侍が巡査になって「コラ、コラ、。。。 そこで立ち小便しちゃダメだ!」とえばりくさっていたから、江戸っ子は、心の中じゃ不満タラタラだった。

つまり、このオナラをぶっ放した女性は江戸生まれの姉御肌(あねごはだ)の女で、巡査を馬鹿にしていたのでござ~ますかァ?

まず間違いないでしょう! 巡査も、そういうことをウスウス察していたから、女が自分のすぐそばでオナラをぶっ放すのを耳にしたら、まるでこの女が自分を馬鹿にしていると思ってムカついたわけですよ! しかも、この女がデブで、ブスで、しかも人を小バカにしたような表情をしていたから、なおさら見過ごすわけにはゆかなかった。。。

 


(busu02.jpg)

 



それで、罰金刑にすることにしたわけですか?



それ以外に考えられないでしょう!?

要するに、明治になった頃は、巡査になった旧薩摩藩の下級武士は馬鹿にされていたのですわねぇ~?

そういうことです。。。

つまり、この事を言うために、わざわざオナラをぶっ放したデブで、ブスの女を持ち出してきたのでござ~ますかァ?

もちろん、それだけじゃありませんよ!

他に何を言いたいのでござ~ますかァ?

のちに司法卿の江藤新平は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された」と書いてある。

つまり、江藤新平・司法卿は、オナラをぶっ放したデブで、ブスの女の味方だったのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 庶民の味方だったのですよ。。。

 


江藤新平


(eto01.jpg)

天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)

政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派(大久保利通たち)からは激しく非難された。

また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。

江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

 

佐賀の乱

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。

また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。

このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

 

逸話

明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。

江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。

その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。

江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。
従って、夜間に参拝する者がいたという。




出典: 「江藤新平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。 江藤さんは、マジで民主的な方だったのでござ~♪~ますわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 三権分立を唱え、あまりにも民主的な政府を目指すので保守派の大久保利通から毛嫌いされた!

。。。で、大久保利通に殺されたのでござ~ますか?

そうです。。。 殺されたようなものですよ。。。 江藤新平が消されたのは大久保利通の策謀によるものです。 大隈・板垣・後藤らも江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みた。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。

つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕も大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?

そうです。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。

そうなのでござ~ますか?

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。

あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?

見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。


(gokumon.gif)

『大久保利通が撮影させた

 江藤新平の獄門首』
 (別窓)




板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。




『放屁女に罰金』より
(2019年1月16日)


 



つまり、大久保さんは自分と考え方が違う人間を徹底的に排除したのですわねぇ~。。。



そういうことです。。。 もちろん、大久保さんは自分では日本を西欧列強と並ぶような国にしたいと考えていた。。。 金銭欲に関しては淡白だったけれど、権力に関しては貪欲で、とにかく自分流にやろうと硬く決心していた。。。

西郷さんと袖(たもと)を分かつことになったのも、大久保さんの権力欲でござ~ますかァ?

端的に言ってしまえば、そういうことです。。。 西郷さんは、どちらかと言えば大久保さんよりも江藤新平さんに共感するようなタイプだったのですよ。。。

。。。で、小倉処平さんは。。。?

1874年の佐賀の乱では、敗れた江藤新平らが頼ってきたのを土佐へ逃がし、罪に問われたほどだったから、当然、小倉さんの考え方は江藤さんと同じように開明的な思想を持っていた。。。 後に大蔵省に勤めたが、1877年に西南戦争が起こると、帰郷して小倉さんは薩摩軍側に加わった事実からも判るように、大久保独裁政権には馴染めずに、敢えて西郷さんの軍に加わって戦死したのですよ。。。 生きていたら小村寿太郎以上の仕事をした人ですよ。。。

惜しい人を死なせてしまったのですわねぇ~。。。

歴史に“もし”はないけれど、大久保さんに言わば殺されてしまった、坂本龍馬、西郷さん、江藤さん、小倉さんが生きていたら、日本はもっと ましな国になってましたよ。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あなたも、大久保さんに言わば殺されてしまった、坂本龍馬、西郷さん、江藤さん、小倉さんが もし生きていたら、日本はもっと ましな国になっていたと思いますか?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

じゃあ、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)



 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


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『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


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『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

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『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


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『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


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『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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元寇船

2021-01-01 03:04:26 | 日本史

 

元寇船

 


(genkou02.jpg)



 


(himiko22.gif)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 どういうわけで元寇船を取り上げたのでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

いけませんかァ~?

別にかまいませんけれど、多くのネット市民の皆様は「元寇」のことなど、たいして関心を持たないと思いますわァ~。。。

卑弥子さんも関心がないのですか?

あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義していますから、多少は関心がありますけれど、でも あたくしの関心はほぼ平安時代でござ~ますわァ~。。。 「元寇」は、鎌倉時代の出来事ではありませんかァ~。。。


元寇


(genkou03.jpg)

 

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。

1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

蒙古襲来とも。

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。

主に九州北部が戦場となった。




出典: 「元寇」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、卑弥子さんは鎌倉時代の出来事には興味がないのですかァ~?



興味が全くないとは申し上げませんけれど、やはり平安時代の方がよいのでござ~ますわァ。。。 そんなことよりも、どうして元寇船を取り上げたのか?。。。説明してくださいなァ。。。

実は、鎌倉時代の「元寇」に興味を持っているネット市民がいるのですよ。。。 次のリストを見てください。。。

 


(goo91212d.gif)


『拡大する』

『女子大生の秘湯』(PART 1)

『女子大生の多い混浴』(PART 1)

『ジューンさんのパンツ』(PART 1)

『ジューンさんのパンツ』(PART 2)

『じゅくじょのぱんてー』(PART 1)

『不倫と検索』(PART 2 OF 3)

『元寇と捕虜』(PART 1)


 



これはGOOの僕の「デンマンブログ」の12月12日のアクセス解析のリストです。。。 アクセス元ページ の3番に注目して欲しいのですよ。。。



あらっ。。。 「元寇船」で画像検索したネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうなのです。。。 実は、京都市に住んでいる笠原紀美代 (かさはら きみよ)さんが読んだのです。。。

また、いつものようにIPアドレスを調べて紀美代さんが読んだことを突き止めたのですかァ~?

そうです。。。

 


(ip170127b.gif)

 



。。。で、紀美代さんは京都市で何をなさっているのですか?



花園大学の文学部で勉強している女子大生ですよ。。。 紀美代さんは平安時代ばかりじゃなく、鎌倉時代にも江戸時代にも関心を持ているのですよ。。。

 


(hanazo02.jpg)


(kgal22a.jpg)



 



。。。で、アクセス元ページ の3番の URL をクリックすると どのようなページが表示されるのでござ~ますか?



次のページが出てきます。。。

 


(bin91212a.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



このページの左上の 元寇と捕虜(PART 1)- デンマンのブログ をクリックすると記事が表示されるのですか?



そうです。。。 次の記事が表示されます。。。

 


(genkou01.jpg)

『元寇と捕虜』(PART 1)

 



。。。で、紀美代さんは記事を読んで「元寇船」について新たな発見をしたのですか?



別に新しい発見をしたわけではないのですよ。。。 長崎で「元寇船」が見つかったということを聞いて検索したのだそうです。。。 でも、記事を読んで「倭寇」の事が書いてあったので興味深く読んだそうです。。。


倭寇


(wakou02.jpg)

 

明朝と南北朝と前期倭寇

 

中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。

使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。

その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。

倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。

朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた。

 


(wakou03.jpg)


(wakou04.jpg)






出典: 「倭寇」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、日本人の海賊が朝鮮や中国の沿岸部を荒らしまわったのですわねぇ~。。。?



でもねぇ~、上のクリップを見れば分かるように 倭寇海賊10人のうち日本人は3人程度で、あとの7人は中国人を含めた外国人だったと言うのですよ。

。。。で、1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣したのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称したのですよ。。。

その返礼として、捕虜70余名を返すことにしたわけでござ~ますか?

そういうことです。。。

。。。で、その捕虜というのは懐良親王が手下に命じて捕まえた中国人の海賊たちですか?

そういう者たちもいたでしょうねぇ~。。。 それと、たぶん中国沿岸で拉致されて人質とされたり、奴隷として売られる羽目になった中国人もいたことでしょう。。。

。。。で、中国では、それほど倭寇に悩まされていたのでござ~ますか?

そうなのですよ。。。 日本人にとって“倭寇”と言うのは、“元寇”と比べたら あまりなじみのない言葉だけれど、中国では被害にあった人たちがたくさん居たから“倭寇”は有名なのです。。。 だから、今でも映画になっているくらいです。。。




倭寇的踪迹

 

(倭寇だと見て追跡する)

    (2011年中国作品)

 

1604年、明代中国のとある街。
ここを治めているのは、高度な武術の伝統を、それぞれの武器と型で守る名門四家。
ここで新たな流派を開こうとする者は、四大道場に闘いを挑み全てに勝利しなければならない。

ある日、この街に異様な長刀を携えた剣士2人が現れ、あっという間に道場の剣士たちを倒してしまう。
2人はこの新たな長刀を使った究極の剣術道場を開くつもりだった。
しかし彼らを受け入れたくない道場主たちは、その長刀を日本刀だと言い張り、二人を倭寇だと決めつけ、弓矢の大部隊に追わせる…。

 


(wakou10.jpg)


(wakou11.jpg)

 

一人は負傷し捕えられるも、もう一方の剣士は、外国女の踊り子が働く商売船に逃げ込む。
船を包囲する四大道場の精鋭たち。
踊り子の運動能力を見極めた彼は、武芸の達人でも扉の後ろから一振りで倒すことの出来る究極の棒術を彼女に伝授する。

剣士を仕留めようと船に近づく武芸家たちを踊り子が棒術で翻弄する間に、彼は捕えられた仲間を救い出すべく船を脱出し街に侵入する。
一方、長年世を捨て山に籠っていた四大道場の長老チウが、彼らの出現を知り、ついに街に下りてくるのだった……。




明の時代でも後期の話ですよ。。。 日本では江戸時代になりかけている頃です。。。



その頃でも倭寇が居たのですか?

“倭寇”という名前は当時の中国人ならば、誰でも知っていたけれど、かつてのような大掛かりで華々しい海賊行為は、もうなくなっていた。。。 ただ、それまでの名残が上の映画の中にも出ているのですよ。。。

例えば。。。?

倭寇鎮圧によって室町幕府3代将軍の足利義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行うのだけれど、この時の輸出品の日本刀が中国では人気があった。。。

日本刀がでござ~ますかァ?

そうなのですよう。。。 現在で言えば、日本人がベンツに乗るようなステイタス・シンボルになっていた。

それで、上の映画では日本刀だと言い張り、二人を倭寇だと決めつけたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。 

あなたも、元寇や倭寇に興味がござ~ますかァ?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

では、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)



 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

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ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


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『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


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『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

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『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

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『ネット市民は見ている』


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『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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鬼島

2020-11-21 11:55:14 | 日本史

 

鬼島

 


(onishima1.jpg)


(onishima2.jpg)




(sylvie702.jpg)




(sylviex.jpg)

ケイトー。。。、なんだか 怖いクリップを貼り付けたのねぇ~。。。


(kato3.gif)

シルヴィーは怖いものが好きでしょう?

東洋の怖いモノって気味が悪いのよねぇ~。。。 どちらかといえば、西洋の怖いモノの方が好きだわァ~。。。

実は、今日取り上げるのは西洋の怖いモノなんですよ。。。

でも、どういうわけで 鬼島 なのォ~?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



(bermuda02.jpg)

 


タルガ・べコウル(北アメリカ)

 

この二国はキビラの北にある大国。

氷海や夜国に近い大寒国である。 (略)

 

この辺り(北アメリカ)の島国として「イスパニョル(ハイチ島)」、「クウバ(キューバ)」、「ガマガ(ジャマイカ)」という島がある。

これらは熱国である。 (略)

 

また、「ハルモタ(バミューダ)」という無人島がある。

この島には魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類が多く棲み、往来の船舶を驚かすことがある。

 

風もないのに大波を起こしたり、魑魅が船にのりこんで、一瞬に数万里を飛ぶがごとく移動させる。

島はここら辺の北東方向にあり、「鬼島」という。

 


(joken02.jpg)

 

『増補華夷通商考』より


「鬼島」での現象は今日では「魔の海域バミューダトライアングル」と呼ばれています。

フロリダ半島の先端と、プエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域のことで、昔から船や飛行機が消えてしまうという伝説で有名です。

色んな原因が考えられていますが、これという決定的な謎解きは未だになされていません。

 

それにしても江戸時代の人々がバミューダトライアングルを知っていたことが驚きです。

 


(sakoku02.jpg)

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




239ページ 『鎖国の地球儀』
江戸の<世界>ものしり帖
著者: 松尾龍之介
2017年6月15日 初版発行
発行所: 弦書房




つまり、「鬼島」というのは、現在のバミューダ諸島のことを指しているのねぇ~。。。



たぶん、そうでしょう。。。

確かに、江戸時代の人々がバミューダトライアングルを知っていたことが驚きよねぇ~。。。 で、誰が『増補華夷通商考』を書いたのォ~?

西川如見という人が書いたのですよ。。。


西川如見(じょけん)

 

慶安元年(1648年) - 享保9年8月10日(1724年9月26日)

 

江戸時代中期の天文学者。

父は同じく天文学者の西川忠益。母は石山宗林の娘。

 

肥前長崎の商家に生まれ育った。名は、忠英、通称は次郎右衛門。

別名は恕軒、恕見。居号は求林斎、金梅庵、淵梅軒。

 

1672年(寛文12年)25歳の時 和漢を儒学者南部草寿(1680年没)に、天文・暦算・測量学を林吉右衛門門下の小林義信(謙貞、樋口権右衛門)に学んだ。

1695年(元禄8年)48歳の時に日本で初めての世界地誌『華夷通商考』を著した。

 

元禄10年(1697年)に隠居して著述に専念。

1708年(宝永5年) 61歳の時に『増補華夷通商考』を刊行した。

それによって南北アメリカが日本で初めて紹介された。


 


(joken02.jpg)

 

天文・地理学上の著述では有名中国天文学説を主とし、ヨーロッパ天学説の特徴を十分承知しながら享保3年(1718年)に江戸へ赴き、翌享保4年(1719年)に8代将軍徳川吉宗から天文に関する下問を受けた後暫く江戸に滞在し、長崎に帰った。

享保9年(1724年)に死去した。享年77。




出典: 「西川如見」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




『増補華夷通商考』は1708年に出版されたのねぇ~。。。



この本によって南北アメリカが日本で初めて紹介されたわけですよ。。。

ヨーロッパのことも書いてあるわけぇ~?

書いてあります。。。 イタリア人の女性のことが次のように書いてあるのですよ。。。


イタリヤ(イタリア)

 

オランダの南にあり、属国がたくさんある。

その筆頭がローマである。 (略)

 

二千年前に国王が大きな大きな大殿をつくり、その大きさや建築の巧妙さにおいては古今無双で今日なお存在している。

 (中略)

ところでイタリヤの女性は残らず乳房が長い。

 


(italian03.jpg)

 

背中に子供を背負ったままで乳を飲ませることができる。

 

以前、オランダ船に乗って長崎にもイタリヤ人女性がやって来たことがあるとされている。

 (219-220ページ)




あらっ。。。 イタリヤの女性は残らず乳房が長い、見てきたような嘘を書いてるじゃない!。。。 背中に子供を背負ったままで乳を飲ませることなど できるわけないじゃない!



やっぱり、シルヴィーも そう思う?

当たり前でしょう! 常識で考えても、そんな事はありえないと思うわァ~。。。

でも、上の絵のマリアさんならば、イエスを背中に負ぶって乳を飲ませることができると思わない?

上の絵は、ケイトーが手を加えてお乳を伸ばしたのだわァ~。。。

あれっ。。。 シルヴィーは僕が絵に手を加えたのを見てたのォ~?

見てたわよ! もともとの絵は次のようなものなのよ!

 


(italian02.jpg)

 



こういう事をして、ネット市民を騙してはいけないのよ!



シルヴィーが見ていたとは全く気づきませんでした。。。 (苦笑)

南北アメリカ大陸などの知識を当時の江戸庶民に広く普及させたのは良い事かもしれないけれど、イタリア女性が皆お乳が長いなどという ありもしないことを書くのは どうかと思うわァ~。。。

でもねぇ~、鎖国をしていた日本の当時の庶民に南北アメリカ大陸やバミューダトライアングルを紹介したことはすごいことだと思うのですよ。。。 だから、上の本の著者も次のように書いている!


土佐藩が生んだ明治の教育学者・細川潤二郎は「世間では西洋の学術をわが国に伝えたのは新井白石とされているが、西川如見が西洋の学術を伝えたのはそれ以前であって、開闢(かいびゃく)の祖としての功績は誰がみても如見にあるのは明白である」と主張しています。
これは正論です。

しかし彼がいくらそのように如見を評価したところで、世間は相変わらず新井白石だけを持ち上げ、如見は見る影もないのが現実です。 (略)

異国人の発音を正確に聞き取り、未知に属する事柄をよく理解し、それらを精密適格に伝えることができたのは、白石ではなく今村市兵衛という通詞ではないですか。
彼を抜きにしてシドッチ(と新井白石)との会話は成り立たないし、『稀有な才能』として評価されるべきは白石ではなく、むしろ市兵衛の方ではないですか、と異議を唱えたくなります。

このようにオランダ通詞を封印する姿勢は江戸の蘭学者たち、ことに杉田玄白と大槻玄沢の子弟によってつくられたものです。

かつて玄白は参府で江戸に来ていた吉雄幸左衛門に『解体新書』(1774)の序を頼みました。

 


(kaitai2.jpg)

 

その際、原稿を持参し校閲を申し込んでいます。
吉雄はもとより訂正をほどこしたものと思われます。
この時点では吉雄の前にまったく頭が上がらなかったといえるでしょう。

それが寛政の改革(1787)で吉雄をはじめとした主だったオランダ通詞が失脚するのを契機に、当然のことながら玄白と玄沢のオランダ通詞に対する姿勢に変化が生まれてきます。 (略)

玄白の『蘭学事始』(1815)にはオランダ通詞のことを「あちら(長崎)の文字を知らない通詞たちが、カタカナで書き留めたものを暗記して通弁し、入り組んだ多くの御用をなんとか弁じつとめただけで年月が流れた。そんな具合だから横文字を習得したものなど一人もいない」と断じています。

よくもまあ、こんな出まかせがいえたものだと呆れますが、要するに「オランダ通詞の会話なんかたかが知れている。 翻訳こそが本当の意味で蘭学であって、それを果たした自分たちこそが蘭学の創始者なのだ」といいたかったのです。
『蘭学事始』は一貫してこの精神で貫かれています。 (略)

 


(kotohajime2.jpg)

 

蘭学のみならず天文地理の分野においても、長崎の西川如見を意図的に黙殺し、新井白石や前野良沢のような士分に開祖を求めています。

身分制度はとうの昔に失われてしまったのに、今日なお研究者たちが白石をひたすら賛美して、如見を排除しようとする姿勢は不思議でなりません。

「小人国」や「女人国」がそんなに荒唐無稽な記述でしょうか。
小人国は北極圏に背が低い民族がいることを暗示していたわけですし、アマゾネスは現在のサブカルチャーにまで深く根を下ろしています。
それらをいち早く日本に紹介したというのは、やはり西川如見の手柄というべきでしょう。

(277-280ページ)




つまり、鎖国をしていた日本の当時の庶民に南北アメリカ大陸やバミューダトライアングルを紹介した西川如見の功績をもっと認めるべきだということが言いたかったのねぇ~。。。



いや。。。 そればかりじゃないのですよ。。。 現在にも、たとえば、学歴などがないために、重要な発見をしたのにもかかわらず学界から黙殺されて、世間に埋もれていた人がいるのですよ。。。

たとえば。。。?

納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行い、岩宿遺跡の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した相沢忠洋さんは、長い間学界から無視されていたのですよ。。。


相沢忠洋

 


(aizawa2.jpg)

 

相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、相澤 忠洋、1926年(大正15年)6月21日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の考古学者。
納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、
それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。

1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。
特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、
激しい批判にさらされていた。

そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。
ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった。

1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見した。
相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からた石器が出土する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいなかった。

この説明のために相沢は桐生から東京までの長距離を自転車で行き来した。
同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。
赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日 - 13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。
そして、11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。

後に刃部磨製石斧と名付けられる。
9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表した。

その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、
縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。
また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた。

しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。

明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。

さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。
この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。
このため、これといった学歴も財産も有しない相沢の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。

だが、相沢の考古学への情熱は冷めることはなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見した。

次第に相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42年)には吉川英治賞を受賞した。
岩宿の発見から18年後のことである。


晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡(桐生市)の発掘に精魂を傾けた。

1989年(平成元年)5月22日、桐生厚生病院にて脳内出血の再発により午前7時38分死去、桐生市薬王寺に眠る。同日、勲五等瑞宝章が国より贈られた。
11月5日、笠懸村より名誉村民第一号の称号が贈呈された。




出典: 「相沢忠洋」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、学歴がないために相沢さんは業績を無視されたのねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 世の中には、自分が有名になりたいために、他人の業績をくすねるようなウザい人間がいるのですよ。。。 こういう人間だけにはなりたくないですよ。。。

でも、元の絵に手を加えてマリアさんのオッパイを長くしてしまうことも、人間としてやるべきことじゃない思うわぇ~。。。

 


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【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

元の絵に手を加えてマリアさんのオッパイを長くしてしまうことは、人間としてやってはいけないことだ、とあなたも思いますか?

ええっ。。。 「そんなことは、どうでもいいから、他に、もっと楽しいことを話せ!」

あなたは、そのように強い口調で私に命令するのですか?

分かりましたわ。

シルヴィーさんが出てくる面白い記事は たくさんあります。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。


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『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


(sunwind2.gif)

『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』


(mh370a.jpg)

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

『古代ローマのセックス』

『CIAとノーパン』

『エロいローマ再び』

『エロいけれどためになる話』

『えろあくにめ温泉』


(jump009.jpg)

『エロいけれどためになる』

『地球上のネット普及率』

『原発はダメだったのに』

『スカートをはいた兵隊』

『行田シンドローム』

『幻の暴走機関車』

『CIA@NOパンツ』

『やっぱり、セックス』

『セックス風呂具村』

『CIAの黒い手再び』


(banana82e.jpg)

『アダムとイブは何を食べたの』

『舞踏会 明子』

『波乱の人生』

『国際化だよね』

『イングナさんを探して』

『美しい日本語 チェーホフ』

『横の道@ニコライ堂』

『また塩野七生批判』

『日航スチュワーデス』


(cleopara2.jpg)

『クレオパトラ@塩野批判』

『テルモピュライの戦い』

『思い出の蓮』

『角さんと天罰』

『ラーメン@リガ』

『角さんと天罰がなぜ?』

『南京事件と反知性主義』

『あけびさんの卒論』

『愛は降る星の彼方に』

『サイバー戦争』

『エロくて、ごめんね』

『モバイル社会とガラケー』

『元老のアメリカ』

『ケネディ家の呪い』

『欧米を敵に回す』

『ソフィアからこんにちわ』

『ドイツが原爆をロンドンに』

『いまだに謎』

『さらば大前研一』


(superm3.jpg)

『空飛ぶスパイ』

『愛情はふる星@ベトナム』

『ヒラリーと塩野七生』

『ケネディ夫人@インドネシア』

『究極の大前研一批判本』

『フェルメールの謎』

『女に文句を言う女』

『あなたの祖国』

『宮沢りえ@韓国』

『正しい戦争』

『ゴールデンシャワー』

『死刑廃止』

『かまびすしい』

『今、新たな戦前』

『クレオパトラ@アラビア』

『政府は嘘をつく』

『犬と人間と戦争』

『未来予測』

『知られざる悲劇』

『量子活動家』

『アンネの運命』

『10次元の世界』

『ポーランドの犬』

『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』


とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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■ めれんげさんの『極私的詩集』

Jagel - Soft Japanese Bagel
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■ "JAGEL - Soft Japanese Bagel"


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『センスあるランジェリー』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(beach02.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』




(rengfire.jpg)


(byebye.gif)
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愛なき批判

2020-11-18 14:31:41 | 日本史


 

愛なき批判

 


(valent6.gif)


(uncle006.gif)

愛なき批判は空虚にして、

批判なき愛は盲目なり



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(kato3.gif)

愛なき批判 とはどういうものなのか? 考えてみたことがりますか? 普段の生活の中で そのような形而上学的な事を考える余裕はないと思います。 新型コロナに感染しないようにすることで精一杯じゃありませんか? ところが 世間には奇特な人がいると見えて、考えるネット市民が居るのですよ。。。次のリストを見てください。。。

 


(goo20-11-12.gif)


『拡大する』

『ソフィア@ビックリ』

『愛なき批判は空虚…』


 



これは GOO の僕の「デンマンのブログ」の日本時間で11月12日の午後3時35分から9時50分までのアクセス者と日別・月別のランキングの記録です。。。アクセスされたページ の赤枠で囲んだ2番に注目してください。。。

『愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり』 を読んだネット市民が この6時間の間に 6人いたのですよ。。。

記事を読んだネット市民は GOOGLE で検索して次のように記事を見つけたのです。。。

 


(gog20-11-15.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

愛なき批判は空虚にして、

批判なき愛は盲目なり』PART2

(2006年5月14日)



 



愛なき批判は空虚にして を入れて検索したのです。。。当然ながら検索結果に出てきたトップのタイトルをクリックして記事を読んだのです。。。

でも、なぜPART 2だけを読んで PART 1 を読まなかったのか?

なぜなら、上の記事は更新されてなくて画像が表示されてません。。。(現在、2020年11月15日に更新されました。)おそらく、PART 2を読んだネット市民は、この記事が未完成だと思って PART 1を読むのを諦めて 三番目の記事をクリックして読み始めたのだと思います。。。

そういうわけで、今日は、PART1 と PAET2 をまとめて更新しました。。。読んでみてください。。。

 


(kamata01.jpg)

 



これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。

この暗殺によって、現代の日本の“基礎”ができあがった!
。。。と言っても決して言い過ぎではない程の事件なのです。

なぜか?

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。

この鎌足こそ藤原不比等の父親なのです。
この不比等は日本史ではもちろんのこと、世界史でも他に例がないほどの“とんでもないこと”をやり遂げた人物なのです。
それは次の系図を見ると実に良く分かります。

 


(keizu03.gif)

 



この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような無茶苦茶なことをやったわけです。
男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。

系図の中の番号は継承順を示すものです。
持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、
今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。

 


(konoe01.gif)

 



この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。

このような藤原氏の横暴を苦々しく思っていたのが大伴家持です。
“新参者の藤原氏”と比べれば“大伴氏”は名門中の名門だと言っていい。
すでに、氏族としては落ちぶれてはいるけれども過去の栄光のことについては充分に承知している。
大伴氏は、もともとは天皇の親衛隊のような役目を持っていた氏族です。

家持の目から見ても、不比等が天皇家を抱き込んで無茶苦茶なことをやろうとしていたのが見えていたでしょうね。
当然のことですが、日本を“私物化”しようとしている藤原氏に対して良い印象を持っているわけがない。
家持の反骨精神が額田女王や名もない防人の妻の歌を万葉集に載せたと僕は思いますね。

日本を私物化する藤原氏に対する反発。
非情な政治を行った天智天皇政権に対する批判。

大伴家持が万葉集を編纂した本音はこの2つの動機だと僕は思いますね。
詳しいことは次の記事に書きました。読んでください。

 


(yakamo03.jpg)


『万葉集の謎と山上憶良』

『大伴家持の野心』


 



実は、藤原家に盾突いた人は大伴家持以外にもたくさん居ます。
ただ、面と向かって盾突くわけには行かない。
何しろ、不比等をはじめ藤原氏は実権を握っている。
そういう訳で、大伴家持がやったように、本音と建前をうまく使い分けながら、藤原氏に反抗しています。

大友家持の他にいったい誰が?

実は名もない役人たちです。
藤原不比等に反抗して『古事記』や『日本書紀』の中に、はっきりとその足跡を残しているのですよ。

両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。
しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと矛盾が、ところどころ顔をのぞかせます。

これは、いわば当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は、藤原氏が日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。

何よりも、不比等が親の七光りで編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。

もちろん、わざとこの“矛盾”を書き込んだ人もいるでしょう。
つまり、“真相”が分かるようにと“可笑しなこと”を紛れ込ませておく。
読者がその事に気づいて“真相”に迫ろうとする---僕の考えすぎでしょうか?

でも、これから述べるように、そのような“苦心”がこの両書に込められている、と僕には思えるのです。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。

『日本書紀』に隠された真実の声

このページに掲げた血なまぐさい事件は日本史上、“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。
現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)は人に語っています。

「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」

つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。

ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

 


(korea03.gif)

 



「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
上の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、
次のページを用意しました。ぜひ読んでください。

 


(kamatari2.jpg)

『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』

 



『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。

その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
この兵書については次の記事を読んでください。

 


(machiavelli.jpg)

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

 



鎌足の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。

 「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
 「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
 「彼は韓からやって来たのかね?」
 「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
 「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
 「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」
 「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」

恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょうね。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。

しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、
身の危険を感じて乙巳の変の後、出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。

後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。

 



長屋王の変 729(天平元)年

「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。完全に濡れ衣を着せられたものでした。

藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。

結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。


 



ここで僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出します。

 



(shiba3.gif)

 

“作品は作者だけのものと

違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが

作品なんやでぇ~”


 



名言だと思いますねぇ~~。

史書も、言ってみれば作品であることに変わりがありませんよね。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!

藤原不比等の厳しい監視の目の下で執筆にあたった“不平不満の役人”たちは、全身全霊の力を込めて『古事記』と『日本書紀』の中に“真実”を書き込んだと思います。

だから、あなたも全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

このような“不平不満の役人”たちは、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと両書を執筆したかも知れませんよ。へへへへ。。。。

では。。。



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

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では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。


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倭の五王

2020-10-07 14:52:22 | 日本史


 

倭の五王

 


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デンマンさん。。。どういうわけで倭の五王を取り上げるのですか?


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先日、次の記事を書いたのですよ。。。

 


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『百田尚樹を読む』

 



実際に読んだ本が『日本国紀』だったのです。。。



つまり、その本の中に倭の五王が出てくるのでご〜ざますか?

そうです。。。次のように書かれてます。。。

 



倭の五王

 


(5kings4.jpg)

 

413年から478年にかけて、日本の5人の王が中国の東晋、宋、南斉、梁に少なくとも九回朝貢した記録が残っている。この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれば、その名は讃、珍、済(せい)、興、武となっている。

日本の歴史学者の間では、讃ー>履中天皇、珍ー>反正(はんぜい)天皇、済ー>允恭(いんぎょう)天皇、興ー>安康(あんこう)天皇、武ー>雄略(ゆうりゃく)天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。

まず中国の記録の中にある名前が天皇の本名(諡号とは別)とまったく違う。
学者たちは、なぜ中国の史書でそんな名前が付けられたのかという理由をいろいろ挙げているが、いずれも相当強引なこじつけであるし、そこに法則性は一切ない。

また『古事記』にも『日本書紀』にも、前述の天皇が中国に朝貢したという記述はない。
さらに五人の王は、中国から安東大将軍倭国王などに任命されているが、そうした記述もない。

在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている。

もっとも「倭の五王」に関する中国の史書の信頼性は高くないという説もある。
いずれにしても、三世紀から六世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情である。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




27−29ページ 『日本国紀』
著者:百田尚樹
2018年11月28日 第5刷発行
発行所:株式会社 幻冬舎



 



なるほどォ〜、あたくしは平安文学が専門で、この時代のことは全く門外漢でござ〜ますけれど、「倭の五王」という人物たちが中国の歴史書に書かれていたということは存じ上げておりました。



そうですか。。。で、卑弥子さんはどう思いましたか?

別に、どうも思いませんわ。。。ただ、そういう事実があったのかと思ったでけですわ。。。で、デンマンさんは、どういうわけで特に倭の五王を取り上げるのですか?

あのねぇ〜、百田氏は個人的な意見を書いている。。。次のように。。。



日本の歴史学者の間では、讃ー>履中天皇、珍ー>反正(はんぜい)天皇、済ー>允恭(いんぎょう)天皇、興ー>安康(あんこう)天皇、武ー>雄略(ゆうりゃく)天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。





デンマンさんは百田氏の意見に対してはかなり懐疑的ですけれど、この意見についても独断と偏見だと思っているのでござ〜ますか?



いや。。。彼のこの意見に関しては全く同感です。。。「学者たちは、なぜ中国の史書でそんな名前が付けられたのかという理由をいろいろ挙げているが、いずれも相当強引なこじつけであるし、そこに法則性は一切ない」。。。確かに、そういう感想を僕も持ちました。。。

在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている、と書いてありますけれど、この説は学会では認められていないのでござ〜ますか?

認められてないのですよ。。。学会の閉鎖性がその理由だと僕は思っているのです。。。

 



九州王朝説


(furuta10.jpg)

 

九州王朝説は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説である。

邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。

当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。

近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。

本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める。
古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。

現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においては記載されていない。

注:下記に記された内容は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある。

 

経緯

古事記や日本書紀の記述は中国の史書に記されている邪馬台国(邪馬壱国)や倭の五王の記述とは食い違う部分が少なくない。

例えば、日本書紀では魏に朝貢した倭王は神功皇后であるとされているが、日本書紀において神功皇后一人の業績とされる記述は魏志倭人伝では卑弥呼・壱与という二人の女王の業績とされており、明らかに矛盾している。

こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となっていた。松下見林は異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武を雄略天皇と清寧天皇の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。

多くの国学者に影響を与えた本居宣長は馭戒慨言において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲や任那日本府が倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。

こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。

さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞や安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。

一方、東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では平成30年に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。

 

主な主張

(以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。)

紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた。

倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。

筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である。

九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号(九州年号)が建てられた。

隋王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、九州倭国の倭国王であった。

九州王朝の始まりは後に天孫降臨として神話化される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は福岡県の糸島近辺である。また九州王朝の前には出雲王朝が存在しており、国造制・部民制の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。

神武天皇は1世紀から2世紀頃に実在しており、神武東征も基本的に史実である。
九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。

古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には景行天皇の「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。

乙巳の変については、近畿天皇家内部における「親九州王朝派」の蘇我氏が粛清された事件であるとする。
万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。

 

九州王朝説の歴史と問題点

九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。

九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。

しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。

歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されていない。

その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。

九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。

通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果を否定することになる。
古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。
古田武彦の漢文の読み方が恣意的である。

 

問題点に対する九州王朝説側からの意見等

九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。

『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。

九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。

古田武彦は自分の仮説は九州王朝と大和王朝の双方の存在をみとめる「多元王朝説」なのであって九州王朝一元説は支持しないと明言している。




出典: 「九州王朝説」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



 



確かに、『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いと書いてありますけれど、九州王朝説を全否定するのは無理がありますわねぇ〜。。。



地理的に見ても、中国の漢字文化が最初に伝わったのは九州に違いないのです。。。九州を通り越して近畿地方に伝わったなどとは考えにくい。。。やはり、九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立したと考えるのが、地理的なことを考えれば極めて自然なのですよ。。。

そうですわねぇ〜。。。倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた、と考えれば、色々とこじつけることもないのですわ。。。倭の五王を九州王朝の王と考えたほうがしっくりするのに、どうして学会では無理矢理 日本書紀の天皇に結びつけるのでしょうか?

 


(5kings4.jpg)

 



九州王朝説を採用すると、従来の古代史研究者は、自分の立場を自分で崩すことになるのですよ。。。要するに、九州王朝説が地動説ならば、倭の五王を大和王朝の天皇に比定するのは天動説です。。。



じゃあ、いずれ地動説の九州王朝説が常識となる日が来るのですわねぇ〜。。。

そうなると僕は信じてますよ。。。


 


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ〜。。。

あなたも、地動説を信じていますか?

「そんな事は当たり前じゃないか! 古代史などどうでもいいから、他にもっと面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに命令するのでござ〜ますかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


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(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)

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『松平春嶽ダントツ』

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『見ちゃだめ、と言われると』

『忘我の境@英国』

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軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)


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飛鳥のペルシャ人

2020-06-25 01:29:42 | 日本史


 

飛鳥のペルシャ人

 


(lookanim.gif)


(pergal.jpg)


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デンマンさん。。。 今日は飛鳥に住んでいるペルシャ人のお話でござ〜ますかァ〜?


(kato3.gif)

卑弥子さんは、なんだかつまらなそうですねぇ〜。。。

そう見えますか?

顔に、そう書いてありますよ。。。「どうせデッチあげた話だろうから聴くだけムダだわ」と書いてありますよ。

デンマンさんは、バンクーバーで読唇術ならぬ読顔術を習得したのでござ〜ますか?

そうです。。。特に卑弥子さんの表情を読み解く術を学習したのですよ。。。

そういう余計なお話はどうでもよろしゅうござ〜ますから、本題に入ってくださいなァ〜。。。

じゃあ、手始めに次のリストを見てください。。。

 


(liv20-06-06.jpg)


『拡大する』



『ペルシャ人が飛鳥にやってきた』


 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で6月6日の午前1時38分から午前4時58分までのアクセス者の「生ログ」なのですよ。。。赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。



あらっ。。。あたくしがペルシャの女性になってリストを飾っているではござ〜ませんかア!

 


(himiko12.jpg)

 



卑弥子さん。。。リストの写真に注目するのではなくて、赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しいのですよ。。。



あらっ。。。6月6日の午前4時16分にGOOGLEで検索して『ペルシャ人が飛鳥にやって来た』を読んだネット市民が居たのですわねぇ〜。。。

そうなのですよ。。。実は、さいたま市に住んでいる斉田美智代(さいた みちよ)さんが読んだのですよ。。。

 


(ip101252.png)

 



それにしても、どういうわけで午前4時16分に読む必要があるのでござ〜ますかァ〜?



あのねぇ〜、美智代さんは、つい最近まで休学してカリブ海に浮かぶ小さな島、サンアンドレス島に滞在していたのです。。。

 


(kgak13c.jpg)


(kgal13d.jpg)



 



カリブ海に浮かぶ上の島に6ヶ月ほど滞在していたのです。。。



あらっ。。。素晴らしいところではござ〜ませんかァ! あたくしもこの夏休みにはカリビアンに行きたいですわァ〜。。。

だめですよ。。。コロナウイルス騒ぎは、まだ終息するどころか、死亡者も感染者も増えていますからね。。。

つまり、美智代さんは時差ボケが未だに治らないのですかァ〜?

そうなのですよ。。。もう少しカリビアンの休日を楽しもうとしていたのに、コロナウイルス騒ぎがあったので、急遽、滞在を短縮して日本に帰ってきてみれば、周りはマスクだらけの人たちが 単調でうんざりするような生活を送っている。。。

それで、昼と夜が逆転して美智代さんはネットサーフィンしながら 時差ボケと戦っているのでござ〜ますか?

そうです。。。

でも、ネットサーフィンしていたら、時差ボケは治りませんわよう。。。

いや。。。ネットサーフィンしているうちに、夜と昼がまた逆転して正常に戻るだろうと、美智代さんは考えているようです。。。

。。。で、美智代さんはどの大学に通っているのでござ〜ますか?

埼玉大学の教養学部で日本文化を専攻しているのですよ。。。

 


(saitama2.jpg)



 



日本文化を専攻している美智代さんが どういうわけで飛鳥にやって来たペルシャ人の記事を読んだのでござ〜ますか?



あのねぇ〜、美智代さんは古代の日本文化についてタームペーパーを書くために次のようにして検索したのですよ。。。

 


(gog20-06-18m.png)


『拡大する』

『実際のページ』


 



あらっ。。。狛犬 都貨羅 猿石 と入れて画像検索したのですわねぇ〜。。。



美智代さんは狛犬(こまいぬ)と都貨羅(トカラ)と猿石(さるいし)について調べようとしたのですよ。。。

あたくしが巫女さんになって狛犬の石像の間に立っている写真が出ていますわ。。。うふふふふふふ。。。

 


(himiko12.jpg)

 



卑弥子さんが出てくる記事なのですよ。。。



。。。で、美智代さんは参考になるような情報をゲットしたのですか?

もちろんですよ。。。卑弥子さんも読んでみてください。。。

 



ペルシャの石工がやって来た

証拠でもあるの?


 

蘇我氏が飛鳥寺を建立するために、百済から招いた寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、画工らはペルシア系の人々であったと言われています。

また、仏師の司馬達等(しばのたつと)親子はペルシャ人であったらしいのです。

ちなみに、司馬達等は鞍作止利(くらつくりのとり)のおじいさんです。


(himiko12.jpg)

天平八年(736年)、遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)もペルシャ人でした。

天平勝宝六年(754年)、鑑真和上に随行して来日した安如宝もペルシア人であったと伝えられています。

このように古代日本には、ペルシア人は案外多く来訪して、その文化を伝えていたようです。

「日本書紀」には、トカラ人饗応の記述がみられます。
トカラについては、ペルシア、またタイ、ビルマ、メコン川流域など、いろいろな説があります。
まだ定説というものがありません。

斉明紀六年七月条に「覩貨羅人乾豆波斯達阿(とくわらのひとげんづはしだちあ)」とあって、「乾豆波斯達阿」という名前らしい表記があります。

「日本古典文学大系本」の頭注にしたがうと、固有名詞かどうかは疑問として、乾豆は賢豆などと同じくインド、波斯はペルシャをさし、達阿はインドの人名の語尾らしいとあります。

この表記からおおよそ推定するならば、日本よりはるか西方の南アジアの一地域かと思われます。
しかし、断定できる資料がありません。

もっともオーソドックスな解釈では西域の吐火羅(とから 覩貨邏)、つまり中央アジアのトハラ(現在のブハラ、Bukhara)であるとされています。


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トハラ族(Tokhara、覩貨邏)は、古代中央アジアの遊牧民で「トカラ」族とも言われます。 
サカ(インド=スキタイ)系と言われ、バクトリアへ移動後、大月氏に征服され、クシャーナ朝の中核となりました。

なお、現在のアフガニスタンの北部にある彼らが住んでいた土地は現在「トハラ」または「トゥハーリスターン」と呼ばれています。

その中心は古代にはバクトラ(現バルフ)、中世はクンドゥズに置かれ、東西交通の要地としてバクトリア王国、大月氏国、クシャーナ朝などの政治・文化の中心でした。

シルクロードの彼方から文物のみか、ペルシア人も渡来したという事については根強い支持があります。

しかし、日本書紀に従うと、ペルシア人だけが船に乗って漂着したり、男だけが本国に一時帰るというのは、ちょっと不自然です。

さらに書紀には『百済』と『都貨羅(トカラ)』の皇子を人質にしたとあります。
この場合、都貨羅を中央アジアのトハラと考えるには無理があります。

結論を先に言えば、僕は「トカラ」が二つの地名をさしていると思います。

一つは中央アジアのトハラ、もう一つは耽羅(トムラ又はタムラ)、つまり継体紀に一度名前の出てくる済州島です。

地理的位置と、百済との服従関係を考慮すると、初期の記述も十分に理解することができます。
従って、飛鳥にはペルシャからも済州島からも石工がやって来ていたと思います。

ただし、個々の石造物を見てゆくと、ペルシャの作風が見て取れるものがあり、ペルシャ人の石工の存在を無視することができません。

では、さらにいくつかの石造物を見てゆきたい思います。
まずは、猿石をジックリと見てください。

『猿石の謎』




『ペルシャ人が飛鳥にやってきた』より
(2007年4月6日)


 



都貨羅(トカラ)というのは現在のアフガニスタンの北部にある「トハラ」のことか、あるいは耽羅(トムラ又はタムラ)、継体紀に一度名前の出てくる済州島だという説が有力なのでござ〜ますか?



そうらしいのですよ。。。いづれにしても蘇我氏が飛鳥寺を建立する時には、百済から招いた寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、画工らはペルシア系の人々であったらしい。。。

でも、ペルシャからだとあまりにも遠すぎるのではござ〜ませんか?

もちろん、直接ペルシャからやって来た人たちではありません。。。200年から300年ぐらいの間に、ペルシャから都貨羅(トカラ)へ移住し、その子孫がシルクロードをたどって現在の韓国に行き、一部は済州島に渡り、その人達が古代の飛鳥にやってきたのですよ。。。

美智代さんも、この事を参考にしてタームペーパーを書くことにしたのですか?

そうです。。。

でも、どうして、そんな事までデンマンさんはご存知なのですか?

美智代さんは僕の従妹の娘だからですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

飛鳥にペルシャ人が居たと 貴方は思いますか?

ええっ。。。 貴方は歴史には興味がないので どうでもいいのォ~?

そんな事を おっしゃらないでくださいましなァ~。。。

じゃあ、あなたにも興味がある話題を。。。

 


(salon22.jpg)

 

どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

 

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)

『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


(zurose2.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


(costa04b.jpg)

『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』


(annasalleh.jpg)

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)

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愛情ゲットの呪術(PART 1)

2020-02-12 03:52:32 | 日本史
 

愛情ゲットの呪術(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 愛情ゲットの呪術 をマスターしたのでござ~ますかァ~?


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。。。ん? 卑弥子さんは僕が愛情ゲットの呪術 をマスターしたと思ったのですか?

そうですわァ~。。。 あたくしに教えてくださるのでしょう?

いや。。。 僕は、そのような妖術には全く興味がないのですよ。。。。

それなのに、どういうわけで素晴らしい妖術を取り上げたのですか?

実は、バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 


愛情獲得の呪術

 


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王朝時代に輩出した才媛たちを代表する一人である和泉式部について、『沙石集(しゃせきしゅう)』という説話集は、次のような話を伝えている。

 


和泉式部は、あるとき、夫の藤原保昌(やすまさ)に十分愛されていないと感じで、一人の巫女に、貴船社において夫の愛情を取り戻すための呪術を行うことを依頼した。

そして、このことを聞き付けた保昌は、呪術が行われる日、こっそりと貴船社に行くと、境内の木の後ろに隠れて、和泉式部が依頼した呪術の様子を窺い見ていた。

すると、老齢の巫女が、赤い幣帛(へいはく)を幾本も立て並べて呪術の場をしつらえると、しばし呪術の作法を行い、その後、鼓(つづみ)を打ちつつ、衣装の裾をたくし上げて陰部を露出させ、そうして女陰を叩きながら呪術の場を3周した。

 


(iwato08.jpg)

 

それから、この老巫女は、和泉式部に「この通りになさいませ」と言ったのであった。

しかし、和泉式部は、顔を真っ赤にして、巫女に返事をすることも出きなかった。

 


(izumi20.jpg)


 

これによれば、王朝時代には、任意の相手の愛情を自分に向けさせるための呪術を扱う巫女がいたらしい。
そして、この呪術には、『新猿楽記』にも巫女の道具として登場する鼓が使われたのであった。

ただし、『沙石集』を編纂したのは、鎌倉時代後期の無住(むじゅう)という僧侶である。
したがって、上の話は、そのまま史実として扱われるべきではあるまい。

が、(略) 和泉式部の生きた王朝時代において、実際に行われていたかもしれない。
というのは、他ならぬ『新猿楽記』に、そのことを示唆する記述が見出されるからである。 (略)

ここで藤原明衡(あきひら)の想定する諸々の呪術には、呪術の場において女陰を叩きながら舞う所作の含まれるものが見えている。(略)

とすれば、『沙石集』が和泉式部に関連付けて伝えている巫女の呪術は、本当に和泉式部と関係があったか否かはともかく、やはり、王朝時代において実際に巫女たちが扱っていた呪術の一つであったろう。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




80-82ページ 『下級貴族たちの王朝時代』
著者: 繁田信一
2018年1月11日 初刷発行
発行所: 株式会社 新典社


 



あらっ。。。 愛情をゲットするためには、羞恥心をかなぐり捨てて ずいぶんと大胆なことまでしないといけないのでござ~ますわねぇ~。。。 うふふふふふふふ。。。



もし、愛情ゲットの呪術が実際にあるとすれば、卑弥子さんは巫女さんに1億円を払ってでも、素敵な男性の心を射止めるために呪術をお願いするでしょう?

そうですわねぇ~。。。 星の王子様の心をマジで射止めたいですわァ~。。。 でも、呪術に全く関心がないデンマンさんが、どういうわけで愛情ゲットの呪術を取り上げたのでござ~ますか?

あのねぇ~、現代人のほとんどの人たちは、呪術なんて信じてないですよ。。。 ところが、平安時代には、むしろ呪術を信じない人の方が極めて少なかったらしい。。。 ほとんどの平安時代人が、マジで呪術を信じていたようなのですよ。。。

その証拠でもあるのでござ~ますか?

その事では、かつて記事を書いたことがあるのですよ。。。 卑弥子さんも読んでみてねぇ~。。。

 




恬子(やすいこ)内親王の妹に、上の経歴の中にも書いてあるけれど、珍子(よしこ)内親王という女性が居るのですよ。この女性は恬子内親王が29才の時に無品で亡くなっているのですよ。



無品ってどう言う事ですか?

つまり、官位を与えてもらえなかったのですよ。

それって重要なものですか?

重要なものだったのですよ。今だって“あの人は品の無い人だ”という言い方があるでしょう? レンゲさんだって“品の無い女だ!”なんて言われたくないでしょう?

もちろんですわ。

この“品”と言うのは官位の“品”から派生したのですよ。あの聖徳太子が制定したと言う官位ですよ。平安時代になると臣下の場合には正一位とか従五位のように呼ばれたものなのですよ。でも、皇族の場合には一品(いっぽん)、二品(にほん)、三品(さんぽん)、四品(しほん)と呼ばれた。

それで、品が無いままで亡くなるのは異常な事ですの?

かなり異常ですよ。ちょっと、次の事件を読んでみてください。

 


神護景雲3(769)年5月の

巫蠱(ふこ)事件


 


(dokuro3.gif)

 

この事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王(ふわないしんのう)のもとで氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅(ふこえんみ)を行った。

称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛(じゅそ)するという、おぞましいものだった。

この事件のあと、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外に追放された。
つまり、“台所で働く下女”という名前に変えさせられたと言うわけです。

姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。
不破内親王に対する永年の冷遇は、このような事件が原因だと言われています。

実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。
実に41才の時で、親王位としては最低の四品です。

ちなみに、同腹の姉の井上内親王は天平19(747)年、31才の時に二品を授かっています。
待遇の違いが歴然としています。





『愛と憎しみの原点?(2006年6月9日)』より


 



不破内親王というのはあの有名な道鏡と肉体関係を持ったのではないか?と疑われている称徳女帝の腹違いの妹です。この妹が姉を逆恨みして起こした事件と言うのが真相のようです。しかし、この不破内親王は“台所で働く下女”と言う汚名まで着せられたのに、41才の時に親王位としては最低の四品をもらっているのです。



でも、恬子内親王の妹の珍子(よしこ)内親王はもらってないのですか?

何も悪い事をしていなかったのに、母親が紀氏出身だったのでもらえなかったのですよ。文字通り“品が無い女”として死んでいったのですよ。

でも、死後に追贈する事ができるでしょう?

担当の者が追贈すると、時の権力者に睨まれてしまうから、珍子(よしこ)内親王に四品を追贈したくてもできなかったのでしょうね。応天門の変では、何の罪も無い紀夏井までが、ただ紀氏の血縁だったと言うだけで官職を解かれて刑罰に服したのですからね。。。

つまり、紀氏に同情する者や組する者は徹底的に排除されたのですね?

そうですよ。紀氏の中には珍子(よしこ)内親王や紀夏井を含めて、恨みを呑んで死んでいった者がたくさん居るのですよ。

つまり、そのような人たちが怨霊になって祟(たた)りを引き起こすと思われたのですね?

 


怨霊信仰


(majo.gif)

 

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀(まつ)られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」




SOURCE: 国史大辞典


 



その通りですよ。だから、怨みをのんで死んだ者の霊をその子孫が祀って御霊(みたま)を鎮(しず)めてあげなければならないのですよ。



つまり。。。つまり。。。そのようにして紀氏の怨霊の御霊(みたま)を鎮(しず)めた人が『伊勢物語』を編集したとデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。『伊勢物語』には紀氏との関わりの多い人物が多く登場していますよ。在原業平(ありわらのなりひら)は紀有常(実名で登場)の娘を妻としています。その有常の父・紀名虎の娘(紀静子)が惟喬親王と恬子内親王と珍子(よしこ)内親王を産んでいます。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されているのですよ。

なぜですか?

つまり、藤原氏との政争に敗れた事を強調しているのですよ。それにもかかわらず、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているのです。それが『伊勢物語』ですよ。

つまり、編者は紀氏の一員なのですね?

そうです。 紀氏の子孫が怨みをのんで死んだ一族の霊を祀ったのが『伊勢物語』だと僕は考えているのですよ。 ここまで言えば、その編者が誰だかレンゲさんにも分かるでしょう?

もしかして。。。もしかして。。。紀氏の一員で有名な人と言えば。。。あのォ~。。。紀貫之(きのつらゆき)ですか?

さすが、レンゲさんですねぇ~。。。僕もそのつもりで話を進めてきたのです。

。。。で、香港の劉嘉玲(ラウ・ガーリン)さんも この話を読んで感銘を受けたのですか?

そうです。。。 恬子(やすいこ)内親王は時代を間違えて生まれてきてしまったのです。。。 でも、すでに没落貴族になりつつある紀氏の一員だというにもかかわらず、自分の考えに忠実に生きたのですよ。。。

つまり、愛に生きたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 それでラウさんも、恬子(やすいこ)内親王について知れば知るほど涙なしには読めないと。。。

マジで。。。?

信じてください。。。 ラウさん本人がそう言っていたのだから。。。

 


(pinkgal2.jpg) 




『禁忌の愛を探して』より
(2017年5月11日)


 



つまり、神護景雲3(769)年5月の巫蠱(ふこ)事件というのは県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王(ふわないしんのう)のもとで氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に就けるために呪術を使ったということですねぇ~。。。



そういうことですよ。。。 称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛(じゅそ)するというのが、その呪術のやり方だったのですよ。。。

でも、結局 目的は達せられなかったのですわねぇ~。。。

そうです。。。 失敗したわけですよ。。。 もし成功していたら、称徳女帝は亡くなっていたのだから。。。

この事件から、呪術は効果がないということが、その当時の人は理解できなかったのかしら?

あのねぇ~、この当時の人は地球が丸いなんて信じていなかった。。。 地球はどこまで行っても平らだと信じていたのですよ。。。 それと同じように、呪術は当時の人にとっては、“科学的な真実”だった。。。 今でこそ、呪術などは迷信だと思っている人がほとんどだけれど、当時は、マジで貴族も庶民も皇族も呪術を信じていたわけです。。。

要するに、上の事件が失敗に終わったのは、呪術のやり方がまずかったという結論だったのですわねぇ~。。。

そういうことですよ。。。

でも、その当時、呪術が成功した例はあったのでござ~ますかァ~?

最も良く庶民に知れ渡ったのが、あの菅原道真の怨霊ですよ。。。 この怨霊が呪詛したことによって起こったと言われた清涼殿落雷事件です。。。

 


清涼殿落雷事件

 


(raijin01.jpg) 

 

平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、平安京・内裏の清涼殿に起きた落雷。

この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。
ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。

この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。

清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。

落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を焼かれて死亡。
紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。

更に警備の近衛も2名死亡した。

清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため大混乱となった。

穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなる。

天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。

また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。




出典: 「清涼殿落雷事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、民衆は、菅原道真の怨霊が呪術を使って雷神を使い 落雷事件を起こしたと信じたのですよ。。。



現代人ならば、小学生でも落雷は自然現象で、呪術とは全く関係ないということを知っていますけれど、科学知識がなかった平安の庶民は、迷信によって ずいぶんと血迷った生活を送っていたのですわねぇ~。。。 驚きでござ~ますわァ~。。。

そういうことですよ。。。 だから、卑弥子さんも血迷って呪術で星の王子様の心を射止めようなどとは思わないでねぇ~。。。



(foolw.gif)

 (すぐ下のページへ続く)






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