令和元年5月27日
我が国の歴史の中で、武家社会があったことは、
政教分離の観点から、
1100年代から、行われていた。
なぜなら、平清盛のときに、
子女を天皇家に 傅かせて権力を握ると言うことがあったよね 。
それで懲りたのが、 安徳天皇の入水 であった 。
この経験から、 政教分離へと。
北条執権のとき、2度の蒙古襲来を経験したことからも、
妥当な判断があったのですよ。
いざ鎌倉!
このコトバの例で 。
有名な話がありましたよね。
京都の天皇家に、蒙古襲来の情報が次々と入ってきていましたよ。
鎌倉幕府へも、使者を遣わせて、報告したりしてましたね。
これにより、北九州の博多周辺に来ると判断 。
ここに、防衛線を張りましたね。
その後で、
織田信長のとき、
伴天連(バテレン)のイエズス会がきたとき、
信長はまだ、背後の狙いを知りませんでした。
ただ、鉄砲や戦法の知識など吸収できるメリットを選びましたね。
秀吉の時代には、外交面に精通していたのです 。
清国やインドの実情を知って、
バテレンの真の狙いが、 征服 であることを見抜いていた 。
秀吉は、九州の 大友氏に警告を発しましたね 。
バテレンの信仰は、占領にあるから、止めよ!と。
有る意味、妥当な警告だったと思うよ 。
それでも、止めなかったので、26聖人の刑をしたのですよね 。
徳川家になっても、天草四郎のランで。
鎖国への道。3代目のときに、実施。
オランダは、貿易を中心として、征服はしないよと 。
だから出島に、和蘭との貿易港を保持したのですね。
ところが、明治になって、天皇をトップの元帥にしたことで、
山口県のヤカラたちが、政教一致の憲法で政治を動かした。
これが、問題なわけよ。
明治以後、ひたすら戦争への道をまっしぐら!
太平洋戦争にまで・・・・・・・。
チドリソウ ユッカも夏を 謳歌して
満開のとき 宴の盛り
キミガヨラン = ユッカ 。
チドリソウ = 千鳥草 。
ポーチュラカ 。 スベリヒユ科 。
ハダカホオズキ 。