これってやはり化石? 私のライフスタイル!

ひともすなるブログなるものを、われもしてみむとてするなり

鹿子百合があちこちで咲きだし、姑のその後

2022-07-18 | 父の事 母の事



鹿子百合が庭のあちこちで咲きだしました

手を全く入れてないのに、毎年健気に芽を出し、茎を自由奔放に伸ばし、花が咲きはじめます

最初の一輪は仏花にするのも、毎年のこと

父の晩年、庭の手入れを手伝っていた時のこと

咲きだした鹿子百合を見ながら、私が

百合は鉄砲百合でもいいから、色は白が好き

と言ったことがあります

すると、父は

そうか、俺は鹿子百合がいいんだよな

と、

父は庭に草花を植えるのも嫌う、根っからの日本庭園や茶室の路地の風景を好む人でした

その父が唯一、好きだと言ったのが鹿子百合です

あの時の会話がなければ、私は根こそぎ取り去ってしまったかもしれません

今では、花はどんな色でもどんな形でも好きになりました

鹿子百合も、その良さがやっとわかってきました

鹿子百合が咲き出すと、父の手伝いで手入れしたあの夏の暑い日と、今の我が家よりもっと美しく手入れのされていた庭を思い出します

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

昨日はひとりでトさんの母様のところへ

テレビをつけていたりすると、インターホンの呼び鈴も聞こえません

隣に住む義兄宅から鍵を借りて、勝手に家に入りました

母様は、ダイニングテーブルに座り、朝食が終わったばかり

薬の袋を手にしていました

私の顔を見ると、顔が晴れやかになりあきらかに喜んでいます

介護用のベッドも義兄夫婦が手配したと、和室に入れてあります

しばらく母様の入院に至ったことやその後のことなどを、初めて聞くようなふりしながら聞いていました

実はもう何十回かわたしにも繰り返している内容なのですが

その後、ふと冷蔵庫を指差して

桃が冷えているから、出して切って食べなさい


桃の皮を剥いて皿に入れてフォークを2本出すと、母様はいらないといいます

お見舞いに届いたらしい、大きくて立派な桃を一人占め😄

痩せて細くなっていますが、前回よりはしっかりした顔つきになっています

その後、掃除機のゴミを出してとか、色々頼まれごとをやった後、スマホのトラブルの対応

電話は出れるけど、ビデオ通話のFaceTimeの応答が出来ないのです

前回も何回もおさらいして教えたのに、また出来なくなっている母様

でも諦めないのです

今日は、もしかして指先が反応しにくくなっているのかな?と思いつきました

そこで母様の指先を少し濡らして拭いて

もう一度練習

今度はわたしがかけたFaceTimeに出ることが出来て大喜び

その後も何回も繰り返しました

母様には、指を濡らすよりもちょっと唇に指をつけて湿らす程度でもいいと教えると、反復練習

一昨日の夕方かかってきたロンドンの孫からの電話を取れなかったことが、とても残念なのです

夜が明けたロンドンに私からメッセージを入れて、トトさんの母様の家を出ました

出る時、スペアキーを借り受けました
これで毎回隣の義兄宅から鍵を借りずに済みます

トトさんの母様が、玄関先で

また来てね

と。

やはり精神的にもかなり弱っているようです

家に帰り着くと、ベス🐕‍🦺のかまってちゃん猛攻撃

なんだか私の周りは、構ってほしい人が多い😅

夕方、息子のお嫁ちゃんからメッセージが返ってきました

息子は出張で夜中に帰り着いたので?まだ寝ているけど、おばあちゃんにFaceTime3回して、出ませんでした

でも4回目にかけたら、出ることが出来てしっかりお話できました

と。

いつもトトの母様に優しい息子夫婦です

その後、私も電話ではなく、FaceTimeで母様に連絡入れると、出れました

お嫁ちゃんと話した内容を教えてくれ、ひ孫達がまだベッドの中で、それぞれの部屋に行って、ベッドの中の寝姿をスマホで映して見せてくれた
嬉しかった・・・などなど

きっとトトの母様は、8月に一時帰国する孫一家(我が息子一家)に会う時に、少しでも元気になっていなければと、それを目的というか、生きがいに、体力回復に励むはずです

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

昨日は、揚げない鶏肉の油淋鶏を作ってみました

テレビで女優の木村多江さんが紹介しているところを、チラ見したので

油淋鶏は、美味しいけど、衣が含んだ油が気になりついつい敬遠しています

でも、フライパンでしっかり焼くだけならと、作ってみました


タレをかける前の油淋鶏(風)

日曜日だからと、お遣いに出るトトさんに頼んだ刺身の柵

どれも全部小さな柵か、切り身の盛りも小さかったと


まぁしょうがない、なんでも値上がりしているので、ひとバックの量を減らして、値上げ感を減らしているのですから

生の木耳が道の駅で売られていました
昨夜は、酢の物に

他は冷やトマト🍅に、冷凍保存してあったそら豆を茹でて

油淋鶏のタレと薬味は、今の季節の我が家風

薬味はミョウガと大葉を刻み、生姜をおろして

タレは、甘いタレ(米酢・醤油・砂糖=2:2:1)に、ごま油を足して、花椒を一振り

椒が入るとぐっと中華料理になるので、便利なスパイスです

これでお腹一杯になり、炊いたご飯は手付かずでした





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庭でエビネランが咲き出した・・・親を思い出すこの季節の庭

2022-04-11 | 父の事 母の事



庭の片隅の草取りをしていた数日前、エビネランを見つけました

その時は蕾で周りの草を抜いただけでしたが、今日見にいくと咲いていました

手入れの行き届かない我が家の庭ですが、このような山野草に近いものを見つけると嬉しくなります

他にも池の向こうにもエビネ(だと思います)



そして、イヌマキに巻きつけたセッコクも満開


亡くなった父は日本庭園の趣が好きでした

だから花を庭に植えるのは嫌い

もう40年ほど昔の事ですが、母が物凄い剣幕で父に抗議したことがあります

こんなに広い庭なのに、草花一本好きに植えられない😡 って

それでも母も梅の花が好きだったので、梅の鉢が何十とありましたし、梅の木もあちこちに植えてあります

梅の鉢は父が亡くなる2年ほど前に、残った者が手入れに苦労すると言って、形見分けだと言いながらあちこちに配り、殆ど残っていません

父が好きだった花はかのこ百合ぐらいで、今でもあちこちで咲いてくれます

これも母との思い出の百合のようです

セッコクが咲き出したり、かのこ百合がどんどん丈が伸びてきて花芽がわかるこの季節は、父母の事をよく思い出します

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

昨日は茶道の研究会2日目でした

二つのお点前と講演があり1時前に終了

二日間の研究会で、業躰先生の一番言われたかったことは、

このコロナ禍で一期一会の重みがより増している
茶人は亭主になって客人をもてなす時は、客の立場を思い遣るのが当然であるが、招かれた客の方も、亭主の立場を思って席に臨んでいなければならい

このような事でした

前日は、研究会の内容で少し思うところをつらつら書いてしまいましたが

初心にかえり日々精進していこうと気持ちも新たになった研究会でした

研究会が終わると、直帰

ベス🐕‍🦺との散歩や夕食の買い出しなどして、夕食が終わると疲れ果て、ウトウト

今日は終日雨で、ベス🐕‍🦺の散歩も行けず終い

ベス🐕‍🦺は可哀想でしたが、私はたっぷりゆっくり過ごせた一日です

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

○ 昨日の夕食は、焼売



私の焼売は、豚ひき肉と海の物を合わせたしゅうまいです

昨日は冷凍のズワイガニの身とネギを良くすり混ぜた餡に、小さな賽の目に切った筍を後から混ぜ込んで

セイロは、15cmのミニセイロで40年近く前に二段セイロを二組買いました

ガスの火力で下のセイロが焦げて二つダメになり、ここ数年は残った一組を使っていたのですが

昨日はついにその一つの底が取れてしまいました

次の上京時には横浜中華街で台湾産の新しいセイロを調達しよう❗️と思っているのです

これもなかなか実現しません

国産だととてもお高くて、私の残りの人生に見合わないお値段のようです

○ 今宵の夕食は、久々に私好みで皿数のある献立😊



カボチャの牛ひき肉のそぼろ煮、筍と豚肉の炒め煮(味噌と豆板醤)、きゅうりとちくわの酢の物、筍ご飯、筍入り味噌汁、鯖の開きを半分ずつ

地元のAコープで買った甘塩の鯖の開きで小ぶり

脂が良くのっていてとても美味しい鯖でした

食後はお抹茶と和菓子で

トトさんは山吹、私はきんとん(花くれない)


お抹茶碗は、藤の花が描いてあります

この抹茶碗は、妹の学生時代の友人の窯元で焼かれたもの

学生時代に鹿児島に遊びに来て、ここに滞在して両親がもてなしたのだそうです

その時の事が嬉しくて忘れられなくて、抹茶碗を作ったので、私に使って欲しいと、届きました

外側は漆が使ってあります

薄紫の藤の花が描いてあるので、今の季節にぴったり

お茶一服でまたまた父や母のことを思い出しています




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蹲(つくばい)の石組み … 茶道文化検定から

2013-12-19 | 父の事 母の事
十一月第二日曜日に受験した茶道文化検定3級の結果が届きました。

結果は79/80点で、最後の1問を間違っていました

受験後は 問題を見返すのも嫌で ほってあったのですが、今日やっと問題を取り出してみて 自分の間違いに気がつきました



問80 次のうち、蹲踞(ついばい)を構成する石組みに含まれない役石の名称はどれですか

① 手水鉢 ② 手燭石  ③ 湯桶石  ④ 乗石

                  平成25年茶道文化検定3級から




正解は乗石です 

蹲踞は 私にとって ごくごく日常の庭の一部でした

小学4年生の時 両親はそれまでの借家住まいから 土地を購入して ささやかな家を建てました

小さな庭と小さな家でしたが、まわりの家々が 塀としてブロックや石を積むのが一般的だったものの、我が家は父と祖父が竹垣で塀を作っていました

小さな築山もあり、玄関前には蹲踞と獅子おどしを作り 玄関前までのアプローチは鉄平石の飛石など、家が出来上がると庭づくりに精を出す父でした

蹲踞では 手を洗ったり、切花をしばらく水揚げするのに使ったり、日常jの生活に溶け込んでいました


その後 父が生まれ故郷に住まいを移してからも 趣味は庭づくり

多いときは 蹲踞だけで三ヶ所ありました

なのによーく観察することもなく 蹲踞に役石があるなんて 今回の検定の勉強で知った程度

もっと父の作った庭について 父と話ししておけばよかったと そちらが悔やまれます

父に庭の話を私がふったら どんなにか喜んで 嬉々として話してくれただろうかと思うのです

せめて年末は 草と落ち葉に埋もれた蹲踞を掃除して正月を迎えたいと思っています


茶道検定の方は もう少し細かく勉強すればよかったと悔やんでも 後の祭りですが、茶道の先生に背中を押されて受験することになったものの、受験してよかったと思っています

私のボケ防止には とても役立ったし この年になっても まだ記憶することが出来るんだと 素直に喜んでいます

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父のメガネ … 2011年夏の出来事 実家の片づけ

2011-09-02 | 父の事 母の事
6月から住人のいなくなった父の家を片づけています

田舎の住空間のひろさは 日頃都会でちまちまと暮らしている私たちには想像を絶するものがあります

その広い住空間を埋めていた 諸々のものを片づけてきました

妹とトトとプーさんと エンドレスのように思われた捨てる片づけも8割は終わったように思います

父が自分の生まれ故郷に住まいを替えたのは 退職後のことです 

それまでは週末や休暇をすごす別荘のようなものでした

父が実質二十五年弱を過ごした家屋敷には 私の祖父母の代からの様々なものが残っていました (一部今でも残してあります)

業者に頼んで一括処分という手段も世の中にあるのは重々知ってはいるものの それが出来ない諸事情がありました

それで 少しずつ少しずつ父が出来なかった断捨離をすることになりました

父のもので面白かったのは メガネです

父の机の中から 書類ケースの引き出しから 文具入れから いくつかの鞄から ジャケットの内ポケットから 

次々と出てくるメガネを途中からすぐに捨てずに 一時保管しました 

そして最後に数を数え 記念写真を撮り ゴミ袋へ

一つだけ 亡き母のメガネも紛れ込ませました 

父のメガネだけで23本 一時保管前に捨てたメガネと、もう一件の家にもあるでしょうから30本は超えていたと思います

父は近眼はなく 使い始めは老眼になってからです 

オーダーした高いものから千円代の手頃な物 百円ショップで買ったものまで 色々でした

我が身に置き換えて 4本を超えたら処分していこうと 肝に銘じたことです


どこを片づけ始めても気分が悪くなるほどの荒れようでしたが 一番ひどかったのは 台所(母屋 離れの二カ所) 

正体不明の保存食がこれでもかというほど次々に出てきて 中には中身を出せないものもいくつかありました 

最初はマスクもせずに 裏庭に穴を掘り 中身を出して 瓶を洗っていました

ところが妹が激しい腸炎を起こしてしまいました 

以後使い捨てマスクを皆が使用 それでもその使い捨てマスクでは用を足さない凄さがあるとわかり 最後は使い捨て高機能マスクをつけての処分でした



こちらは中身を捨て 瓶を洗って乾燥させているところ

写真の数の5~6倍の数の保存瓶を捨てました

保存瓶の他に 瓶類では 一升瓶 インスタントコーヒーの空き瓶 プラスチック容器などに 10年以上も経過した食品が原型をとどめていなかったり 真っ黒いカビが覆っていたり

マスクはしていてもアイガードをしていなかった私は結膜炎を起こし どろどろの黄色い目やにが四日ほど止まらずにこれも大変な思いをしました



姪っ子が東大出と結婚し 甥っ子が東大に入ったことが自慢だった母は こんなものまでとっていました

スーパーの袋に入れられ戸袋の中でネズミの糞にまみれてありました

こんな状態で自分の家に帰っていった母には 人の生き様としていったいどうなのよ という嫌悪感が生じるですが 二十年後三十年後の自分は大丈夫かしらと不安に思ってきています


そんな夏の休暇もあけて 久々に友人Mと会って互いの近況報告で盛り上がったのですが 私もMも 似たり寄ったりのことをしていました

彼女は近くに住まわせている実の母のワンルームマンションの片づけでした

彼女のお母様は まだ一人で生活できる状態なのですが 少々のぼけと足が弱ってきたのだそうです

家の中で片づけない物につまづき 転んで骨折なども起きそうと それを心配しての断捨離だったとか


二人とも我が家に帰ってきて思うこともまた同じで 自分も身の回りを整理して身軽にしなければということです

二人とも同じ轍は踏みたくないと思いながら過ごした夏だったようです





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父 82歳の生涯を閉じる … 2011年4月6日7時11分

2011-04-16 | 父の事 母の事
父が逝った

4月3日の最終便で夜10時過ぎに自宅に戻った私は 5日昼過ぎ 母から電話で再び戻ってくるように言われた。

父の容態が昼前に急変し 危篤状態だという。 主治医が必死に命を長らえているという。

もうどんな処置もして欲しくなかったし 臨終に立ち会いたいとも思ってもいなかった。

しかし電話の先で母は強い口調で私とトトにすぐに戻ってくるように言った。

トト 妹 甥っ子 我が息子 娘のプーさんに連絡を入れる。

息子が 「おばあちゃんの好きなようにさせてあげなさい」と 私を諭す。

プーさんが一緒に帰ってくれることになった。 

父の病室についたのは 夜11時を回っていた。

か細い呼吸 血圧は上が70~80 心拍数は110ほど。 時々無呼吸になる。

なんと父は 泣いていた。 細く目を開けて 両目から涙が流れている。

「お父さん 辛かったわね もう楽になってちょうだい 泣かないでちょうだい」 私は父の耳元で話しかけながら 頭を撫で 涙を拭いた。

涙は拭いても拭いても ほそーくゆっくりと流れてくる。

意識も既になく 腫れ上がった指を握りしめても もう握り返してもくれない。 すでに五日ほど前から同じ状態だった。

それでも最後まで聴覚はあるから 話しかけてあげてと看護婦の姪っ子に言われていたので 私は何回も父に呼びかけた。

朝7時5分頃 大きく口を開けて深呼吸をした。 そして呼吸が止まった。 モニター画面の心電図が0になった。 

看護婦さんがドクターを呼び 臨終を言われたのが7時11分だった。

父の涙は 亡くなる直前まで流れ続けていた。

父が倒れてから108日目だった。 私の体が回復し 父を見送ることが出来る日まで待ってくれていたかのような最後だった。


父が愛した自宅に連れ帰り 納棺し、葬祭場へ。 そして通夜。


7日 葬儀。

父の小学校時代からの同級生からの弔辞をいただいた。

初孫の我が息子が祖父への別れの言葉を述べた。 息子は涙で言葉が詰まり、みなも涙にむせた。

以下の文章は 当日朝 私と妹で司会者へ渡した 父の人となりを書き留めたものである。

ユーモアにあふれ おしゃべり好きでした。

豊かな知性に裏打ちされた深い教養であらゆうる人を差別することなく 偏見のない見識ですべての人に温かく接していました。

とどまることを知らない好奇心は定年後も変わらず 日本各地や世界各地を 入念に立てたプランで妻と旅をして回りました。

そして新しいことへの挑戦も。 携帯電話はメールもこなし、パソコン教室に通いインターネットで情報を集め、文章を書き、

デジカメの画像を編集して楽しみました。

長男としての責任を背負い、両親を看取り、生まれ育った故郷をこよなく愛して、

墓の手入れを欠かさず庭園のように整えていつも守っていました。

二人の娘や五人の孫たちへ深い愛情をいつもいつも与え続けました。

愛妻家で、妻なしでは一日たりとも暮らしていっがならん(暮らしていけない)が口癖でした。 
 



パーソナルコンピューターやインターネットのない時代に 父は退職後にNHKのラジオ英会話で語学力をアップさせ、国際免許を取り アメリカを横断した。

旧ソ連時代にシベリア鉄道でヨーロッパへ行った。

妹がロンドンで第二子を出産したときは 母と二人で行き、母に産後の手伝いをさせ、スコットランドまで一人でレンタカーの旅をした。

また妹がオランダにいたときは アムステルダムを起点にして バックパックスタイルでユーレイルパスを使いヨーロッパを旅して回った。

すべてオリジナルの旅。 エアメイルやファックスで宿の手配をし、航空券も鉄道チケットもレンタカーもすべて一つずつ準備する旅だった。

侘びさびの世界が好きで 日本各地の日本庭園や神社仏閣を巡り 我が目で培った美意識で私の祖父母が残した家を庭園に仕立て上げた。


丈夫な体ではなかったが 持病と闘いながら よくぞここまで生きたと思う。

ここ七~八年は 私に田舎の管理の仕方を教えるのをとても楽しみにしていた。 

タケノコ山の手入れの仕方。

ミニ耕耘機の使い方。 刈り払い機の使い方。 ナイロンカッターでの草の刈り方。 

病害虫対策の農薬散布の仕方。

自分の山で切った木を自宅の裏の炭窯で焼いていた。 チェーン鋸は重たいし危険だからとなかなか使い方を教えてくれなかった。

父はすべてを楽しんでいた。 父の手伝いが出来るのがうれしかった。

父の手伝いをするためにホームセンターでオレンジ色のつなぎと長靴を買って帰り、着て見せたら たいそう喜びおもしろがってくれた。

そして替えのつなぎを買ってくれた。

仕事の後に一緒に飲むビールがことのほかおいしかった。 私の飲みっぷりをいつも喜んでいた。


おとうさん たくさんの教えをありがとう。 あなたが愛したものを私も大事にしていきます。






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父と温泉へ … お父さん 靴が違うわよ

2010-12-30 | 父の事 母の事
16日から20日までは 年末恒例の帰省でした。

一泊はトトの実家へ。 私の実家に三泊。

四泊した中で 三か所の温泉に入ることが出来ました。

最初は みどり温泉。 一人350円。

最近リニューアルした地域密着型の温泉です。 薬湯やスチームサウナや露天でリフレッシュ出来ました。


二日目は 川辺にある川辺温泉。

造園家が経営する こじんまりとした温泉です。

泉質はアルカリのミョウバン湯で すべすべしたお湯で 源泉かけ流し。

この二つは トトと行きました。


三日目は 着入(きいれ)の温泉へ。 ここは依然着入町の町営でしたが、今では合併で鹿児島市営? 

鹿児島市の住民で高齢者は無料です。

母が雑用で外出していたので、父と二人で行きました。

父に持たせたのは 黄色いタオルと石けん箱とバスタオル。 数年前から 温泉で人さまのタオルと間違って持ち帰るので、人があまり持たない黄色いタオルを持たせると聞いていたからです。

しかし、出かける前のこと。 

『着入温泉はタダで入れるから 証明書(保険証とか免許証など)を持っていく』と 張り切ったものの、自分の財布がどこにあるのか、見つけることも出来ないのです。

元々 自分の身の回りの管理に無頓着だった上に 近頃進んだ痴呆で、数か月前から 銀行でお金をおろす方法さへ忘れてしまったとか。

大した額でもないんだから、お金を払えばいいわよと言って 出かけたのでした。

券売機で入浴券2枚を購入する私に、『いくら払ったのか? 後で返すからね』と気を遣う父。 お金が必要とまだわかっているくらいだから、一人で入っても大丈夫だろうと 思い、それぞれ男湯と女湯へ。

1時間半後に出てくると、待ちあい室のソファに座っていました。

最近では 服を脱いだり 着たりすることにも 随分時間がかかるようなりました。

1時間半後でも 私の方が先に出てくるだろうと思っていたのですが、 ほぼ同じぐらいだったそうです。

私を待たせたらいけないと気を遣ったのでしょう。

サービスのお茶をついで飲ませてあげて 『さぁ、帰りましょう』と温泉を出ようと歩き出して ふと父の足元を見ると 靴が違っています。

『お父さん、靴を間違えているわよ』 と 言うと、

『そうか? どれを履いてきたか さっぱり覚えていない』 と言うのです。

父はその時 割と新しい柔らかそうな皮の靴を履いていたのですが、家を出る時はグレイがかった白い紐なしのスニーカータイプの靴でした。

受付まで戻り、理由を言って 二人で男湯の下足入れの所へ入って行きました。

靴箱には4足の靴しか入っていません。 

2足は黒い紐が使ってあるスニーカーで、後一足は茶色のズックでした。 そして一足白い紐なしのスニーカーがあったので、『これかしらね? ほかの靴は全然違うから』と言って 白いスニーカーを履かせたのです。

父は 自分の靴がどれだったか、さっぱりわからないというのです。 そして こんなことをしては迷惑かけるから、靴に名前を入れようと 知恵を出してくれました。

自分の靴がどれだったか忘れても 間違わないようにするための対策を考えられる状態のようです。

こういうのを世間ではまだらぼけというのでしょう。

家に戻る車の中でも しきりに『靴を間違えるなんて もうろく爺さんだ』と自分のことを言っていました。

夕方日が暮れたころに母が帰ってきました。

靴のことを話すと 玄関に脱いだ靴を確かめてから、父の持ち物ではないと言うではないですか。

でも 温泉の靴箱に入っていた残りの靴の説明をしても やはり全部父の靴ではないのです。

どうやら、父より先に 靴を間違えて出て行った人がいたようです。

母が間違えて履いてきた靴を手にとってみると 小さく赤いマジックで 10.12.5と数字が記入してあり、どうやら靴を買った日か 下ろした日付のようです。

母は日付でなく名前を書いてあればよかったのに とさかんに嘆いていました。

さらにその夜、父が左の腕が下着の袖に締めつけられて痒いといので、袖をまくってみると 二の腕になんと温泉のロッカーキーのバンドがはめてあったそうです。

温泉に連れていくことさえ 満足にしてあげることが出来ませんでした。

日頃の母の苦労が目に見えるようです。


半年前に比べ かなり 痴呆が進んでしまったようです。 三か月前は まだこれほどではなかったように思います。

なるべく頻繁に帰ってきて欲しいと言うので 『お父さんが帰ってきてほしいって 電話してよ。 私の都合と付きあわせて 帰ってくるわよ』 と 話しすと、2月のはじめぐらいに帰ってきてというので 『では 2月のはじめにね』と言い、 父母と別れたのが21日のお昼前でした。


ここまでは 先週のうち(クリスマスイブ)に書いていました。

四日前 父に電話すると 楽しそうに庭仕事をしたり 墓に掃除に行ったことを話してくれました。

そして 『今度は 2月のはじめだったね』と、私との会話を覚えていまいした。

これが 父との最後の会話になってしまったのかもしれません。

朝、母より電話で 父の様子がおかしいので 救急車を呼んだとありました。

これから 妹と合流し(妹に東名のサービスエリアでピックアップしてもらい) 鹿児島です。

北九州あたりは 雪模様。 無事に着きたいと 願っています。

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夏喪服の片付け … 最初は万が一の時の為 以後はおまじないで出してありました

2010-09-13 | 父の事 母の事
6月に父が緊急入院し 心不全とか 腹水がたまっていると連絡があった時、妹と二人で もはや父の余命いくばくもなしと そそっかしくも思ってしまいました。

妹は遊学中の子供たちへ もしもの時の為に喪服を準備しておくようにと連絡を入れました。

私は帰省中に 父が亡くなったりしたら 家族に私の喪服を揃えさせるのは無理があろうと思い、和服に洋服 靴 草履 小物まわり一式を集めて 大きなスーツケースに詰めました。

プーサンに「もしもの時には お母さんはこっちに戻ってくる時間はないから、スーツケースを宅配で送るか、持って帰ってきてね」と頼んでの帰省でした。

ところが帰省してみると、父の症状は 腹水などどこにも見当たらず、不安定狭心症という病気でした。 用心しながら普通の生活を送れるということで、まもなく退院でき ほっとしたものです。

それでもその頃は 旅行は日帰りでもためらわれたり、海外旅行も延期しようかとまでトトと話したり。

一泊二日で出かける時も 相変わらず スーツケースに例の一式は詰めっぱなしでした。

父は不安な気持ちがあるものの、徐々に落ち着いてきて 腹をくくったような感じで しかし用心しながらもなるべく普段の生活を心がけるようになりました。

そこで、私もすべての生活を普段通りに戻し、旅行も行くことに決め、何かあったら、すぐに戻ってくればいい、と考えることにしました。

なにもかもセーブしながら暮らすのは 父の訃報を待っているようにも思え 嫌になったのです。

しかし 準備した例の一式は 早々に準備したから出番が遠のいたように思え、そのままにしておくのが 私のおまじないに思えてきました。

以来、ずーっと、一式をスーツケースに入れっぱなしで今日まできてしまいました。

でも もう夏服もいよいよ終わりです。 とうとう片付けることにしました。

だからと言って 入れ替えるように 袷や合服を準備するのもためらわれ、靴や草履やちょっとした小物だけ 小さなカバンに入れておくぐらいにしておこうかと考えています。

おまじないが続くように願いを込めて。 
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夏草や つわものどもとは そちのこと

2010-08-18 | 父の事 母の事
先月半ばに一部完成してオープンした公園が、散歩コースにあります。

その公園を通るたびに、完成して公開されたあとの、草の伸び放題が気になって。

多分、一度も草取りなどの作業が行われていません。
この季節の草の勢いはびっくりするほどです。
最初に植樹された低木のほとんどが、夏草に丈を越されています。

公園全体が完成するのは、九月末と掲示してありますが、それも半年予定が延びてのことです。

空き地を整備して公園にするときいたのも、かなり前のこと。

遅れている公園整備事業を、時々夫婦で話題にしているのですが…

私は、天候不順で工事が延びてしまったと思い、トトは予算が足りずにはかどらないと推しています。

どうやら、予算不足のような気もしてきました。

草茫々で荒れた公園では、大人も子供も心和むというわけにはいかないように思うのは 私だけ?

公園ができた辺りは広大な遊休地の再開発が行われているところで、地域のコミュニティもまだ未発達なのでしょう。

だれかが音頭をとり、公園の草取りしましょうとなるとしても、まだまだ先の事?

もし市が 、[草取りのための苅り払い機などを貸し出すので、ボランティアを募ります ]なんて広報をだせば、私も手を挙げるのですが。
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唐津城 天守閣からの眺め

2010-07-10 | 父の事 母の事
昨日朝、叔母の訃報を知り、福岡に来ました。

亡くなったのはトトの亡父の妹。

今から30年前、新婚でスタートした福岡で、初めての土地で暮らすことになった私は、大変お世話になったし、可愛がってもらいました。

いろんな思い出が蘇り、最後の別れがしたくなり 福岡に飛びました。

レンタカーを空港で借り、博多駅でトトの母様をピックアップ。

高速道路で福岡市の西の隣町が、お別れの場所でした。

お通夜の後、母様の要望で近くのビジネスホテルへ。

今日の告別式は午後からだったので、唐津までドライブしてきました。

好奇心旺盛な母様は、折角だからと、天守閣まで上り、写真を撮ったり、喜んでいました。

亡くなった叔母は昭和三年生まれ、そして、母様も同じです。

昨日柩に納められた叔母の死化粧が寂しすぎると言いながら、自分の化粧ポーチを取り出し、なおしたりしていました。

亡舅の兄弟姉妹はみな鬼籍の人となりましたが、母様にはまだまだ元気でいてと願っています。
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不安定狭心症と診断 … 父の選択 娘の選択

2010-06-22 | 父の事 母の事
父は先月 八十二歳になりました。

先週の月曜日 夕方 母から 「週末から体調が良くなかった父を病院へ連れていくと すぐに 車いすに乗せられ そのまま入院となった」 と電話が入りました。

足がパンパンにむくみ 腹水がたまっているというのです。

腹水の言葉に ピーンと反応してしまいました。

私の実母が 27年前、半年足らずの闘病の果てに 腹水やガスがたまり始め 苦しみながら亡くなったのは それから一月ほどのことだったからです。

父とは 入院する二日ほど前も 電話で話していました。 自転車を修理してもらい 近くのショッピングモールに買い物に来ていると 動ける自分が嬉しそうでした。

そんな父がわずか二日で 腹水がたまり 緊急入院とは!

入院した後は 容体も落ち着いて 病院から 妹とも電話で話も出来ていましたが、自分でも腹水がたまっていると 言ったそうです。

私と妹は ネットで 腹水のキーワードで検索し 父は長くても余命三カ月、早ければ一週間と 先を読まざるを得ません。

最初の病院から 循環器内科の充実している専門病院へ転院すると、担当医が 今後の手術を含めた事を 娘の私に話したいとのことです。

いつものことながら まずは 私が 鹿児島へ帰りました。

父は 動くと胸が痛くなると 不安がっていましたが 思ったよりは 落ち着いていました。

帰省した日、父も含めて 担当医から 病気の説明です。

父の今回の症状は 不安定狭心症というものでした。 

父は 冗談の好きな人で よく自分の病気の多さを 「婦人科と小児科以外は 全部悪い」 などと 言っていたのですが、 さらに もう一つ 病名が加わってしまいました。

三十代半ばに発病した 糖尿病。 最近は その合併症 そして 一年半前に 脳出血、痴呆ももちろんあります。 気管支拡張症は なんと二十代からの持病です。

体が弱く 持病があったゆえに 用心して ここまでこれた感があります。

担当医は 今後の治療方針として 二つのプランを説明してくれました。

一つは 心臓カテーテルで オペをし、原因を突き止めて対処するプラン。

もうひとつは オペ無しで 薬により 症状を緩和させるプラン。

心臓カテーテルで 細くなった動脈を広げると 呼吸が楽になったり 動きが楽になるし、 そんなに大きな手術でもないと その方面に詳しい身内から聞いていて 私も父も 担当医から詳しい説明がある前は 少々乗り気でした。

これから 頻繁に 発作のような症状が出て そのたびに 八十が近い母が 父の対応をするのも 可哀そうで、 心カテで 症状が緩和されるなら 父も楽だろうし 母も苦労が減るだろうと考えたのです。

ところが 父のように 糖尿病歴が長く 血管も老化していると 心カテは リスクが高くなるとの説明です。 腹部の動脈が 細くなっていると カテーテルを通すと 血栓が起きる可能性も高くなり、 寝たきりになったり 場合によっては 命にかかわる場合もとのことでした。

何よりも オペ後 6時間ほど安静にして 体を動かさないようにすることは 肉体的にかなりきついとの説明でした。

また 「八十二歳と 平均寿命を超えた父としては 心カテはせずに、狭心症で 心不全を起こすのも 寿命と考えてはどうですか。 もちろん どうしても心カテしたいとのご希望であれば 本人や家族の希望通りにいたしますが」 と言われました。

このもの言いには ちょっとびっくりして (ここまで 歯に衣着せずに言うものですか) と 内心思ってしまいました。

もちろん 担当医の説明には 十分納得できたので 父も私も その場で 心臓カテーテルのオペは必要ありませんと 薬による治療を選択したのです。

担当医との面談の時間は 母と担当医で話して決めていたのに 母がその場に着たのは 説明が終わり 父の今後の治療の選択が決まったあとでした。 

さすがに 父もショックを隠しきれません。 痴呆があると言っても 携帯電話をかけたり 車を運転して 近くに買い物に行ったり 動作がのろくなったとはいえ、風呂もトイレも食事も一人で出来ます。

話したいことの言葉がすぐに出てこなくなったのが 自分でもじれったいようですが、ゆっくりと付き合えば ほぼ普通の会話は出来ます。

その夜 私は 父に 「今までのように 田舎に帰って 庭の手入れをしたりすることは出来なくなるかもしれないけど、用心して 無茶をしなければ 急にどうっということないわよ。 先生の処方した 薬も効いてくるだろうから」 と 慰めて 病院を出たのでした。


私としては 父母が どうして 腹水やら 胸水がたまっていると 私や妹に説明したのか 全くわからなかったものの、 ちょっとだけ 一安心でした。

妹にも電話で説明すると ほっとして 妹の帰省は 見合わせることになりました。


話は 変わるのですが、 ブログを書くとは 自分にとってなんと平和な日常の綴りなのだろうと 今回つくづく思っています。

携帯電話からも これまで投稿したことはあるものの 今回帰省中は そのような事の為に 携帯をいじる気になれませんでした。

和裁のことで 色々と勉強させていただいたさかピーさんのサイトが 突然 休眠状態になったのも ご子息の突然の死であったことが 私のブログへコメントをいただいたことからわかりました。

私にも 何人かの お気に入りのブログがあり、更新を楽しみにしています。

そして 更新されるということは ブログを綴る人の平穏無事な生活があるということなんだと 改めて思っています。

コメント (2)
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