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日本全国 強盗ラッシュ

2024-05-09 04:38:27 | 時事
 再び強盗事件が多発しています。

 ゴールデンウィークの最後の3日間だけでも、4件もの強盗事件が発生しています。それぞれ、松山市、松本市、新座市、福岡市です。

 休み明けの5月7-8日には、神戸市や横浜市、安中市の3件で強盗事件です。毎日、強盗のニュースが止むことがありません。

 円安インフレで窮迫する人も増えているのでしょう。防犯対策を怠りなくしましょう。



9-3-8 オランダの繁栄

2024-05-09 02:21:03 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
8 オランダの繁栄

 一六四八年六月十日、オランダのパーク駐在ポルトガル大使は、本国に至急便を送った。
 それは、オランダ人がウェストファリアの条約成立のお祝いをしていることを報告するとともに、つぎのような文をしるしている。
 「ここでは講和は、本月五日午前十時、最高裁判所において、条約の条文を読みあげることによって公表された。
 この日、この時刻がえらばれたのは、八十年前、この日、この時刻に、エグモント伯とホルン伯とがブリュッセルにおいて処刑されたからである。
 国民は、二人が自由を擁護して倒れた同日同時刻を期して、自由の身になることを期待した。」

 ピューリタン革命がちようど高潮期にさしかかる一六四八年、ネーデルラントのオランダは独立戦争(一五六八~一六四八)を完遂してカトリシズムの牙城スペインの絶対主義的支配から解放され、新教の若き共和国として、国際的承認をかちえた。
 オランダはこの八十年にわたる戦争中にも、海上においてしきりに活動した。
 オランダ商人は早くからポルトガルのリスボンにおもむき、東洋商品を買い、これをアントワープをへて北ヨーロッパにもたらし、仲継ぎ貿易の利益をおさめていた。ところが一五八〇年ポルトガルを併合したスペインが、オランダ船をスペインやポルトガルの港からしめだしたので、否応(いやおう)なしに直接、東インドに進出せざるをえなくなった。
 オランダはジャワ、スマトラ、モルッカ諸島を手中におさめ、一六一九年ジャワにバタビアをつくって、東洋経営の中心とした。合同東インド会社が設立されたのは一六〇二年で、世界最初の株式会社である。
 その後、オランダは一六四一年マライ半島のマラッカをとり、各地に商館を設けて東洋貿易の大部分をにぎり、南アフリカにケープ植民地をひらいて、本国と東インドとの連絡拠点とした。
 一方、オランダはアメリカ大陸にも進出し、一六二一年西インド会社をおこしたが、この方面ではたいした成功を収めることができず、オランダの主力は東インド方面にあった。             
 オランダは、他国の三分の一ないし二分の一の安い運賃で十分利益をあげ、「世界の運搬人」といわれた。
 その工業も、仲継ぎ貿易に依存する加工・仕上げ関係がおもで、オランダの基礎産業である毛織物工業も、大部分はイギリスから未仕上げの白地の毛織物を輸入し、これを染色し、仕上げを行なって、輪出したのである。
 したがってオランダの繁栄は産業よりも貿易を土台とするもので、貿易商人が社会的に大きな勢力をもった。
 当時オランダのみならず、ヨーロッパ経済の中心となったのはアムステルダムである。
 戦争で衰えたアントワープに代わり、アムステルダムは、ヨーロッパ経済の中心が地中海地域から北に移動する時代の流れにのり、「世界貿易と国際金融の中心市場」となった。
 そこではロンドンより八十年も早く、一五八五年以来毎週、商品の価格表が発表されている。
 画家レンブラント(一六○六~六九)が活躍したのは、このアムステルダムであった。
 オランダが誇る大哲学者スピノザ(一六三二~七七)も、アムステルダムのユダヤ商人の家に生まれた。
 また十七世紀オランダでは、経済的発展につれて投機がさかんになったが、なかでも有名なのはチューリップの球根に対するものであろう。
 十七世紀にはその高価な品種がつくられ、少しの球根で邸宅が買えたり、結婚の持参金代わりになったそうである。
 一六三〇年代、オランダ人は、一般大衆まで、なけなしの金をはたいて球根の売買に狂奔した。
 あの色とりどりの美しい花を咲かせるチューリップが、人間のもっとも強烈な欲望の対象になろうとは。
 そしてゆきつくさきは、いつでも同じように、大衆投機家たちの大損失であった。

 このオランダ、正式にいえば「ネーデルラント連邦共和国」は、イギリスなどの諸国にくらべて、国家組織上かなりちがった点がある。
 第一に国民的統一国家ではなく、ホラント、ゼーラント、ユトレヒトなど、自由に独立した七州の連合体であり、国家連合という観がつよい。
 連邦議会(全国会議)は州議会から派遣された代表者の会合にすぎず、彼ら代表者も自分の意志によって議決を行なうのではなく、それぞれ自分の州議会の決議にしたがって行動した。
 ところでこの連邦議会を実際にうごかしたのは、七州のなかで国家財政の五八パーセント以上を負担し、他州を圧倒する経済力をもつホラント州であった。
 このホラント州議会では、投票権は十八対一で、貴族よりも都市の力が断然つよく、その中心はあのアムステルダムであった。
 そして、このアムステルダムの貿易商人の意向が、ある意味でオランダの政治を左右したといえよう。
 第二のオランダ国家の特色は総督制である。
 総督はオランダ語のスタットハウダーの訳であるが、封建君主の代官を意味する。
 総督は各州の議会から権限をあたえられた行政官であり、一人で数州の総督を兼ねる場合もあった。
 この官職は、独立戦争の指導者ウィレム一世(在職一五七九~八四)以来、広大な領土をもつ名門貴族オランイェ家がほとんど独占した。
 そしてホラント州を背景とする貿易商人が各州の権利を主張し、分権的な共和制を主張したのに対し、総督オランイェ家は、封建貴族のほかに、中小市民や農民の支持をえて、集権的絶対君主制への機会をねらいつつあった。




聖パコミオ修道院長

2024-05-09 02:09:52 | 聖人伝

聖パコミオ修道院長                                       記念日 5月 9日



 310年頃、パコミオという若者が自分の望みに反してテーベの軍隊に入れられた。軍隊がテーベに到着した時。係りの士官たちは、若者達の不満の感情を知って彼等を監禁し、囚人としてナイル川を下って連れて行った。その時、あわれな囚人の状態を見て、あるキリスト信者たちが食物を与えた。

 パコミオは、この親切な行為に感激してキリスト信者たちの信仰について尋ね、後で軍隊から解放された時、洗礼を受けて信者となった。そして、砂漠の師父パレモンの弟子となった。パレモンは復活祭の日でも食物の中に酒や油を決して入れず、キリストの苦しみの意義の理解を失わないようにした。彼はパコミオに命じて、はだしで茨を拾わせたが、パコミオはキリストの足につき刺さった釘を思い出して耐え忍んだ。
 最後にパコミオはナイル川の岸のタベニシに修道院を創立して、パレモンがそれを助けた。パコミオの特別な仕事は、修道士と修道女たちを集めて聖なる規則のもとに生活させることであって、ナイル川の向こう岸に6つの男子修道院と、1つの女子修道院を建てた。彼が帰天する前には、1000人の修道士が集まっていた。彼等は聖書を暗記し、仕事をし、祈りのために集まっていた。346年頃パコミオは亡くなった。


少しばかり謙遜な心を保ちながら千人の群衆の中にいる方が、
傲慢な心でハイエナの洞窟に住むよりは、
あなたにとって、はるかに善いことである。

聖パコミオ