カトリック情報 Catholics in Japan

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悪魔について 3、悪魔の頭を踏み砕く聖母

2018-09-10 01:34:04 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆3、悪魔の頭を踏み砕く聖母

 創世の書をみますと、人間の創造と、みなもとの罪について述べてから、人間をいざなって神にそむかせた蛇の形をとった悪魔を、神は呪って、永遠の罰をお示しになりました(3・14)。悪魔は、最初の女を利用して全人類のかしらアダムに罪を犯させるのに成功しましたが、神は、その限りない憐みによって、すぐそのとき、救い主を約束なさいました。すなわち、悪魔と、もうひとりの女とその末とのあいだに神ご自身敵対をおかれたのです。そしてその結果として、もうひとりの女の末である救い主イエズス・キリストが悪魔の頭を踏み砕いて勝利を得られるようになったのです。

 もちろん、そのすえキリストとともに、その母であるマリアも、悪魔の頭を踏み砕きます。黙示録の中に、「あがない主の母であるこのひとりの婦人の姿が、一歩一歩次第にいっそうあきらかに示されていき、この啓示の光のもとで、罪におちた人祖に与えられた蛇に対する勝利についての約束のなかで、すでに予言的に描かれている」と書いてあります。そして教会憲章は、創世の書のこの箇所を引用しています。

 もちろん、聖書の同じ箇所に、悪魔は、かれ、つまり、救い主のかかとをかむであろうとあります。つまり、これは、キリストとその教会に対する悪魔の戦いを明らかに示すものです。しかし、勝利はキリストのものであり、そのいちばん親密な協力者は聖母マリアです。

 聖書の最後の書、黙示録一二章に、「太陽に包まれた婦人」のことが出ています。赤い龍である悪魔は、かの婦人の子を食おうとかまえたができず、婦人をおぼれさせようとはかっても、成功しないで、このために、「婦人に怒り、その子らの残りのものに挑戦しようとして、出て行った」とあります。天に戦いがはじまり、「ミカエルとその使いたちは、龍と戦い、龍とその使いたちもま戦ったが、しかし龍は負けて、天にかれらのいる所がなくなった」とあります。この龍とは何ものかを説明して、すぐあとに、こう書いてあります。「大きなよ龍、すなわち悪魔、または、サタンと呼ばれ、全世界を迷わず、あの昔のたお蛇は倒され、地上に倒され、その使いたちも共に倒された」と。これによって、マリアは、悪魔の大敵であり、悪魔がどんなにあれ狂っても、最後の勝利は、マリアのものとなることがわかるのです。すなわち、救い主イエズス・キリストのもっとも親密な協力者であるマリアの勝利です。


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悪魔について 2-6、大変な議論

2018-09-09 01:25:53 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆2-6、大変な議論

 教皇パウロ六世は、また別の機会にも悪魔についてお話しになったが、これも大変な議論をまきおこした。つまり、「教皇は中世紀にもどった。これこそ暗黒主義者、迷信家でなくて何だろうー今は、一九七四年というのに、かれは、学問に、まして、唯理主義的で進歩的な学問の精神に、大きな侮辱をあびせたのだ」と訴えられたのだ。

 わたしたちは、かえって、教皇の教えを神の教えとして受けいれて、学者ぶった人々をおそれずに、正しい信仰をあきらかに宣言してくださったことを、心から感謝しよう。



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悪魔について 2-5、どのようにして守られるか

2018-09-08 02:03:02 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆2-5、どのようにして守られるか

 第二の質問、どのようにして守られるか、すなわち、悪魔の活動を妨げるには、どうすればよいか、に対する解答は、いうにやすく、行なうために困難なものである。

 ひとくちに言ってしまえば、こういえる、すなわち、
「罪から、わたしたちを守ること、それじたいが見えない敵からわたしたち
を守ることである"と。したがって、決定的な防衛力は、神のめぐみ以外には何一つありえないのである。

 清い心は、一つの要塞のようである。ここで、使徒たちがキリスト信者を守るすべての善徳を兵士の武装にたとえていることが思い出されるであろう。このようにキリスト信者は、戦う兵士、しかも警戒をおこたらない強い兵士でなければならない。

 そのために場合によっては、悪魔の、ある種の攻撃を防ぐための兵法として、ある種の修業も必要である。イエズスご自身、「この種のものは、祈りと断食によらずには、どうしても追い出せない」(マルコ9・29)とおおせになって、その方法をはっきりとお教えになった。

 では、もう一つ、使徒聖パウロの教えをきこう。かれは、「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12・21)といった。

 わたしたちは、現代人の霊魂、教会、全世界を悩ます今の世の困難が何であるかをしっかりと見極めて、「わたしたちの父よ、悪からお救い下さい」と絶えず願い求めよう。それこそ、昔から繰り返された、もっとも目立った祈りである。わたしたちは、その意味をよくさとり、心からとなえなければならない。このためにこそ、わたしの使徒的祝福は役立つと思う。

(ここに教皇パウロ六世の演説はおわる)。


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悪魔について 2-4、悪魔は実際に働いている(悪魔の活躍的現存)

2018-09-07 14:32:33 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル編

◆2-4、悪魔は実際に働いている(悪魔の活躍的現存)

 悪魔のしるしが、場合によっては、ひじょうに明らかであるとしても(テルトゥリアーヌス「護教論」23参照)、第一の質問に答えるにあたっては、細心の警戒が必要である。

 次の場合は、確実に悪魔が働いているしるしと考えてもよい。

・神の存在が、ひじょうにずる賢い方法で、根本的に、それが矛盾となる程度にまで否定されているとき。

・明白な真理がまげられ、偽善的に強くいつわりが主張されるとき。

・愛が冷い残酷な利己主義で圧迫されるとき。

・キリストのみ名が意識された反抗的憎みで攻撃されるとき(コリント前16・22。12・3)。

・福音の精神がごまかされて否定されるとき。

・最後の決定的結論を失望に求めるときなどである。

 しかし、以上のしるし以外に、悪魔の干渉があるかどうか、また、どの程度まであるかどうか、という診断は、あまりにも、はばの広い困難な診断であるから、わたしは、たちいって、具体的に、あの場合この場合は、そうだと断言することをひかえたい。

 それにしても、すべての人にとって、この診断は、大いに興味のあるものである。現代文学の中にもこれに関する有名な著書があるほどだ(ch.メーレル著「ベルナノスの著書の研究」、《二〇世紀の文学》第一巻97ページ以後。P・マッキ著「ベルナノスの悪のすがた、サタン」、デクレー社一九四八年発行参照)。

 イエズス・キリストが悪にうち勝って確かな解答を出されたあとでも、悪の間題は、人闇精神にとって、もっとも大きな、永続する問題であることをやめない。

 福音史家聖ヨハネがいっているように、「わたしたらが神から出たものであり、世がすべて悪者の配下にあることも、わたしたちは知っている」(ヨハネの第一の手紙5・19)のである。



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悪魔について 2-3、誤謬をまき散らす隠れた存在

2018-09-06 01:27:54 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆2-3、誤謬をまき散らす隠れた存在

 とはいえ、わたしたちは、わたしたちの生活と、歴史全体にかかわりをもつ悪魔のこの世界について、たくさんのことを知っている。

 そもそも悪魔は、人類最初の罪の原因であった、なぜなら、一番目の罪、いわゆる原罪とよばれている罪に、人をそのずるがしこいいざないでひきずり込むのに成功したからだ(創世の書3章、知恵の書1・24)。

 こうしてアダムが罪を落ちてからは、悪魔は、ある程度まで人間の上に支配権をえるようになった。それにしても、わたしたちを救いうるものが、すなわち、この悪魔の支配権からわたしたちを救うことのできるものが、たったひとつだけある。それは、キリストのあがないだ。そしてこの救いの歴史は、いまもなお続いている。では、洗礼式における抜魔式を思い出そう。また、攻撃と圧迫のあの「くらやみの力」(ルカ22・53。コロサイ1・13)について述べる聖書や典礼の多い箇所も。

 敵ナンバー・ワン、最大級のいざない者、これが悪魔の正体である。聖書を信じるわたしたちは、このくら闇に包まれた圧迫者がほんとうに存在することも、悪賢いうらぎりをはたらいていることも、また、かれが人間の歴史に禍いをまき散らす、かくれた敵であることも知っている。

 ここであの福音書の意味ぶかいたとえばなし、よい麦と毒麦の話を思い出してみよう。この話の中にキリストは、人間生活にたえずあらわれてくる不合理をまとめて、簡単にこう説明される、「敵がしたことだ」(マタイ13・28)と。

 あくまキリストがおおせられるとおり、「悪魔は、はじめから、人殺しで、うそをつくもの」(ヨハネ8、44-45)、人間道徳のバランスをこわそうと企むものなのである。

 悪魔のやり方は、じつにずる賢い。悪意にみちた魅力、五感、想像、邪欲、あるいは、ユートピアにみちた屁理屈、不純な社交、あらゆるものを通じて。巧みにわたしたちの活躍の中にしのびこんでくる。それは、わたしたちに、さまざまな迷いを起させるためである。

 これは、見た目には、肉体的、あるいは心理的なわたしたちの傾向に適していて、本能の深淵なあこがれをみたすかのようにさえみえるが、ひとたびこれにひっかかると、大へんな損害をこうむってしまうのである。

 悪魔の存在と、個人、団体、社会をとわず、およぼされるその大きな影響はカトリック教理の目立ったテーマで、これは、再度研究される必要があるのに、今日では、それがなおざりにされている。

 しかもある人々は、この研究を、心理分折学、心理医学、あるいは降神術(ある国では、これが不幸にも実行されている)などのたぐいで、とりかえようとするのである。

 悪魔の研究に真剣にとりくむなんてばかばかしい、それはあの古くさいマニめいしん教のやきなおしか、でなけれは、空想や迷心じゃないか、こんなことで恐ろしきようふい迷いにふたたびおちこむなんてごめんだと、かれらは変な恐怖心をもつのである。

 こうして、現代人は、偏見のない強い精神のもち主、積極主義者をきどりながら、一方では、架空で無意味な魔法術じみた、あるいは風俗きわまる話しを信じこむことがよくある。

 さらに不幸なことに、かれらは、洗礼をうけ、いく度となく聖体を拝領して聖霊の神殿となった自分の霊魂を、五感の邪欲的な経験にゆだね、あるいは、麻薬の害に、誤謬のイデオロギー的流行にまかせてしまうのである。

 それはちょうど、割れ目のようなもので、悪魔はこの割れ目を通って、らくらくと人の頭の中にすべりこんでは迷いにひきずりこんでしまう。

 もちろん、すべての罪が悪魔の直接的ないざないとはかぎらない(聖トマス・アクィナス「神学大全」1・104・31参照)。とはいえ、いつも、ある程度までの精神的努力によって自分自身を警戒しない人は(マタイ12・45。エフェゾ6・11)、聖パウロがいっているように(テサロニケ後2・3-12)「罪悪の奥義」である悪魔のなすがままに身をまかせて救いを危くするのである。

 悪魔を包んでいるくらやみが、わたしたちの教えをぼかしてはいるが、わたしたちは、悪魔のその多種多様な存在をはっきりと知っている。

 それで、次の質問をしたいという、わたしたちの好奇心は、正当なものである。その質問は、

1、悪魔がほんとうに働いているという明らかなしるしがあるだろうか?

2、では、それはど、ゆだんのならない危険をさけるには、どうすればよいだろうかということである。




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