カトリック情報 Catholics in Japan

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食事『基督信者宝鑑』

2021-04-11 12:20:13 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

10-0-1 食事

 この世に生きとし生ける者は、いずれも食物を摂ってその生命をつないで行きます。どんなに下等な植物でも、高等な動物でも、物を食べずに生きて行けるというものは一つもありません。人間のごときは、霊魂上から申しますと、遥かに周囲の万物に乗り越えているのだけれども、肉体上についていえば、やはり一個の動物であって、日には幾度も飲んだり、食べたりしなければ生命が繋がれぬ。

 さらばといって、ただもう、牛のように飲み馬のように食べ、わが身は無形の霊魂を備えた万物の霊長たることすら忘れるようではいけません。で、食事を神聖にするについて、2、3の注意を記しておきましょう。




何よりも先に天主様のことを学ぶ『基督信者宝鑑』

2021-04-10 01:23:24 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

9-2-5 何よりも先に天主様のことを学ぶ

 何よりも先に天主様のことを学ばねばならぬ。天主様は光明の源、真理そのものに在すからして、天主様を識るというのは、第一の研究科目であれねばならぬ。

聖アウグスチノは、
「主よ、私は主を識りたいのです。
 私をも識りたいのです。」
と叫ばれたが、青年たるものは、つとに天主様を識り、己を識るべく努めなければならぬ。

 したがって、説教を聴聞するやら、公教要理を学ぶやら、聖福音書を要やら、そんなことを怠らないで、年の長けるにつれて、物事を知るにつけて、天主様に当たる知識も、いよいよ深く広くなるように努め、俗世間の学問までも、すべて天主様を識る為の道具となすようにしなければなりません。

 実に天主様は真理の源であらせられるから、どんな学理でもこれを深く究めてみれば、そこには必ず天主様の驚くべき御智慧がほの見えるのである。

 歴史上の出来事、今の世に起こる人事百般をよくよく調べてみなさい。きっと、天主様の巧妙なるおはからいを見出して、感嘆の叫びをあげずにはいられますまい。一本の樹、一本の草にでも、注意してみれば天主さまの聖名がありありと読み出せる。ダヴィドも
「天は神の光栄をかたり、その御手の業を蒼空が告げる」
(詩篇18:2)
と歌っているくらいですから、どの学問を研究するにしても、しばしば思いを天主様にあげて、その見るもの聞くもののうちに、天主様の美しい御徳のひらめきをながめるというように致さなければなりません。

 聖福音書には、イエズス様の青年時代を記して、「イエズスは智慧も齢も、神と人とに於ける寵愛も次第にいや増し給うた」(ルカ2:52)と言ってあります。

 見なさい。イエズス様は御年の長けるにしたがい、いよいよその智慧をあらわし、その徳を輝かせて、天主様にも人にも御寵愛され給うのでありました。学生たるものは、この美しい御手本にのっとり、年月を重ねるにつれて、学問にも道徳にも益々進歩しなければならぬ。

 悲しいかな、今の学生は学問の進歩だけは決して申し分はあるまいが、しかし宗教上の知識が、いっこうにそれに伴わない。勉強して広く本を読み、多く事を識るにしたがって、宗教上の知識も一段と深くならなければならぬのに、その方は幼少の頃に学んだだけに止まり、それすら大部分は忘れてしまっているという塩梅だから、次第に信仰は薄らぐし、信者のつとめは怠るしで、おのずと不品行に流れ、ついには宗教そのものまでも嫌って、悪口を叩き、いよいよ徳をやぶり、行いを汚して、何とも手に負えぬやくざもの(無能者)になってしまうのであります。

 学生たるものは、深くそこを鑑みて、学問に上達すればするだけ、宗教上の知識をも広め、その信仰を養い、その徳行を磨くように努めなければなりません。




勉強における謙遜の必要性 『基督信者宝鑑』

2021-04-06 14:08:45 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

9-2-4  勉強にあたっては謙遜であらねばならぬ 

 謙遜であらねばならぬ。謙遜でしたら、自分の力に頼まないで深く天主様によりすがる。人に問うのを恥としない。分からぬところは誰にでも尋ねる。どんな下の人に教えてもらって、心から有難がって御礼を申すものだから、人が喜んで聞かしてくれます。
 いったい学問というものは、天主様の栄光、国家の利益、その身の幸福を計るのに、よほど助力となるのである。もとより学問が無くても善人にはなれる。忠良な国民にもなり得られれる。
 しかしながら、もし、その人に学問の光までが添えられたなら、幾倍と大いなる働きが出来るでございましょうか。
でも、それはその学者が謙遜であったときの話で、もしや、学問の光を鼻の先にブラ下げて、やたらに威張り散らすようにでもなれば、その学問は何らの益もきたさないのみか、かえって大いなる害を招く基になるのみであります。



勉強を始める前に天主様の御光を願うこと『基督信者宝鑑』

2021-04-05 11:35:16 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

9-2-3 勉強を始める前に天主様の御光を願うこと

 勉強を始める前には、必ず天主様の御光を願わなければならぬ。知識は天主様の賜物で、一心にお願いする人に与えられる。聖大アルベルトにせよ、聖ベネディクトの弟子のルベルト修道院長にせよ、学才も何もあった人ではないのでしたが、篤く聖母を敬愛していたお陰で一世を驚かすほどの大学者となられました。

聖トマ博士のような方も、
「わたしが物を学び、事を識ったのは、勉強の結果というよりも、むしろ祈祷の御蔭というべきである」
と申しておられる。

で勉強を始める前に、
「聖霊来たり給え」
を熱心にとなえて、聖霊の光を求めるのは、極く肝要であるが、我が国の学校ではそれができないから、せめて自宅を出る前にしばらくひざまずいて、これをとなえておきなさい。

 勉強中に分かりにくい箇所に突き当たったら、頭をひねって考え込む前に、静かに目をあげて天主様の御光を求めるようにいたしなさい。案外早く真意をとらえることができるでありましょう。




学問の上達には品行が必要『基督信者宝鑑』

2021-03-27 00:35:44 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

9-2-2 学問に上達するには、品行が方正であらねばならぬ。

「今日の青年は、血の気の失せた老人のようだ。
 その額には早くも若皺が寄っている」
と、ある詩人は嘆息しているが、青年の額に若皺の寄るのは、過度の勉強の為でもなければ、激しい労働の為でもない。全く、その不身持ちの産んだ結果なのである。身を汚し、心を腐らす不潔の罪を重ねたのに職としてこれ由るのである。人に飛び抜けた勉強をしなければ、飛び抜けた上達は出来ないのに、早くから若皺の寄るくらいに弱り込んでは、人並みの勉強すら覚束ない。人並みの勉強も出来ないようでは、どうして人並みの人物にでもなれようか。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
と言うじゃありませんか。

 身体が健全だと、頭脳はまっきりして心も晴れ晴れしくなるから、何を学んでもよく記憶する。何を読んでもよく理解する。

 したがって、勉強するのが面白くなって、何時間勉強しても、全く疲れを感じない。いよいよ熱心に研究を続けて、驚くべき進歩を遂げるに至るものである。

 これに反して、不品行な学生は、たとえ若皺は寄らなくても、心が常にうかうかとしているから、とてもジッと尻を据えて勉強する気になれない。教場ですら、あちこち見回している。あくびしている。臨席の友とささやきあったり、コクリコクリと居眠ったりしているくらい、まして、自宅へ帰ってからは、今日の復習もしなければ、明日の下読みもしない。

 夜はおそくまで下らぬ友と遊び回るやら、淫がましい小説類を読みふけるやらして、ボンヤリと寝ぼけ面をして学校へ出て行くものだから、いくら教師が熱弁をふるって講義して聞かせても、到底耳に入ろうはずがない。

 いわんや、まじめな学問は常に堅苦しくて、そんな堕落生の為には何の面白味もないものだから、いよいよ以て身を入れて勉強し、精出して研究する気になり得ないのであります。