カトリック情報 Catholics in Japan

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パリの聖ランドリー司教

2024-06-10 00:00:05 | 聖人伝
パリの聖ランドリー司教      記念日 6月 10日


 650年にパリの司教に任命されたランドリーは、パリ市内にたくさんの貧しい病人たちがいて、病気の治療はおろか、入院するための病院すら十分でないのをみて、このような人々を世話するための病院が必要であることを認め、カテドラルの傍らに大きな病院を建てて、聖クリストフォロにささげた。

 病院の需要は非常に大きく、どのベットも病人や臨終の人、または死んだ人で占められるようになった。病院の名は後に、オテル・ディユという名に変えられ、今日でもノートル・ダム大聖堂の北にランドリーの創立した病院の近代的建物を見ることができる。




聖コルンバ司祭    St. Columba

2024-06-09 04:00:56 | 聖人伝
聖コルンバ司祭    St. Columba         記念日 6月 9日


 コルンバは、アイルランドのドニゴール州で生まれ、15年間アイルランドで宣教して、デリーとケルスとデュローに有名な修道院を設立した。563年にスコットランドのイオナ島に航海してひとつの修道院を建てたが、それは何世紀もたつうちに有名な所となり、イオナはケルト地方のキリスト教の中心地となった。またイギリスやスコットランド本土にも修道院が出来たが、コルンバはその後34年間を宣教の仕事に献げた。597年6月8日、コルンバは詩編を写していたが「主を愛する者によいものが欠けることはない」というところで筆を止めて、残りは彼の従弟ベーティンが書くべきだと言った。その翌日コルンバは帰天した。


私の神よ、わたしはあなたと共に旅をします。
夜と昼の王よ、あなたがそばにおられる時何を恐れましょうか。
あなたの御手にすがる時、わたしは一軍団で守られているより、
もっと安全なのです。




ヨークの聖ウイリアム司教       

2024-06-08 00:00:05 | 聖人伝
ヨークの聖ウイリアム司教                                      記念日 6月 8日


 ウイリアムは、イギリスのヨーク大聖堂の参事会員及び会計係として功績をあげ、1142年にサースタン大司教の死後、カテドラルの参事会員の大部分によって大司教に選挙された。しかし、この時点でウイリアムの平和な生活は終わりを告げたのであった。ヨーク大司教区のシトー会の修道士達が、ウイリアムは大司教の職につくために金を支払ったと主張した。また他の人々は、彼がステファノ王と親しい関係にあったおかげで選挙されたと言った。このような状況のもとでカンタベリーの大司教は、彼を大司教に叙階することは気が進まなかった。やがて、ウインチェスターの司教で、ステファノ王の兄であったブロアのヘンリーが彼を叙階してヨークの大司教座につかせた。
 その時、事態はまた悪くなった。というのは、彼に大司教としての権威を象徴する祭服「パリウム」を送った教皇が、それが到着する前に亡くなったので、教皇使節はパリウムをローマに持ち帰ってしまったのであった。新しい教皇はシトー会員でウイリアムの反対者たちの味方であった。ウイリアムはローマに行って教皇に会ったが、教皇は彼を信頼せずに停職させた。これを聞いた友人達のグループは、シトー会のファンテン修道院を激しく攻撃して、その農場に放火したので。事情はさらに険悪化した。そこの修道院長はヨーク大司教区でウイリアムの競争相手であった。
 1147年にランスの会議でウイリアムは退位させられた。ウイリアムはブロアのヘンリーのもとへ行き、ウインチェスターで修道士として数年間過ごした。教皇とファンテン修道院の院長が亡くなった後、彼はヨークへ帰ることが出来た。ウイリアムが到着した時、多数の群衆がオース川の橋の上に集まったので、橋がつぶれてしまったが、幸いなことに誰もけがをしなかった。これは将来のためのよい兆しでもあった。しかしウイリアムは生涯の終わりに近づいていて、1154年ヨークに帰った1ヶ月後に死去した。






聖メリアドク司教 

2024-06-07 00:00:05 | 聖人伝
聖メリアドク司教     記念日 6月 7日


 メリアドクは、イギリスのコーンウォールと北フランスで特に崇敬されているが、5世紀または6世紀にウエールズに住んでいた人である。
 彼はコーンウォールでいくつかの教会を建て、その一つは後に彼にささげられた。この地方でメリアドクは有名になり、その偉大な業を語る奇跡劇が今でも残っている。それから彼はブリタニーに行ったが、そこでも彼は追憶され、プローガスヌーにある16世紀の教会には彼の頭蓋骨の一部と思われる遺物を納めた聖遺物箱がある。スティバルという所には彼のベルだと伝えられているものがあって、口の不自由な人や、偏頭痛で悩む人の頭上に置くと、治されるとのことである。

 メリアドクは金持ちであったが、隠修士になりたいと望んで自分の金を全部貧しい司祭達に施し、土地は困っている人々にわけ与えた。彼の聖徳の評判が高くなったので、虚栄心の起こることを恐れたメリアドクは、世間から隠退したいと思って、絹や紫の衣の代わりにボロをまとい、貧しい食物に甘んじて完全に清貧の生活を送った。
 彼の親戚達が、この新しい生活をやめて世間に帰らせようとした時、メリアドクはいっしょに来ていたロハンの貴族に向かって、自分は近所の盗賊達を追い出す仕事をするほうがよいだろうと言った。彼が言ったことは本当であって、ブリタニーは大きな災害からまぬがれた。
 メリアドクは、皆に賛成されてヴァンヌの司教に選挙されたが、彼は不本意であった。叙階後も相変わらず断食を続け、貧しい人々に施していた。死期が迫った時、彼は兄弟達に接吻して次のように言った。
 「主よ、あなたのおん手の中に私の霊をゆだねます」と。

貧しさは気苦労を取り除き、聖性の母となる。
聖メリアドク








聖ノルベルト大司教     St. Norbertus E.  

2024-06-06 03:02:41 | 聖人伝
聖ノルベルト大司教     St. Norbertus E.                   記念日 6月 6日


 1015年頃の事である、皇帝ヘンリコ5世の宮廷に、ノルベルトという副助祭がいた。家は門地の高い貴族で、収入も相当豊かであったが、ただその生活振りは地位に似げなく放縦を極め、甚だ感服出来かねるものがあった。
 所がある日の事、馬に乗って一人の従者を連れ、祭礼の見物に出ると、途中大暴風雨に逢ったが、その時突然従者が絶叫した「旦那様、帰りましょう。天主様の御罰があなたの上に下りますよ!」
 その瞬間ものすごい電光がひらめいて、宇宙も裂けたかと思われるような雷鳴が轟いたかと思うと、ノルベルトは馬もろとも大地に叩きつけられ、それと同時に気を失ってしまった。
 それからどれほど時間がたった事であろう。ようように我に帰った彼は、起きあがるや否や聖パウロの如く「主よ、御身は何を私にお望みになりますか?」と叫んだ。彼は「悪事をやめて、善いことをしなさい。平和を探し求めて、それに従いなさい」という聖主の御言葉を聞いたのである。そして天主の聖旨を知るべくジーグブルグの一修院に籠もって祈祷や大斉をなし、院長と共に心の修養に勉めた。次いで彼はケルン市に赴き、司祭叙階の準備に励み、二年後の1115年めでたくその資格を得た。
 かくて再びもといた所に戻った彼は、全く打って変わったような人間になり、信仰極めて厚く、様々の苦行を行い、しばしば説教を試みて、総ての人々にキリスト教的生活を為すべき事を勧めた。しかし、彼は至る所で反対にあい、わけても昔を知っている人々には悪し様に言われ、時としては顔に唾さえ吐きかけかねない仕打ちも受けた。けれどもノルベルトは以前の罪の償いにキリストの御苦難を念じつつ、何事も目をつぶってじっと辛抱したのである。
 彼はここかしこの町や村を廻って教えを説いた。が、彼はそこでも迫害冷遇を蒙らねばならなかった。そして挙げ句の果てには教皇使節の許に讒訴までされるに至った。
 ノルベルトはそれに対し謙遜に弁明した。それから自分の所有物を売り、得た金を貧民に施し、身分や地位も一切捨ててちょうど教皇ジェラジオ2世が御逗留中の南フランスにあるプロバンスに行ったが、既にノルベルトの聖なる日常に就いて聞知されている教皇は快く彼を迎え、以後御許に引き留めておこうとされた。
 しかしノルベルトはその御好意に甘えはしなかった。彼は教皇に願って到るところで説教する許可を得、まずケルンへと志した彼は裸足で雪中を行き、菜食に甘んじ、しばしば徹夜して祈った。途中フランスのヴァランシアンヌまで来ると、たって望まれて一場の説教を試みたが、彼はフランス語をほんの少ししか知らぬに拘わらず、聴衆はいずれもよく彼の言わんとする所を悟り深い感動を受けた。これはちょうどエルサレムにおける聖霊降臨の日に使徒達の上に起こったと同じく、感ずべき聖霊の御奇特に相違ない。
 彼はそれからなおも行脚を続けようとした。けれども引き連れた3人の従者が死んだために、しばらくはそれも出来なかった。その内に若い一聖職者が彼の許に来て、是非にと同行を望んだ。で、ノルベルトはその人と共にカンブレの司教ブルカルドを訪れ、付近一帯で自由に説教する許可を得た。天主は彼等の活動に豊かな祝福を垂れ給い、その成果には極めて大いなるものがあった。さればラオンの司教バルテルミイは、教皇の推薦に従って、彼を自分の司教区に、礼を厚くして招聘した。
 ノルベルトはその請を容れ、司教よりプレモントレの谷にある一小聖堂を与えられた。彼はかねてから、日常の生活にも祈りと苦行とを織り込むのを目的とする修道会の創立を考えていたが、ある夜プレモントレで一群の白衣の修道者達が、手に手に十字架とたいまつをとを携えて過ぎゆく幻影を見た。彼はこれこそわが兄弟達、わが精神を受け継ぐ人々であると思った。
 それからしばらくして、1120年の1月25日、いよいよ彼の念願なるプレモントレ修道会が創立され、司教は彼に白衣を与えたが、それはその後長く同修道会の制服となった。
 彼は早速付近を廻って説教した。それに感じてしばらくの後彼の修道会には13人の修練者が出来た。それはいずれも既に司祭の位を受けた人達ばかりであった。ノルベルトは彼等に会の精神を伝え、特に総て御聖体の秘蹟に関係ある事物、従ってミサ聖祭その他あらゆる勤行に対し尊敬と信心を示す事を使命とした。
 彼が教会の用事でドイツのシュバイエルに行った時の事であった。彼は皇帝と教皇使節の懇望黙し難く、とうとうマグデブルグの大司教になる事を承諾した。その教区には改革すべき事、整理すべき事が山ほどあった。彼が任地に乗り込むと、大司教館の玄関番は、そのあまりにもみすぼらしい服装から、乞食と思い誤り、なかなか彼の館に入るを肯んじなかった。そればかりでない。新大司教に反感を有する者は、事ごとに反対妨害し、果ては彼を亡き者にしようとまでした。実際暴漢が太刀をひらめかして切ってかかった時、彼が危うく難を逃れて、かすり傷すら身におびなかったのは、奇蹟という外はない。しかし聖大司教の徳行と、柔和にして剛毅な心とは一歩一歩あらゆる障害を克服せずにはいなかった。
 1132年にノルベルトは、皇帝の戴冠式に参列すべくローマに赴いたが、はからずもそこで重病に罹り、4ヶ月は薬餌に親しまねばならなかった。それからようやくマグデブルグに帰り、なお2年の間職務を執っていたが、遂に1134年54歳で永眠した。

教訓

 ノルベルトは身近の落雷に主の御戒めを見た。人は誰でも一生の中に常ならぬ出来事に出逢うものである。そういう時我等もそこに主の御教訓を認めて、己をより善き者と為すべく努力せねばならぬ。