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📚読書備忘録📚
(自己評価★★★★★)+泣ける物語
たまに山ブログ
         

A

2016-02-22 | 311


朝日新聞特別報道部
『プロメテウスの罠8
 決して忘れない!原発事故の悲劇』★★★★

装丁の色が目を惹く。
中身も濃く今回はちょっとテイストがちがうように感じた。
何も知らない頃に比べて意識が変わったせい?
だからと言って何かを出来ているわけではないのだけれど。。

知らないことが多すぎる。

声を大にして言いたい。言いたくなる。
どうしてもっと発信されないのだろうと。


2014年8月6日 連載は1千回の節目を迎えた。

福島が、忘れられはいまいか。

心に刻む4年目である。



---



結局はおカネでしょ

「最終処分場の話は、最後は結局おカネでしょ?」

「受け入れてくれないとなったら、お宅にはその2倍払いましょう。それでも手を挙げてくれないんだったら5倍払いましょう。10倍払いましょう。どっかで国民が納得する答えが出てきますよ」



核燃サイクル路線をとって再処理工場を40年間動かすと19兆円のコストがかかる。工場建設費が予定の3倍に膨らんだことを考えると、核燃サイクルは総額で50兆円を超えるコストになるかもしれない――。



日本はすでに44トンのプルトニウムを国内外に持ち、それは長崎型原爆の5千発分以上に相当する。



すでに「アリ地獄」

「原発を動かすと、10万年ものあいだ放射線を出し続ける核のごみが出てくる・・・・・・だからこそ、(それを再処理して燃料に使う)『もんじゅ』は動かさなくてはならない。原子力ムラの飯の種を維持するため、『もんじゅ』が動くといい続けないと、原子力の神話が崩壊する」
核燃サイクルの柱である「もんじゅ」は、すでに霞ヶ関で「アリ地獄」といわれている。

「何の研究もせずに単に維持するだけで、毎年200億円が必要とされています。昭和55年以降、1兆円以上を投入しておきながら、何の成果もない。この費用対効果を国民に説明できるのでしょうか」



早期の帰還が難しい大熊、双葉、浪江、富岡の4町と、住民が戻り始めている広野町と川内村、帰還時期の検討をしている楢葉町では、復興のイメージがまちまちだ。同じ被災地でも事情が違いすぎた。



「わたしたちは原発の安全神話にどっぷりつかっていたために大変な目にあった。子どもたちには、自分の足で立ち、自分の頭で考える人間になってほしいのです」








宮内庁で両陛下の意向を直接聞く立場にいるのは二人だけだ。
一人は宮内庁長官。「オモテ」と呼ばれる事務方のトップだ。
もう一人は侍従長。「オク」と呼ばれる、両陛下の身の回りの世話する侍従長のトップである。



双葉町民が移ってきたばかりの校舎内をくまなく下見した。それをもとに天皇と皇后が歩く動線の案を決める。県内の立ち寄り場所や、到着・出発時刻の見通しなどをA4判1枚の図にまとめた。目的地の間を線で結んで予定時刻が書き込まれ、全体を横長の箱型の表に入るようにつくられた日程表は「ハコ日程」と呼ばれるものだ。



津波の避難誘導や堤防見回りをした消防団員ら二百数十人が亡くなったと話した。
両陛下は絶句して、目をうるませたようだった。



両陛下の地方訪問は、ものによっては1年以上前から日程が決まっている。宮内庁と警察、自治体や交通機関が打ち合わせ、分刻みで日程を決める。警察は他の車を排除し、信号を全部青にするのが通常だ。しかし東北3県は、沿岸警備に多数の警察官をさける状況ではない。
そこに宮内庁から「被災地に負担をかけないように」との両陛下の意向も伝わった。そこで、車で移動する距離をできるだけ短くし、沿岸警備の人手が少なくすむように、ヘリが着陸するグラウンドに隣接した避難所を訪問先とすることにした。



「陛下、日本人って捨てたものじゃないですね」



「両陛下は、放射線についてはとくに子どもたちへの影響を深く気にかけておられました」



「自分が行きたい場所よりも、相手が『ここへ来てほしい』と用意した場所へ行く。それが訪問先に対する誠意だ――というのが、これまでの陛下の基本姿勢でした」
しかし今度の大震災では、天皇側からの強い意向が働いた。被災地の訪問は、いずれも宮内庁側から打診して実現している。
地震や津波、原発や放射能の専門家や行政機関の長ら二十数人を次々と御所に呼んで説明を受け、予定時間を超えても質問を続けた。避難所で被災者に寄り添う姿は、事前の膨大な準備と努力に裏打ちされていたのだった。



「天皇は、災害もまた自分の責任と考えているのかもしれない。宮中祭祀で国民の平安を神に祈る熱心な姿と、災害地を訪れて被災者を直接に慰める姿は、表裏一体といえるのではないかと思います」



被災地で救援活動に携わった自衛隊員や警察、消防、自治体職員の多くが、両陛下から「ありがとう」と声をかけられている。

「被災した人々や全国民に代わって『ありがとう』とおっしゃったともいえる。いろいろなお気持ちが全体からにじみ出るようなものではないでしょうか」








「いわきは安全。気をしっかり持って生活してほしい」
「怖がることはない。これを伝えるために私たちがいわきを訪れた」
「いわき市民が踏みとどまることが、日本の安全安心につながる」



「飯館村は避難が必要な汚染レベル。福島第一原発では放射能が出続けており、汚染度の高い地域はチェルノブイリ級といっていいだろう」



「いくらもがいても、泣いても、原発から出てしまった放射能には勝てません。悔しさで胸が裂けそうな毎日を送っております」



「原発作業員でもない一般の住民が、線量計をぶら下げながら生活するなんて・・・・・・」
結局、カネを積んで住民を早く帰還させ、かたちばかりの復興を急ごうということじゃないのか――。



東京電力は「仕事をくれるお得意さん」だった。しかし今となっては、暮らしを奪った加害者でしかない。



「カネの問題じゃない。いのちの問題なんだ」

「阿武隈山系の地下水は軟水でおいしいんだ」
井戸は深さ10メートルほどもある。しかし時間がたつにつれ、山中の地表に沈着した放射性物質が地中深く染み込み、水が汚染されやしないか――。そんな不安をぬぐえない。



地域では「まるで人体実験」と計測を拒む住人も少なくない。
被爆線量は、個人線量計のほうが従来の空間線量による推計値より低く出る傾向にある。



政府は「復興加速化」というが、加速するのは過疎化じゃないか。








2014年3月18日(火)
福島県議会の平出孝朗議員が、原発立地・立地予定の14道県の道県議会議長でつくる
「原子力発電関係道県議会議長協議会」から脱退すると表明。
「他県の議長らは原発再稼動を前提にしている。同じ会に入っていることに違和感がある」と








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昨日歩いていてふと弟のことについて一つの結論が出た。
ざわめきはなくこころは静かだった。

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K

2016-02-20 | 角田光代


角田光代
『紙の月』★★★

以前たまたまドラマでみて原作が角田光代で気になっていた。
内容を知っていたにしても、読んでいていたたまれなくなった。
たとえ小説だとしても。
3日で読んだけど途中途中ストップをかけては読み進めた。
わたしにはない感覚



---



「私思うんだけど、何かするのだったら徹底的にするか、もしくはなんにもしないか、そのどちらかしかないわ。ちょっと手を出して、すぐそれをひっこめるっていうのが、いちばん人として正しくないことだと思う」








「美容院っていえばさ、その人の感じを見て雑誌を渡してくれるんだよね。少し前なら若い人向けの雑誌だったのに、最近、ゴシップばっかり載ってる週刊誌とかさ、インテリア雑誌とか料理雑誌を渡されちゃうんだよね、私」







不思議な気持ちになる。こんなに多くの女が買い物をしている。彼女たちはいったいどのくらい月給をもらっているのだろう?その買い物代金をどのように工面しているのだろう?







「こういう世界って、本当に現実にあるんだなあ」

「現実じゃないのかもね」

「それでもいいや」








「ここから出して」

「お願い」

「頼むから」
ここ、ってどこ。








「少し会えなくなるんだけど、あのね、私のこと全部忘れてほしいの。私と会ったことも、私と過ごしたことも」








過程は過去へ過去へと遡りながら無数に散らばっていくが、けれど、どの仮定を進んでも、自分が今この場にこうしているような気がしてならない。

何もかも放り出して逃げ出し、今また、さらに遠くへ逃げようとしている、逃げおおせることができると信じている私もまた、私自身なのだと。
いこう、この先へ。








「私をここから連れだしてください」



---




























ちょうどキャンセルが出てご近所の歯医者さんへ。
特に痛みはなく定期健診
「2年ぶりですね」って言われ驚き。
いつも毎年冬に行っている感覚だったのに。
それだけ時間が早く過ぎ去っているってこと?
成人してからの歯医者さんが好きですすんで行ってるけど。
やっぱり地元の歯医者さんが好きだった。
夏の午前中の冷えたちょっと薄暗い診察室の独特な香り
横になると見える何の遮りもないくっきりした青空
先生一人、受付兼助手一人でいつも静かだった。
なつかしいなぁ








「人生は複雑なの。今は」
またみちゃった(笑)

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S

2016-02-15 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
『街道をゆく 5モンゴル紀行』★★★

本書は1978年12月に刊行された朝日文庫の新装版
http://publications.asahi.com/kaidou/05/index.shtml


今回は通勤本にはならず、集中して週末読む2
やはりノモンハンのこともあり興味津々

ちょうどNHKで司馬遼太郎の思索紀行をみた。
「日本とは 日本人とは」

「武士の遺伝子」



ハバロフスク~イルクーツク~ウランバートル そしてゴビへ。



---



「歴史」というのは了ってしまえば馬鹿のようなものだ。当時の私は、自分が常時もぐりこんでいる中戦車の油くさい鉄の壁を通してしか、自分の運命を考えることができなかった。



ひまつぶしにこまると、人間というのはつい人間を見物してしまうらしい。泳いでいるひとびとを、岸辺でおおぜいの男女が見物している。その男女を私が見物してしまっている。



「モンゴル人民共和国の言葉は、ロシア語ですか」
「いいえ、モンゴル語です」







地上に降りてふりかえると、奈良の若草山のような感じの山が飛行場の一方を、風から防ぐようにして折りかさなっていた。われわれはその稜線越しに降りてきたのだが、ぜんたいとしてひどく物柔かな自然のように感ぜられた。肺がはずむような感じで空気のよさがわかった。このすばらしくいい空気をわずかな人口のモンゴル人が享受しているのかと思うと、幸福というのは一体何なのか。私は、東京で喘息で苦しんでる友人を思いだした。彼を連れてきてやればよかったと思ったが、しかし彼は喘息の発作のために何日か一度は死ぬような気分に襲われながらも、銀座裏の酒場を何軒かまわらなければ一晩も過ごせない男なのである。


コレって吉行さん!?
先日のエッセイの中で苦しんでいた。








私の小さな経験では、海辺という、単調な水平線を見て少年時代を送った人はわりあい故郷を恋しがらず、地形の複雑な山の中育ちの人ほど、年をとると故郷を恋しがるということのように思えるのだが、この法則?からすれば、いわば一望海のような大草原のなかで育ったモンゴル人の故郷感覚はどうなっているのだろう。このことは昔からふしぎに思っていた。








P195~218 








飛行機は去ったが、陽はなお、草遥かな西方の野に残っている。空は蒼穹とまではゆかなかったが、幸い風がつよく雲が時間とともに吹き払われつつあるようで、地には小さな例の香草が、花をつけた首を風の中で小きざみに振っている。何億という数の草が、ゆれているのである。
(ひょっとすると、凄い星空が見られるかもしれない)
と、遠ざかってゆく機影を見ながら、期待をもった。この星空への期待は出発前から楽しみにしたもので、あるいは子供のころからのものかもしれない。



唐の詩人は、モンゴルの草原や砂漠のことを沙場といったり、北庭といったりする。
「風は西極に連なりて動き、月は北庭を過ぎし寒し」
という杜甫の詩句を想い出した。



モンゴル人はとびきり客好きだし、とくに旅人が好きである。むかしからモンゴルの風習として、見知らぬ旅人が来れば何はともあれ食事を出してくれるし、泊めてもくれる。家族がぜんぶ包を出払って外出するときは、留守中に旅人がきた場合のことを考えて、ご馳走を台の上にならべておく、旅人はぬっと入ってきてそれらを飲み食いし、そのまま出て行っていい。これらの心遣いというのは草原の掟といってよく、いまも昔もこの遊牧社会をささえてきた精神要素のひとつなのである。血肉まで融けこんだこの習慣が、モンゴルにおいて社会主義を可能にした大きな要素といえるかもしれない。




























右目が腫れている。。


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Y

2016-02-13 | エッセイ、旅行記


吉行淳之介
『物書きのたしなみ』★

以前『酒場のたしなみ』続
しかし・・・時代年代のズレもあり後半は読み飛ばし。
昭和な時代
30年~50年代ってやはりピンとこない。




「手あたりしだいに読んでいって、これはとおもえる作品に行き当たったら、今度はその作家のものを初期の作品からずっと読んでゆけ」
私はこの言葉の前半だけ守って、濫読また濫読した。そして、「これは」とおもえる作品には、しばしば出会った。




























春がきたみたい。
外のあまりの暖かさに季節感がなくて温暖化?異常気象?
さてがんばるしかない。

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N-M

2016-02-08 | エッセイ、旅行記


中村うさぎ マツコ・デラックス 
『うさぎとマツコの往復書簡  全身ジレンマ』★★

最近見た中村うさぎの変貌に驚き。。
本当にこの方 波乱万丈(笑)

2010年『サンデー毎日』での掲載文庫版

まだ売れる前のマツコ



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マツコ たとえ今がどんな状況であれ、人生とは、己の下した選択に決して後悔しないこと。








マツコ 「アンタは何故、女装するの?女装ってアンタにとってどういう意味があるの?」
当時みたいに、食い下がるアンタから命からがら逃げるように、発狂してその場から立ち去るようなことはもうしませんが、残念ながら、2010年を迎えたアタシでも、未だその答えが出ることはなかったみたい。

    意味なんてない。本当にないの。本能の赴くまま。垂れ流しの自意識。








うさぎ  そう。いろんな事がわかってくるのは、確かに後になってから。でも、その最中にずっと考え続けていないと、後になっても何もわからないと思うのよ。時間が自然に結論に近づけず、同じ場所をグルグル回るだけで終わっちゃう。








マツコ 人生は神様との取引だね。アタシの神様は本当に意地が悪くて、大きな階段を上がる時は、いつも必ずもっと大きな代償を用意するのよ。もっと曝け出せ、もっと苦しめってね。

    「神様は、アタシの中にいる。アンタの中にいる。みんなの中にいる」








うさぎ 「私を理解して!」なんて外部に向かっていくら叫んでも、私が私を理解してないんじゃ、外部だって私を理解しようがないじゃない?



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結構前にTHEシンプルといえる物を持たない暮らしをしているブログになぜか辿りつき、
ぼーぜんと眺めたことがある。
家族4人(多分猫がいた)ホント無駄なものがなくて驚いた。

それから紀伊国屋で『ぼくたちに、もうモノは必要ない』を読み
・・・流行なの?と。

この同ブログでもご近所の人がそんな暮らしをしているのを拝見

そして先日知り合った人が「ミニマリストを目指してる」って。
!?!?!?
そう身近にも出現(笑)

わたしには無理だけど、
でも捨てたら買うを実行しているからモノは増えていない。
断捨離
特に靴がスゴイことになっていたけどかなり減った。
通勤には3足ローテーで事足りることを知った。

「100個 適当な物を持つより、10個のお気に入りを持ちたい」
そうありたいね。



また出逢ったカレはドイツ車・・・
みんな好きなんだね。

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M‐K

2016-02-07 | 大人計画


みうらじゅん 宮藤官九郎
『どうして人はキスをしたくなるんだろう?』★★★

お風呂読書してたら、
地震!?
湯船にどぶん きゃー しわしわ。。
最近また増えてきているような。

さて以前からながら読みしていたこの本
後半からがおもしろく ははは くだらない。



---



みうら 自分の親も喜ばせられない人は、周りの人たちも喜ばせられないでしょう。親ほど話が合わない恋人はいないですから。血はつながってるけど、趣味も考え方も何もかも違うでしょ。だからこそ、そんな人たちを喜ばせたときのうれしさったらないもんね。








みうら もし親が死んだら親友には絶対知らせるだろうし。そう思える人ってさ、実は数人しか浮かばないものなんだよね。だから親友って、ただ親しい友達じゃなくて親とまで友達だって意味じゃないのかねぇ。







みうら 中高年で突然自転車に乗り始める人って、健康のためとか言うけど実はそうじゃなくて最終試験で落っこちて、でも何かの上に“乗る”ってジャンルには参加していたいって思うらしいんだよね。
宮藤  なるほど、女も自転車もカテゴリーは一緒だっていう(笑)。
みうら 乗られることもあるけど(笑)。
宮藤  ちょっとお金に余裕がある人はヨットとかクルーザー方面に行ったりするんでしょうし(笑)。








みうら “楽しいらしい”が“自分らしい”ってね(笑)。








みうら 多くを望まない生活もそんなに悪いもんじゃないなって思うけどね。って言いながらさ、飲み屋で友達と「やり残したことない?」って話になると、やっぱりどうしても「極上のセックスかなぁ」ってことになっちゃうんだよね(笑)。








みうら 京都の“はんなり”な文化もそもそも“半勃ち”の意味だから(笑)。
宮藤  えっ、はんなりって“半なり”って書くんですか?初めて聞きました(笑)。
みうら 「半分勃ったはるぐらいがよろしおすえ」みたいなね(笑)だからある程度歳を取らないと、そのよさがわからない。







みうら 人生って“歯、目、マラ”の順番でガタがくるようになるんだって。俺、とっくに遠近両用ですよ(笑)あと、いよいよ耳も遠くなってきたみたいで。
宮藤  老人じゃないですか、それはもう(笑)。
みうら 老人です(笑)。家でテレビ見てると「音、でかいよ」って注意されたりするんだよね。
    もともと声もデカいほうなんだけど、それでも3割増しぐらいになってきてる気がする。



---








「人生は・・・複雑なの」



◆身体データ◆
体重55K(2K増量中)
骨量2.2
体脂肪率22.7(ベスト!)
水分量54.8
筋肉量35.4
基礎代謝1256Kcal

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S

2016-02-07 | 司馬遼太郎

 

司馬遼太郎
『街道をゆく
 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道 ほか』★★★

毎度通勤本になっている司馬遼太郎

本書は1978年11月に刊行された朝日文庫の新装版

http://publications.asahi.com/kaidou/04/index.shtml

 

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山伏というのは、僧ではなく在家の修験者である。

 

「ヤマブシとは、サムライのことではないか」
「そうではございません。山伏はブシではなく宗教者でございます。山野を駆けあるくためにあのような装束をしているのでございます。日本における修験道の歴史は古うございますが、山伏の装束があのようになったのは平安期の中ごろぐらいからだといわれております。なるほどあの装束を異様なものとして御覧になるのは無理からぬことでございますが、しかし兜巾と言い、不動袈裟といい、どれ一つとして宗教上の意味を持たぬものはございません。要するに日本古来の旅行服であるとともに、平和で哲学的な服装でもあります。決して戦争のためのものではございません」

 

真言密教は西洋でいう魔法である。東洋の場合、魔法が悪魔の側になくて体制の側にある。さらに西洋とちがっているのは、魔法が、真言密教という、思想を論理化したという点で完璧ともいうべき体系を背景にもっていることである。

 

大鳥居の前に車をとめると、陽が大原山のむこうに落ちているらしく、東のほうの野ばかりがあかるく、まわりは夕靄がこめはじめている。
参道には散り腐た紅葉があちこちに掃きかためられ、いかにもこのの社の晩秋の華やぎが果てて初冬の寂寥のなかにあるといった観である。
大野原神社は、都が奈良から長岡京に遷るとき、ともに新都に移らねばならない藤原氏が自分の一族の氏神として新都の西北角にあるこの山ふところに地を相し、春日様式でもって建てた。
社殿は小ぶりで、美しく朱装されている。境内の林と言い、池と言い、すべてが『古今』『新古今』の美学で造形化されていかにも王朝風であり、考えてみると奈良の春日神社といい、河内枚岡の元春日と言い、藤原氏の神社というのは総じて華やかなところに共通性があるようにおもえる。
社前から戻り、参道を大鳥居にむかって歩く右側の森に、
「花の寺に至る」
という小さな木の道標が据えられていた。その至る道というのは森の下草みちで、梢が日をさえぎって、緑の洞窟をゆくようなぐあいになっている。花の寺は割愛した。

 


織田信長は日本史上の人物でめずらしく世界感覚がいきいきしている。信長は極東の孤島の一隅でうまれた人間でありながら地球のかなたのイスパニア人やポルトガル人によっておこされた大航海時代という世界的な動向をいちはやく嗅ぎ知り、疑いもなくその潮流に乗った人物であった。

 

むかし満州(いまの東北)に渤海国という国があった。七一三年に興り、わずか二世紀余でほろんだ。

 

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今回読んでいて衝撃を受けたのは大量虐殺 それも日本で。
!!!
さすが司馬遼太郎、、
その昔水戸天狗党(合計三百五十三人)を江戸からきた幕府の田沼意尊という人物が越前敦賀にて大量処刑を行った。
実見した加賀藩士の赤井伝右衛門という人物が、田沼のやりかたのひどさに痛憤しながら記録している。
人間としての尊厳をまったく剥奪したという点で、日本の政治犯に対する刑罰史上これ以前には例がない。
この田沼 田沼意次の子孫とのこと。
知らない歴史がたくさんある。うむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『モンタナの風に抱かれて』
思えば馬が出てくる映画が好きらしい(笑)

 

メールをチェックする勇気がないいくじなしなわたし。じくじく。
たった一日だけの独り時間 結局は“誰か”とつながっている。
辛辣な意見をありがとう。

 


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K

2016-02-01 | 探検家




角幡唯介
『アグルーカの行方
 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』★★★★



旅行記でも特にこういった極地もの(記録しているのは『北極男』)
惹かれて手に取る傾向が多い。

新聞社で働いていたからなのか文才があって読ませる文章
フランクリン隊との考察も含め、なぞを解明していく経過も的確


一気にこの週末で読破
読みながら地図を見て一緒に辿るよう(暖かい部屋だけど。。)
何度も何度も島の名前と湾の名前入り江の名前を反芻しながら。
探検家によってちがうルートもあたまに入れながら。


引用文献で気になる本はやっぱり『世界最悪な旅』


---



アグルーカとは、イヌイットの言葉で「大股で歩く男」を意味する。
背が高く、果敢な性格の人物に付けられることが多かった。
かつて北極にやって来た探検家の何人かが、この名前で呼ばれた。



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おそらく極地というのはそういう場所なのだろう。生から死へ至る一連の過程が、あくまで地続きに、滞りなく起きてしまう。圧倒的に過酷な自然環境が、そこにいる人間に死を無意識のうちに受容させる場所なのだ。当時の極地探検家とは、おそらくそのことを半ば織り込み済みで極地に向かった、半分壊れた人たちだったに違いない。『世界最悪の旅』を読むことで、私はそうした『極地観』を抱くようになった。ナイーブだった当時の私にとって、死とはまだ生から遠く隔たった世界にあるものだった。だから極地のようなあたかも生と死が渾然一体となった場所に、
自分が行くことなど想像もできなかったのだ。



一番の目玉は何といってもサラダ油とゴマ、それにきな粉を加えた荻田特製のチョコレートだった。
リゾリュート湾を出発してからしばらくは、まだ体に余分な脂肪が残っていたせいか、私には規定量通りの食糧を食べるのがしんどいぐらいだった。それに荻田特製チョコレートは、私に言わせれば、あまりいい出来だとは思えなかった。一日の行動が終わり、テントの中に入ると、いつも行動食のジップロックの中にはチョコの塊が残っていた。寒さのせいでチョコレートというよりも煉瓦のブロックのように固くなり、無理して食べようとすると歯が折れるのではないかと少し怖くなるほどだった。荻田は北極に来る時は必ず、この固い物体を食べているのだという。
「そのうち疲れてくると、このチョコがうまくなるんだ」
荻田はことあるごとにそう言っていた。
「最後のほうはいつも、日本に帰ったらこのチョコをたくさん作って食いまくってやろうと思うんだよね。信じられないだろうけど」
私には彼の話が信じられなかった。たぶん彼とは味覚が合わないのだろう。もしかすると顎や歯の強さが違うのかもしれない。そもそも私はチョコが嫌いなのだ。最初のうちはそう思っていた。
しかし出発してからしばらく経つと、彼が言ったとおり、私にも確かにそのチョコがおいしく感じられるようになってきた。疲労が蓄積し、荻田の話が現実のものとなりつつあったのだ。そして驚くことに二週間も経つと、休憩の時にジップロックをあけて最初に食べるのは、このチョコになっていた。相変わらず固くて食べにくかったが、ビーバーのように前歯でがりがり削ると、何ともいえないとろりとした上質な甘みが口の中に広がった。そして出発してから二十日ぐらい経った頃だろうか、荻田が御信託を述べるように言った。
「ついにこのチョコが一番うまくなった。体が本当に消耗している証拠だ」



GPSが登場するまで極地探検や航海では六分儀などの航海計器が使用されていた。

極地を旅することの意義は自然の中に深く入り込むことである。自然にいたぶられ、その過酷さにおののき、人間の存在の小ささと生きることの自分なりの意味を知ることになる。しかし、GPSのこの便利さは、こうした極地における冒険の意義を失わせかねない。自然の条件と無関係に作動するGPSは、たとえ氷点下四十度の乱氷帯の真っ只中にいたとしても、多かれ少なかれ私たちを自然から切り離す。何よりも、厳しい自然の中を自分の力だけで旅をするという最も基本的な部分が侵されているような気にさせられる。



壊血病――。サイリアクスが犯人として指摘したこの病気は、十六世紀の大航海時代以降、外洋に乗り出す船乗りから最も、海賊よりも恐れられてきた病気だ。発病すると生気がなくなり、歯根のあたりまで歯肉が腐り、歯が今にも抜けそうになる。息からは悪臭が漂い、足がぐらつき、体中にあざができて放っておくと死亡する。感覚的な苦痛も生じるらしく、ハスの花の香りがもだえ苦しむ原因になったり、病気が進行した場合にはマスケット銃の銃声が致命的になったりするケースもあったという。
この恐ろしい病気が現代の私たちにあまり馴染みがないのは、新鮮な野菜や果物を摂取するか、あるいはビタミンCのタブレットを飲むだけで防げるという単純な理由によるだろう。しかし壊血病を引き起こすのがビタミンCの欠乏だと分かったのは二十世紀前半のことで、それまでは壊血病の発症が何に起因するのか、はっきりとは解明されていなかった。



「キングウィリアム島では一人旅をしないほうがいいよ。多くのイヌイットが仲間の肉を食べる白人の幽霊を見てきたからね」



結局、人間が不毛地帯を旅しようと考えたら、十九世紀のヴィクトリア朝の英国人も、二十一世紀のロスジェネ世代の日本人も同じようなことを考えるということが、私には面白かった。十九世紀の英国の探検隊など、私たちにとっては別の国の歴史の住人という遠い存在にすぎないが、しかしひとたび北極という共通の条件の中で絞り込まれると、そうした社会や時代の差異は一遍に無化され、同じ人間という共通項だけが浮かび上がってくる。北極を旅するというのはもしかするとそういうことなのかもしれないとも思った。



これは日本を出発する時点で決めていたことだが、ジョアヘブンから先では氷上区間で使用していた衛星携帯電話を置いていくことにした。フランクリン隊の生き残りは通信手段を持っていなかったから、というのがその理由で、彼らが見たものに近い風景を体験するためには、なるべく同じ状況に身を置いて旅をしなければならないという気持ちが私にはあった。

どうやって自然の奥に入るかが冒険の難しさなのだが、通信機器を持っていくと、どうしてもその「入り込み感」が弱まってしまう。もちろん持っていった方が安全なのだが、最悪の場合は救助を呼ぶことができるという担保を心の中に持ってしまうことが、自然の中に入り込むことを阻害する要因になってしまうのだ。

冒険の本来の姿は放浪である。この先、自分はいったいどうなるんだろう。そういう漠然とした、先行きが不透明なところにその魅力はある。そして未知の世界に挑む探検にこそ、そうした冒険性は最も色濃く反映される。システム化された世界、マニュアル化された枠組みの中で展開される行為は、どんな冒険的な意匠を凝らしていても、それは冒険ではない。



「この光景を見た人間は、もしかしたら有史以来、初めてかもしれないな」
荻田が立ち止まってつぶやいた。ずいぶんと感傷的なことを言うやつだなと私は思ったが、しかしその言葉は、私たちにとっては決して大げさというわけではなかった。イヌイットを含めても、夏の不毛地帯の奥深くに、これほど入り込んだ人間が過去にたくさんいたとは思えない。それだけ私たちは人間が足を踏み込まない環境の中を旅していた。少なくともそう思えるところにはいた。目の前に広がっているのは、地球が作り出した生のままの自然だった。私たちはそこに人間の住む場所から二十四日かかってやって来て、そこから出ていくのにも同じぐらいの日数を必要とするだろう。私たちがそこにいることを知っている人間は、この世に一人も存在しなかった。私にはそれが素晴らしいことのように思えた。だからこそ私はたちは目の前の風景と直結し、重なりあい、溶け込むことができていた。人間と接触した過去と、接触する未来が、時間的にも距離的にも遠く離れすぎていて、現在の自分からは想像もできないという、まさにそのことによってもたらされる隔絶感の中で私たちの旅は続けられていたのだ。
もしかしたら自由とはそういうものなのかもしれなかった。
私はアグルーカと呼ばれた男のことに思いを馳せた。もし彼らが不毛地帯に向かったという話が本当なら、その拒絶感は私たちが感じたそれよりもはるかに強いものだったにちがいない。何しろ彼らには過去の記録どころか、地図すら一切なかった。不毛地帯を横断した探検家はまだいなかったのだ。
地図がない世界を旅していた人たちを私は純粋に尊敬する。地図がなければ、その先の地形の状態が分からず、先の見通しが立たない。大きな川に行く手を阻まれるかもしれないし、知られざる湾がそこに立ちはだかっているかもしれない。それは今という時間が未来から分断された世界を旅するということに他ならないのだ。土地が未踏であるということは、彼らの隔絶感をさらに高め、旅を不安なものにしていた。しかしだからこそ、いっそう魅力的なものに変えていたともいえる。
だから私は思うのだ。アグルーカと呼ばれた男が本当にいたのなら、彼の目に映った光景は、私たちが見ているものよりも、はるかに美しいものだったにちがいないと。



川で水遊びする鳥の鳴き声が遠くまで響きわたった。鳥が水と戯れる音以外は何も聞こえなかった。風と水の流れがなければ北極の荒野からはまったく音が消えてしまう。恐ろしく静寂で澄み切った世界だった。



「ベイカー湖の近くで写真を撮ったらヘリコプターが写っていたの。何かなと思ったら、ヘリじゃなく蚊だったわ」



「探検にはそれ自体に価値がある」



彼らは北極の自然に囚われていた。

北極の氷と荒野には人を魅せるものがある。一度魅せられると人はそこから中々逃れられない。それまでふらふらろ漂流していた自己の生は、北極の荒野を旅することで、初めてバシッと鋲でも打たれたみたいに、この世における居場所を与えられる。それは他では得ることのできない稀な体験だ。だから彼らは何度も行って、顔に凍傷を作り、飢餓に苦しみ、壊血病にかかり、ひもじい思いをして帰って来た。そしてまた行く。誰かに言われたからではなく、自分で行きたくて行くのだ。
探検とはそういうものなのだろうが、たぶんフランクリン隊はちょっと先まで行こうとし過ぎたのだ。まだ時代はそこまで許していなかったのに、彼らはそれより先に行こうとした。それで結局失敗した。しかし彼らは死ぬために行ったのではなかった。だから生きて帰ってこようととした。アグルーカの物語は、その最後に生きて帰ってこようとした人間の象徴的な後ろ姿であるように、私には思えた。
アグルーカは最後に不毛地帯のどこかに消えた。私が見たかったのは彼らが消えたその風景だった。今でも思うことがある。私にはそれを見ることができたのだろうかと。



人跡の稀な場所から人里に向かって旅をする時、そこが風の吹き荒ぶ荒野であろうと、緑の濃い不快な密林であろうと、どんな場所であれ最初に現れるのは必ず道である。

だから私はいつも道を見た時に、自然の中から人間の住む場所に戻ってきたことを知り、旅はついに終わったのだという感慨をいだく。


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