母が退院しました。

2022年12月17日 22時55分55秒 | 医療、病気

 今朝は母を迎えに行く10時前くらいから小雨が降り始めました。

明日はもっと寒くなり南部の岡山市でも積雪2cmかもしれないそうです。

 

 

 

 今朝の果物

病院に行く途中でスーパーに寄りました。

この大きなゆず

確か298円でした。

冬至が近いですものね。

ゆずは魔女姉さま宅に行かせて頂いた時に、頂いたのを取ってあります

 

 今日は土曜日でしたので、病院の表玄関は閉まり、出入りは休日夜間の入り口でした。

「そこで車椅子を借りて4階に上がって来て下さい」と言われていました。

今日はボランティアさんもいませんし、一人で何とかしないといけませんでしたが、母の様子から一人でも大丈夫だと思っていました。

 4階のここで待っていますと母が来ました。

又、一瞬私が誰かわからなかったようです

 

ナースステーションの前が談話室

 

ナースステーションを中心に四方に病室があります。



 

4階は全部整形外科ですが、グリーン病棟とオレンジ病棟があります。

何に寄って分かれているのかは不明です。

父がこの病院で亡くなった時はまだ古かったですが、今は綺麗で明るくなりました。

 


 退院前に多くの書類にサインが必要でした。

それを済ませると、荷物が多かったので看護師さんが車まで車椅子を押して来て下さいました。

看護師さんが、普通この年代なら、まず家や施設に帰る為にリハビリテーション病院へ転院すると言われました。

でも、母の場合は歩けているからと。

 家にはちょうど11時に家に到着すると、クリニックの看護師さんが待っていて下さいました。

あまりにも早い退院で、本当に大丈夫なのかと心配されていましたが、母の歩きぶりを見られ安心されました。

月曜日から行くショートステイ先はまだとても心配をしていて、2人で迎えに行かないといけないと思っているようです。

 今日の母は家に帰ってやっと気分的に落ち着いたようです。

眠かったようで、メイバランスだけ飲んで食べないで寝ました。

夕食はすき焼きやお寿司を食べました。

そして、みかんや柿も。

すでに眠そうでしたが、誤嚥性肺炎になると怖いので少し起こしていました。

 

 

 

 

 

 

★致知一日一言 【今日の言葉】

 

不可能を可能にする方程式

 

私がこれまで不可能を
可能にすることができたのは、
常に何が本質なのかを見抜いて、
やるべきことを一つひとつ
解決してきたからでした。
そうすると、世の中の常識のほうが
変わっていくんです

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鈴木敏文(セブン&アイホールディングス名誉顧問)
月刊『致知』より
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★致知出版社の「ご縁メール」 

 

≪【父の一念】ドライブレコーダーはこうして生まれた≫
 

いまや国内がに広く普及するに至った
「ドライブレコーダー」。

事故の真相を知る上で、
動かぬ証拠を残してくれます。

ところで、このドライブレコーダーが
どのように誕生したかについては、
ほとんど知られていないのではないでしょうか。

インタビューにご登場いただいた
片瀬邦博さんは東芝の元技術者でしたが、
開発の発端は悲しい出来事によるものでした。

そこで本日は最新号の記事から、
片瀬さんの足跡の一端をご紹介します。


取材の様子はこちらから
─────────────────

いまから28年前、1994年8月3日夜のことですが、
ミニバイクに乗っていた長男・啓章が
横浜市の交差点でダンプカーに追突されて亡くなったんです。

19歳の息子はその夜、塾に通っていましてね。

普通であれば10時半頃には
帰ってきていいはずなのに、何の連絡もない。

11時半くらいでしたか、
磯子警察署の女性の方からお電話がありました。

まさか事故とは思いませんから、
「啓章が違反でもやりましたか」が私の第一声でした。

相手の女性の声が一瞬詰まって
「いや、お亡くなりになりました」と。

それからは頭が真っ白になって、
どうやって磯子署まで車を運転したかも覚えていません。

息子の死因はダンプカーに追突された後、
タイヤに巻き込まれたことによる顔面挫滅。

事故が起きたのが10時21分だったことが
壊れた腕時計から分かりました。


(中略)


──事故の真相を明らかにしたいという一念が、
  ドライブレコーダー開発へと繋がっていくのですね。

事故からしばらくして知人を介して
保険会社の顧問弁護士と知り合い、
民事裁判を起こすことになりました。

専門家に事故の工学鑑定を依頼しようという話になり、
そこで出会ったのが日本交通事故鑑識研究所代表の
大慈彌雅弘さんでした。

大慈彌さんはそれまで4,000件を超える
交通事故鑑定を務めた第一人者でした。

そして、民事裁判の打ち合わせの時に
大慈彌さんがこうおっしゃったんです。

「実は最近、工学鑑定を真面目にやっても
 裁判官が取り上げてくれない。
 これは画像で証拠を残すしかないんじゃないかと
 思って大手メーカーに声を掛けたけれども、
 なかなか動いてもらえないんです」と。

私はその話を聞きながら、目撃者捜しの現場で
「誰か偶然、ビデオを撮っていてくれないだろうか」
と何度か考えたことを思い出したんですね。

街頭に立っていたある日、
私はたまたま接触事故の現場を目撃しまして、
その様子がすべてスローモーションのように
はっきりと目に映ったのですが、
しっかり注視していない限り、記憶は曖昧になりがちです。


大慈彌さんに「いや、実は私も同じことを考えていました」と伝え
「じゃあ、一緒にやりましょうか」となったのが開発のスタートです。

これが事故から5年後、1999年の話です。

コメント (12)
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