死にたくもなし生きたくもなし

2022年01月17日 22時52分00秒 | 介護

 ここのところ、母は血圧が高いことが多かったですのですが、今朝も198もありました。

(降圧剤を飲んでいますが、乱高下で下がった時に意識不明になりますので緩めです)

そのせいもあり元気がなくて・・・

言葉数も少ないどころかしゃべらないし、元気が全くありませんでした。

おまけに食欲もなく食べません。

「食べるとしんどくなる。このまま食べずに死なないといけない」とまで言い出しました。

ショートステイに行きたくないのだろうなと思い聞いて見ると大きく頷きました。

それでも、施設に行かないで長く家で生活する為には行ってもらわないといけないことを話しました。

母が居ますとやはり私は睡眠不足にもなりますし、ずーっと一人で世話をし続けることは不可能。

それでも考えないことはありません。

ショートをやめて、ヘルパーさんに毎日何回が来てもらってしのいでいくとか。

最終手段です。

母はあんまりしんどいせいか、「死にたくはないけれど、生きていたくもない」と言いました。

話を聞いてみると、生きていたくないのは苦しいから。

死にたくないのは死ぬのがやはり怖いから。

特に母は死んだら無だと思っています。

そこで、私が多分こうだろうと思っていることを又、話しました。

母は「信じられない」と言いました。

「信じようと信じまいと、魂は不滅で、あの世があることに間違いはない」と私。

そして、皆が迎えに来てくれるし、又、一緒に役割を替えて生まれ変わってくる云々。

懐かしい故郷に還るだけだとも。

かつて、私の真剣な求道のきっかけとなった母の父、つまり私の祖父の死に方を私は思い出していました。

あの時は幼くて何も出来ませんでしたし、私はあのような死に方はしたくないと思いました。

自分の為にも周りの人の為にも。

(ブログのどこかに書いていますし、又、機会があれば書きますが)

旧約聖書の中に「年を取って砂を噛むような思いをしたくないなら、あなたの若き日にあなたの造り主を覚えよ」という言葉があります。

今、ネットで調べたら今の正式な訳は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」(伝道の書 12章1節)のようです。

私の忘れられない言葉です。

サムシンググレイト、アラー、アメノミナカヌシ様、言葉では何でもいいですし、神でなくても、自分なりの確固たる信念でもいいと思います。

母はそういうことを探求してきませんでした。

母の時代はそういう時代だったのかも知れません。

私もまだ求道中で確固たる体験があるわけでもありませんので、母にとやかく言う立場ではありませんが、とにかく母の心が平安であってくれたらと切に願っています。

もしかしたら、これが私の使命かもしれないとふと今朝思いました。

母の最期の日々を平和な気持ちにさせてあげること。

私の求めて求めてきたことを母が信じる信じないは別として分かち合うこと。

母に以前はひ孫のJの成長が一番楽しみだと言っていましたので、今はそれは楽しみではないのかと聞いてみましたが、無言。

何でもいいから何か楽しみを考えてみてと言いました。

もったいないばかり言わないで素敵なセーターが欲しいでもいいし、ウナギが食べたいでもいい。

小さな楽しみを見つけて行こうよ。

毎日、ショート先に会いに来てほしいなら毎日行くからとも言いました。

母の為に何でもしようと考えました。

すでにしていることもありますが、まだまだあるはず。

早速一つ実行しました。

また、新しい年になりましたので、ご挨拶も兼ねて私の恩師でもあり母の洗礼の時の代母でもあるシスターに強力な祈りを続けてお願いする電話をかけようと思ったりもしています。

今、ちょうど岡山勤務になっておられる父のお葬式に時にもとてもお世話になった神父様に来て頂くとか、ホスピス時代に患者さんのそばによく座って話を聞いていたYさんにSOSを出すとか、臨床心理士のKちゃんに話を聞いてもらうとか。。。

あれこれ、あれこれ考えています。

 母は1時間かかって、レーズンバターロール半分(やわらかいレーズンパンがあると言っていましたがどれのことかな 木曜日までに探してみよう)、ミロ、フルーツを食べました。

 

 

 今朝の果物

(母は今日はもう少し少なめ)

9時にお迎えに来て下さって、母は手は振ってくれましたが無言で出かけました。

その後はいつもの如く、大洗濯にお掃除。

今日は寒かったですが、陽が射し風が強かったので気持ちよく乾きました。

有難いです

 

 

 

 ブログを読ませて頂いているJFKさんが少し前に紹介なさっていて、興味深く思って注文した本がやっと届きました。

私は単行本を買ったつもりでしたが、文庫本でした。

 

 

 

 あっという間にお昼が過ぎて、母の残り物を食べてちょっとお散歩へ。

時刻は3時過ぎ。

 

 

最初は風が強くて寒く感じましたので一枚余分に着て行きましたが、すぐに暑くなって脱ぎました。

 

我が家の畑

 

 

 夕方、母から電話がありました。

第一声、明るい声で「今日は調子が良かったんよ」

私は一日心配していましたが、良かった、良かった

 

 

 

 

 昨年の昨日の記事にこの曲を紹介していました。

あなたが好きで   森山良子

 

 

 

 

 今日の歌

魂の 深き慟哭 語る母 死にたくもなし 生きたくもなし

悟れずに 何をか言えん 悲しみに 深く沈みし 母の心に

今生で 親子となりて 母と生く この日の為に われ側におり

 

 

 

 

★致知一日一言 【今日の言葉】

 

「思考<行動」が成功の第一原則

頭を働かせているだけでなく、
行動が伴って初めて
真理を会得することができる

━━━━━━━━━━
田口佳史(東洋思想研究家)
━━━━━━━━━━

 

 

 

★致知出版社の「ご縁メール」

≪人間を進歩させ、深める読書法≫


創刊43年の歴史において、
いまも私たちに様々な気づきとを
与えて下さっている森信三先生。

現在開催中の「お年玉キャンペーン」の
特典書籍『人間学入門』では、
その森先生が初期に登場された号の
記事が掲載されています。

人間学の真髄を極められたと言っても
過言ではない森先生の言葉の数々は、
いまを生きる私たちの指針となる
言霊で溢れています。

そこで本日は、特典書籍に掲載されている
インタビュー記事の一部をご紹介します。

読書とはなにか、そして「言葉」が命となって
人間に宿るとはどういうことかを、
端的にお話しくださっています。


      ──────


──読書といえば、先生は「生命の弾力は、読書を介して
  その固定化を防ぎ得べし。故に人は読書を怠らば、
  心の大根にすが入り初めしものと思うべし」
  と言ってますね。

真の読書というものは、いわばその人が
これまで経験してきた人生体験の内容と、
その意味の照らし出し統一する
「光」といってもよいでしょう。

だから、せっかく、深刻な人生経験をした人でも、
もしその人が平生読書をしない人の場合には、
その人生経験の意味を十分に
噛み締めることができないわけです。

──あぁ、言葉に出合わなければね。

読書の中心は結局「自分」というものを
常に内省できる人間になるということでしょう。

だから、私たちは平生読書を怠らぬことによって、
常に自己に対する内観を深め、
それによって真の正しい実践の
できる人間になることが、何より肝要です。

言い換えれば、読書、内観、そして実践という
3段階は我われ人間が進歩し、
深められていくプロセスといってもよい。

──そうして人間を深めていくことで、
  いままで気がつかなかった言葉に
  はっと目覚めるようになる。

そうです。それは叡智というか、
知恵を身につける道でもある。

結局、我われが知恵を身につけるには、
優れた人生の師の言葉を傾聴すると同時に、
できるだけ人生の知恵を含んだ
生きた書物に接するほかないわけです。

しかし、結局は自分自らの人生の苦学というか
逆境の試練によって、「血税」ともいうべき授業料を納め
「世の中」という生きた学校において、
体をしぼって、身につけるほかないということです。

──体をしぼって。

そうです。本でも、単に才能だけではない。

自殺寸前というギリギリの逆境を突破して
みごとに生き抜いた人のもののほうが、
はるかに深く心を打つ。

その辺に、言葉が命となる秘訣があると
言えるんじゃないでしょうか。

 

 

 


★エドガー・ケイシー

 

今日(1月17日)の珠玉のリーディングをお届けします。


怒っていたり、腹を立てていたり、癇癪をおこしていたり、思い悩んでいたりするときは、飲食をしてはなりません。

When the body is wroth, mad, or out of temper, or worried - leave food or drink from the system.

(4124-1)

コメント (8)
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