疲れたり切なくなったり

2021年04月23日 22時35分25秒 | 介護

 いつものように5時頃目が覚め、瞑想をして、6時に母に「起床前の薬」を飲ませるために下へ降りました。

その後、少しお散歩をしようと考えていましたら、母はすでに目覚めていて、しんどそう。

すぐにバイタルチェック。

母は「死にそう」だと言いました。

血圧・187/105 

SpO2・99%

脈・77

頭を上げて寝させて「SpO2はいいから大丈夫」と言いましたが、しんどいんですよね。。。

 私はその後、朝食の準備をしました。

母に「食べる」と尋ねると

「うん」

  

今日もパンがいいと言いましたのでトースト(ブルーベリージャム)、ミロ、目玉焼き、サラダ、フルーツサラダ(3分の1残す)を作りますとほぼ完食。

食欲があるので安心です。

 ところで、熊本産のものはこの「くまもん」ですぐにわかるのがいいですね。

岡山も「桃太郎」で作ったらいいのにと思います

ゴミ出しついでに公園1周。

朝の空気でエネルギーチャージ。

 

 

 

 

教会のお花

 

 

 

ご近所のこのアパートは出来上がったようで、ここのところ特に何も動きがありません。

 

我が家

ふと見るとニオイバンマツリが咲いていました。

 

 

芍薬の蕾は7~8個。

まだ固いです。

 

カシワバアジサイも今年は早く咲きそうです。

「ジュリア」の次はどちらかの赤いバラ

 

シランもいつの間にか咲いていました。

 

 9時から、訪問看護ステーションの看護師さんが来て下さいました。

今の小多機から別の小多機に早い時期に変われるだろうと考えていらしたので今まで言われなかったそうですが、先日、今の小多機になぜ朝夕の訪問時におむつ交換だけ(後におむつ交換か20分間、別のことをするに変更)なのか聞かれたところ、「そういう契約です」と小多機が言われたようです。

そこで、今日、「契約書を見せて」と言われました。

そこには朝夕の訪問時間は30分間ずつと記載されていてびっくり

看護師さんは契約書を持って帰られました。

その後、ソーシャルワーカーのYさんから電話がありました。

前の小多機も含めて電話をして下さったようですが、なかなかないようです。

前の小多機はやはりショートは1泊出来るかどうか、またYさんも知らなかったそうですが、母の病状がいつ急変するかわからない為スタッフの緊張度が高く、今後責任を持って預かることが難しいと言われたそうです。

決してダメとは言われなかったそうですが、そんなに恐れているとは気が付かなかったとYさん。

 

 

 

 お昼前、ゆうちょへ往復10分、お出かけ。

アヤメが美しく咲いていました。

 

 

今日は最後のキャベツを収穫し、お昼にキャベツの卵とじにして食べました。

 

イチゴが1つだけ赤くなっていましたので、母に同じく昼食の時に出したところ、「甘いわぁ~」

 

今日の昼食は明太子パスタ、から揚げ、ブロッコリーの胡麻和え、キャベツの卵とじ。

食後にコーヒーゼリー。

母は完食。

 

 

母のおやつはコーヒーと六花亭のビスケット。(午前、午後ともビスケットを食べました)

 

 

 2時45分、訪問歯科医が来て下さいました。

今日は4人。

歯の型を取りました。

 

 

 

 

 

もう一人の女性のスタッフの方も初めて見ると言われていました。

ここの歯科はドクターの数11人+非常勤7人。

すべてのスタッフを入れると総勢90人だそうです。

外来と訪問と小児歯科があるそうです。

多分、岡山一大きな歯科医院ではないかと思います。

 

 

 それから、4時からは訪問リハ。

マッサージが気持ち良かったようで、体調も少し復調してきました。

その後はお薬を半分飲んだのでそれが効いてきたこともあって、今度は動き回り始めました。

当然早くは動けないのですが、ふらふらしながらまるで綱渡りのよう。

いくら言っても言うことを聞いてくれません。

夕方、お花に水やりをする為、食べていたら大丈夫かと思い、よくよく言って聞かせて水やりをして戻ると台所に立っていました

 その後も、「今夜は映画でも観ようか」と言いましたので、好きそうなものを探しましたが、結局、以前のようには集中して観ることも興味が湧くこともなさそうで、きょろきょろ、ごそごそ。

危ないからと何度言ってもわからないようで、何が疲れるかと言って、人が入れ代わり立ち代わり来ることではなく、母から目が離せず、何度も繰り返し言い続けなくてはならないこと。

これはとっても疲れます。

最後にはしんどくなります。

これが続くと「もう一人で看ることは無理」のように思いますが、やはり、可能な限りは家でと実際は思っている自分がいます。

「親の心子知らず」ではなく「子の心親知らず」です

はぁ~

今朝、看護師さんに朝の様子をご報告した時「冷静ね」とぽんぽんと肩を叩かれました。

その後、母に「娘さんがよくしてくれるからいいわねえ。」

でも、母は開口一番、「もう施設に行かないといけない時が来たかも」みたいなことを言いました。

 と思わず振り返りました。

母曰く、「お尻が持ち上がらず自分で動けない」

看護師さんがおっしゃるには「しっかりされているからお手洗いとかに行けなくなるのが辛いのではないか」とおっしゃっていました。

母は今朝、しんどいのにポータブルを使ったようです。

バイタルチェックの時に新聞紙に包んだおしめが置いてありました。

その後、今度は便意を感じ、お手洗いに行きたがりましたが、しんどくて動けない状態。

それでも、しばらくして少し落ち着いて来て再びポータブルに行きたがりましたので介助し、拭いたりおむつをはかせたりして何とかベッドに戻りました。

何だか切なくなります。。。

今日、北マケドニアの英語の先生に(レッスンも今日はまともに出来ませんでした)、親を介護することで自分が年を取ることをどのようにイメージしているかと聞かれました。

先生も今、介護中ですから最近はフリートークでこのような話や卒婚やそのような話をよくしています。

お互いに一番ハードな時期を過ごしていますので、共感し合ったり祈り合ってがんばっています。

この25分間で気分が明るくなることもよくあり、助けられています。

そんなこんなで、疲れてため息が出たり、切なくて涙が出そうになったりの一日でした。

生きるって、老いていくって本当にしんどくて大変なことです。

 

 

 

 

★致知一日一言  【今日の言葉】

 

(4月23日)

トンビでもタカの子育てを
真似てやればタカになる。
決して限界をつくらない

――――――――――
池江美由紀
(EQWELチャイルドアカデミー本八幡教室代表)

池江璃花子選手の母の子育て法

…………………………………………………………

初めての子を妊娠した時、
「カエルの子はカエルじゃないんだな」
と思ったんです。

カエルだと思ってカエルの子育てをするから
カエルになるのであって、
私のようないわゆるトンビでも
タカの子育てを真似てやればタカになるんだな、
とたくさんの本から学びました。

それ以来、常に子どもに対して
ポジティブな言葉を掛けていきました。

「あなただったら、できるよ」

「あなたの中にはもっともっと可能性があるんだよ。
もっともっと天井は高いし、天井の上には空があり、
さらに宇宙がある」

と言って、決して限界をつくらない。

私は、生徒さんのお母さんに対しても
「女優にならなきゃいけないのよ」って言うんです。

いくら実際の生活ではダメな部分があっても、
子どもの前ではやっぱりそれを見せてはいけない。

たとえ

「おまえはこうだったくせに、
 よく子どもにそんなこと言えるな」

ってご主人に言われたとしても、
親という仕事をしているからには
子どもがちゃんとした人間になるよう教えるべきだと。

私自身、善いことも悪いことも
ゼロ歳の時からしっかり教えて、
ある程度の年になったら親がいなくても、
自分で判断して乗り越えていける人に
育ってほしいという思いでやってきました。

幼少期の子どもは本当に
暗示にかかりやすいんですよね。

親の言葉や行動をすべて吸収して
自分の性格をつくっていくわけですから、
親が常にポジティブな言葉を掛け、
ポジティブな行動をしていれば、
そういう子どもになっていく。

反対に、常にネガティブな言葉を掛け、
ネガティブな行動をしていれば、
子どもの自己肯定感は育っていきません。

どのお母さんも子どもをよくしたいと
思っているんですけど、
ついついマイナスな言葉を使ってしまっているんです。

子どもが横にいるのに、
「先生、うちの子、落ち着きがないんです」って。

私は「お母さん、まずそこから直さなきゃ」
と言うんです。

親のその言葉を聞いた子どもは
「ああ、自分は落ち着きのない人間なんだな」
と思い込んでしまう。

「そういうマイナスな言葉は
 絶対に本人の前で言わないでください」
って指導していますね。

親の一言一句が我が子の人間形成に
大きな影響を与えるということを
ぜひ分かっていただきたいです。

 

 

 


★エドガー・ケイシー    珠玉のリーディング

 

(4月23日)

毎日、あなたが何か言うことで、少なくとも3人の人を心から笑わせなさい!
At least make three people each day laugh heartily, by something the body says!
(798-1)

 

 

 

 

★バラ十字会 メールマガジン (毎週金曜日)

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。


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画像入りのブログでこの記事を読むことができます(下記のリンクをクリックしてください)。

http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M787646&c=3304&d=ed84

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東京板橋では、ツツジ、バラなどの花が咲いています。

昨日、今日と良い天気で、半袖のシャツではまだ少し寒いですが、初夏が近いことが感じられます。


いかがお過ごしでしょうか。



当会のフランス代表が自身の人気のブログで公開した『知を求める人たちへの公開書簡』の最終回をお届けします。


前回と前々回の記事はこちらで読むことができます。

「知識を求める人たちへの公開書簡」(その1)

http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M787647&c=3304&d=ed84


「知を求める人たちへの公開書簡」(その2)

http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M787648&c=3304&d=ed84



話のつながりの都合上、前回の文章の一部を再掲載しています。

どうぞ、お楽しみください。

▽ ▽ ▽

記事:「知を求める人たちへの公開書簡」(その3、最終回)

セルジュ・トゥーサン、バラ十字会AMORCフランス語圏本部代

(ここから再掲載)「知」とは何なのでしょうか。

大まかに言えば、それは、観察と研究を通して人間が手に入れる知識(savoirs)とノウハウ(savoir-faire)です。


ですから知は、産業技術、科学、医学、心理学、歴史、地理、文学、哲学など広い分野に関わります。

実際のところ、世界には限りなく多くの種類の知があり、それらを学びたい理解したいと望むことは、人間にある偉大な性質です。



先ほど述べたように、人間は地球上に出現したときから、世界、自然界、自分自身の神秘について知ろうと常に努力を続けてきました


そしてこの探究から、さまざまな信念と多種多様な知が生じ、今日ではその数は、まるで天上に輝く星ほど多くなりました。(ここまで再掲載)



それでは、誤った知というものがあるでしょうか。

私はそうは思いません。

というのも、誤った知とは実際のところ誤った信念だからです。


一方で、いかなる知も、肯定的にも否定的にも、建設的な目的のためにも否定的な目的のためにも用いることができます。



たとえば、空が飛べるようにするために行われたあらゆる研究と技術開発によって飛行機が作られましたが、それは人をある国から別の国に運ぶために使うこともできますし、市街地に爆弾を投下するために使うこともできます。


まったく別の例ですが、民法についての詳細な知識を用いて、人や社会に損害を与える悪辣な人たちがいます。



知識とノウハウからなる「知」を所有していることは、その人が道徳的に高潔であることを意味しません。

なぜなら知は、善いことを行うためにも悪いことを行うためにも用いることができるからです。


信念は、信仰という形で宗教と深く関連していますが、知の多くは科学と関連しています。

科学は「信じるのではなく調べよ」という指針を採用しています。



科学の取り組みは、自分たちが研究しているものを理解し、可能な限りそこに働いている法則、原理、理論、原則を突き止めたいという望みに基づいています。


そうするために科学者は、取り組む分野によって異なるさまざまな手法を用います。

観察、抽象化、推定、分析、総合、演繹、帰納、実験、モデル化などです。



さらに付け加えるとすれば、科学者は既知のものから始めて未知のものを理解しようとする、つまり、形あるものから始めて形なきものへ、可視のものから始めて不可視のものへ進もうとすると言うことができます。


このやり方が、有名なエメラルド・タブレットに書かれている「下にあるすべてのものは、上にあるものに似ている」という言葉に沿っていることは、とても印象的なことです。



明らかに、知への科学の貢献は計り知れないほど大きなものです。

科学がなければ、人類はいまだに原始的な生活を続け、互いに異なるさまざまな信念からなる迷宮をさまよい歩いていたことでしょう


しかし、科学は完全ではなく真実を所有しているわけでもありません。

さらに、科学には主に2つの欠点があります。


第一の欠点は、科学の大部分が、ものごとの「どのようにして」(how)にだけ関心があり、「なぜ」(why)に無関心だということです。

第二の欠点は、科学は思考を重視するあまり、直観を軽視することです。


そのため科学には、どちらかというと物質主義的(唯物論的)な傾向があり、それが一因となり、現代社会にも同じ傾向があります。



しかし最近では、観念論や神秘学(神秘哲学:mysticism)の取り組みを採用する科学者が現れていることが見受けられます


これらの人たちの一部は、神という言葉までは使わないとしても、世界には少なくとも普遍的な知性が働いていると考えることをためらいません。


この動向を私はとても喜ばしく思っています。

科学と神秘学には、知に貢献するために世界を理解したいという共通の動機があるからです。



しかし、科学的な知よりも高度な知があります。

それは、「普遍的な知」(Connaissance)と呼ぶことができるものです。

絶対的な意味で言えば、それは自然界、宇宙、精神の世界に働いている崇高な法則を理解することです。


そのような法則を研究したり学習したりするということは、たとえばバラ十字会員の多くが、自分たちに伝えられてきた知識を用いて行っている作業です。


広く言えば、普遍的な知に近づこうとすることは、さまざまな神秘家が行っている探求の一部であり、この探求には、人間の幸せに寄与する肯定的な側面だけが含まれます。



さらに、この探求が主に働きかける対象は、人間の表面的な知性ではなく深層意識です。


ですから、神秘家の探求は、現在の人生という範囲に限られる知性を育むことを目的にしているのではなく、ソウル(ame:魂)と自己との一体性をもたらすことが目的です。


ソウルは不滅であり、精神的な進歩に役立つ記憶を保持しており、その記憶は、現在の人生でも今後の人生でも有益だと言うことができます。



ご存知かもしれませんが、「知る」(connaitre)という言葉は、「一緒に」を意味する「co」と「生まれる」を意味する「noscere」からなります。

ですから語源的には、「知る」ということは「それとともに生まれる」ということを意味します。


このことは、すべての人が「自分の内部にある知とともに」生まれてくるということを示しているように思われます。



古代ギリシャの哲学者プラトンは、まさにそのように主張しました


肉体に宿り人に命を与えるのはソウル(魂)ですが、地上で幸福に生き、宇宙と自然界と自分自身の神秘を理解するために人が知っていなければならないすべての知が、ソウルには決して失われることのない形で含まれているとプラトンは考えていました。


このことを彼は確信しており、人間が地上でなさなければならないことは、あれやこれやの分野でまだ知らないことを学ぶことではなく、自分自身の心の奥深くにすでにある記憶を呼び覚ますことだと考えていました。



このプラトンの考えからは、普遍的な知の最も重要な側面が思い起こされます。

それはまさに、デルファイに建てられていたアポロンの神殿に刻まれていた警句「汝自身を知れ」が意味していることです。


しかし、「自身を知る」とは何を意味しているのでしょう。

それは、ひとりの人間としての自分の真の性質を知るということです。



そのためには、それを望まなければなりません。

しかし、多くの人はこのことを望んでいません。

その重要さを理解していないことが理由の場合もありますし、自分自身に向き合うことを恐れている場合もあります。


確かに、自分自身の心のスクリーンの上で自分を見つめることにはある種の勇気が必要であり、特に妥協のない内省を行う場合にはそうです。

このような内省によって、自分の性格の美しい部分とともに、生まれ持った望ましくない部分が明らかになるからです。


しかし、人間の行為として、この内省以上に気高い行ないはありませんし、自身を進歩させて人間としての最良の性質を表わすことができるようにするために、この内省以上に役立つことはありません。



「自身を知る」ということは、最高のレベルで実現された場合、それは、個人としての自分の性格を知るということにはとどまらず、自分に命を与えている魂自体の性質さえをも知ることになります。


自分の中に非物質的な何かが宿っていて、何度も人生を体験して進歩を続けていくということを承知しているのは望ましいことです。


しかし、自分の魂について、その性質が確認できるほどにまで「自身を知る」ということは、魂が存在するという知識を持つこととは、まったく別のことです。



バラ十字哲学の目標はまさに、この点に関して少しずつ目覚め、気づくことができるようになり、最終的には「私は自身を知っています」と自分に言うことができるレベルに達することです。


このとき私たち人間は、単なる生物としてだけでなく、自身の魂の持つすべての善良さと完全性とともに地上に生きる魂として、考え、発言し、行動することができるようになります。


このことからは、フランスの思想家テイヤール・ド・シャルダンの次の言葉が思い起こされます。

「私たちは、魂に響く経験を積んでいる人間ではなく、人間としての経験を積んでいる魂である」。



17世紀の初めに薔薇十字団が世間に姿を表したときから、彼らは「普遍的な知を探し求める人たち」でした。

このことは、彼らが1623年にパリ市のいたるところに張ったポスター(訳注)に特に良く表れています。


数世紀が経ち、その理念を継承する団体として創設されたバラ十字会AMORCにも、このことがあてはまります。


訳注:このポスターの内容は次の宣言書の冒頭に紹介されています

宣言書『バラ十字友愛組織の姿勢』(2001年)

http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M787649&c=3304&d=ed84



さまざまな形で無知が、そこから生じた誤った信念や迷信とともにいまだに存在していて、多くの人が自分自身や他の人や自然界を傷つける原因になっています。


それに加えて、多くの知識が望ましくないやり方で用いられ、不当な利益を得るために役立っています。



明るい未来が到来し、すべての人が幸せになることをもし人類が望むならば、普遍的な知を探し求めること以外に選択肢はありません


もしあなたも私と同じ意見でしたら、この公開書簡のことを、興味を持っていただけるであろうあなたの知人に知らせて、熟考と瞑想の役に立ててもらってください。



友人としての思いとともに、皆さんのご多幸をお祈り申し上げます



著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。


本文中で、エメラルド・タブレットからの引用が話題になりました


エメラルド・タブレットにはさまざまなバージョンがありますが、6年ほど前に、『バラ十字会員の秘密の象徴』という18世紀の本に掲載されていた文章の翻訳をご紹介したことがあります。


解説、図版を加えたこの記事はとても好評で、ある雑誌のエメラルド・タブレットに関する特集でも取り上げられました。

ご興味のある方は下記でお読みください。


参考記事:「エメラルド・タブレットとは」

http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M787650&c=3304&d=ed84



では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください(^^)/~


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■編集後記

ベランダのハゴロモジャスミンとバラが満開です

http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M787651&c=3304&d=ed84

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コメント (12)
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