昨年の今日(シャンバラ)
シャンバラ 「シャンバラ」についての本は今まで何冊か読みましたが、この本は初めて知りました。神秘家でもあった「ニコライ・レーリヒ」。今日、届いたのでこれから読みま......
昨年の今日(シャンバラ)
シャンバラ 「シャンバラ」についての本は今まで何冊か読みましたが、この本は初めて知りました。神秘家でもあった「ニコライ・レーリヒ」。今日、届いたのでこれから読みま......
午後2時過ぎに母と歩きに行こうかと話して外を見たら小雨が降っていたので、大型スーパーへ行ってその中を歩くかという話になって出かけました。
その前にクリスチャンの友人にサンタさんからのクッキーを持って行ってあげたところ、返ってりんごやおみかんを頂いてしまいました。
その後雨が降っていたので母を玄関で降ろし私は駐車場へ。
スーパーで買い物をし、3時半頃傘を差している人が居なかったので裏出口からいつものように出ました。
そして、横断歩道を渡って車まで近かったのでカートをカート置き場に置いて母の左手を持ちました。
するとくるっと回って転びそうになったので、支えて立て直したところ、再び回って私の手から離れてアスファルトの上へ倒れてしまいました。
最初は意識があって、起こそうとしましたが、私の力ではどうしようもなく助けを呼んでいるうちに口をパクパクさせて、眼もキョロキョロ。
そうこうしているうちに意識が無くなりました。
私は母がこのまま死んでしまうのではないかと思いました。
来て下さった男性が救急車を呼んで下さり、もう一人の女性(奥さん?)は傘をさして下さり、もう1人に80歳前後の女性はすごくテキパキされていて「名前は?名前を呼んであげて。聞こえる?寝たらだめよ」とずっと声掛けをして下さいました。
私は何とか小規模多機能の看護師さんに連絡をしようと思いましたが、手が震えて何度してもかかりませんでした。
救急車が来て、乗せて下さった頃、母は意識が戻ったようで、生年月日を私に聞かれていたのに母が答えました。
それから、近くのいつもの総合病院へ行きました。
血液検査やCT、そして、脳梗塞の跡が見られたのでMRIも取りました。
4時半頃、私は安定剤の頓服を口に放り込みました。
5時半だったか、看護師さんが日頃の様子やお薬をを記したノートを持って来て下さいました。
そして、ドクターとも話をして下さり、他の利用者さんもおられるので帰って行かれました。
1人でいるのは何とも心細く不安で、友人に来てもらえないかラインをしたら「7時頃なら行ける」との返事。
それからしばらくして結果が出ました。
明日、脳神経外科に脳波をとらないとはっきりとしたことはわからないと言われましたが、恐らく「側頭葉てんかん」だろうと言われました。
そして、母も不安がって入院をしたいと言いましたが、年寄りはたった1日環境が変わっただけでボケたりするから、入院はリスクが大き過ぎると言われました。
友人に「もう来てくれなくても大丈夫そう」と電話を入れましたが(携帯の電池が切れたので公衆電話から)でなくて、しばらく経ってもう一度した時には「もう出たからとにかく行くわ」と言ってくれました。
友人も母は入院だと思ったようです。
車を取りに寄り、家に着いたのが7時半頃でした。
娘にも(正式には娘は電話に出られないことが多いので婿に)WhatsAppから連絡を入れていたので、病院に電話がかかってきました。
その医者は脳神経外科の先生かと聞かれましたが、総合内科の先生だったようです。
よくその病名が見つけたと感心していました。
また、入院をさせなかったのもいい判断だったと言っていました。
帰ってから、娘に電話をしたところ、私のメッセージは婿には理解不能だったようです。
慌てていたので日本語で書いたのですが、それを翻訳したら、「ハッピーで救急車で運ばれた」になったそうで、娘が「今だから笑い話だけどね」と言いつつ随分笑われました。
母も私も食欲がなく、母は点滴とお水で今はもう寝ています。
本当にやれやれでした。
本当に死んでしまうかと思いました。
あとで、心理士の友人に話したら、「いつもちゃんと誰かが助けてくれるから最終的には大丈夫」
それにしても自分の弱さを思い知ります、毎度。
でも、いつか、「その日」はやってきます。
もう94歳ですから、死んでいてもおかしくないです。
母は私の為に生きてくれているのだと思います。
今日の教訓
母のパーキンソンのお薬はいつも持っていないといけないと思ったこと。3時も夕方のもいつもの時間に飲めなかったので余計しんどかったようです。
また、携帯の充電器もこれからはいつも持っていようと思いました。
看護師さんのアドバイスで、必要な人だけメモをしました。
これも助かりましたし、必要なことだと思いました。
今日のこのブログは支離滅裂かもしれません。。。