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熊本から気ままに山と自転車のブログ

西南戦争熊本戦跡

西南戦争段山古戦場跡
2024/5/4(土)晴/曇
最高気温28°曇天の蒸し暑い日で出かけるのを躊躇っていたが、午後15時から3時間限定のポタリングに出る。
目的地は、西南戦争遺跡がある川尻の延寿寺とする。

熊鹿ロードを南に走ると、段山終点手前左側に石碑(写真1参照)がある。銘文を見ると、「西南の役薩軍戦死者慰霊の塔」とある。今まで幾度となく通っているのに気づかなかった。


説明板(写真2参照)には、「西南戦争段山古戦場跡。明治10年2月22日の未明、薩摩軍は怒涛の如く熊本城に押し寄せ、直ちに無防備の三の丸下段の段山を奪取し、ここを以って熊本城攻略の拠点とした。籠城軍はこれを追い払おうとして3月12日、13日の両日に亘り激しい争奪戦を展開した末、遂に薩摩軍は敗れて退却し段山一帯も籠城軍の手にかえった。この戦いで薩摩軍の死者は73名以上、籠城軍も死者61名、負傷者160名を数え、籠城戦中最大の激戦であった。・・・」とある。



花岡山薩軍砲座の跡
2023/3/15(水) 晴

今日は、最高気温予報21°早朝の気温5°20°超えの陽気に遠出も頭を過ったが、熊本博物館の3月19日までの「熊本城と明治維新」企画展に行くことにする。その後は、明治維新繋がりで花岡山陸軍埋葬地探訪として、午前10時半からポタリング出る。

花岡山陸軍埋葬地北側に「薩軍砲座の址」(写真13参照)がある。前面の藪を切り開けば熊本城が見えると思う。


その説明板(写真14・15参照)には、「花岡山薩軍砲座の跡・明治10年の西南の役に際し、同年2月20日、陸路熊本の川尻に到着した薩軍は、その後熊本城を攻撃すべく城下近くへ兵をすすめました。
2月22日朝、西南の役の最初の戦いとなる熊本城攻防戦が始まり、ここに明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の内戦であり、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた戦いの火ぶたが切って落とされました。この地は、52日間に及ぶ熊本城攻防戦の際、薩軍が熊本城攻撃のための大砲を引上げて城を砲撃した場所として知られています。大砲の弾は、熊本城までとどかず、途中の新町や段山付近に落ちたとも言われています。」
「熊本城攻防戦・熊本城に篭城した熊本鎮台兵とこれを包囲した薩軍との間に、明治10年2月22・23日の両日、最初の激しい戦闘がありました。
その後4月14日に官軍が薩軍の包囲網を破るまで、52日間の攻防戦が展開されました。
この戦いでの鎮台兵の死傷者は、475人とされています。」とある。
ここを折り返し点として帰途に就く。


15時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)16km→花岡山陸軍埋葬地→熊本(自宅)
総所要時間5時間(実2時間) 総計16km 走行累計53,004km


花岡山薩軍砲座跡
2019/1/19(土) 晴

今日は、昼から自由時間が出来た。取敢えず図書館に行き返本してその先は・・・ということで、花岡山(祇園山)標高132.2mに行った。
山頂から東方向の階段を下ると、左側に西南戦争薩軍砲座跡(写真1参照)がある。
砲弾は、熊本城までは届かず、新町や段山に落下したという。


薩軍熊本城包囲陣図(写真2参照)も掲示してある。
西に篠原国幹、別府晋介、村田新八、南に桐野利秋、東と北に池上四郎の陣が見える。


今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)17km→花岡山8km→熊本(自宅)所要時間6時間(実2時間) 総計25km 走行累計26,909km


西南戦争熊本城段山戦跡
2018/8/16(木) 曇

城内豊前街道を後にして、藤崎台の西側の西南戦争段山戦跡(写真1参照)に廻る。


官軍与倉中佐が負傷死亡した碑(写真2参照)がある。
薩軍主力部隊が到着し2月21日夜半から22日早暁に初戦が行われたと思うが、薩軍は段山の一部を占拠したがその後放棄している。



西南戦争熊本戦跡
2018/1/2(火) 晴

祇園橋上より坪井川上流(写真1参照)を見る。
西南戦争のとき、薩摩軍はこの辺りで川を付近の墓地の墓石等により堰き留め熊本城を水攻めにしたという。(Googleで「熊本城 水攻め」→検索。
島崎町一帯が池になった絵や写真がヒットする)


祇園橋を渡り右側にある北岡神社の西南隅に「西郷隆盛先生本営之跡」の碑(写真2参照)がある。ちなみに西郷隆盛本陣は、鎮台側の砲弾が近くに着弾するようになったため二本木に移動したという。
北岡神社は、平安時代に京都の祇園社の分霊を勧請して創建されたと伝わり、熊本市域においては藤崎八旛宮と並ぶ由緒を持つ古社である。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re:ドクパパさんへ コメント有難うございます。
熊本城炎上には、自焼説、失火説、放火説等あるようです。「18日に・・・熊本に乱入した」→「薩摩軍が19日に(鎮台兵3千人が籠城している)熊本城に放火した」というのは、論理に飛躍があるように思います。「熊本に乱入した」のが熊本県下か、市街地か、城内かによっても変わると思います。自転車くま
ドクパパ
明治10年の県令宛の告示には西南戦争は「鹿児島暴徒事件」と書かれており、18日に西郷らが 逆徒を引率して熊本に乱入したと書いてあります。薩摩軍が19日に熊本城に放火したと推測するのが普通です
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