阿蘇市:2005年に阿蘇郡の阿蘇町、一の宮町、波野村が合併し発足した。阿蘇の火口原にある街。見上げれば阿蘇五岳が聳え、雄大な 自然が迫っている。
阿蘇市:2005年に阿蘇郡の阿蘇町、一の宮町、波野村が合併し発足した。阿蘇の火口原にある街。見上げれば阿蘇五岳が聳え、雄大な 自然が迫っている。
熊本城は要塞だ。機能を追及した結果、幾何学的で単純な構図が美的景観を展開する。石垣の積み方、通路の作り方、皆、敵を意識して計算されたもの。天守閣に登っても、本丸を逍遥しても、のどかな生活空間は感じられない。何処も彼処も緊張を強いられる。
大天守閣は西南の役で西郷隆盛軍の攻撃で炎上消失した。現在は
鉄筋コンクリートであるが往事を忠実に再現したもの。大阪城程
の規模ではないが奥の小天守閣を従えた威容は天下の名城である。
城郭:梯郭式平山城 城主:加藤氏のち細川氏 家紋:丸の内に二つ引
石高:熊本藩(肥後藩)54万石 遺構:櫓・門・塀、石垣、掘
指定:国特別指定史跡、国の重要文化財~櫓11棟、門1棟、塀1棟~
加藤清正・藤堂高虎による三名城(名古屋城、大阪城)、日本百名城(指定92番)
観察:主な構造物は復元されたものであるが、除いても堀石垣は圧倒的な
存在感があり、驚くことは南の島津藩はこのお城の二の丸を通って
参勤交代した史実があり島津藩にとって脅威の城だったと想像する。
宇土櫓:本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓、天守並みの構造と大きさを誇る。熊本城には大天守&小天守とは別に、この規模の五階櫓が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在。宇土地方は肥後の南半分でひょっとしたら、この国をも従えるという意味もあるのだろうか。
南国の名城、熊本城にやって来た。2回目なのだが取材と言う意志で観察すると
この城の素晴らしさが改めて理解できる。勇壮な城構えは九州の要、さらに南の
島津藩への圧力を感じる。築城主は戦国武将加藤清正。正面入り口に銅像が鎮座。
加藤清正:豊臣秀吉の子飼の武将だったが石田光成と対立し徳川家康についたが、
結局は豊臣恩顧の大名として、江戸幕府は加藤家を熊本から領地代え
とした。加藤清正は築城の名将として名古屋城、江戸城などにも関る。
参照#加藤清正が築城した名城・熊本城
映像:山頭火の石碑前、柳の木の下でご老人が一所懸命オカリナを練習していた。
曲目は「故郷」だった。♪うさぎ追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川・・・♪
ふだん着の温泉街の何気ない情景に、懐かしい音色が流れる。昼下がりのなんとも
情感の溢れた光景。山頭火の歌が浮かぶ。『温泉はよいほんたうによい ここは山
もよし海もよし・・・一生動きたくないのだが』種田山頭火歌気持ちが良く分かる。
日奈久温泉でユックリ、午前中を過ごした。立ち去りがたく又最初の温泉広場に舞
い戻る。名物蒲鉾屋さんの前では通りがかりの子供に店番のおばあさんが『食べん
さい』とちぎり天をあげ、田舎電車がガタンゴトンと通過する。風はやさしく南風。
~ 日奈久温泉物語・完 ~
映像:温泉神社参道下を一両編成の肥薩おれんじ鉄道が通過、なんとものどかだ。
鉄ちゃん(鉄道マニア)にはたまらない映像だろう。日奈久神社の参道下には鉄道
が走っている。その名も、肥薩おれんじ鉄道。トンネルを抜けて、又トンネルへ
入る場面を偶然撮影出来た。日奈久温泉は小さいエリアに『宝』ものが沢山ある。
記録:2004年鹿児島新幹線(鹿児島~新八代間)開通時在来線は肥薩おれんじ鉄道(三セク)
映像:温泉神社からは八代湾:不知火海が一望できる。 海がしらじら輝やく。
~行く年来る年2008年:2009年~『感動映像』を回想.NO5
此処は八代亜紀のふるさと、彼女の『舟歌』思い浮かぶが、隣はもう鹿児島県、
長淵剛の『風は南から』が聞こえて来そうな不知火の海が眩しい。(2008.6.23)
屋並みが海の方へ連なり、堤防、港、高速自動車道架橋‥・海の向うに天草の
島々・・・、温泉街が一望できる。日奈久の温泉神社が何故、高台にあるのかこ
の眺望を見て判った。遠くを眺める事の爽快感、かつて「不知火見物」の場所
でもあったという事実、此処が日奈久を知る、造る、守る、祈る 最適の場所。
不知火:旧暦8月1日前後に現れる蜃気楼の一種、不知火海は八代海の別称。
映像:八代市日奈久温泉街を望む辿り着いた小山の中腹に小奇麗な社殿が鎮座していた。
日奈久の街を山手に歩む。昔は此処辺りまで磯が迫って居たのだろう。温泉センターは
温泉発見の磯地。その先の階段を登る。143段はかなりの勾配。登り切ると上品な社殿。
健脚でなければ辿りつけないだろう。湯疲れの足を一歩一歩持上げ漸く社殿の前に出る。
社格:村社 祭神:市杵島姫 (いちきしまひめのみこと)、湯の神
由縁:浜田六郎左衛門が父右近の刀傷が治るようにと、広島県の厳島神社の市杵島姫命
(いちきしまひめ)に祈願。その後、温泉を発見、父の刀傷が快癒した事から祀られる
参照#日奈久温泉センターばんぺ湯
日奈久温泉は小さな温泉街。温泉センターに向かう路地には蒲鉾屋さんやお土産屋さん、
旅館などが軒を並べている。皆、一様に軒先に俳人山頭火の句を夫々軒先に掲げている。
そう、温泉地が地域を挙げて種田山頭火の俳句で町興しをしている。山頭火が羨ましい。
句文:『あるけば あるけば 木の葉散る』(山頭火)
感想:なんと字足らずで、完結なんだろう。そしてなんて正直なんだろう。山頭火の魅力
はこの字足らず、完結、正直である。この句をどのように解釈するかは読者次第だ。
映像:大切な売り物を気楽にお土産にくれた「蒲鉾屋とらや」の女将さん
日奈久温泉名物蒲鉾。それも毎朝、自家製の蒲鉾を店頭売りする名物おばさん。
八代亜紀がNHKの訪問番組で蒲鉾を食べたとか。筆者が青森から来たと知る
と店頭の蒲鉾をパックに詰めお土産にくれた。なんと気のいい日奈久蒲鉾店だ。
食味:蒲鉾屋の肝っ玉母さんの揚げた蒲鉾の味は温かほんわか美味しかった!
映像:日奈久温泉のシンボルは放浪の俳人、種田山頭火の石碑
破天荒な生涯、自由律詩、放浪の歌人で知られる山頭火。その影を西日本の温泉
地で感じながら、やっと此処で遭遇する事が出来た。元妻が在住する熊本を頼っ
てきたという、どうにも切ない人生だ。最後は四国松山で終焉した山頭火である。
碑文:『温泉はよいほんたうによい
ここは山もよし海もよし
出来ることなら滞在したいのだが
一生動きたくないのだが』 と直情の文章が刻印されている。
種田山頭火:生涯8万4千句をなしたと言われる俳人。両親の死・消息不明、弟
の自殺、家族との離別は、彼に暗い影を落とすが、俳句は直情明快である。
吉野ケ里遺跡を探査後、今日の羅針盤を何処に向けようか?限られた時間で多くの温泉地を辿りたい。しかし、そこには感動がなければ無意味だ。温泉が普通でもそこに地域ならではの物語があるなら脳幹は名湯と感ずる筈・・・。考えた末、八代市日奈久温泉を目指す。天草諸島、水俣を抱える不知火海は初夏の兆し、遥か島原半島で遊んだのは遠い昔だ。その又向こうに小浜温泉、雲仙温泉を思い描く。
泉質:単純温泉(アルカリ性)16の泉源から毎時140トン湧出。殆んどの旅館が掛け流し
歴史:約600年前、刀傷の父の平癒を祈願し、浜田六郎左衛門が厳島明神のお告げで干潟の岩の下から湯を掘り当てたとされる。その後、熊本藩営温泉となり、八代城主・松井氏や参勤交替途上の島津氏もよく利用したとのこと。
共同浴場:市営日奈久温泉センターの老朽化が進み利用客も低迷していたことから、八代市は明治時代の観光施設であった「本湯」を模して和風の新施設を同地に建設中。2009年3月末の完成予定(小生が行った時は更地であった)
映像:西側入り口方面から見た吉野ケ里遺跡建屋群
嬉野温泉で重曹泉を楽しんだ翌朝、日奈久温泉(熊本県)を目指し行動開始。先ず
佐賀市へ。途中、道路標識『吉野ケ里遺跡』を発見。急遽方向転換し現地に向う。
筆者も地元に三内丸山縄文遺跡(世界遺産)を抱えているので興味深々であった。
観察:吉野ヶ里遺跡と青森県の三内丸山縄文遺跡との違いは弥生時代と縄文時代。
流石に稲作の弥生時代は建造物も大型化かつしっかりしている様に思える