ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

芳賀カントリークラブでゴルフ

2024年05月18日 | ゴルフ

栃木県芳賀郡市貝町の芳賀カントリークラブにゴルフに行ってきた。この日の天気は晴れ、昼の気温は25度くらいまで上がったが、蒸し暑くなく、ゴルフをするには最高の天候だった。費用は二人で15,000円、アルコールを含むドリンク400円まで無料サービス付き。

このコースはお気に入りのコースだ、1973年9月(昭和48年)開場の古いコース、ゴルフ場造成土木の老舗、旧・日本緑化土木系列の緑産業が建設し、平成10年に分離独立、単独の経営に移行した。江戸崎CC(茨城)は系列コース。堅実経営で、かつ、コースの手入れもよく、地元の固定客をしっかりつかんでいるのだろう、たいていのコースは民事再生法を申請しているが、ここはしっかり生き残っている、経営者が優秀なのだろう。最近、どのコースも混んできて、プレー代も強気の値上げをしているコースが多いが、ここは良心的な値段で大幅な値上げなどはやっていない、そういうところが苦しくなった時でもファンが支えるのでしょう。

コースは27ホール、2グリーンだが、事実上、1グリーンしか使っていない運用、距離はどのコースもバックで3,500ヤードあり十分だ、適度なアップダウンがあり、フェアウェイにも傾斜があり難しい、グリーンに向かって打ち上げのホールも多く、実際の距離感は表示距離以上ある。トリッキーなところは全くなく、正攻法な設計で、チャンピオンコースといってもいいだろう。コースレートはバックで73、フロントで71だからハードだ。ただし、グリーン周りはバンカーも少なく、そんなに難しくはない。

このコースの良いところは客をあまり詰め込んでいないことだ、プレーの進行がよく、詰まることはめったにない、今日も後半は後ろの組が見えなかった。ネット予約サイトを見るとあまり空きがないようだが、全部の時間帯をネット予約に開放していないのではないのでしょう。

ラウンドはナビ付リモコンカート、楽でいい。春になり、芝も完全に緑になり、風もあまりなく、ゴルフをやるには最高の季節になってきた。

ご飯もおいしかった。

お疲れ様でした、また来ます。


演劇「深い森のほとりで」を観に行った

2024年05月17日 | 演劇

青年劇場 第132回公演「深い森のほとりで」を観に行ってきた。場所は新宿の紀伊国屋ホール、ここは初訪問、チケットは5,800円、14時開演、16時15分終演、客席は満員、シニア層が大部分であった。途中休憩が1回、15分あり。

福山啓子=作・演出
舞台監督=松橋秀幸

出演

原 陽子(大学初の理系女性教授):湯本弘美
原 麻子(陽子の妹):菅原修子
原 理沙(麻子の娘):八代名菜子
本田隆一郎(陽子の指導教授):広戸聡
福本則夫(陽子の助手、ポスドク):佐藤良唯(初舞台)
山口美恵子(大学の事務):大嶋恵子
浅田真理子(大学4年、陽子の生徒):五嶋佑菜
田部信彦(大学教授、陽子の同僚):中川為久朗
加賀 剛(製薬会社セールス):奥原義之

大まかなストーリーは、目先の利益でなく、人類のいまと未来のために未知のウイルスと格闘する科学者たちの物語、コストカットで研究員の首が切られ、稼げる研究をと追い立てられ、この国の科学者は、いま世界が直面する課題に向き合うことができるのだろか、大学の小さな研究室の一人の女性科学者が、周りを巻き込み、未知のウイルス研究に挑むが・・・

もう少し細かく書くと(ネタバレ注意)、舞台はある大学の農学部獣医学科の研究室

  • 大学初の女性教授、陽子の科研費が不採択、助手の福本が製薬会社営業に転職
  • 同僚の田部教授からダメ生徒の浅田真理子を押し付けられる
  • だが、浅田は陽子のウイルス研究の熱意に共感
  • 福本が舞い戻り、浅田と一緒に陽子を支えることに
  • 陽子の妹とその娘の理沙が来て、理沙がバングラデシュにボランティアに行くと言う
  • バングラデシュで致死性の高いウイルスが発生し理沙が陽子にワクチン開発を訴える
  • 陽子の新ワクチン開発は採算が合わないため製薬会社から資金提供拒まれる
  • 陽子たちは研究費を国際機関に申請して承認されるが厳しい条件付のため行き詰まる
  • 新型コロナ発生
  • 陽子の研究は挫折したが、国際機関から評価され、仲間もでき、将来に希望が

作・演出の福山啓子は、この劇団の座付作家、「博士の愛した数式」「あの夏の絵」などの作品を手掛けた人で、「むかし、私たちは山や、川や、森や、獣を恐れ敬う気持ちを持っていました。人工物に囲まれて暮らす私たちは、そうした気持ちを失ってしまったようです。今、様々な自然災害やパンデミックに出会うことで、私たちはもう一度人と自然のかかわりを見つめなおす最後のチャンスをもらっているような気がします。科学の分野においても、自然を切り刻んで消費するのではなく、共存していくこと、人間と人間、人間と自然を一つながりのものとして考えることが始まっています。私たちの未来を守るために、日夜様々な困難を乗り越えながら奮闘している科学者に、この芝居を通じてエールを贈りたいと思います。」と述べている(青年劇場ホームページより)。

ストーリーとしてはわかりやすく、見ていて理解が容易だった、劇中、福山の主張は、

  • 大学内での女性差別があるが、以前よりは少しだけましに
  • 大学では成果が出ない基礎研究に予算がつかないし、学んだ生徒も就職できない
  • コロナワクチン購入費用の一部でも基礎研究に充てていれば事態は変わる
  • 人間は自然を軽視してきたので、その報いとしてウイルスが蔓延するようになった
  • 日本でダメなら世界へ羽ばたけ

というようなことかと感じた。

確かに国の予算はすぐに成果の出ないものにはつきにくい、というのはよく聞く話だ。これには企業側の要請もあるだろう、研究者や卒業生に即連力になるような研究や勉強を求めるということだ。こういう発想こそ日本が凋落している原因ではないか。

基礎研究の軽視は国と企業側の浅はかな考えが行政や大学の研究にも影響を与えている問題だが、大学側の問題もある。それは軍事研究の忌避だ、これも日本凋落の原因でしょう。およそ軍事の研究ほどすそ野の広い研究はなく、軍事だけの研究などは有り得ないのは誰でもわかることなのにイデオロギーで固まった大学教授にはわからないらしい。

ところで、基礎研究の軽視だが、文系でも同様な問題がある。それはリベラルアーツの軽視だ、時間がある若いときに古今東西の文学などを読み、すぐに役にも立たない芸術や文芸にどっぷりと浸かることにより、人間としてどこで仕事をしようともゆるぎない基礎を築き、自国の文化歴史を誇りに思い、他国の同様なものも語ることができ、尊重することもできる、そんな人物が育つのではないだろうか。ビジネススクールで得た知識だけでは長期的には勝負できない。

今日の舞台だが、

  • それぞれの役者さんは熱演していたと思う、それぞれがその持ち味を活かしていた
  • 今日の配役は役柄からベテランが多くアサインされていた、主人公の陽子を演じた湯本弘美はベテランの味を存分に発揮していたし、本田教授役の広戸聡もいい味を出していた、事務役の山口美恵子もよかった、一方、若手の五嶋佑菜も現代っ子らしさを存分に出していたし、バングラデシュに熱を上げていた理沙役を演じていた八代菜名子は若い娘役をうまく演じていた、初舞台の佐藤良唯も福本役をうまくこなしていた、それ以外の人もみんなよかった、相当練習をしたのでしょう
  • 歌舞伎やオペラのような舞台転換はないが、話が一区切りつく都度、舞台が暗くなり、出演者が配置換えになることにより変化をもたらし、飽きない工夫がされていると思った
  • また、舞台の奥の中段の高さのところに歩く場所があり、そこに指導教授の本田先生が現れ、うんちくを語るなど、陽子が空想をする効果を出していて、うまい舞台設定だと思った

さて、福山が主張する自然との共存ということだが、こうした考えは昔からの日本人の感性にマッチしているように思われる、自然を神として敬い、共存する生活をしてきた日本人。西欧人のように自然を人間に危害を与える征服すべき対象ととらえず、自然や四季を大事にし、争いを好まず、神社も寺もチャペルも棲み分け、華道、茶道、書道、木造住宅など自然と共存してきたのが日本民族だ

この日本民族の生きかたこそ、世界各地で対立や醜い争いが蔓延しているいまこそ、世界が見習うべきライフスタイルといえるでしょう・・・と言いたいところだが、最近は日本人自身もその良きライフスタイルを見失っているかもしれない、日本人はもっと自分たちの来し方に自信を持っていいと思う、そこがしっかりしていれば、西欧のいろんなやり方も批判的に見れるのではないか

今日はいい演劇を見せてもらいました

さて、今日の演劇の前に、ランチを取ろうと紀伊国屋の前の新宿中村屋に行ったら、休みだった、メンテナンスのためとのこと。仕方ないので、その中村屋のビルの上の階にあったタイ料理の「新宿ランブータン」に入った。普通の料理とバイキングとどちらにするか入口で選べとのこと、シニアは普通の料理でいいので、そちらに入るが、バイキングのほうが混んでいる。

料理はランチメニューから「生麺パッタイ」1,000円を注文した。焼きそばみたいなもの。もっちりした麺で、辛くはなく、においもきつくなく、おいしかった。

 


「はま寿司」でランチ

2024年05月16日 | グルメ

伊奈町にバラを観に行った際、鑑賞の前に車を停めた大きなショッピングセンターの一角に回転すしの「はま寿司」があったので、そこでランチをとることにした。このチェーン店には入った記憶がない。

はま寿司は、調べてみると牛丼のすき屋グループのようだ、店舗数は2023年のデータでは500以上あり回転すし業界ナンバー2だ。


(最初は光り物、サバ寿司)

11時過ぎくらいに店内に入ると、受付の画面操作で、人数とカウンター席希望と入力すると、〇〇番の席にお座りください、というレシートのような紙が出たので、その場所に腰掛ける。カウンター席は隣の席とパーティションで仕切られており、ちょっと狭い感じがする。いい加減、パーティションはやめてほしい


(次はイカの三種盛り)

注文はもうこの業界では当たり前の、テーブルに設置してあるタブレット端末から行う方式。慣れてきたのでメニューを見ていくと、どうもこのチェーン店は一皿100円から150円のメニューが大部分の低価格路線の店のようだ。

画面を見ながら、いつものように、白身魚、光り物、イカ、エビ、サーモン、マグロ、巻物などの順に注文した。目の前の回転レーンは上下2つある、到着するとタブレットで教えてくれる。今回注文してみると、注文してから出てくるまでがちょっと長いので、まとめてある程度の皿数を注文したほうが効率的だ。


(次は煮エビ)

それと店内を眺めると、すしの調理は客がいる場所とは仕切られた別室で行っているので、すしを握っている姿は客からは見えない、このような店は初めてだ。このほうが効率が良いだろうし、客をより多く収容できるのかもしれない、が、どいうもんだろうな、と感じた。

あと、ここの特徴は、テーブルに4種類の異なる醤油ボトルが置いてあることだ、これが一つの差別化戦略でもあるのだろう。私はあんまり醤油にはこだわりはないが。

それから、提供された寿司を見るとやはり握って〆たという感じがせず、機械で作ったシャリの上にネタをただ乗っけた、という寿司になっている。これは考えてみると、提供された寿司はワサビがついてないためではないかと思いついた。子供たちも来店するので基本的にサビ抜きになっており、大人は空になったすし皿に醤油とワサビをセットして、寿司からネタをとってそのわさび醤油につけて、もう一度寿司に乗せて食べろ、ということだろうと思った。なるほどね、しかし・・・・安いから文句は言えないか


(次は漬けマグロ)


(カツオ)


(サーモン握り三種)


(石垣貝)


(マグロ三種)

ごちそうさまでした、結構おいしかった、食べ過ぎた、値段は10皿食べて1,375円だった、安い。店を出るときには12時近くになっていたが、多くのお客さんが待っていた、早めに入って正解だった

 


伊奈町のバラ園に行く

2024年05月15日 | 街歩き

埼玉県北足立郡伊奈町のバラ園に行ってきた。新聞か何かでその存在を知り、行ってみたくなった。このバラ園は町制施行記念公園内にある。県内最大のバラ園というのが売物だ。入場料は350円、5月3日から5月31日まで「2024バラまつり」が開催されている、バラ園入口付近に多くの市町村観光物産展の出店があり、また、ゆるキャラが子供たちを喜ばせていた。

行ったのが日曜日であるためか、多くの人が来ていた、平日に行きたかったが天気が悪かったり他の予定が入っていて行けなかった。場所は大宮からさらに地域鉄道に乗っていくので、自宅から2時間かかるとGoogleマップに出て、車だと50分と出たので時間節約のため車で行って、バラ園のすぐそばのスーパーの駐車場に入れた。公園内にも駐車場があったが、昼食をしてからバラ園に行こうと思ったのでスーパーの駐車場にした。

「この伊奈町記念公園は、昭和47年に開園され、現在はバラを始めとする季節の花が咲き乱れる花園や、さまざまなスポーツ・レクリエーション施設があり、子どもからおとしよりまで楽しめる。野球やテニスをしたり、子どもたちが野外でのびのび遊べる大砂場、キャンプ場などの施設がある」と役所のホームページに書いてあった。

さらに「バラ園は1.4ヘクタールの敷地に、400種、5,000株のバラが植えられており、色とりどりのバラの花があたり一面に咲きほこり、まるで絵画の世界へ迷い込んだかのようで、バラを観賞しながら散歩できる通路やバラのアーチもあり、間近でバラを楽しめる」と宣伝している。昨年訪問した京成バラ園は、1,600品種、10,000株のバラだったので(こちら参照)、それよりは小規模であるが十分楽しめる規模だ。

自動販売機で入場券を買って園内に入ると、入口近くが第3バラ園、奥に進むと左に第1バラ園、右に第3バラ園が配置されている。ただ、敷地内で続いているので、第1から第3というのはそれほど意識しないでいいようだ。

園内でもらったパンフレットを読むと、きれいに咲かせるために、丁寧に剪定し、施肥、消毒をして大切に育てているとある、そして園では春と秋の年2回、花を咲かせるように手入れをしているとのこと、秋は10月下旬から11月中旬にかけて見ごろのようだ。育成、維持担当の方々の苦労は大変なものだろう。

私は坂東真理子氏が指摘するような「花の名前を知っていること」という女性が持つうらやましい品格、知識は男性でもあるため無い、というか今まで興味がなかった。このためバラの種類や品種はわからないが、名前などを書いたプレートが置いてあるので女性や興味のある人にとってはたまらないであろう。

ゆっくり園内を回り、写真を撮り、1時間弱滞在して園を後にした。


「都響定期演奏会Cシリーズ」を聴きに行く

2024年05月14日 | クラシック音楽

東京芸術劇場で開催された都響定期演奏会Cシリーズに行ってきた。実は、行く予定がなかったのだが、前日に都響からの当日券情報のメールをもらい、内容を確認すると、これは聴きたいと思った。当日朝10時からネットで販売するというので、チケットを買った、S席、7,000円。14時開演、17時10分終演、ホールはほぼ満員であった。幅広い年齢層の方が来ていた印象を持った、また、年配の男性も結構いた。

公演開始前のアナウンスでは、曲の余韻を楽しむために、終曲後の拍手・ブラボーは指揮者がタクトを置いてからしてほしい、と言っていた、その通りであろう。なお、東京芸術劇場だが、本年9月から改修工事を予定しているようだ。

出演

指揮/尾高忠明
ピアノ/アンヌ・ケフェレック

曲目

武満 徹:《3つの映画音楽》より    
:映画『ホゼー・トレス』から「訓練と休息の音楽」  
:映画『他人の顔』から「ワルツ」   
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
ウォルトン:交響曲第1番 変ロ短調

なぜ聴きたくなったというと、

  • まず、曲目に武満徹作曲の映画「他人の顔」で使われた「ワルツ」が入っているからだ、短い曲だが先日このブログ(こちら参照)でも紹介したあの京マチ子、仲代達矢主演の映画「他人の顔」で流れていたあの曲だからだ。尾高忠明はこの曲が好きなのではないか、以前NHKのクラシック音楽番組でやはりこの曲を指揮していたのを見た。
  • 次に、モーツアルトのピアノ協奏曲20番(1785年、29才の時の作品)が入っているからだ、モーツアルトのピアノ協奏曲は長調が多いが20番と24番が短調で、これが素晴らしく大好きだ。モーツアルトの短調はただ暗い感じのトーンではなく、憂いがあり、美しさがあり、彼の性格の一部である。普段はそれを出さずに、そっと長調の曲の中に潜ませたりしている奥深さがあるが、短調の曲では逆になっており、不安や憂いや恐れの中にも希望の光が見えるように美しいメロディが潜んでいるのである、これがとても良い、この20番はWikipediaによれば、ベートーヴェンが大変気に入っていた作品として知られているとある
  • さらに、ピアニストが当初予定されていたマリアム・バタシヴィリの急な体調不良によりアンヌ・ケフェレックに変更になったからである。彼女のピアノを一回聴いてみたいと思った、というのも、昨年、テレビで放送されていた彼女のピアノ・リサイタルを観て、本ブログに投稿した経緯があるからだ(その時のブログはこちら)、その彼女が曲目を変更してなんとモーツアルトの20番を指定したのだから、もう聴きにいかないわけにはいかない

曲目であるが、《3つの映画音楽》は、1995年にスイスで開催されたグシュタード・シネミュージック・フェスティヴァルで武満がテーマ作曲家のひとりになったため、彼が手掛けてきた映画音楽で弦楽オーケストラを用いた楽曲から選ばれて編み直され、音楽祭で初演された組曲である。

『ホゼー・トレス』は映画監督などマルチに活躍した勅使河原宏と武満が初タッグを組んだ映画で、25分ほどのドキュメンタリー。タイトルになっているのはプエルトリコ出身の黒人ボクサーの名前、「訓練と休息の音楽」はその題名通り、映画のなかでトレスが訓練する映像にあわせた音楽を主部に、休息の場面の音楽を中間部にしており、3部形式に仕立て直された当時最先端のモード・ジャズ風の曲

聴いてみると確かにジャズ風であった、特にチェロとコントラバスが弦ではなくジャズのように手で弦をはじいて弾いている部分が印象に残った。

ウォルトン(1902~83)の交響曲第1番(全4楽章)は、初めて聴く曲だが、尾高が最愛の曲の一つとして数多くのオーケストラともに演奏してきた曲だそうだ。ウォルトンは、イングランド中部オールダムの中流家庭に生まれ、オックスフォード大学に進学するが中退し、大学時代に知遇を得た富豪シットウェル一族の支援のもと、独学で作曲技法を身に付けた。当初は革新的、前衛的な音楽を作っていたが、成熟した作曲家への脱皮を図ったのが交響曲第1番であり、ベートーヴェン的な精神で1930年代中盤に作られた正攻法の交響曲と言えると解説されている。

この曲をじっくり聴いてみて1回で理解するのは難しい曲だと思った、ただ、都響の演奏は素晴らしかった、それだけは伝わってきた

指揮者の尾高忠明であるが、彼の指揮は過去に聴いたこともあるかもしれないが、あったとしても久しぶりである。

ピアニストのアンヌ・ケフェレックであるが、

  • パリ生まれ、パリ国立高等音楽院を首席で卒業後、1968年ミュンヘン国際音楽コンクール優勝、翌年リーズ国際ピアノ・コンクール入賞の経歴を持つ。そして、2023年に最新盤『モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番&第27番』(リオ・クオクマン指揮パリ室内管弦楽団)をリリースしたようで、それで今日の20番の選曲になったのかと納得。さらに、映画「アマデウス」ではサー・ネヴィル・マリナーとの共演でピアノ協奏曲を演奏し、話題を呼んだと都響の解説に書いてあり驚いた。「アマデウス」は何回か観たが全然気づかなかった、今度また見直してみたい。
  • 彼女は、日本では「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭に度々登場し高い人気を誇ると紹介されている、今回もそれで来日したのかもしれない、日本にファンが多いのか日本贔屓なのかもしれない。
  • 今日の彼女は、黒いロングスカートに金の羅紗が入ったように見えるブラウスを着て登場した、髪の毛は白髪のほうが多いが染めないで、長さは肩にかからないくらいにカットしてあるがボリュームは豊富で、お金持ちの上品な初老のご婦人という感じにみえた。長髪でボサボサ髪のピアニストや指揮者の身だしなみは好きになれない、今日のケフェレックのようなスタイルが気品があって好きだ
  • 彼女のピアノは素晴らしく、激しく引くところは十分に激しく力強く、繊細なところは非常に繊細に弾いていた。指揮者やオケとの呼吸もぴったり合って、聴きごたえのある20番であった。久しぶりに実演で20番を聴いて、本当にクラシック音楽を長年聴いてよかったと思ったし、モーツアルトに「こんな素晴らしい音楽をありがとう」と感謝したい気持ちになった。
  • また、今日の都響の演奏も尾高の指揮のもと、素晴らしい演奏であった、ケフェレックのピアノと息がぴったり合っていた
  • アンコールはヘンデルのメヌエット(ト短調)を自ら紹介して弾いてくれた、20番を聴き終わり興奮状態の観客の気持ちを静めるような曲で、このアンコールのおかげで穏やかな気持ちになった。

さて、この日の翌日、5月12日は、母の日だ、帰りに嫁さん用に東武のデパ地下に行って、デメルの「アソート・クッキー」2,376円と船橋屋の「母の日あんみつ」640円を買った。

良い一日となりました

 

 


映画「クライマーズハイ」を観た

2024年05月13日 | 映画

テレビで放送された映画「クライマーズハイ」を観た。2008年、145分、監督:原田眞人、原作:横山秀夫の同名小説。クライマーズハイとは登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことであり、映画の中では日航機墜落の報道現場のカオスの状況も指すと思われる。

1985年8月12日、群馬県と長野県の県境に位置する御巣鷹山に日航機が墜落した、その事故を題材に、その時に繰り広げられていた地元地方新聞社の混乱する現場と人間模様を描いた映画

出演は、堤真一,堺雅人,小澤征悦,尾野真千子,山崎努などなどそうそうたるキャスト。作者自身も元上毛新聞記者で、その体験を元に作品を書いた、だから新聞社の社内の状況が非常にリアルに描かれている。

主人公は堤真一演ずる群馬の有力地方新聞「北関東新聞社」の記者悠木和雄。1985年8月のある日、新聞社の登山クラブの同僚安西耿一郎(高嶋政宏)と一ノ倉沢衝立岩に登頂する予定で会社を後にする直前に、東京発の日航機が乗客乗員524名を乗せたまま消息が不明との情報がもたらされる、その後まもなく墜落とわかり、場所は北関東新聞のテリトリーの群馬県内と判明したから大変だ。

新聞社は臨戦態勢になり、現場は大混乱する、悠木は日航機事故報道の全権に任命され、次々と指示を出し、現場取材、事実確認、紙面編集、締め切り、などで社内の関係部門と怒号を飛ばしながらも他社に出し抜かれないために必死の業務が続く。

映画ではその緊迫した様子を事故発生から時間を追って描いていく、臨場感がビシビシと伝わってくる。新聞社の業務の描き方もかなり具体的で、報道部門だけでなく、販売部門、輸送部門、印刷部門などあらゆる社内組織が出てきて、それらの部門や人間との軋轢、現場と局長、経営陣などとの対立をリアルに描き、真に迫っている。

一方、悠木のプライベートな面として、夫婦の不和、子供との隔絶、友人の安西との家族ぐるみの付き合いと安西の不幸などが絡む。さらに時間軸として、事故直前の1985年、初夏の渓谷での悠木と安西のお互いの息子を連れてのレジャーの場面、事件発生、その後2007年初夏に土合駅での悠木とすでに亡くなった安西の息子が落ち合い、親同士で約束した一ノ倉沢衝立岩への登山の場面が絡む。ここがいきなり見ると前後関係がわかりにくい。しかし、そこがわからなくてもこの映画の迫力は十分楽しめる。

あまり期待しないで見たのだけど、最初からどんどん映画に引き込まれた、堤真一、堺雅人、滝藤賢一、小澤征悦,尾野真千子らの真に迫った演技が非常に良かった。これは監督、俳優の良さに加え、そもそも原作がよかったのだろう。ただ、ネットやスマホが発達した現在の新聞社の業務はこの当時とはかなり違っているだろうなと思った。

この日航機墜落のあった8月12日の翌日、夏休みをとっていた私は友人と一緒に取手で炎天下の中でゴルフをやっていたのを覚えている。朝からテレビなどで大騒ぎしていたが、ゴルフをやっていたその真夏のゴルフ場の光景を今でも思い出す、暑い一日だった

この映画の最後に、「日航機墜落の原因調査の事故調は隔壁破壊と関連して事故機に急減圧があったとしている、しかし、運航関係者の間には急減圧はなかったという意見もある」とテロップが出てくる。隔壁破壊以外の墜落原因ついては、既に青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、2017年7月)が出ており、最近でも森永卓郎『書いてはいけない』(三五館シンシャ、2024年3月)の中で述べられているがなぜかあまり騒がれない。

NHKも下山事件などは未解決事件として報じるが、日航事故につては解決済み扱いなのだろうか、報じない。映画の中でも事故現場にもっと早く到着してれば救える命が多くあったと述べるところがあるが意味深である、この当時から墜落原因に関するいろんな疑問が語られていたのだろう。事故当時の総理大臣は中曽根康弘、アメリカ大統領はロナルド・レーガンであった

さて、この映画では一ノ倉沢への登山に行く待合場所に上越線の土合(どあい)駅が出てくる、この土合駅は有名で、駅が地下のだいぶ下にあるのだ。駅から地上の駅舎まで出るのに462段の階段を昇らなくてはならない、その地下駅と地上への階段、地上の駅舎がこの映画で出てくる。


(土合駅の駅舎)

この土合駅に行ったことがある。つい数年前である。それは近くのゴルフ場に泊りがけでゴルフに来た時に、まっすぐ帰るのではなく、周辺の観光地に寄ってから帰ろうと思い、調べたら土合駅が有名だというので車で来たものである。したがって、私の場合は、駅舎から駅まで見下ろす感じで階段を途中まで降りた。本当は地下の駅まで行きたかったが、ゴルフの後で疲れており、嫁さんも一緒だったため、あきらめて階段の途中で引き返したのだ。確かに写真映えするすごいところであった。


(駅に降りる階段の上から撮ったもの)

良い映画でした。

 


團菊祭五月大歌舞伎(昼の部)を観る

2024年05月12日 | 歌舞伎

今月も歌舞伎座昼の部の公演を観ることにした、今回も3階A席、6,000円、この日の3階は結構埋まっていた。相変わらずおばさま方が多い。

「團菊祭」とは、明治の劇聖と謳われた九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の偉業を顕彰するために昭和11年に始まり、戦後は昭和33年に復活、近年の歌舞伎座では五月興行の恒例の催しとして上演されてきたもの

一、鴛鴦襖恋睦(おしのふすま こいのむつごと)

河津三郎/雄鴛鴦の精(松也)
遊女喜瀬川/雌鴛鴦の精(尾上右近)
股野五郎(中村萬太郎、1989、萬家、時蔵の息子)

本作は、河津と股野が相撲の起源や技に託して恋争いを踊る「相撲」と、引き裂かれた鴛鴦の夫婦の狂おしい情念を見せる「鴛鴦」の上下巻で構成されている

源氏方の河津三郎に相撲で敗れた平家方の股野五郎は、約束通り遊女喜瀬川を河津に譲る。しかし股野は、かねてからの遺恨を晴らすため、河津の心を乱そうと酒に雄の鴛鴦(おしどり)を殺した生血を混ぜる。やがて泉水に、雄鳥の死を嘆き悲しむ雌鳥の精が喜瀬川の姿を借りて現れ・・・

この河津三郎というのは、河津三郎祐泰といい、二人の息子がいた、兄を十郎祐成、弟を五郎時致といった、これが仇討ちで有名な曾我兄弟である。仇討ちは、曽我兄弟の祖父伊東祐親(すけちか)が工藤祐経(すけつね)の所領を横領したため、祐経はその恨みから狩に出た祐親を狙うが、誤って子の河津三郎を殺してしまう、その18年後、成長した曽我兄弟は、源頼朝が富士の裾野で大がかりな狩りをおこなっていた際、工藤祐経を殺害し、仇討ちを果たした。その曽我兄弟の父、河津三郎はこの演目では善人であり、股野五郎が悪人を演じている。

この演目は、曽我兄弟の仇討ちとは全く関係なく、「相撲」と、「鴛鴦」の上下巻で構成され、華やかな歌舞伎の様式美を楽しむ舞踊劇である、特に今回は若手3人による鴛鴦の精が本性を現す「ぶっかえり」などの華やかな演出が大変良かった。なお、この演目では前半の「相撲」では長唄連中が、後半の「鴛鴦」では常磐津連中が演奏していた、私が贔屓にしている長唄の杵屋勝四郎は出演していなかったが立三味線の巳太郎さんが出ていたように見えた

四世市川左團次一年祭追善狂言
二、歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)

粂寺弾正(くめでら だんじょう)(市川男女蔵、1967、瀧野屋、左團次の息子)
小野春道(菊五郎)館の主人
小野春風(鴈治郎)春道の息子
錦の前(市川男寅、1995、瀧野屋、男寅→男女蔵→左團次となる)館の一人娘
腰元巻絹(時蔵)
八剣玄蕃(又五郎)数馬の父、短冊を盗む
八剣数馬(松也)反乱派の家臣の息子
秦民部(権十郎)秀太郎の兄
秦秀太郎(梅枝)忠臣派の家来の弟
小原万兵衛(松緑)
乳人若菜(萬次郎)
後見(團十郎)

小野小町の子孫、春道の屋敷。家宝である小町の短冊が盗み出されたうえ、姫君錦の前は原因不明の髪の毛が逆立つ病にかかり床に伏せっている。そこへ、姫君の許嫁文屋豊秀の家臣、粂寺弾正が様子をうかがいにやって来る。さらに、屋敷に小原万兵衛が押しかけてきて、腰元だった小磯が春風のお手つきで暇を出された挙句、亡くなったという。

これらを見た弾正は、姫の奇病の仕掛けを見破り、両家の縁談を破談にしようとする陰謀を暴く、これらを仕組んだのは玄蕃の一味だった、なお、毛抜というのは、姫君の病の原因を突き止めるきっかけとなったもの、弾正が座敷で毛抜きを使うと、動いた、それで天井で何かやっていることに気付く、というもの。

この演目は、昨年4月に亡くなった四世市川左團次一年祭追善狂言として演じられたもの、主役は粂寺弾正であり、これを務めたのは左團次の息子市川男女蔵である。男女蔵の息子が男寅であり、親子そろって祖父の追善公演に出演できたのを観て、亡くなった左團次もさぞかし喜んでいることだろう

この追善に華を添えるように、團十郎が後見で出演し、菊五郎、時蔵、松緑、鴈治郎などそうそうたるメンバーが勢ぞろいした素晴らしい公演であった。そして、今日の歌舞伎座では2階のロビーに在りし日の左團次の大きな写真が何枚も飾ってあった。

河竹黙阿弥 作
三、極付幡随長兵衛(きわめつき ばんずいちょうべえ)
「公平法問諍」(きんぴらほうもんあらそい)

幡随院長兵衛(團十郎)
女房お時(児太郎)
水野十郎左衛門(菊之助)
加茂次郎義綱(玉太郎)、坂田金左衛門(九團次)、坂田公平(片岡市蔵)、唐犬権兵衛(右團次)、渡辺綱九郎(家橘)、極楽十三(歌昇)、雷重五郎(尾上右近)、神田弥吉(廣松)、小仏小平(男寅)、閻魔大助(鷹之資)、笠森団六(莟玉)、下女およし(梅花)、御台柏の前(歌女之丞)、伊予守頼義(吉弥)、出尻清兵衛(男女蔵)、近藤登之助(錦之助)

江戸時代初期、浅草花川戸に実在し、日本の俠客の元祖と言われた幡随院長兵衛を主人公にした物語、その中でも本作は九世團十郎に当てて河竹黙阿弥が書いた「極付」とされる傑作。町人の意地と武士の面子を賭けての対決、柔術を組み入れた立廻りなど、江戸の男伊達の生き様を描いた世話物、江戸随一の俠客、幡随院長兵衛と旗本「白柄組(しらつかぐみ)」の水野十郎左衛門の対決を通じて俠客、幡随院長兵衛の男気を描いたもの

公平法問諍とは劇中劇で、長兵衛と十郎左衛門が芝居小屋でこの演目を観劇中に後に問題となる騒ぎが起こった、公平法問諍の公平とは「きんぴら」と読む。劇中劇で源頼義の家来を演じているのが坂田公平であり、主君が息子の加茂義綱を出家させようとするのを懸命に止めようとし、そそのかしている坊主を相手に、仏教や出家の根本的意義について問答をするのが、公平問答である。

この公平の父は坂田金時といい、源頼光の部下で「頼光四天王」と呼ばれた4人のうちの一人である。坂田金時は怪力無双の勇士、これが有名な「金太郎」であり、息子の公平は頼光の甥にあたる源頼義の臣下として新たに四天王を名乗り活躍するうちの一人となる。公平(きんぴら)は伝説上では、とても強く勇ましい人物だったと伝えられて、やがて人々は、「強いもの」「丈夫なもの」を「きんぴら」と呼ぶようになり、歯ごたえが強く、精がつく食べ物である「きんぴらごぼう」の語源となった、とイヤホンガイドで解説していた。

この演目の見どころは何といっても当世團十郎の演技だろう、菊之助演じる旗本奴が江戸で乱暴狼藉の限りの振る舞いをして町人から嫌われているが怖くて文句も言えないという状況で、「いい加減にしろ」と言って注意をし、やっつける侠客(町奴)を演じているからだ。

この侠客の親分である長兵衛の普段の仕事は人のあっせん稼業、今でいう派遣会社だ。イヤホンガイドでは、地方の大名が江戸に参勤交代に行く際、幕府から言われた人数を国許から連れて行くと金がかかるので、最少人数で出発して、江戸の近くで長兵衛のようなところに人の手配を依頼して人数を揃えて間に合わせていた、と説明していた。

この演目では、長兵衛も武家出身だが、旗本奴のほうが格上であり、長兵衛らが日ごろ町人たちに人気があり自分たちが悪者にされているのを気に食わないと思っていた、そこに今回の公平法問諍で長兵衛に恥をかかされて、ついに長兵衛一人を水野十郎左衛門の宴席に招待し、そこで殺してしまおうとする。長兵衛はそうなることを分かったうえで、その誘いを断れば、日ごろ町人の前でかっこいいことを言っていながら水野の誘いには逃げた意気地なしだ、と言われることは侠客として絶対にできないと引き留める子分や家族を説得して、水野の屋敷に死を覚悟して乗り込んでいく、なんともカッコいいではないか、最初の公平法問諍の場面では客席の中から突然現れて劇中劇の舞台にさっそうと登場する粋な演出もある

今日の團十郎は、水野との問答や立ち回りなど、江戸の荒事歌舞伎の派手さと粋を実にうまく演じていた、團十郎を襲名してからだんだんと團十郎の名にふさわしい演技になってきたと感じた、立場が人間を作る、そんな印象を今日は持った。今日の演目では、こんな役が團十郎に一番ふさわしいと思った、助六もそうだ、粋でいなせでやせ我慢でも男気があるところを見せる人情家、そんな役が似合うようになってきた。

さて、今日の歌舞伎の幕間の食事だが、いつものように銀座三越デパ地下に行き、だし巻き弁当で有名な京都大徳寺さいき屋の「さば寿司だし巻弁当」1,404円にし、甘味はこれも京都の仙太郎「みなずき白」、嫁さんは「おはぎきなこ」にした。いずれもおいしかった。

 


映画「愛は静けさの中に」を観た

2024年05月11日 | 映画

テレビで放送されていた映画「愛は静けさの中に」を観た。1986年製作、米、監督ランダ・ヘインズ、原題Children of a Lesser god(神の恩恵のより少ない子供たち)。映画を観て、今回は邦題のほうが雰囲気が出ていると思った。

聾学校に赴任してきた教師が、聾唖者の女性と愛し合いながら教師として献身する姿を描く映画、ジェームズ・リーズ(ウィリアム・ハート)は、片田舎の聾唖者の学校に赴任して来た。ある日、食堂でサラ・ノーマン(マーリー・マトリン)という若く美しい女性を見かける。校長(フィリップ・ボスコ)の説明によると、サラは5歳の時からここで学び、昔は優秀な生徒だったが、20代になった今は掃除係をしているという。

彼女に興味を抱いたジェームズは、自分の殼に閉じこもろうとするサラを根気強く説得していく、サラの母(パイパー・ローリー)を訪ね、サラが周りの者から笑い者にされるなどして、心を閉ざしてしまったことを知る、サラからも思いもかけぬ告白をされたが、リーズはそんなサラを愛していることを知り、同棲生活を始める。しかし、だんだんとお互いの気持ちが嚙み合わなくなっていき・・・・

聾啞(ろうあ)という障害を今まで正確に知らなかった、調べてみると、聾唖とは発声や聴覚の器官の障害によって、言葉を発することができないこと、音声による話ができないことで、 聴覚を失っているための言語障害の場合を聾唖(ろうあ)、聴覚は完全で、言語機能だけが失われている場合を聴唖(ちょうあ)という、とされている。聾唖者と言う場合、聞こえないし、話せない人という意味だ。

そして、これも知らなかったが、相手の唇の動きから何を言っているのか読み取る術を読唇術(どくしんじゅつ)という。そして、読唇術はしばしば「遠く離れた人の会話を読み取るスパイ技術」として描写されることもあるとWikipediaに出ていた。ただ、限界も多いそうだ。

(以下、ネタバレあり)

この映画で同棲生活を始めた2人がやがてお互いの行き違いが大きくなり、別居することになる、その2人の破局を迎える時の会話がなかなか深いものだった

サラ

「今まで私の周りにいた人たちは私を話せるように、儲けることができるように変えようとした、それはやめてほしい、ありのままの自分を受け入れてほしい、それが私の願望よ、そうでなければ私の沈黙の世界には入れない、私もあなたに近づけない」

ジェームズ

「話せないままでは生きていけないだろう、君は沈黙の城に自分を閉じ込めているだけだ、君は自分にウソをついている、ろう者でよかったとは思っていないはずだ、本当は怖いんだろう、話すことを拒否するのは愚かなプライドだ、同情を拒んで独りで生きるのなら読唇術を学べ、僕と話したいだろう」

なかなか考えさせられる良い映画だった、最後は救いがあるが、それはそれでアメリカ映画らしくて良いと思う。この映画でサラ役のマーリー·マトリンは弱冠21歳でアカデミー主演女優賞を受賞した。

ところで、サラはこの映画の中で当然だが全く話をしない、最近立て続けに主人公が劇中で全く話をしないオペラ(ルサルカ)や映画(ピアノ・レッスン)を観た、これで3作目だ、主人公が話さないという演劇にこんなに巡り合うとは、なんという偶然であろう。


映画「青春18×2 日本漫車流浪記」を観た

2024年05月10日 | 映画

映画「青春18×2 日本漫車流浪記」を観た。2024年、123分、日本・台湾合作、監督藤井道人(1986、東京都)、原作ジミー・ライ。シニア料金1,300円。

藤井道人が監督・脚本を手がけた日台合作のラブストーリー。ジミー・ライの紀行エッセイ「青春18×2 日本漫車流浪記」を映画化し、18年前の台湾と現在の日本を舞台に、国境と時を超えてつながる初恋の記憶を描いた映画。この原作者ジミー・ライという人はネットで調べてもどういう人かよくわからなかった。

台湾に住む36歳のジミー(シュー・グァンハン、許光漢、1990、台湾)は、自身が作りあげたゲーム制作会社でヒット作品を出したが、やがて傲慢になり人心が離れ、経営に失敗し追い出される、ふとかつて出会った日本人のアミ(清原果耶、2002、大阪生まれ)から届いた絵ハガキを手に取る。

18年前の台湾、カラオケ店でバイトする高校生だったジミーは、日本から来たバックパッカーのアミがいきなり働きたいと言ってきて彼女と出会う、アミは店の人気者となり、徐々に彼女に恋心を抱くようになり、やがてデートもする仲に、しかし、突然アミが帰国することになる。アミはある約束を提案した。

時が経ち、失意のジミーはあの日の約束を果たそうと彼女が生まれ育った日本への旅を決意し鈍行列車に揺られ、たどり着いたアミの実家で18年前のアミの本当の想いを知り・・・・

物語は、鎌倉・由比ヶ浜や福島・只見線が走る雪景色、台湾・十分(シーフェン)のランタンフェステイバルなど日本と台湾の写真映えする観光地を舞台に旅行ムードを醸し出して、描かれる景色に癒される。

主演の台湾俳優のシュー・グァンハンは全く知らなかったが、清原果那は2021年の朝ドラ「おかえりモネ」に出ていたので知っていた。この映画の演技を見て随分女優として成長したなと思った、もうすでにいろんな映画やテレビに出演しているようだ。

監督の藤井道人の祖父は台湾出身で、台湾は自分のルーツの一つと述べており、祖父のように異文化に接して、それをミックスした映画が作りたいと思っていたようだから、この作品の映画化には相当力が入っていたのでしょう。

さて、この映画を今回観た感想だが、2国間をまたぐ青春恋愛映画ということもあって、シニアの自分にはあまり響いてこなかった。仕方ないでしょう。台湾人や田舎に住む日本人の人の好さがよく出ている作品で、その点では良いと思った。

若い人向けの映画だった、が、自分が年を取って感動しなくなっただけなのか


宮下奈都「羊と鋼の森」を読む

2024年05月09日 | 読書

宮下奈都著「羊と鋼の森」(文春文庫)をKindleで読んだ。この小説は2015年に刊行され、2016年の本屋大賞を受賞した。

この小説は、調律師をモチーフにした仕事小説であり、主人公の外村(とむら)青年の成長物語である。全然音楽の下地がない外村が、ある日学校の体育館にあるピアノの調律に訪れた板鳥氏の調律を見て衝撃を受け、卒業後、調律の学校に通い、板鳥の勤務する楽器店の調律師になり、周りの先輩たちを見ながら、成長していく物語である。

主人公の外村は幼いころ北海道の山間の集落の中で育った、そして家の近くの牧場で羊が飼われていたことを見てきた。本書の題名「羊と鋼の森」の羊はフェルトの材料、鋼は弦の材料、そして森は外村が育ち、羊が育ってきたところ、というわけだ。

本書を読むまで、ピアノが音を出す仕組みなど詳しく知らなかった。鍵盤を押すと、鍵盤に連動しているハンマーが鋼の弦を打ち、音が鳴る。ハンマーは羊毛を固めたフェルトでできている。ピアノには88の鍵盤があり、それぞれに1本から3本の鋼の弦が張られている、ということも知らなかった。

本書を読んで知ったこと、感じたことなどを書いてみたい

  • 最初のほうで上司の調律師の柳と外村が、木の名前の話をし、柳が自分は木の名前など全然知らないが、外村は木の名前だけでなく花の名前も知ってだろう、それはかっこいい、言う場面がある。昔読んだ坂東真理子「女性の品格」(文春文庫)の中で、日本は自然に恵まれた国で、昔から日本人は多くの花や木を愛でてきた、「万葉集」や「古今和歌集」、「枕草子」や「源氏物語」の中には花や木が歌われ、描かれてきたが、現代の日本人はこれらの花や木を知らなくなってきている。そうした木や花の名前を知っているということは、自然をいとおしむ態度につながり、自然を丁寧に観察しているといってよいでしょう、と述べている、これを思いだした。
  • 小説の中で、上司の調律師の秋野がどうして調律師になったか話すところがある、彼は、以前はピアニストを目指していたが、あきらめて調律師になったという、そして、外村が担当することになった双子の姉妹もそろってピアノを弾くが、妹は途中でメンタルな理由で弾けなくなり、最後は調律師を目指すという、そのような経歴の人が多いのかなと思った。それはいいことだと思う。最近テレビで「さよならマエストロ」というドラマがあり、その中でマエストロ役の西島秀俊が、指揮者になる人は演奏者の気持ちがわかっていなければならない、何か楽器が弾けなければその気持ちもわからない、と言っていたように思う、そういう意味で調律師もピアニストの気持ちや苦労がわかる人がなるというのはいいことだと思った
  • ピアノというのは精密な楽器だということがよく分かった、家庭にあるピアノ、コンサートホールにあるピアノ、結婚披露宴をやるレストランにあるピアノなど、置かれた状況、気象条件など音に影響するいろんな要因を考えて調律しないといい音は出ないというのがよく分かった
  • ピアノコンサートを聴きに行く場面があり、上司の秋野がステージに向かって右側に座っている理由が出てくる。私もピアニストの手元が見える左側がいい席だと思っていたし、実際に公演に行っても大体左側の席に多くの観客が座っている、ところが、この小説では、むしろ音に集中するためピアニストが見えないほうが良い、ピアノの大屋根の向きを考えても、音は右手側に伸びると考えるのが自然だ、と外村が考える場面がある。なるほどそういうものかと思った
  • 調律師が客の要望を聞き、理解するのはなかなか難しいということがよく分かった、お客さんが、くっきりした音がいい、とか、丸い音がいいとか、その目指す音は人によって感覚が違うので言葉だけで理解するのは難しい、確かにそういうものだろう
  • ピアノの音は調律によって変わるが、椅子の高さでも変わること、したがって、調律をするときはお客さんに一度椅子に座って弾いてもらって高さを調整してから調律するという、また、ピアノの脚のキャスターの向きによっても音が変わることが出てくる、実に微妙なものだ
  • 上司の板鳥さんが、調律で一番大切なものは、との問いに、「お客さんでしょう」と答えるのは意味深である、確かにそうかもしれない、外村は小説の中で何回か客から、もう来ないでいいとか他の調律師に交代させられている、これはショックだろう、それがなぜなのか小説の中では明らかにされない

調律師の仕事に関して忘れられないのは、むかし、辻井伸行のピアノコンサートに行った時のことだ。コンサートで、突然、ピアノ弾いていた辻井伸行が演奏を中止して、「これは僕の音ではありませんのでこれ以上演奏できません」と言って退場してしまったことだ。観客はみんな呆然として、どうなるのだと驚いた。そのあとどうなったかは覚えていないが、多分、休憩になり、その間に調律師が調律をやり直して、また演奏したのだと思う。本当にびっくりした経験だ。

また、最近でもあったのだが、ピアノの公演に行ってホールに入ると、舞台上で調律師が調律をしている時がある。ということは、調律後の音を確認せずに本番の演奏を始めるということだが、本書を読むと、そんなことがあり得るのかと感じた。そういえば、辻井伸行のケースも確か本番直前まで調律をしていたように思う。調律師が忙しすぎる人気の調律師なのか、何か事情があるのでしょうが、あまり美しい姿でないことは確かだ。

さて、この小説だが、クラシック音楽に興味のある人には読む価値が大きい本であると思うが、純粋に小説として読むと、ストーリーが単調なように感じた。読んでいって意外な展開もなければどんでん返しもない、色恋沙汰も全然ない、もう少し話に起伏があったほうが読んでいて面白いだろうと感じた。