見出し画像

gooブログはじめました!

天界と地獄

http://web.archive.org/web/20160328145436/http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/HH1.html

『天界と地獄』

『天界と地獄』(1758年)はスウェーデンボルグの著作の中でもっと
もポピラーなものです。正式のタイトルは『天界とその驚くべきこと
がらおよび地獄、見聞したことから』です。第1部 天界、第2部 
精霊界、第3部 地獄の3部構成で、死後の世界を詳述します。ただ
し、この霊界は死後にわれわれが行く世界というだけでなく、今現在、
善霊と悪霊との交流をとおしてわれわれが影響を受け続けている世界
です。 本書は多くの言語に翻訳されています。わが国では、仏教研究家の鈴
木大拙が最初に翻訳し紹介しました。

以下は『天界と地獄』からの抜粋です。

天界は人の外部ではなく、内部にある 54 天界が人の外にあると言うことは決してできない。それは人の中
にある。なぜならすべての天使は、自分の中にある天界に応じて、自
分の外にある天界を受け入れるからである。自分の内的ないのちがど
うであれ、天界に行くとは天使の間に引き上げられることだ、また天
界は直接の慈悲によって各人に与えられるのだと信じている者は、明
らかに大きな誤りを犯している。実際は、人の内部に天界がなければ、
外部の天界は決して流入することも受容されることもないのである。 
 このような考えをもった霊はたくさんいる。これを信じているので、
彼らは天界に上げられたが、彼らの内部のいのちは、そこにいる天使
のいのちと正反対であるため、そこへ来ると知的能力の点で、盲人の
ようになり始め、ついには愚者のようになった。意志的能力の面では、
苦しめられ始め、ついには狂人のようになった。要するに、悪い生き
方をして天界に来るものは、空気中に飛び出した魚や、空気が抜かれ
たエアポンプの真空中の動物のように苦しめられるのである。ここか
ら天界は人の外ではなく、人の内側にあることが明らかである。

人間の自由について 293 地獄と交流している精霊が人間とも結びついているわけは、人間
があらゆる種類の悪の中に生れついているため、人間の最初のいのちは
彼らにのみ由来するからである。したがって、自分と同じような性質の
精霊が結びついていなければ、人間は生きていけないであろうし、悪か
ら離れて改善されていくこともできないであろう。人間は、それゆえ、
悪霊によって自らのいのちが保持され、善霊によってそれが抑制される
という、両者の均衡状態に置かれる。そして均衡状態にあるため、われ
われには適度な自由があり、悪を脱し善へ向かうことができるのである。

キリスト教徒でなくても救われる 318 地獄に行くために生まれる人はいないということは、照らされた
理性で考えれば誰にでもわかる。なぜなら主は愛そのものであり、主の
愛はすべての人々の救いを願うからである。それゆえ、主はすべての人
々に宗教を与え、それによって人が神性(Divinum)と内的いのちを承
認するようにしむける。というのは、自らの宗教の信条にしたがって生
きることは内的に生きることだからである。そのとき人は神性に目を向
ける。神性に目を向けるかぎり、この世に目を向けず、外的いのちであ
るこの世的いのちから切り離されるのである。

天界では年をとるほど若返る 414 天界にいる人々は、人生の春に向かってたえず進んでいる。何千
年と生きれば生きるほど、彼らの春はますます楽しく幸福なものになる。
これは、彼らの愛と仁愛と信仰の成長・レベルに応じて永遠に増えてい
く。年をとって老衰で亡くなった老婦人でも、主への信仰と、隣人愛と、
夫との幸福な結婚愛に生きたのであれば、年を重ねるほどに、青春時代
の花に戻り、われわれが目にするいかなる美の概念をも超える美しい女
性になる。善と仁愛が彼女たちの姿、形をつくる。そして仁愛の喜びと
美とが顔のすみずみから輝き出て、彼女らは仁愛の現実の姿となる。彼
女らを見た者がいるが、彼らはまさに驚嘆した。天界において見られる
仁愛の姿は、そのようなものであるから、見える姿を与え、かつ与えら
れるのは仁愛そのものなのである。そうであるから、天使の体全体、と
りわけ顔が、いわば仁愛なのである。そのことは、はっきりと見えるし、
感じとられる。この姿を見るとき、われわれはその美しさに言葉を失い、
仁愛によって心の内奥のいのちが揺さぶられる。一言でいえば、天界で
年をとることは若返ることなのである。来世においては、主への愛と隣
人愛に生きた人々は、このような姿であり、このような美である。すべ
ての天使はこのような姿をしており、それには無限の多様性がある。天
界とはこのようなところである。

天界へ行く生活を送ることはそれほどむずかしいことではない 528 ・・・もしわれわれが天界のいのちを受け入れようと思うなら、
あらゆる手段で現世を生き、現世の義務や仕事をはたすべきである。こ
のように、われわれは道徳生活と社会生活をとおして霊的生活を受け入
れるのである。霊的いのちがわれわれの内部に形成される方法、われわ
れの魂が天界への準備をする方法はそれ以外にない。内面的生活を送り
ながら同時に外面的生活をしないことは、基礎のない家に住むようなも
のであり、やがては沈下するか大きなひび割れができ、ぐらつき、最後
には崩壊してしまう。

主はだれも地獄へ投げ込まない、霊自身が地獄へ行く 545 聖言を読んでいるとき心が照らされるなら、だれでも、神は善そ
のもの、愛そのもの、慈悲そのものであるという事実だけから、これが
真実であるとわかる。善そのものはだれにも悪をなしえない。愛そのも
の、慈悲そのものはだれをも拒むことができない。なぜなら、これはま
さに慈悲と愛の本質と相いれないし、したがって神の本質と相いれない
からである。

  • 天界と地獄
     
 
 
 
 
 
 
 

 








スエデンボルグ原著
鈴木貞太郎訳
『天界と地獄』
有楽社、明治43年3月発行

 

トップページに戻る   神の愛と知恵

『神の愛と知恵』  『神の愛と知恵』(1763)は神による万物と人間の創造が扱わ
れています。正式のタイトルは『神の愛と神の英知に関する天使
の英知』です。5部構成で、第1部は愛について、第2部は霊界
の太陽について、第3部は創造の秩序について、第4部は役立ち
について、第5部は意志力と認識力の「結婚」について、それぞ
れ論じられています。

以下は『神の愛と知恵』からの抜粋です。

愛は人間のいのちである 3 愛は人間のいのちであるという考えは、この世の太陽の温もり
からある程度理解することができる。われわれは、この温もりが地
球上のすべての植物が共有するいのちのような働きをしていること
を知っている。春になり温もりが増すと、地上からあらゆる植物が
芽吹く。そして青葉で身を飾り、やがて花を咲かせ、ついには実を
つける。植物はこのようにして「生きている」。しかしながら、秋
や冬になってこの温もりが引いていくと、草木からこれらのいのち
のしるしが奪われ、しおれてしまう。愛はわれわれの中で同じ働き
をしている。なぜなら愛と温もりはたがいに相応しているからであ
る。このように愛はわれわれを温める。

創造の目的 170 創造の普遍的目的すなわち創造のすべての目的は、創造主と
被造宇宙との永遠の結合にある。そしてこれは、主の神性があたか
もそれ自身で存在しうるような、いわばその中に主の神性が住み留
まりうるような受け皿がなければ起こりえない。これらの受け皿が、
主の住居・家となりうるためには、それらが主の愛と知恵をあたか
も自ら行うように受け入れなければならない。あたかも自ら行うよ
うに自分自身を創造主に向かって高め、創造主と一つになるような
受け皿でなければならない。この相互関係がなければいかなる結び
つきも存在しない。これらの受け皿こそ、あたかも自ら行うように
自分を高め結びつけることができる人間である。

人間の精神のすべてが行いの中にある 277 自然的精神の三段階にあるすべては、身体的行為によってな
されるすべての業の中に含まれる。本章では段階について述べてき
たが、そこからこの隠された原理が明らかになるであろう。すなわ
ち、人間の精神つまり意欲と認識にあるすべては、われわれの行為・
行動の中にすべて含まれているということである。それはちょうど、
種、果実、卵の中に見えるものと見えないものがあるのと同じであ
る。

役立ちとは? 329 宇宙創造の目的から、役立ちの働きが何かがわかる。宇宙創
造の目的は、天使的天界をもたらすことである。そして天使的天界
が目的であれば、人間性あるいは人類も目的である。天界はそこか
ら生まれるのであるから。そこから、創造されたすべてのものは中
間的目的であり、その働きは連続性の中で、それらが人間にそして
人間をとおして神にかかわる程度と方法に応じて役立ちがあるとい
うことになる。

合理性と自由という人間の二つの能力は、人間の再生のた
めに与えられている 425 教会が教えているように、霊的なことがら、神学的なことが
らは理解を超越しているので、理解できなくとも信じなくてはなら
ないと信じている人は、合理性と自由という二つの能力について何
も知らない。そういう人は、合理性と呼ばれる能力を否定するほか
ない。

トップページへ戻る   神の摂理

『神の摂理』

 『神の摂理』は『神の愛と知恵』が出た翌年、1764年に出版されま
した。『神の愛と知恵』では、神による宇宙万物の創造が述べられて
いますが、『神の摂理』は、創造された万物の保持がテーマになって
います。ただし、中心テーマは神による人間の統治です。結論的にい
えば、神は人間に自由と理性を与えたということになります。われわ
れが自由に理性を働かせて考え行動するというのが神の摂理の法則で
す。不思議なことはなにもありません。スウェーデンボルグは奇跡や
しるしによってもたらされた信仰は、ほんとうの信仰ではなく、受け
売りの信仰といっています。

以下は『神の摂理』からの抜粋です。

人々が道理にしたがって自由に行為することが神の摂理の法則で
ある
72 これが神の摂理の法則であることを、あまり多くの人が知らない
ので(というのは、神の摂理はつねにわれわれが善と真理を考え意志
するように導いているのであるが、われわれは悪と誤謬を考える自由
をもっているので)、これが理解されるように段階を追って説明する
必要がある。それは次のような順序になる。
1.われわれは訓練された思考とある種の自由領域をもっている、あ
るいは合理性と自由をもっている。そしてこれらの二つの能力は神か
らの人間への贈り物である。
 2.われわれが自由に行うことは、それを合理性で考えたかどうか
にかかわらず、自分の道理にかなっているかぎり、自分自身の行為の
ように見える。
 3.われわれが自分の考えにしたがって自由に行ったことは、すべ
て自分のものとして留まる。
 4.まさにこの二つの手段によって、主はわれわれを改善し再生さ
せる。それらがなければわれわれは改善されないし再生されない。
 5.われわれが考え行う善と真理は自分からではなく主からくると
いう認識にいたるならば、われわれはこの二つの能力によって改善さ
れ再生されることが可能となる。
 6.主のわれわれとの連結、そしてそれに対応するわれわれの主と
の連結は、これらの二つの能力によって生じる。
 7.神の摂理の全過程において、主は人間のこれら二つの能力をあ
たかも聖なるもののように完全に保護される。
 8.それゆえ、われわれが自由に道理にしたがって行為することが
神の摂理にとって不可欠なこととなる。

われわれはあたかも自分で行うかのように自らの外部的性質から
悪を取り除く必要がある
118 第一に、われわれが悪との戦いを行う以外に、内面において悪
に背を向けるために、悪を罪として避ける方法はない。第二に、われ
われはあたかも自分で行うかのように、悪を罪として避け、悪と戦わ
なければならない。第三に、悪は罪だからという理由以外で悪を避け
ることは、悪を避けることにはならない。それは単に隠しているにす
ぎない。

奇跡やしるしは、人を強制するから、それによってはだれも改善
されることはない
131 奇跡による信仰は、ほんとうの信仰とはいえず、受け売りの信
仰でしかない。それにはいかなる合理的な中身もなく、霊的な中身も
ない。実際、それは中身のない貝殻にすぎない。

手段から切り離された慈悲による瞬時の救いは不可能である 338 今述べたように、人を救うための神の摂理のはたらきは、人が
生まれて始まり死ぬまで続く。そしてその後も永遠に続く。そしてこ
のはたらきは純粋な慈悲から、手段をとおして絶え間なくなされる。
このことから、瞬時の救いや手段から切り離された慈悲はありえない
ことがわかる。
 
トップページへ戻る   主の教義

『主の教義』  『神の愛と知恵』を出した1763年、スウェーデンボルグは、また、
四つのテーマを取り上げ、それぞれについての「新エルサレムの教
義」を書き著しました。「新エルサレム」とは、キリスト教が改革
され主によって新たにつくられる「新教会」のことです。スウェー
デンボルグは普遍的な意味で使っているので「新時代」と言い換え
てもよいと思います。また、四つのテーマとは「主」「聖書」「生
活」「信仰」です。
 まず、『主の教義』から見ていきましょう。問題はいわゆる三位
一体説に集約されるように思われますので、以下で、『主の教義』
からトリニティについて論じている一節を抜粋してみます。トリニ
ティは三位一体と訳されますが、スウェーデンボルグによれば、三
つの位格(人格)という考え方そのものがおかしいということにな
るので、Trinitas(英:Trinity)は三一性、 Trinum(英:Trine)は
三性と訳すことにします。なお、スウェーデンボルグは信仰義認説
をとりません。おかげによってキリストの義が人間に転嫁されるこ
とはないといいます。ただし主がこの世に来られなければ人類が滅
んだことは確かであるといいます。主が来られたのは地獄を征服し、
人間性を栄化されるためでした。

『主の教義』からの抜粋  

アタナシウス信条について 58 この信条(アタナシウス信条)は、複数人格の三一性(Trinitas
Personarum)のかわりに単一人格の三一性(Trinitas Personae)と理
解するなら、ことばの表現に関するかぎりすべて真理である。これを
書きなおすと次のようになるであろう。

 救いを望むものは次のキリスト教の信仰を守らなくてはならない。
そのキリスト教の信仰とは次のとおりである。われわれは三一性にお
ける唯一神、単一体における三一性をあがめる。人格の三性と混合す
ることなく、本質を分割することもない。単一の人格の三性は、いわ
ゆる父、子、聖霊である。父、子、聖霊の神性は同一であり、その栄
光と威光は同等である。父の性格は、子にもあり、聖霊にもある。父
は創造されず、子も創造されず、聖霊も創造されない。父は無限であ
り、子も無限であり、聖霊も無限である。しかし無限の三者、創造さ
れない三者があるわけではなく、無限の一者、創造されない一者があ
るのみである。同様に、父が全能であるように、子も全能であり、聖
霊も全能であるが、全能の三者があるわけではなく、全能の一者があ
るのみである。父は神であり、子は神であり、そして聖霊も神である。
しかし三者の神があるのではなく、一者の神があるのみである。同様
に、父は主であり、子は主であり、聖霊も主である。しかし三者の主
があるのではなく、一者の主があるのみである。
 キリスト教の真理によって、われわれは神であり主である一人格に
おける三性を認めるように、キリスト教の信仰によって、われわれは
一者の神、一者の主を語ることができる。父はなにものからもつくら
れず、創造されることも生まれることもなかった。子はただ父にのみ
由来し、つくられることも創造されることもないが、生まれたのであ
る。聖霊は父と子とに由来し、つくられることも創造されることも、
生まれることもないが、発出する。
 かくして、三者の父ではなく一者の父、三者の子ではなく一者の子、
三者の聖霊ではなく一者の聖霊が存在する。この三一性においては、
最大最小はなく、すべてが同等である。それゆえ上述のとおり、三一
性における単一性、単一性における三一性があがめられるべきである


トップページへ戻る
   聖書の教義

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る